ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

書き込みへの返信です。

釣りだと思っていた前の書き込みなんだけど


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20110718


書き込んだ人から返事をもらったので貼るのと、あとuh.さんとsuckerさんから書き込みをいただいたので、それに対する返信も貼るっていうかそれを今日のエントリーにするです。

言葉足らずでした


2011/07/20 13:52


まず自分は以前からウォール伝を読ませていただいているファンの一人で、変なレッテルを貼るために上のようなコメントを残した訳ではないのです。自分の言葉足らずのせいで誤解をまねいてしまったこと、また精神的な攻撃と取れる書き込みのために不快な思いをおかけしたことについて謝らなければならないと思ったので、書き込み禁止ということですが、勝手ながらこの書き込みをさせていただきました。この件については全く申し訳がないと思っています。本当にすみませんでした。


そして上のようなコメントを投稿した理由ですが、そのツイートをした彼は「精神疾患」の概念を広く考えているようで、精神疾患の治療について書かれている彼のサイトでは直接的な表現はされていないんですが、仏教でいう無明の闇(煩悩に囚われている状態といわれますが、自分は人生のむなしさが生じる原因と捉えています)に囚われている状態が即、精神疾患、というような考えを持っているように感じられたので、もしかしたら彼ならばこの現実に向きあうということについて相談できるかもしれないと思い、ついでに彼のツイッターでの書き込みで、この記事に関連のありそうなものを添えて(彼の考えに興味がわくかと思い)投稿したということなのですが、今考えれば安易でよく分からない投稿をしてしまったと思います…すみませんでした。


あとこれも余計なのかもしれませんが…そのサイトの思想関連というページで仏教について言及されているのを見つけたのでアドレスを貼っておきます。


http://applo.upper.jp/mind/index.php?id=r1200243691


書き込み禁止に関しては攻撃だった場合なので、今回はやりとりに齟齬があり、そちらも建設的なことを書くために書き込みをしてくださったようなので正直安心しています。と、同時にいつも通り攻撃だと思われるものには徹底的に書きまくる癖が出てエントリーで色々と書いてしまいましたが、今回は勘違いだったということでスルーしてください。でもまぁ実際本当にいるんですよね。


僕が「またか・・・」と思ってしまった類の人の書き込みかと思ってしまったのも、実際、精神病全般や悩むということやむなしさを感じるということに対してやたらおせっかいなことばかり言ってくる人達が結構いるからなんですね。いつもウォール伝を読んでくださっているので僕の意見はお分かりだと思いますが、この類のことに関しては日本って理解が凄く遅れているんですよね。最近では鬱が原因で自殺する人とかが増えてきましたし、心療内科に通うということが以前よりかは自然なことになったと思いますが、でもまぁまだまだって感じですよね。


あと例のツイートに関してなのですが、特に根本情態性というものに興味を持ちました。ただツイートの彼が致命的な勘違いをしているのは、こういった仏教で言うような無明の闇や根本情態性と精神疾患を同じにしてしまっているところですね。精神疾患というのは一般的に明らかに脳に異常があるとか、見た目で言えば統合失調症とかが顕著ですが、あとは僕の鬱というか気分障害とかもそうですし、パニック発作もそうですが、所謂、brain malfunctionなんですよね。disfunctionではないところがポイントです。disfunctionは脳の一部の機能が事故や病気などにより機能不全に陥ることですが、malfunctionは機械で言えば不調みたいなもんです。


でもその普通とは違う不調のおかげで凄い才能を発揮する人とかいますし、歴史上の凄い人達でなんらかの精神疾患を煩っていた人って多いですよね。malfunctionで言うと自閉症なんかもそうですし、アスペルガーADHDなどもそうだと思います。ようはでもそれは普通から見た時の異常なのであって、本人がそれに苦しんでいるなら投薬などが必要だとは思いますが、なんらかの援助を受けて特異な才能を活かして社会で活躍できる人もいるんですよね。なのでそれを一概に全て異常だとか病気にすることに対しては異論があるんですよね。


投薬をしながら、その症状がありながらも独特の感性やら感覚を活かして何かを出来たりする場合もありますし、所謂このmalfunctionのおかげで成功できる人もいるので、こうなってしまえばもはや病気はもう長所ですよね。辛いとは思いますが、でもそれがないと例えばそういった絵は書けないだとか、こういう風に生まれてこなかったらこんな風な曲は書けなかったとか小説は書けなかったとか、そういうこともあるわけですよね。


で、ちなみにmalfunctionでもdisfunctionでもないのが所謂、根本情態性や無明の闇なんだと思います。鬱病の患者が感じるむなしさというのは大抵brain malfunctionによる脳内化学物質のバランスの不調とかなので、認識的な意味でのむなしさとは大きく差があると思うんですね。例の質問者がリアル社会では上手く行っている人というのがポイントなのもそこなんですよね。ちなみに僕は相変わらず気分障害などがありますが、ウォール伝でちゃんとこういったやりとりをしている時は当然、鬱状態ではないです。鬱状態では何もできませんからね。まぁ逆に調子が良いぐらいですよね。だから長文を書いてしまうし、数学なんかにも取り組めるわけですよね。こんな調子が良いときに感じるむなしさというのは認識的なむなしさでmalfunctionやdisfunctionとは違いますよね。


僕はこれを闇だとは思わないんですよね。例の質問者やsuckerさんが感じているようなむなしさってむしろ頭が凄く働くことで見えてくる分析的な認識だと思うんです。悪く言えば鈍感な人は一生気がつかないような感覚ですね。でもここ最近は311なんかもありますし、やるせない理不尽なことが多かったり日本の今後の大変さとかも考えると環境的な影響からも余計にそのむなしさとか儚さが目立つと思うんですよね。


なんで昨日まで普通に生活していた人たちが津波に流されなきゃいけないのか?とか、幸せな家庭だったのに両親が死んでしまって孤児になってしまった子供達とか、考えれば考えるほどやるせないですよね。まぁこれは常に世界中で起こっているようなことで、当然、日本に限らないことですし、悲しい死を遂げているということで言えば日本は12年間年間の自殺率が3万人以上の状態で横ばいらしいですから、この世のむなしさややるせなさというのを感じてしまうような事柄というのは常に起こっているんですよね。


でもそれにフォーカスしていたら重過ぎてやっていられなくなりますよね。だから恐らく大抵の人達はスルーすると思うんですよ。それは例えば被災者達のことをどうでもいいと考えるわけではなくて、意識の志向性をずらすということですよね。自分の生活がありますから、惨い状況にいる人達がいても、例えば楽しい事はやるわけですよね。それが娯楽であれゲームであれ飲み会であれなんでもいいんですが。でも楽しくしている時にでも「世界中で今も悲惨なことが常に起こっているんだな」とかって意識の志向性をそこに向けているとキリがないですよね。だから結局は誤摩化すしかないんですよね。自分でどうにか出来る話ではないので志向性をずらすしかない。


それはむなしさについても同じだと思うんです。それは世界中で起こっている悲惨なことやら災害やら自殺やらなんでもいいんですが、自分でどうにかなる話ではないですよね。人生のむなしさも同じで結局はどうにもならないことだと思うんです。それはもう常に残酷にあり続けるという意味で戦争や災害や自殺なんかと同じようなもんです。


凄く暗いものだけどあるということを否定はできない絶対的に存在するものですね。だからそれを無くすということや克服するということがそもそもの間違いだと思うようになったんですね。それは全く違う事象ですが、同じように絶対的に存在してしまう気分が滅入ってしまうようなこととしての戦争や災害やら高過ぎる自殺率やらとむなしさというのは結局のところ同じなんだと思うんですよね。上手く書けないんですが、絶対的にあって否定はできないし、意識の志向性をそこに向けるとやるせなくなるものということですね。で、それを克服することは自分で戦争や天災やら高い自殺率をどうにかできないのと同じ理由でむなしさも真理であるのでしょうがないということですよね。


完全にハッピーになれる人がいたとしたらそれは無知な人ですよね。自分と狭い自分の周りという生活世界の中でのみ幸せというのは可能なのであって、認識がもっと広くなってしまえば幸せという状態はありえなくなりますよね。それは心に関しても同じなんですよね。単純でいればハッピーになるのは簡単なんですが、深く色々と考えるようになると悩むようになるのは当然だと思うんです。そんな中でふと気がついてしまうのがむなしさだと思うんです。


しつこいようですがそれは病気という意味でのむなしさではなくて発見してしまうようなむなしさですね。そんな中でどう自分がやっていけばいいのか?と言えばそれがつまりは生き方になると思うんですよね。で、僕が思っていることとしてはとにかく打ち込めることに没頭するということですね。意識の志向性をむなしさに向けないということです。体を動かさないと余計なことを考えるからずーっと仕事をしているとか、何かが断絶する時間を作らずにずーっとビジーでいるというのも生きる知恵なんだと最近気がついたんですね。僕が常に読書をしたり打ち込めることを探すというのもつまりは志向性をむなしさばかりに向けないということでもあると思うんです。


かといってもそれを無視するわけでもなく、ただ重い現実として常に受け続けなければいけないものなんですよね。それは僕の言う実存の重さです。そればかりを感じていてもしょうがないし、せっかく生まれて来たんだから好きな事や楽しい事だけやって生きればいいってのが僕のモットーなんですよね。それは脳にとってもいいことですし精神の健全さみたいなのを保つにはそれしかないと思うんですよね。一度気がついてしまえば世界の酷いことや人間の残酷さとか自然の残酷さとかなんでもいいんですが、忘れることはできませんよね。むなしさもそれと同じなんですよね。そのくらいどうにもならないことがむなしさであるというのが僕の今のところの結論ですね。


それは悲しい事だし暗い事でもあるけど存在してしまうのはしょうがないことですよね。でもそういった認識があるからこそ肯定できる生ってのもあると思うんです。無駄なくひたすら強度を人生に求めるというような、人生や世の中のむなしさに負けないぐらいの重さや強さを持った何かに自分の主観を支配させるということですよね。


今もたくさんの人が死んでいるって思い始めたらキリがないですよね。今も自分はむなしさを感じているというのも感じていてもキリがないわけです。だから端的に言えば共存していくしかないってことですよね。折り合いをつけるというかなんというか、事実は事実として受け止めて自分の肯定できるような生を生きるしかないということですね。もちろんその中で人間が健全な精神を保てるような社会にしていこうと考えるとか、そういうのは当然必要ですよね。デフォで実存は重いのでせいぜい環境ぐらいは楽しい生きやすいものにしたいですよね。


それは単純に毎日楽しいのと毎日辛いのとどちらが良いか?と言われれば楽しいほうがいいに決まっているという当然のことですよね。もちろん自分が楽しさを感じることでむなしさや戦争や自殺や殺人が無くなるわけではないのですが、それとこれとは別のこととして折り合いをつけるしかないんだと思います。それは考えていてもしょうがないという結論ではなくて、そうだけどしょうがないことだよねという承認です。別にだからといって戦争が起こってていいわけはないですし、それは自殺やら殺人然りなんですが、自分がどうにか出来る問題じゃないことに関しては心の中で折り合いを付けないと永遠とそこから抜け出せなくなるということですよね。諦めやらアパシーとは違う重さの承認ですね。


結局、その重さを受け止めるということがリアリストであるということなんだと思います。そういう意味で僕はリアリストでありたいし、リアリストだからこそアイデアリストになるわけですよね。リアルに立脚した理想というのは絶対必要だと思うんですね。それがないと進歩がありませんからね。


ということでこの辺で失礼しますね。また何かあったら書き込みしてください。今回書き込んでくださったおかげで齟齬だったというのが分かったので良かったと思います。


で、次はuh.さんの書き込みと返信ね。

uh. 2011/07/20 20:47


始めまして。いつも、というか、最近このブログを見つけて、日参しています。過去記事が膨大、且つ、一記事が壮大なので、全部読めていない、にわかウォール伝通です。


そろそろ、社会人として10年ぐらいになります。3回転職もしています。今は、一応、大企業と世間に上手く錯覚させた会社に居ますが、感じるのはどの会社も一緒ですね。実力主義を提唱していても、内情は年功序列。上役は、言うだけの仕事で、まあ、仕事しないのが仕事、といった感じです。後輩も何人か居ますが、そうした家族社会で生きてきたのか、「とりあえず、生きていれば良い」というスタンスの人間ばばかりです。まあ、他人の人生なので、まったく興味は無いのですが。


社会的に見ても、日本は既に飽和状態ですよね。物質的にもシステムの面でも。日本を動かしているのが、そうした状態に長年漬かった人間ばかりなので、修正するより、一度破壊したほうが再生するんんじゃないか、と思います。そういう意味でも、僕は、個人主義の人間なので、日本よりは海外の方があってるのかもしれません。


数学は僕も大好きで、すべての思考は数学に通じる、と盲信しているぐらいに好きです。学力は中学レベルですが。証明問題は、僕は好きです。あれって、答えなんてパッと見た感じわかるじゃないですか(笑)。


定理を証明するのが、数学の本質だと思うんですけど、そうした観点から見れば証明は確かにやる理由は無いですよね。既に答えがあるのを解くので。ただ、証明する為に、自分なりに道筋を思考して、他人にその道筋を示してあげるというか。そうした、優しさを感じたましたね。証明って他人に一番優しくなれる数学問題なんじゃないかな、と思います。


数学は執拗さ。真理かもしれないですね。ずっと目の前の命題に対してエネルギーを注いで、文字通り心血注いでるものです。以前書かれてた思うんですけど、閃きが重要なファクターである数学は、言うなれば、閃くまでの我慢ですよね。ほんの一瞬、理解したと感じるより早く、刹那的な感覚の閃きの為に、ずっと我慢する。


人間にしかできない、美しい執着。数学者は、綺麗で美しい頭脳を持っているんだな、と思いますね。


数学は、趣味としては止めてしまって、今は絵描きの趣味を楽しんでいるんですけど、ときどき、数学から得た価値が、どこかで活きていると感じます。具体的な言語にするのは難しいのですが、僕が思考するきっかけになったのが、数学であることは間違いないと思っています。


初コメ長文すみません。それでは、また明日からの記事を楽しみにしています。


書き込み有り難うございます。


やっぱり会社ってそうなんですね。会社勤めをしている人から良い話を一度も聞いた事がないんですよね。僕が思うにネットの発達によって実際会社勤めをしている人の心情などがリアルに読めるようになったりしているじゃないですか?そんな中でネット経由でリアルを知ってしまって社会恐怖に陥る人って多いと思うんですよね。ネットの世界は現実とは違うという人がいますが、例えばブログって日記みたいなもんですから現実ですよね。


ブラック会社に勤めている人の掲示板での書き込みでもいいんですが、本当にリアルに内情が浮かぶほどのものですよね。だからといって働かなくていいということにはならないんですが、働かなくてもいいやつが働かなくなるのもしょうがないって要素が多過ぎますよね。会社勤めが楽しくてしょうがない人達ばかりの社会があればみんな会社に入りたがりますよね。でもそんな現実はないし、そういう風に世の中を変えていこうというのも結構無理な話ですよね。そもそも会社っていう組織自体が疎外を生むようなシステムみたいなもんですから、一部の人は除いて大抵がつまらなかったりむなしかったりすると思うんですよね。そう感じられるのは精神が健全だからですよね。


ところでuh.さんの後輩のような「とりあえず生きていれば良い」って人は多いですよね。それは僕の印象で言えば夢もへったくれもないような世の中に生まれてきてしまった世代のリアルな感覚なんだと思うんですよね。デフォで氷河期みたいな時代に生まれてきてしまったので夢を持つ事も語ることもなく「生きていれば良い」という生存本能を満たすだけでいいという風になるのも分かる気がします。まぁ動物ですよね。人間も結局は動物ですからそれはしょうがないことなんだと思ってます。


まぁこの動物感って世代関係無くあると思う感覚だとは思いますが、高校生が将来なりたい職業で「公務員」とか言うのもリアルさ故なんだなとかって思ったりしますよね。生きていればいいので安定を求めるのは当然と言えば当然ですよね。それが酷い飽和状態をより加速させることになってると思うんですよね。若い世代が反発することなくリアルをリアルに受け止めて適応してやっていこうとしているというのがつまりはシステムの温存になっちゃっているというか。僕も一度破壊したほうがいいと思いますね。ウォール伝上で知り合った人でそう思ってる人って結構いるんですけど、現実的に建設的な意味での破壊が必要だって切実に思えてしまうぐらい飽和状態にあるってことですよね。


でも現実があまりに酷いので本当に世の中クソだよなぁーと思ってる人達が増えているのも事実なので破壊って不可能な話でもないと思います。潜在的にそれを望んでいる人は結構いると思ってますね。僕も他人の人生はどうでもいいですし、動物的に生きるやつはそれでいいと思ってますが、ただ無理してる人には「絶対それやめろ!」って干渉してでもいいたいですね。「社会人」なんて概念とかロクなもんじゃないから騙されるな!っていうか、疑問を持つこと自体が凄く精神が全うな証拠なんだって言いたいですよね。周りが問題意識がない人達ばかりだとそう考えること自体がマイノリティになってしまうというか、マジョリティに潰されるじゃないですか。だったらそういう場は合ってないってことなんで無理に続けるなって言いたいですよね。無理に続けて鬱病になるとかそういうのだけは絶対避けるべきですよね。


で、数学の話なんですが、全ての思考は数学に通じるって僕も本当にそう思いますね。ある意味での数学教なのかもしれませんが(笑)でも数学って構造の学という面も含んでますよね。所謂、言語だとか社会だとか自然現象みたいなのが数式で表現できる場合もあるわけですよね。振る舞いを完全に予測はできないにしても、システムの流れや全体像を数学的に記述できたり、全く関係無いものだと思っていたものが数学的パターンを示していたり、こういうところが数学の神秘ですよね。構造的なものがあるところには必ずそこに数学はあるのかもしれませんね。逆に数学が介在しないものを探すのが大変なぐらいかもしれません。


ところで数学の証明なんですが、見た感じ分かっても僕の場合、証明問題をやれって言われるとやり方が分からないんで分かっててもできないんですよね。それは数学ってものを概念的にしか理解していなくて、記述法だとかを後回しにしていたり無視していたりするからなんだと思うんですよね。「うん。収束するよね。これは」でいいというかなんというか(笑)なんでそれを証明しないといけないの?って感じなんですよね。収束するのが分かっているんだからいいじゃん!っていう。それこそ本当に証明が必要なのは自分で定理を発見したり思いついた時でしょうね。そんな時が来るのを夢に見ていますけどね。必要になれば僕はやるようになるのでもうちょっと自分の数学レベルが上がればやるようになると思います。


証明の優しさなんですが、それって凄く分かります。僕はそれを良い数学書に感じるんですね。でも色々と読んでみると良い数学者が必ずしも良い数学書を書くとは限らなくて、凄い数学者なのに分かりづらい数学書を書いていたりするんですよね。それこそ優しさがないというか、それは逆に頭が良過ぎるのでいちいち丁寧に説明しないっていうのがあるのかな?とかって思ったりしますね。だから簡単という意味ではなくてフレンドリーな感じの読んでて楽しくなる数学書というのに凄く魅力を感じますね。そういうのに出会いたいなぁーって良いレコードを探すような感覚でいつも探しています。すでにいくつか見つけましたが全部洋書ですね。良い数学の和書って滅多にないですね。分かりづらい不親切な和書の数学書でやる数学というのが一番難解な数学でしょうね。


あと閃きなんですけど本当に我慢が必要なんですよ。僕は文系というと変なんですけど活字をやたらと読みたがる人間なのでページをペラペラめくれないというのが当初凄まじいストレスだったんですね。一つの命題や証明を永遠と眺めるということが出来るようになったのはここ最近なんですよね。それであるときよく数学者が言うように全く数学と接していない時に急に「そうか!」って分かったりするんですよね。で、よく最近は家族に「楽しそうだねぇー」とかって言われてますが、あれほど楽しい瞬間はないですね。本当に快楽ですね。あれは。


凄く手に入れ辛いものを手に入れたような所有感も満たせますね。知りたい!って感覚はつまりはこの知識の所有欲もあると思うんですよね。それが貪欲であればあるほど学問においては良いんですよね。それで僕は他人に負ける気がしないので数学もやっていけるだろうなって最近は思っています。そういう意味で数学の能力とかってあんまり考えなくなりましたね。いかにそれが好きで知りたいか?ってことが一番重要なんだと気がつきました。ドラッグと一緒で分かった時の快楽がたまらないからだから脳が求めるようになるんですよね。僕の場合、そういう単純なものですよね。一番にそれがあって、次に深遠な哲学的な理由だとか自然の言語としての数学だとかっていう理由があります。


思考するきっかけとしての数学って重要ですよね。これもつまりは「思考」ということそのものが構造的な体を成しているからだと思うんですよね。僕が数学に目覚める前に考えてた自分なりの時間論とか政治学でもなんでもいいんですが、それが数学的な構造を持っていたというのに数学をやっていて気がつくんですよね。算術系があまり得意ではなくて概念系のものが割とすんなり理解できるのも形は別であれ似たような構造としての思考をしていたからなんだと思うんですよね。それが絵とか音楽とか色んな分野で活きてくるのも凄く頷ける気がします。


相変わらず長くなってしまいましたが初コメありがとうございました。また何かあったら書き込みしてください。


で、最後にsuckerさんの書き込みと返信です。

sucker 2011/07/20 23:29


先日は返信本当にありがとうございました。実はあのコメントは半年ぶりにウォール伝を開いて
ほとんど反射的に書いてしまったものでした。なので、あとから「人生がむなしいです」の一連の記事を読んで、なんとなくシンクロニシティめいたものを感じつつ記事を読んでいれば余計な手間をとらせなかったのにと思いました。


「死ぬのはwant toをやってからで良い」っていうのは私も同感ですし、納得できる明快な回答でした。


私の場合はmimisemiさんのように何か深く共鳴してそこに没頭できることが、残念ながらありません。言葉にすると情けなくなりますがそれが今の私です。なんというか、私はどちらかといえば上のコメントのuh.さんの言う「とりあえず、生きていれば良い」という側の人間なのかもしれません。
なので、callingを見つけることは私自身にとってはとても難しいことのような気がしてしまっています。


ただ、そんな適当なスタンスの人間にすら、一言で言うとこの国で暮らしていくのは厳しいのではと最近思わずにいられなく、悶々とした日々を送っています。精神疾患からくるものかと思ったこともあったのですが、そうではないようです。


私は来年春大学を卒業しますが、思い返せばこの大学生活も日本的慣習のせいで残念なものだったのではないかと思っています。(「〜のせい」っていうのが誤解を招きそうな表現ですが)


もちろん素晴らしい出会いもありましたし、そのおかげでなんとか生き延びてこられたとも思うのですが。


長々と取り留めなくすみません。最後に、仕事第一の日本教にプロテストしてるブログをはらせていただきます。もうご存知でしたらすみません!


海外に出る、というのがこのブログを読んで少しだけリアルになり
具体的な手段が書いてあるのもいいなと思いました。
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-93.html


没頭できることについてなんですが、今日、たけしのアート系の番組でテオ・ヤンセンという芸術家が出ていたのですが、テオ氏を前にしてたけしが「俺もウィルスにかかったように没頭できることがあればいいのになぁー。羨ましい」みたいなことを言っていて凄く印象的でした。というのはたけしってなんか色々やってて楽しそうな人じゃないですか?多才ですよね。お笑いは言うまでもないですが、絵を描いたり映画を撮ったり数学が得意だったり・・・。


あとまぁ高級車を何台も持ってるとか、才能もお金も何でも持ってるって感じの人があんな感じの事を言うので印象的だったんですね。あれだけ色々なものを手に入れた人が「没頭できることが羨ましい」って言うんですから、恐らく本人は色々なことに満足してないんだろうなぁーって思ったんですよね。callingは見つけてるように客観的に見えますけど、本当に没頭しきれることが見つかってないってことなんですよね。あれだけの人が。才能がある人の悩みでもあるとは思うんですが、たけしですらあんな感じなんですから、没頭できることを見つけるというのは大変なんだと思いますよ。


僕もどちらかと言えば本当に探してる感じなんですよ。面白い事とか没頭できることを。まぁなんでか?っていうとやっぱりまぁ日常に耐えられないからですよね。全て満たされていますがただ過ぎる日常に耐えられないわけです。で、アメリカに居た頃は哲学に没頭していましたが、最近のエントリーでも書いたように研究的な意味での文献漁りはもうやらないということで、ようは哲学という主体の軸が自分自身になってきた感があるんです。


前から哲学というのは教えられるものではないし、やるということでしかできないというか、そういうことは分かっていたんですが、自分がやるとなると没頭している感がないんですよ。読書とかって読後の読破感とかってありますし、本棚の本が増えていくだとか、そういう物質的な充足もありますよね。でも自分が哲学をやるとなると具体的な何かってのがないんですよね。それこそボーっとするとか、歩きながら色々考えるとか、ようは身体的な行為性が無くなるんですよね。どんどん内面化していくわけです。


でもそうなると勉強している感もないし読破感みたいなのもないし満足感みたいなのを得られなくなるんですよね。哲学ってのは研究するもんじゃないんだなって分かった時にまぁ凄く心に穴が空いたような感じがしたんですよね。やっぱ本を読みまくるって楽しいですし、本を買うのも楽しいですし、通販にしたって本がくるまでとか楽しみですよね。でもまぁ哲学に関する楽しみは良い意味で無くなってしまったんですよね。


そんな感じで心に穴が空いたような感じの時に数学と出会えたので数学に相当救われているんですよね。でも分からないことだらけですし、分からなさ過ぎて嫌になることが多かったんで没頭なんて全然できなかったんですよね。なんだかんだでやっぱり哲学系の本を読んでることが多かったんです。でも本当に最近ですね。色々と分かるようになってきて数学自体が楽しくなってきたんですよね。かなり。そうなるともう遊びというか子供がやるゲームみたいなもんで楽しいからやるとか知りたいから読むみたいなそんな感じになっていくんです。


で、数学は異様に時間がかかるので、知らないうちに時間が経ってしまっているとか、たいした成果も得られないままその日が終わってしまうとか、ようはむなしさを感じるときが数学をやっているときは無いんですよね。まぁ意識の志向性が数学に向かっているからですね。むなしさに向かうとある意味で哲学に向かっているとも言えるとは思うのですが、なかなかこれだけやるというのも辛いものです。だから数学が実存の危機の救いになっている感じなんですよね。という意味で僕もまだまだというか、かなり危うい感じなんですよ。


凄い数学者みたいに永遠と数学ばかりやっているというのに憧れるんですが、全然まだまだなんですよね。そういう意味で没頭しているとはまだ言えない感じがします。なのでむなしさとかも感じるときがあるわけですね。でも「とりあえず生きていれば良い」というタイプの人間はこういうことに悩まないと思うんですよ。こういうことに悩まないのがそういうタイプの特徴ですから、suckerさんがそういうタイプじゃないことは明らかですよね。


callingが見つかってない感は僕も同じで、哲学ってまぁ仕事じゃないですよね。思索は仕事ではないですからね。哲学研究は仕事になりえますが、僕には興味がないことなので。で、仕事に直結するような、研究そのものが職業になるものっていうと僕の中ではせいぜい数学研究ぐらいしかないわけですが、これって凄く敷居が高過ぎることなんですよね。他の学問と比べても敷居の高さが異様なんです。なので好きなことは色々と見つかっていてもcallingが見つかったという感じではないんですよね。数学をcallingに出来たら最高だな!とは思うんですが、それを考えると数学でやっていくことの大変さの現実ってのがありますからかなり悩むんですよねぇ。自分は好きで続けるけどプロパーにできるかは分かりませんからね。


そういう意味で僕にとってもcallingを見つけることというのは難しいことであり続けています。まだまだ模索段階というか・・・。だから色んなことに手を出すわけですね。数論とかやってると分からなさ過ぎて絶望的になりますが、数学の他の分野だとそうでもなかったりして、だからまぁ得意な分野をとりあえずやって楽しめばいいじゃないか!って思ったんですよね。ついこないだなんですけど。callingにしようと思うから辛くなることってあると思うので、その辺は気楽にやって結果的にcallingになればいいなぁーぐらいの感覚です。まぁほとんどギャンブルですよね。進学なんて金かかりますし。


suckerさんが日本でやっていくことの難しさを感じているのであれば海外に行くというのはアリだと思いますよ。僕の経験を見てくだされば分かるように大抵能動的であれば結果がどうであれ経験は無駄にはならないと思います。仮に少しでも「行ってみたい」とか「やってみたい」とか「興味がある」ってことがあったらまずやってみるべきだと思うんですよね。で、やればやるほどだんだんハマっていくものとかってあると思うんです。少なくとも僕で言えば僕が数学好きになるなんてまず考えられなかったことですからね。


コミュニティカレッジで小学生の足し算引き算とか分数計算をやるようなクラスを取っていたぐらい数学音痴だったので人生って分からないものだなぁーと本当に良い意味で思っていますね。なのであまり現状で何も見つからないとか、どうしよう?とか思って悩み過ぎないほうがいいと思うんですって僕がいうのもアレなんですけど、色々とやってみないと分からないことってありますし、あとは僕みたいに偶然ということもあるわけですね。逆に数学との出会いがなかったら今頃どうしてるんだろうな?とかって考えただけで恐ろしいぐらいです。


今何も見つからないとかcallingが分からないということがこの先一生分からないということを意味するわけではないですからね。これは人との出会いとかと同じようなもんで運とか偶然とかも大いに関係していると思うので、「callingに出会いたい」とかって強く願っていればいつかは見つかるような気がするんですよね。callingに出会うって変な言い方ですけど、まぁ強く願いつつ色々なことに手を出したり海外に行くにしてもそうですが、色々とやってみると世界観とかって変わりますし、意外な自分の一面みたいなのが分かることもありますし、少なくとも「ただ生きられればいいや」って思っていなければ何かに出会える可能性は高くなると思いますね。


「ただ生きられればいい」だともう思念的な意味での願いもないですし能動性もなくなるので何かとの出会いもなくなりますよね。そうなったらまぁただの動物になりますよね。そうなるのは嫌だからこそ僕もsuckerさんも色々と悩むんだと思うんですよ。悩んでいるというのが僕らは動物じゃないっていう証拠だと思います。


あ、んで最後になりますけど、僕は進路的なことというか、一般的に進路を決めるだとかなんだとかって20代前半とかじゃないですか?ちょうどsuckerさんぐらいの年齢の頃だと思うんですが、その頃なんて分からなくて当然だと僕は思ってるんですよね。で、僕はそれは30歳ぐらいまで見ないと分からないだろうって思うんです。人によっては40ぐらいまでかもしれないですね。35ぐらいで何かを見つけてその道のスペシャリストになったり何かが開花してる人とかもいるので、モラトリアム的な生活が許されるかどうかは分かりませんが、求める限り可能性は無限にあるって考えていたほうが何かに出会える可能性は高くなると思います。なのであまり悲観的にならないほうがいいと思うんですね。


僕なんかで言えばこんな歳になって進学するかどうか?って18歳ぐらいのやつが考えそうなことを今やってますからね(笑)そんぐらいでいいと思うんですね。スローライフというかギャップライフというか。大学卒業でなんとなく不安になるってこれはイデオロギーだと思うんですよ。一般的に社会が進路を決めなきゃいけない時期だみたいに勝手に擦り込んでいるじゃないですか?


だからまぁみんな焦って就職しようとしたり向いてないことに見切りをつけずに無理矢理続けたりするんだと思うんですよね。まぁ呑気でいていいというわけではないのですが、一般的に「決めなきゃいけない時期だ」なんて言われているようなことに惑わされる必要はないってことですね。それで言えば中学卒業して2年ぐらい何かやってみてそこから高校進学とかでもいいんですよね。中学から高校にすぐ入るっていうのもただそうしなきゃいけないって思わされてるだけですからね。急がば回れってやつですね。


ということで長くなってしまったのでこの辺でやめますが、なんていうか日本って大学出たらもうおっさん・おばさんになるぐらいの変な年齢に対する異様な偏見があるじゃないですか?でも40ぐらいまで気の持ち様というか、頭を使ってれば若者でいられると思うんですよ。感受性とか感覚とか頭脳とかのまぁ脳系のアビリティ全般ですね。


本格的に衰えてくるのは50過ぎか60過ぎぐらいじゃないかな?って思ってます。それすらもまぁ常に脳を使っていれば関係ないと思うんですよね。勝手に「もう歳だ」とかって思うと勝手に脳も見た目も老け込んでくるので、日本の変な年齢イデオロギーには犯されないでほしいと思います。あと日本教反対ブログなんですがかなり前から知っていました。あっちに居た頃に一通りエントリーは全部読みましたね。suckerさんがおっしゃるように具体的で実践的なのがいいですよね。


ということでこの辺で失礼します。