ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

人生がむなしいです。その7。

ではコメンタリー形式のやつの続きを。

No.36


回答者:noname#71182 回答日時:2008/07/20 23:33


虚しい感情は苦しいので、理屈があっていようがいまいが対処する方法を示さねばならないという立場から一言(鼻息荒く的外れなおせっかいでないように・・・。)
実は私も(も?)昨日と今日の夕方に久しぶりにむなしさが起こりました。
(w_−; ウゥ

私の感情については、私なりに解釈はさまざまあるのですが
それがあなたにぴったりくるなんてことは、あまり期待せずに言うと、
(というかそんなとき言葉が通じることすら疑わしく思えます)
まず、体の健康面からして、心のシステムがうまくはたらかなくなっているのかもしれない。


生活習慣がいまいちで、早寝早起きができていなくて、ちゃんと栄養がとれていないとか、まず第一に検討すべきはそこだと思います。(私的には味噌汁は結構効きます)

で、次にようやく概念や想像レベルの話として、あまりにも希望や期待を大きく持ちすぎているということがありえます。仮に人並みの期待だとしても、一人でいてさまざまな前提を取っ払うと、常識的なことがすべて虚しく思えます。祭りの後のように。


そこでたいていの人がするのは、信頼できる人と話したり、テレビや音楽を聴くことで、「ごまかす」とか言うけれど、心を常識レベルまで持っていくことだと思います。しかし多くを取っ払ってみるとやはりそれはごまかしであり、つかの間の祭りであり、砂上の楼閣であり、妄想に過ぎないという本音が残ります。
そのような時にどう対処すればいいのか、私自身も完全に克服したわけではありませんが、(というかまったく的外れだったりしてね)この問題(理由はともかく、とりえあえず現象としても虚しさをいかにするか)の達人は老人思います。


アンチエイジングに精を出しているのではまだまだで、一人で死に向かう準備・覚悟がしっかり整ったこれぞ老人という、老人らしい老人です。そのたたずまいに励まされる気がします。といってもわたしは、老人の友人がいないので確証は得ていません。しかし、総合病院の待合室などでさまざまな人を見て心が安らぐことがありました。試されてはいかがでしょう。

参考になったかなぁ、それではご自愛ください(^^)


なんか前にこれに対するコメント書いたっけ?俺は言わばこの回答者が言う老人なんだよね。いつでも死んでいいしこの世に未練はないし、ただまぁ痛いのとか辛いのはイヤなんだけどさ、ただまぁ覚悟はできてるよね。で、余生をどう過ごすか?ってことでさ、老人にしては余生が長過ぎるんだよね。いや、分からん、早死にするかもしれないけど、まぁそれはいいか。


でもなんつーか死に対する覚悟によってむなしさって無くならないよね。むなしさとか楽しさも全部終わるんだって覚悟が出来ていても楽しい事は楽しいしむなしいことはむなしいしさ、表裏一体なんだよね。楽しさとむなしさは特に対照的なんだけどね。で、結局まぁ俺はいつも書いてて思うけど、むなしさはあるっていうことしか言えてないじゃん?で、どう付き合っていくのか?ってのには全然答えがないしさ、まぁムッシュかまやつの歌を引用したけどさ、何かに凝るってことが幸せの道を歩く条件だって話もあるけどさ、でもやっぱそれもこの回答者が言うようにごまかしなんだよね。その本音をいっちゃーいけねぇーよっていう御法度にしてなんとなく生きるしかないんだろうけど、それが無理!って人が多くはないけどいるんだよね。

No.38


回答者:Siddhattha 回答日時:2008/08/16 15:36


自分も「むなしさ」を感じてきました。
でも、ある言葉(教え)に出会って、むなしさを感じる事はなくなりました。

中・高・大学時代から、遊び友達はいても本当に話し合える友人がおらず、色々な本をむさぼりました。哲学、宗教、宇宙科学、生命科学DNA関連等。
そして、「何のために生まれてきたのか」「なぜ生まれてきたのか」を悩み続けました。
本を読んで得た事は、「著名な歴史上の哲学者でも、自分と同じような悩みというか疑問をもってるんだなあ」という事。


つまり、自分も負けずに哲学してんだなという事。
そして、この「むなしさ」を感じて、この「むなしさ」を解決するために宗教を開いた人は、ゴータマ・ブッタただ一人である事。だから、ブッダの言葉を知らねば。
そして、宇宙が始まって約150億年が経過するが、自分の肉体を構成する物質も、(変化は常にしているけど)やはり150億年の歴史を持っている事。金やダイヤモンドは大事にされるけど、自分だって宇宙と同じ年数の歴史があるんだ、負けてない。
そして、病原菌から、人間まで、全ての生命体が、同じアデニン、グアニン、シトシン、チミンという物質をDNAとして持っている事などです。生命ってスゴイ、神秘。

こんな話が出来る相手はなかなかおらず、孤独だったので、同じような考え方が出来る人を伴侶にしようと、探して結婚しました。そして、子供をもうけました。


もちろん、自分が生んだわけではないけれど(男だから)、嫁さんが生んでくれました。子供は本当に癒されます。こういう家族がいると、寂しさ、孤独が紛れますし、「むなしさ」を感じる機会も減りました。

そして、「むなしさ」がほんとに消えた瞬間ですが、それが、冒頭の「自分が出会った言葉(教え)」です。それは、ブッダの言葉です。
ブッダは悟りを得ました。そして、私達に、「悟りを得よ。そうすれば、苦悩や迷いもなくなる」と教えています。
では、その悟りとは何か。それは、「自分を知る」ということなのです。自分を知る事が悟りなのです。


自分を知る事が出来れば、ブッダと同じように仏(悟りを得た人)になれるのです。ブッダは、自分を知る事が、人間として生まれてきた目的であると言われているのです。本当に自分を知れば、全てが分かると言われているのです。この言葉に値って、目からうろこというか、そういうことだったんだと納得できました。実は、宇宙ができ、生命が誕生した理由も、宇宙自身が自分とは何かを知りたかったから、つまりそれを解決できる人間を生み出したということなんです。

自分を知る。簡単なようで難しいです。
でも、自分を知る事が人生の目的(大きくいうと宇宙存在の究極の目的)なんだと言われると、ホッとします。



「必死で勉強して良い学校入って、金持ちになって・・・。」というのは、人生の目的でも何でもないです。「むなしさ」から逃れられないです。
でも、自分って何かを追い求めていくことは、自分が気に入った音楽を聞く事でもあるし、芸術に触れる事でもあるし。自分が好きな人と一緒にいる事でもあるし。つまり、自分が気に入る事をしていることも、自分を知る事の一分なんです。対象は、一番身近な自分なんです。
まだ、自分とは何か、という明解な答えは掴んでいないけれど、自分探求の旅に「むなしさ」は晴れました。

これが何かの参考になれば嬉しいです。


自分を知るとか自分の師になるってまぁ行為としての哲学なんだけどさ、でもこれも結局はway of life的なものを実践していくということなだけで、根本的なむなしさの解決にはならないんだよね。分からんけど、坊さんがひたすら修行をするとか寺の掃除をやるとかさ、あれってむなしさを感じないために動いてるんじゃないかな?って思うよね。瞑想してるだけなら達磨みたいになるしさ、心を無にして掃除をするとか食事を作るとかさ、それにコミットすることで我を無くしていくっていうさ、でもこれって突き詰めれば結局は自殺したほうが早いって話になるんだよね。いや、寺での修行がこういう目的なのかは分からないけどね、でもやっぱ自殺というと言葉は悪いけど解脱っていうのかな?それがやっぱ最終地点って気がするよね。


解脱ボタンってのがあったら俺は即押すと思うんだよね。それは死にたいとかっていうことではなくて、何かに執着しないということの究極的な最終地点がやっぱ解脱だって思うわけでさ、生命への執着すらも無くするってことじゃん?まぁ家族とか悲しむけどさ、でもそれはイメージ的に自殺っていうショッキングなものじゃなくて解脱っていうまぁ天に行くみたいな感じね。「んじゃーねー」みたいな感じで。でもそれは世の中的にはacceptableじゃないっていうさ、だからまぁ生きるしかないから、だからまぁ楽しい事にハマりつくそうとかやりたいことやりまくろう!ってことになるんだよね。解脱の準備ができているからこそ別にもう世俗的な欲に塗れてもいいみたいなさ、まぁでも解脱してるやつって世俗的なものなんて全部むなしいし意味無いって分かっちゃってるから執着しないよね。


そこに生と死のパラドックスがあるっていうかさ、生を貫こうとすればするほどそれは死に近づくんだよね。死への準備がどんどん整っていくってことだからね。残念ながら俺には種の保存みたいな本能もないみたいでさ、だからまぁ特にもう生きる理由がないんだよね。でもそれは鬱とかじゃなくてね、辛さから来るのではなくて、結構まぁ色々と分かっちゃったって意味での理由が無い感じね。で、ゴリ押しで数学に何かを見出そうとしてるってのが今の俺だよね。

No.39


回答者:nyanpei330 回答日時:2008/12/17 01:04


人生をつまらなくするのは簡単。結果や報酬を目的として生きればいい。
収入をえるための仕事、この会社に入る、実入りを期待して人と親しくする。実際、そういう人は多いのだが、最終目的が報酬の為、プロセスの一切は手段や道具となる。本当に意味があるのは想定内の結果や報酬だけである。こういう人生はどういうものか、収入のための仕事をする人の顔に表れている。
 


少年少女が周りの期待する「良い子」になるのは、大人たちが結果にしか意味を見出さない考えなので、あえてそれに応えようとしていた欺瞞に耐えられず、いつしか反抗ではなく地獄からの脱出という形で彼らなりの失踪をする。
 何をするにしても人間は結果のために行動すると、結局は日々の意味を失い、生きることの意味を失ってしまう。そのことを直感的に死と感じるから、恐怖をごまかすため酒やドラッグ、遊興はもちろん、老人になって趣味やスポーツ、旅などで自分の不安定な心を紛らわす人もいる。そしてまた、人々は幸せを求めるから幸せになれない。幸せとは、偶然の産物であり、はかないので、求めるならば満足を求めるとよいだろう。自分がまじめに力を尽くすならば、仕事においても生活においても必ず満足が得られる。満足に満ちた人生。これこそ確かな幸せと呼べそうである。
 


わたし事で恐縮だが、現在2歳児の母であり、不満のない毎日を送っている。子どもと一緒に小さなことを喜び、分かち合い学び、素直に気持ちを開くことができる。ずっと孤立した人生をおくってきた性もあり、今生きてきて初めて心から幸せと思える。それでも、回数は減ったが毎晩悪夢にうなされ、家族以外と接し、理解されないと思ったときにむなしさを感じるのはいたしかたないことかもしれない。


別にこの人の幸せをディスるつもりはないけど厳しいことを言えばこれは一過性のものじゃん?子供が成長してグレることもあるし、子供が原因で色々と面倒なことが起きる場合もあるし、あとはまぁ万事快調でも子供は自立して親元を去っていくよね。まぁ去らない俺みたいなやつもいるけどさ、やっぱり何かによってもたらされる満足感とか喜びによる生の喜びということではむなしさは克服できないんだよね。むしろむなしさとの共存が必要なんじゃないか?と思っていて。でもそれだといつも書くように重いんだよね。実存が。一人で永遠と考えている時も考えるのは好きだからいいんだけどとにかく重いんだよね。


ペットホテルの夜の番をするときにいつも思うんだけどさ、まぁ一人でいるからすげー研ぎすまされるんだけどさ、楽しくはないよね。後から考えるとあの時間ってすげー色々と考えているし濃い時間を過ごせてるとは思うんだけど、だからといってむなしさがなくなるわけじゃないし、ああいう時間に剥き出しになっているのは自分の実存だよね。そこで本とかに行くのって楽なんだよね。読書に逃げたりさ、色んな知識を得ることで理論武装できるから、それによってもっと理論的に色々と説明できるようになるんじゃないか?みたいなのがあったんだけど、それは無いなってのが最近分かったからもう哲学の本とか全然読まなくなったんだけどね。もうあとは自分の問題っつーかなんつーかさ、それは独我論って意味でもないし、自分だけの世界に籠る哲学って意味でもなくてね、あらゆることに関して考える自分だよね。必要なのはそのawarenessだけでさ、まぁ知識が役に立つこともあるけど、以前ほど哲学書みたいなものに魅力は感じなくなったよね。色々と考えて書く事しかもうないなって気がしてて。読む時間よりも考える時間のほうが大事なんだよね。


あ、んでノッてきたからコメンタリー中断して書くけどさ、結局は人間がね、生きることに意味を見出したり目的を求められるようなことってやっぱ世俗的だったり低俗的なことが多いと思うんだよね。金を稼ごうとか名誉欲とかさ、あとはまぁ大学とかにしたって学内出世をしようだとかさ、会社とかでもそうだし、あとはまぁ消費とかね、ドラッグとかまぁ色々あるけど、全部誤摩化しでまやかしだよね。好きでやってる人はいいけどさ、なんか逆に大富豪とかって悟り開いちゃってすんげー額寄付して隠居したりするじゃん?あとは財団作ったりだとかさ、んーなんて言えばいいのかね・・・。結局俺は世の中で目的とか目指すものみたいなのを大体否定しちゃってるんだよね。それは他人の否定じゃなくて自分にとっては全く意味のないことだっていう否定ね。


いや、それは人によっては意味があることだったりすればそれはいいんだよ。ただ俺にとってはないことが多いわけでさ、んじゃあどうすればいいの?ってことだよね。ここでまぁ生活費稼がなきゃいけないってことになるとまぁ当然労働が人生の主な時間になるよね。今はそうじゃないからさ、だからまぁずーっと本読んだり数学やってるんだけどさ、これも学位を取るっていう目的が結構無くなってきたからさ、完全にもう主体的にやってる感じだよね。これこそがまぁインディペンデントな研究ってことなんだろうけどさ、まぁこれでいいのか?って言われると微妙だけど、じゃあ大学行ってそれなりの地位に就けばいいのか?ってまぁそれは改めて考えてみるとコストがかかり過ぎる割に全然リターンが無いようなことでさ、だからなんかまた社会性ゼロになっちゃうけど地位とか本当にどうでもいいんだよね。影響力を与えられるぐらいの地位になれればいいけど、別にそれってここ何十年後とかって考えると今以上に大学教授とかの地位って下がってそうだからさ、だからあんま意味無い感じがするよね。


こんな感じで消去法で考えていくとどんどん社会性なくなるんだよね。でも生きるということを切実に考えれば考えるほど大学だの地位だの給料だのっていうそういうことで誤摩化して生きていたくないなっていうさ、まぁ必要なお金は稼がなきゃいけないけどさ、自分の生ってのと社会性ってのをなかなか両立させられないんだよね。社会が虚構過ぎてって言うと社会のせいにしちゃうみたいになっちゃうけどさ、そういうつもりはないんだけど、ただまぁ虚構であるってのは事実じゃん?くだらないものが8割なのが社会だよね。それはアメリカに行こうがどこでも一緒だよね。


で、今の俺はそれを数学によって社会性とか給料とかね、色んなものを成立させようとしてたんだけど、あまりにも無理があるなぁーって最近思ってるんだよね。数学は好きだからやるけどさ、大学なんつったって雑用多いだろうし通勤の時間とか勿体ないしさ、研究って観点から見ればロスしかないんだよね。あとはもう「教授」なり「准教授」みたいな肩書きがつくっていうそういう社会的アイコンに自己満足するしかないっていうさ、でもそんなんで満足できるわけがないってのが分かりきっている中で、んじゃあアカデミアに何を求めればいいのか?って求めるものはないよね。


なんか試験だとかなんだとかって本当にくだらないしさ、あんなの学問じゃないじゃん?ああいうのに時間を費やすってのがどうかな?って思うし、入れれば安泰!ぐらいならいいけど今はそんなんじゃないし、なんつーか昔の俺って大学的なものに期待をしすぎてたんだよね。で、色々と調べると状況は凄い酷いし、アメリカでもドクターになってから食えないやつっていっぱいいるみたいだしさ、リスクがある割にリターンが本当に少ないんだよね。そこまでしてやるかね?っていうさ、逆にそこまで数学が好きだったらずーっと家でやるんじゃないの?ってことになるんだよね。思索とか哲学然り。


学問やるならニート形式がベスト!ってことだよね。これが真理なのでは?って最近思ってしまってさ、社会性が本当にゼロになりつつあるよね。そのぐらい大学に魅力を感じなくなってきているし興味もなくなってきてるんだよね。んじゃあ俺はどうすればいいの?って好きな事続ければいいんだけどさ、お金はどうするの?ってことになるじゃん?んじゃあやっぱ労働が主体の生活になるしかないの?っていうさ、いや、仮にそうじゃなかったとしたら今みたいな感じで永遠と本を読み続けるって生活が一生続くだけっていうさ、むなしくないけど楽しくもないよね。実はもっと人付き合いっつーか女の子と接したいっつー煩悩があるけどさ、話が合うような子がいるわけないって分かりきっているからそこも冷めてるんだよね。


いや、でも色々と行動すれば予期せぬ出来事があったりさ、色々なことが起こるよ!ってそれは言えるんだけどさ、でもあまり期待できないよね。それもやっぱこんだけ生きてりゃ分かるんだよね。まぁ今はいいんだけどね。とりあえず進学コースってことでそれしかないしさ、そもそもこんな歳になって進学を許してもらってるんだからまぁそれはやろうぜってことだよね。で、まぁ学部で周りの様子見たり色々な人と接して自分がやっていけそうなのか?って判断するしかないよね。そんなの相対的にしか分からないんだから。んーでもやっぱ不純だよなぁー。動機が。


数学やりたいなら今まで通り自分でやればいいわけでさ、なんでそこで大学行こうとするのか?ってことだよね。あ、そこが社会性なのか。純粋に学びたい!ってことで言えば俺は英語が読めるってアドバンテージがあるから良い数学書なんていくらでも読めるんだよね。明らかにその辺の大学の講義に付き合ってたら遅れるじゃん?自分のペースでやったほうがよっぽど効率が良くて早いっていうさ、なんかホント大学意味ないなぁーと思ってどうしようかな?ってすげー思ってるんだけどね。まさか数学がここまで独学で出来るとは自分でも思ってなかったからね。それはやっぱある程度向いてるからだよね。


っつーか全然話がズレてるな。ずっとズレテルズだよね。コメンタリーから普通のエントリーになった感じで。ただまぁ今回書いたね、思索をするってことに対して大量の文献を読む必要はないんだなってのに最近気がついたってのはかなりの進歩だと思うんだよね。そもそもデリダがこう言っていたとかヘーゲルはこう言っていたとかどうでもいいじゃん?ヒントにはなるけどそれは誰々がこう言ってましたって以外の何でもないわけでさ、その研究に時間を費やすとかかなりバカバカしいんだよね。自分が考えていることとか気になっていることに近いことが書かれている本とかさ、そういうのは読むだろうけど、ホント、哲学に関しては勘違いしてたなってのがすげーあって。


いや、一時期マジでプラトン研究やろうとしてたからね。まぁやってたのかな?まぁ実際好きだから研究書でも読んでて面白いけどさ、細かくなり過ぎるともうそれってただの哲学史じゃん?思想がどうとかっていうのとどんどん離れていくよね。だからもうそういう本は買わないって決めたしっつーか読みたいと思わなくなったからね。シュトラウスも読むけど研究はやらないよね。くまで軸は自分の思索だよね。でもなんか自分の思索の中でスピノザがどうのとかニーチェがどうのとかさ、そういうのってすげー胡散臭いなぁーって思っててさ、結局は権威付けのために「ニーチェが・・・」って言うだけでさ、別に自分がそう思ったならそれでいいんだよね。


でもその一方で「考え」とはどこから来るのか?ってこともあるじゃん?ずーっと俺が部屋に閉じこもって色々と考えていたところで何かが出てくるとは限らないよね。かといっても考えを生成するための入力としての読書というのをしても、それは結局、よく評論家の類がやるような、西洋哲学の概念を輸入してきて実際の事柄だの文化だのなんだのに当てはめるっていうさ、言わば音楽で言えばサンプリングどころかなんつーか中田ヤスタカレベルなんだよね。


ただ当てはめているというところに全く魅力を感じないしさ、そういう意味でフロイト派だのマルクス派だのラカン派だのって色々いるでしょ?所謂、ドグマがある人の言うことって信じられないし大抵は面白くないよね。だってその原典に沿った考えを敷衍しているだけでさ、それはそもそも考えなのか?っていう疑問があるしさ、フレドリック・ジェイムソンの政治的無意識って本をちょっと前に読んだんだけど、この人も基本的にすげーマルクス主義の人でさ、なんだったっけな?マルクス主義以外ありえないみたいなことを書いていてさ、まぁそれは大目に見るとしても本の全体が凄くつまらんのよね。


既成の理論のコピペの評論で哲学とはほど遠いし、所謂、哲学学者の本という感じで本当に時間が勿体なかったなって感じだったのよね。そういう意味で最近は哲学系の本で「これだ!」って思うのが全然ないのよね。せいぜい勘違いしてたドゥルーズぐらいか。レジスタンス思想としてのドゥルーズね。あとは俺の解釈だけど侵犯をしまくる知的テロ行為の作法を述べている本としても千のプラトーは凄く気に入っているんだよね。勝手に「知的テロリズムマニュアル」だと俺は定義しているんだけども。


でもドゥルーズも「面白いな」と感じるだけでさ、果たしてそれが入力か?っていうと疑問だし、もちろんね、俺がここ数年哲学とか読んできた結果、色々と考える力が身に付いたってのはあるにせよさ、foundationみたいなのが敷かれてしまったらあとはもう自力で考えるしかないんじゃないか?って思ってるんだよね。それこそユークリッドの公理からひたすら色々と導く的なさ、いや、別に形式主義とか公理主義の話をしているのではなくてね、ペアノの算術みたいにさ、自分の中で確信している概念なりさ、納得がいっているものってのがあるでしょ?そしたらそこから演繹していくしかないんじゃないか?ってことなんだよね。それは良い意味でクローズドなシステムSみたいなもんでさ、SubjectのSでもあるわけだけど、そこに入力を入れてもさ、それはただのパロディになるじゃん?ハイデガーが言っていたことですとかニーチェが言っていたことですとかさ、それって別に科学的な命題ではないし、自分はそう思うしその概念に納得ができるっていう自分の中で咀嚼なりしてさ、血肉化させるっていうのかな?思想をね。で、そこからさらに自分で考えた後でようやくそれが「考え」と言えるものになるんじゃないかな?って思うんだよね。


まぁそれは端的に言えば思索をする読書ってことでショーペンハウエルが言っていた理想的な読書の方法と同じなんだけどさ、んでもかといってなんで西洋哲学に限らなきゃいけないのか?ってことじゃん?そこがそもそもおかしいんだよね。なんで西洋哲学がデフォなのか?ってことだよね。それに凄く疑問が湧いてきて最近全然ダメなんだよね。西洋哲学的なものに凄く拒絶感を感じるようになってきててさ、いや、それはall time favoriteの思想家はいるけどさ、でも思想なり哲学を読み尽くすってそれはもう史学なのであって哲学じゃないんだよね。自分が考えていたり引っかかっていることに対してサジェスチョンなりインスピレーションが得られそうなものって意味での読書は意味があるけど、教養としての哲学というのに全く意味が見出せなくなったんだよね。


ヘーゲルがどうだのマルクスがどうだのカントがどうだのってさ、問題は本人がどう考えるか?なんであって過去の偉人の考えって極端に言っちゃえば関係無いじゃん?ヒントは与えてくれるかもしれないけどさ、例えばそれをドグマチックに解釈してしまえばただのカント派なりヘーゲル派になっちゃうじゃん?そういうのに凄い嫌悪感を感じるのね。ようは何かに依拠した哲学っぽく見える哲学評論なりゾンビのコピペのフランケンシュタインね。そんなものは死んでいるものであってさ、生きている思索というとかっこいいけどまぁvividな考えるということをしたいわけじゃん?ゾンビとか干物ではない生ものとしての思考ね。


そういう意味でね、例えば環境にそれが規定されたりもするって意味だとやっぱ外に出るってことがさ、色々な人とコミュニケーションをとることで得られることがあるかもしれないっていう蓋然性はあるにせよ、それは極めて低いってのは経験上分かってるんだよね。そういう人に会うなら自分もそんぐらいの人になったり認められないと無理ってことでさ、大抵その辺の学生やら哲学好きみたいなやつらとは話が合わないし、ウォール伝に書き込みしてくれる人とかに多いけど、そういう風に感じている当事者としての大学生とかもいるでしょ?そういう人達って大抵孤立しているよね。良い意味でね。


そこで「こんな人もいたんだ」って感激してウォール伝に書き込みくれるみたいな。でもそれって皮肉な現象だよね。本来そういう人達との建設的なディスカッションが出来る場としての大学ってのに期待をしたいのに実際はそうでもなくて、ネット上で孤立しているマイノリティ同士でコミュニケーションが成立するっていうさ、コミュニケーションのゾーニングみたいなのがネット上では顕著でしょ?ようは最初から話が合わないようなやつらとは話さなくていいしそもそも接点がないからコミュニケーションが発生しなくてさ、で、発生する場合、大抵書き込みなりしてくれる人が俺が書くことに何かを感じてくれているから書いてくれるわけでしょ?だからその時点でかなりピンポイントなコミュニケーションが生まれていると言えるよね。


だからまぁ仮に外がクソだったら孤立するのはむしろ良いことっていうかさ、それは自分がクソではないという証なんじゃないか?とは思うよね。いや、あんま他者を頭ごなしにバカにし過ぎると件の志村先生みたいになっちゃうんでダメだけど、まぁ俺が言っていることは分かるでしょ?そういう人が滅多にいないというのはみんな言うんだよね。「普段こんな話を出来る人なんていませんよ」っていうのを本当にネット上の有意義で建設的なコミュニケーションでよく俺も言うし聞くよね。


そう思うと思索の環境としてはむしろ考えがダイレクトに出てさ、容姿とか言葉とかね、振る舞いとかそういういらないところが一切介在しない完全な意志的な空間としてのネットってのを考えたときにさ、それはむしろリアルより全然建設的なコミュニケーションが可能となるかもしれないよねっていうかそれは俺が可能だなって感じていてさ、今俺がやれているコミュニケーションがベストかかなり良い部類のほうでさ、もっと話がしたい!ってことで外に出てそれが得られるっていうのは過度な期待とか大学的なものへの幻想を抱き過ぎなんだよね。それはもうやはりないものとして考えるしかないと思うよね。


そう思うと引き蘢りというとアレだけど、一人で考えつつ反応してくれる人がコメントなり議論を持ってきてくれるって形式が結局は思索におけるベストな環境と言えなくもないと思うんだよね。あとは凄く近い人というかさ、同じようなことを考えている人とか刺激的なことを考えている人のブログを覗くとかさ、そういうほうが昔の哲学とかを読むよりもよっぽど思索にとっては良い入力になってる気がするんだよね。まぁでも読むのが速いから好きなやつは大抵読み終えちゃうんだけどね。


なんつーかさ、知識欲を満たすものとしての哲学ってのが俺の中で成立しなくなったんだよね。もう主体的に考えるしかなくなってしまってさ、それは進歩だと思うけどね、でもなんか楽しさがないっつーかさ、まぁそれは色々と読んじゃったから当たり前と言えば当たり前でさ、だからまぁ無知が故に新鮮な刺激を得られるのが数学だったりするんだよね。まぁ哲学も気になっていて読んでないやつは結構あるから読むとは思うけどさ、でもあんま読むってことに無駄なバイアスをかけることはもうやめにしようって思ったのね。読書=勉学じゃないし学問でもないじゃん?


だから俺はむしろ考えるということについての基礎知識が必要だと思っていて、それはだから他の分野だったりするんだよね。俺が基礎知識すら持っていない学問としてやっぱり科学全般とか数学があるわけでさ、やっぱ所謂哲学と呼ばれているものだけ読むってのはないよね。もう。まぁ哲学のために数学とか科学を知るのかもしれないけどさ、でもそれは一般的に言われる哲学とは違った哲学だよね。で、それこそが俺が哲学だと思う哲学なんだけどね。だってそれはヨーロッパだのアメリカだの関係ないじゃん?いや、関係無くしたいんだよね。独立した思考というのができないものか?って凄く最近思うのね。


そういう意味で西田幾多郎とか三木清が本当に哲学者らしい哲学者だなと改めて思ったってのを前に書いたよね。結局、むなしさについてもそうやって考えていくということしか今の所ない気がしているよね。それは「考える」ということとか「分かる」ってこととかについてもさ、あとはまぁボードリヤールとは違う意味での俺が前に書いたハイパーリアルの話とかさ、もう自分で考えるしかないよね。


って感じでまとめて今回の一連のむなしさのエントリーを終えるかどうかは分からないわけよ。まだ続くかもしれないからね。ただまぁ今日はこの辺でいいや。ただまぁなんつーか俺の中で掘り下げるものって決まってるんだよね。かなり。「分かる」ってこととか「人生」とかね、あとは「労働」とか「民主主義」とか「ファシズム」とか「むなしさ」とか「ニヒリズム」とか「有と無」とかさ、あとは哲学って意味で言えば数学基礎論的なこともそれに入るかな。でも絶対リサーチはやりたくないんだよね。考える為のリサーチはするけどリサーチそのものが主体になるってのが凄く嫌でさ、そこをやっぱ明確に意識してないとただの物知りになるだけだなっていうさ、で、もういい歳だから10年後とかに「ただの物知りのおっさん」になってるのが目に見えるんだよね。いや、見えないけどさ、ただ嫌なんだよね。ただ博学ってだけのむなしさだよね。俺にとってこれほどむなしいことはないよね。


まぁ今日はそんな感じで。