ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

日常で揺れる感じ。

耐え忍ぶほどの辛さもなければ、幸せで居られるほどの軽さもないみたいな感じだよね。大きな物語を失って久しいっつーか最近は本当に物語が支える実存の土台ってのをすげー感じるんだよね。いつも書くようだけどあっちにいた頃は学校にいるっていう判り易さとかさ、ようは単位を取ってるみたいな前に進んでる感があったじゃん?大半がどうでもいい学科とか内容だったんで完全にナンセンスなんだけどさ、言わばそのイリュージョンが支える実存の土台ってのがあるわけよ。あのままで居てあっちでやっていけたかどうか?みたいなことは関係ないその場の土台ね。毎日を支える土台って感じか。


何かに対する満足感っつーかさ、充足感だよね。「あー今日は終わったー」っていうようなさ、学校行った後の感じね。実際はくだらない講義を聞いたり聞かなかったりしてるだけなんではっきり言ってゲーセン行ってるのと同じぐらい意味がないんだけどさ、それでもなんつーかシステム上で何らかの意味で前に進んでるっつーかさ、それはそう思わされてるだけなんだけどさ、んでもそれが与える安定感ってあるんだよねぇー。


別に毎日充実していたわけじゃないし、それは今も同じなんだけど、今の場合、分かり安いゴールとかさ、何年以内に何たらみたいなのがなくなってさ、ようは自分が好きな事をやるっつーことに関するエクスキューズとかがなくなったわけだよね。帰国後も復学を目指すっつーか日本の大学に行って・・・みたいなのがあったけど、調べれば調べるほど大学に行くことのベネフィットのなさが目立つしさ、アメリカに戻るって前提ならまだしも日本でやっていくとしたらメリットないんだよね。ホントに。


それは色々と分かったってことで進歩ではあるんだけどね。でもそれだけドクサの霧が晴れたって意味でさ、それって別な言い方をすれば心地よいイリュージョンがなくなったってことでもあるんだよね。否応なしに現実がただそこにあるっていう即物性というかなんというかさ、ちょっと霧があったほうが「分からないけど進んでみよう!」とかってなるんだけどさ、完全になくなって見通しとかも分かると先が分かるからつまらないんだよねっていうかさ、そのつまらなさだよね。楽しそうな道が開けてればいいけどないのが明白で、だからこそまぁ自分なりに作ってかなきゃいけないってのが俺が普段から行っていることだけどさ、そうなるともうcreationってことで逆に日々どう過ごしたらいいのか?ってのが結構分からなくなるんだよね。続く道がないというか道自体を自分で作る事になるんで進んでるかどうかもさっぱり分からない。


進みつつシステム上でのプログレスみたいなのがあるとそれがイリュージョンだったとしてもようは達成感を与えるじゃん?虚偽意識的な。そっちのほうが楽なんだよね。道を作るだけってことになると達成感も進んでる感も何もないんでひたすらの虚無感というかさ、無力感ではないんだよね。そこで無力感を感じたらもう終わりっつーかさ、上昇志向っつーのかね?それを持ち続けてないと崩壊するよね。精神が。かといっても自分なりに進んでるみたいな思い方をすると甘えが出てきてダラダラするようになるしさ、かといっても厳しすぎると精神的にキツくなるっていうさ、いい塩梅で自分をいじめないといけないんだよね。ダラダラしないようなディシプリンとしてのいじめっつーかまぁそれはいじめっつーか体育会系の筋肉いじめってことね。トレーニングのために体をいじめるっていうさ、でもやりすぎたら体壊すでしょ?それと同じことなんだけど。


やっぱでも分かりやすい形で先があるって凄い精神的に健全っつーか安定をもたらすよね。それこそ出世コースだのなんたらコースっていうレール自体を決められることの楽さっていうのかな。まぁ俺はそういうのにアンチだけど、でも思えばあっちで自分なりのコースを作ってたんだよね。装置的な感じで。実際乗れてるのか?とかそれがコースとして成立しているのか?っていうのは別としてもさ、いや、別とするからこその装置だよね。


結局だから今ってある意味であっちにいた頃よりもっと精神的にタフにならないと精神的に崩壊するんだよね。それはもちろん生活に追われてないからこそ悩めるみたいなところも有るけどさっていうかまぁそれだけどさ、でも別に生活に追われないということが精神的な余裕をもたらすもんでもないしさ、かといっても別に自分は泥沼にハマってるとも思わないけどね、まぁ人間らしい悩み方をしてると思うけどさ、まぁようは最初に書いたアンビバレントな感じだよね。


苦しくもなく楽でもないっていうさ、それが微妙に毎日続くんだよね。ちなみに社会的な意味でね、バイトなり学校でもいいんだが、もちろん俺はそういうものから達成感を得たことってあるしさ、それは散々書いてるけど、本来的な意味でね、それが達成感に値するものなのか?っていうさ、虚偽意識的ではないか?ってのを考えたときにそうじゃなかったものなんて一つもなかったよね。思い返せば全部虚偽意識のパラダイムの中で踊らされてる感じっつーのかな?まぁ未熟さゆえなのでしょうがないとは思うけどね。


やりたいことが明白なだけ楽なんだろうけどさ、でも俺に言わせれば楽じゃないよね。内発性というか自発性からもたらされたものに対してガチで接するってことは自分自身と接するっていうかさ、実存そのものとダイレクトに接することになるんだよね。「お金のため」とか「将来のため」とかっていうそういうごまかしっつーか理由付けがないじゃん?何のために生きてるの?って聞かれて「将来のため」って答えるのはおかしいじゃん?その生きるってことに対してのダイレクトな問いをその自発性からもたらされた衝動によってダイレクトに与えられる感じだよね。だから常に俺はそれに答えてかなきゃいけないっつーさ、んでも答えなんてないんだよね。本当にない。それは人生自体に意味がないのと一緒で俺がやりたいことにも意味はないんだよね。


前はそこに将来のためにもなるだとかアメリカでやっていく方法論につながるだとか色々あったけど、最初にも書いたように今はそれがなくなったじゃん?だからむき出しなんだよね。そのままそれに接することになるからごまかしが効かないっていうかさ、間に入る外部的な理由付けなり動機付けがないからこそダイレクトな感じが凄いんだよね。


欲とかがあれば楽なんだよね。それを満たすという物語が出来上がるじゃん?人に認められたい!っていうことが根源にあるなら認められる何かをやればいいわけだしさ、物欲だったら金を稼げばいいわけだし、性欲だったら女漁りすればいいわけだし、それ自体が物語になりうるよね。んでもそういうのがないダイレクトな感じによる悩みというと大げさだけど実存を突きつけられる感じっていうのはさ、答えがないし、答えを探るというプロセスですらもないからこそ、ずーっとアンビバレントな感じに浸り続けるっていうかさ、なんかあれなんだよね、ドラマとかでやる怪談と実際の怪談の違いみたいなもんだよね。


ドラマの場合、起承転結があったりさ、最後にどこかに落ち着いたりオチがあったりするじゃん?あとはその怪異なり霊現象が起こった原因なりストーリーってのがあってさ、「悲しいねぇー」なり「恐いねぇー」なりっていうさ、ようは分かりやすい物語になるわけだよね。でも実際にあった恐い話なんてさ、それこそなんでそんな恐ろしいことが起こったのかもわからないしさ、あのわけのわからない現象なり姿なり経験なりが何らかの形で説明できるようなもんでもなければさ、なんかの怨念だったにしても由来が分からないだとかさ、とにかく不条理に尽きるんだよね。だからこそリアル怪談は恐いし俺がリアル怪談好きなのも人生の不条理そのものをあらわしてるようなところがモノによっては感じられたりするからなんだよね。


なんかこれは本当に関係ないよね。本当に。エンタメがどんだけ発展しようがテレビが3Dになろうがなんだろうが何の解決にもならないよね。まぁヴァーチャルセックスとか大麻解禁とかになったらかなり変わるとは思うけどね。んでも別にキマることとかセックスすることが実存に対して何の答えも示さないのは明白じゃん?せいぜいまぁレクリエーションじゃん?


んまぁでも仏教的に言えばさ、俺の迷いなんて完全に低レベルの迷いだよね。ようは全て我がそうさせているっていうか我への執着がそうさせているから無我になればいいってことなんだけどさ、いや、それは理屈としては分かるけど、そうなるともうやることなくなるしそれこそ寝るぐらいしかやることがなくなると思うんだよね。まぁんで気が向いたら好きな事をやるっていうさ、んでも強い自発性が我を生み出すわけだから好きな事をやってるとさっきも書いたように無我にはなれないんだよね。むしろ没頭している時の無我の境地が好きだからこそやってるようなところはあるわけで、そもそもデフォで無我というのは無理だし、俺はそれはやろうと思わないんだよね。本格的に世捨て人になるしさ、そういうマインドで生き続けるってのはどうなのかな?という疑問があるんだよね。そこはやっぱなんつーか社会ってことなんだと思うけどね。


終わっているけど放っておけないし何ができるか分からないけど何かやりたいんだよね。まぁアパシーと無我は違うんだけどさ、でもなんか嫌なのね。凄く冷めてるでしょ?社会に対して憤りなりさ、権力でも不正でもなんでもいいけどそういうのに怒りを感じなくなるって人間的にどうなのよ?って気がするんだよね。自分の実存の救済のために無我になるといってもそれが仮にゾンビみたいになるってことだったらさ、それってむしろ自分のことを気にするがあまり全てを捨てるっていうか、我のために無我になるって意味で目的が我のためってことになるじゃん?それってすげーエゴイスティックなことじゃない?と思うんだよね。独我論的なんだよね。そういう意味で。


かといっても無我ということと利他的ということを二項対立させる必要はないしさ、そういう対概念ではないんだけどさ、でもやっぱなんつーか一番その中庸なさ、バランスの良い我とのバランスの取り方ってやっぱ利他性だと思うんだよね。それはボランティア的な「やってやった感」が介在するようなものではなくてね、何らかの形で自分が有益に社会で機能しているというさ、まぁ機能主義的な考えではあるけど、でもその機能性に実存が救われることもあるじゃん?救われたいからやるんじゃなくてやりたいからやるんだけどんでも結果的に救済にもなるんだよね。まぁそれを社会の中で求めようとするとすげー辛くてマズローだかが言ってたようにそういうのを会社とかに求めようとするから凄まじく辛くなるっていうまぁそういう話もあって堂々巡りなんだけどね。別に何もそれを会社でやる必要はないんだけど、でも社会で有益に機能するってすげー難しいことなんだよねってのは思うよね。


それこそポンコツにはできないことだしさ、パーツ人間みたいな機械人間にも勤まらないことだし、だからこそまぁ勤まるように自分を磨くしかないってことになるんだけど、そういう意味でやっぱゴールの一つに社会って必要だよね。まぁ俺にとってはすげー必要なファクターだな。それがやりたいことでもあるしそれがやれないということが凄く悲しいわけで。だから無我になれんのよね。自分の世界に篭り切ることもできないのね。そういうところから来る葛藤でもあるからまぁ健全な葛藤だよなとは自分では思ってるけどね。


ってことで今日はこの辺で。