時間論について。

時間論ってあるでしょ?マクタガートに見られるような。まぁそれだけじゃないんだけどさ、そもそもおかしいなーって思うのがさ、なんで時間なんつーものを論理的に考えようとするんだろう?ってところなんだよね。言葉で「未来と言える」とか「過去とは言えなくなる」とかさ、それって言語的な表現の問題なんであってさ、その表現における矛盾なりね、説明できないということ自体が時間というものに影響は及ぼさないじゃん?それが実在するかしないか?ってのを考えるのはようはオントロジーなんであってさ、俺的に言えばこれこそ空に尽きると思うんだよね。あると思っているけど実在なんてないとかね、あまりにアプリオリだったり感覚的に合点がいくようで時間の実在みたいなのが感覚的にあるものとして置かれるような気がするけどさ、でも実際はただの便宜的なものでしょっていう。


考え方としては結構前にリーマン予想についてみたいなエントリーで書いた写像なんだけどさ、ようはとりあえず三次元っつーか「世界」とか「世の中」とか言えるようなものを全部点で考えるわけだよね。粒子の絵みたいなのが世界だと。まぁようはユークリッド空間にそういうのが常にプロジェクトされてますよっていうさ、で、その一個一個を見るとただの点なんだよね。その点の変化が時間とされるものなんだよね。科学的な尺度で言えば時間の最小単位ってのが時間の目盛りみたいなのを規定するんだけど、それもまぁ便宜的なもんなんであって絶対的じゃないんだよね。


で、別に「世界」とやらがユークリッド空間的なものなのか?っていうとそうじゃないでしょ?ましてや時間が相対的なものだって分かっているわけだし、流れ方が物体の速度によって変わるとかさ、そういう意味で時間という尺で計れるような分かりやすい粒子の絵ではないんだけど、でも人間の観念的に言えばほぼユークリッド空間的だと思っていても問題ないっつーのは別に日常に支障はきたさないからね。実は隣にいる人は0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000001ぐらい俺の時間とズレているとかさ、そんなの知ったこっちゃねぇーじゃん?違いはあっても微小過ぎるんで同じと見做してもいいぐらいなんだよね。まぁ厳密に言えば違うし科学的にそこを同じとしてはいけないんだけど、でもようは時間ってドクサみたいなもんでさ、「こうじゃないか?」ってあーだこーだ言うっていうドクサのレベルから抜け出せないんだよね。結局は観念によって規定するしかないし、そもそも科学的に言えば分かりきった事過ぎてどうでもいいことなんだよね。もう決まった定数とか方程式みたいなもんなんだよね。


だからまぁあーだこーだ言うのは哲学者ばっかなんだけど。無駄とは言わないけどでもなんかさ、それってすげー哲学の悪いところだと俺は思っててさ、なんでも言葉で言い尽くせるとか、色々とやっていればわかるようになるとかって思い込んでるじゃん?でもそもそもなんでそんな時間なんてものが言葉で言い表せるとかさ、ロジカルに考えてあれは矛盾でこれはありえないから時間の実在性はないとかって言えるだとかさ、これも全部言葉っつー幻想みたいなものに真実が惑わされちゃうっていうかごちゃごちゃになっちゃうってことだと思うんだよね。不可知な真実って絶対あるわけよ。


それをもはや人間の観点から真実と言えるのかは分からないけどさ、そもそも分かりきろうとすることが間違いなんだよね。分からないからやろうとするのも分かるんだけど、でも時間について言えば相対的ということで片付いちゃう気がしてさ、まぁもちろんあれだよ、認知科学的なさ、体感時間とかね、人間の認識に関わることについての時間学みたいなのは死ぬほど重要だよ。ただ形而上学としてはどうなのかな?って気がするんだよね。


マクタガートにしてもラッセルにしてもあの時代にありがちな見苦しい時間の定義を論理でやろうとしてるっつーかさ、だからまぁ俺って分析哲学全般嫌いなんだよね。なんで「こうといえる」とか「いえない」だとかってことで世界が決まるのか?って話じゃん?バカじゃねーの?と思っちゃうんだよね。それは人間側のロジックなんであって世界そのものの真実性とか実在性とは全く関係ないじゃん?人間がどうそれを表現しようが認識しようが世界そのものから見れば全く関係ない話だよね。そもそも人間の認識から時間なり世界みたいなもんのあり方が規定されてたまるか!って感じだよね。人間原理っぽい話になるけども。


俺がウィトゲンシュタインとか相変わらず好きになれないのもそこなんだよね。なんであんなに言葉なんつー恣意的であいまいなものに真実性みたいなのを見出そうとするのかさっぱり分からんよね。ウィトゲンシュタインって自分自身が言語ゲームにハマっちゃって抜け出せないみたいなさ、狭い世界観で哲学やってるようにしか見えないんだよね。まぁその狭い世界が彼の哲学を築き上げたって意味ではまぁオリジナリティとかは凄いっつーかまぁ凄い哲学者であるのは間違いないんだけどね。


で、フォロワーっつーとあれだけどクリプキとかいるじゃん?何が凄いのかさっぱり分からんよね。まぁ分かるけどねぇーぐらいのもんで何もないよね。すっからかんっつーかなんつーかさ、俺が理解できてないとは思えないし、だからまぁこれは俺の実感なんだけどさ、そもそもまぁ言葉にこだわる人たちってダメなんだよね。そういうウィトゲンシュタインとは違った意味での言葉のゲームとかやり取りとか関係性みたいなのに絡められるとさ、絶対見失うものがあるんだよね。だからこそ語りえないものに関してはあーだこーだ語り続けるしかないわけだ。


やたらヴィトゲンシュタインの「語りえない・・・」って引用されるけどさ、あたかもそれが科学的事実かのように引用されるけど全然そんなことないからね。お前に決められたくねぇーよ!っていうさ、なんでそんなことまで言い尽くせると思ってるのか分からないよね。人間的に見ても問題ある感じでかなり傲慢だったんじゃねーか?って思うんだけどね。だからこそ自分が色々と記述しきれるとかって思い込んでるっつーかなんつーかさ、それって形而上学分析哲学的な観点から見た完全なる排除だったのかもしれないけどさ、形而上学無くしたら哲学の意味なんてないと思うんだよね。


もちろん分析的である意味はあるし、科学的な厳密さって絶対必要だけどさ、なんかクーンとかにしてもそうだけどクワインとかグッドマンとかもそうだけどあの辺の人たちのたいした事なさってポストモダン系の思想家といい勝負なぐらい結構どうでもいい感じだよね。まぁどうでもよくないし無駄だったりナンセンスではないんだけどB級感が凄いよね。あと本人たちが科学的な定義とかをしてると思っていることでも俺が言えた事じゃないけどロジックの飛躍があったりさ、あと一般化が酷いよね。


よくもまぁこんな大胆に言い切れるよな!っていうさ、まぁようはさ、フロイトとかマルクスと同じなんだよね。科学的っぽいけど似非科学だけどだからといってポストモダン哲学者も同じだけど彼らの思想なり書いてきたことが全部無駄になるか?っていうと全くそうじゃないのね。それは逆に理系っつーとアレだけど科学者みたいな人たちが「厳密性に欠く」とか言う理由だけで全部たわごとだと言って否定しちゃうみたいなさ、そういう思考停止的な感じってあるじゃん?そこが理系のバカなところなんだよね。科学万能主義のアホなところ。


だからようは両方なきゃいけないんだよね。科学的な知識と哲学的な知識とあとは形而上学みたいなことに関しても厳密さというところで言えば絶対綻びが出てきちゃうようなことについても言及するっていうさ、ワイルの本の最初にそれはすげーチャレンジだっつーかリスキーなことだみたいなことが書いてあったけどさ、まぁでもそれだよね。そこを言わないと。むしろ言わないと分からないことのほうが多いし、言うことで形而上学的な話題の種を蒔けるってことで相当有意義だよね。


なんかさ、理系の教養を欠いた感じってあるでしょ?科学こそが真理なり!とかって思ってたりするんでさ、ほかの事を全てばかばかしいものだって思ってたり見下してたりとかさ、哲学に対してそういう態度で見下してる人とかっているよね。チャイティンとかがそうだけどラッセルは最初は数学者からスタートしたのですが、後に哲学者に成り下がり、最終的に博愛主義者にまで成り下がったのです!みたいなことを言ってるけどさ、これぞ科学万能主義っつーか数学万能主義っつーか自分がプロパーなフィールドが全てだと思ってたりするんだよね。ちなみにチャイティンに関しても仕事とかは凄いし本もおもしろいから読むけど人間的には全くリスペクトできない人だよね。本でも自慢話が多いし一般人をかなり見下してるし。


まぁなんつーかさ、だからまぁ万能なものってないんだよね。実存主義にせよマルクス主義にせよ現象学にせよフロイト主義にせよなんにせよそれぞれに学べるところっていうか示唆的なところはあるけど、でもそのパラダイムが全て正しいか?っていうとそうじゃないしさ、あとはそのイズムの中での弱いところってあるじゃん?認識論に関しては強いけど倫理で言うと弱い・・・みたいなさ、まぁだから色々と分かれるわけだよね。認識論だけで倫理が語れるわけじゃないのは当然なわけで、だからそれぞれが学問としてあるってことが意味あるんだよね。それはさっきぼろくそに書いた分析哲学とかポストモダン哲学然りね。


で、その辺のさ、バランスの良さみたいなのを感じるのがこないだ頭が良い人達みたいな感じで書いた人達だよね。苫米地さんと宮台真治と塩谷さんとペギオさんだったと思うけど彼らに共通しているのが幅広い学識だよね。まぁベタに言えば博覧強記か。それは彼らの地頭が良さ過ぎて情報の演算処理能力が半端じゃないから色々なことを理解できるってのもあるんだけどさ、だからこそなのかな、まぁバランスの良さが生まれるんだよね。全員両方の知識を満遍なく持ってるでしょ?個人差はあれど科学的な知識と哲学的な知識両方あるじゃん?こういう観点から見ると文系と理系みたいなので分けることの意味のなさが凄く分かるよね。知識って観点から見たらどれも差はないわけで。それこそ価値もないしusefulnessみたいなのもないじゃん?そこを選んでいくのが自分たちの仕事っつーかさ、それが彼らの知になるわけじゃん?


だからまぁーなんつーか塩谷さんとかペギオさんみたいな人がやる時間論なら凄まじく興味があると思うけどやたら哲学にだけ偏ったような時間論って俺はナンセンスだと思うんだよね。で、科学に偏りすぎるとそもそも論にならんのよね。論ずるほどのものでもないから。だからまぁ時間論ってすげー論ずるにあたって凄く敷居が高いっていえるよね。中途半端なやつがやると碌なことにならんからまさしく馬鹿の考え休むに似たりなんだよね。まぁでも考えることによって鍛え上げられるものはあるから馬鹿でもアマチュアでも考えたい人は考えまくればいいと思うんだけど、タチの悪い中途半端なインテリがドヤ顔で時間論とかをいろんな文献から引っ張ってきて書いてるのとかを見るとイライラするねってことなんだよね。そういうレベルのやつは時間論に手を出すな!ってことなんだよね。勝手に自分で考えるのは一向にかまわないんだけど。


んでもね、補足をするとさ、マクタガートにしてもラッセルにしてもね、あとは時間論とはちょっと別になるけどウィトゲンシュタインにしても時代性ってのはあるじゃん?論理学が幅を利かせてた!みたいなさ、ビバ分析!みたいなね、アンチ形而上学!みたいなさ、そういう時代精神はあったわけで、そこをコンテキストで見ないってのはダメだよね。当時から見れば全然妥当な議論だしあってよかったわけだよね。失敗があったとしてもそういう論考が成されたということに凄い意義がある。だから無駄なものはないんだよね。


俺が好きか嫌いか?で言えばなんつーかそういう時代の人達の言論なり思想を今でも通用するだとかって思って完全に時代遅れなことを言い続けたり書き続けたりしてる哲学学者が嫌いなんだろうね。あたかもそこから真理が見出せるとか世界の違う像が見出せる!みたいに自分のプロパーなフィールドに実存を投影しちゃって妙な期待をしてる人達っていうかさ、まぁそれが酷いのがマルクス主義とか左翼全般なんだけどね。


でも最近思うに分析とか論理ってのもまたマルクス主義並の病理を抱えてるなって思ったのね。良いところもあるけど悪いところもあるよねってスネークマンショーみたいになっちゃうけど。全て分析して論理で考えれば全てが分かるようになるなんて戯言もいいところだよね。それは美術とか芸術の良さが何たら値みたいなので記述できるとかっていうぐらいナンセンスでアホなことだよね。論理とか分析っていうところに身をおきすぎて自分で考える力がなくなってたりするんだよね。それを俺は分析中毒とか論理中毒って呼んでるけども、まぁ言葉自体は流行らないとは思うけどね。分析も論理もいいけどあくまで考える材料を抽出する道具じゃん?それ自体に全ては帰結しないよね。だから常に形而上学ってのはあり続けるし考え続けなきゃいけないことなんだよね。別にそれはhave to原理でやることじゃなくておもしろいからwant to原理でやることなんだけどね。まぁ別に分析哲学と呼ばれるもの全般がね、俺が批判したような立場に立っているかどうかは分からないけど、まぁなんつーかドライな感じっつーかおもしろくない感じがあるよね。論理ではそうかもしれんけどそんなことないだろっつーかむしろ論理のあやだろそれはって思うところが結構あるからね。


あとはまぁ議論を援用するのはいいけどもっとアップデートしようぜってのはあるよね。孫引きやら引用やらだけでちょっと私論を述べて終わりとか何の価値があるわけ?っていうさ、そういう意味で哲学なんて意味あるの?ってこういう人達を指して言われるなら「んー意味ないねぇー」って言えるよね。そう言われがちなのも分かる気がしてくる。


まぁ今日はそんな感じで。


PS


あれね、言い忘れたけどニュートニアンな観点でいまだに時間論を語り続けてるとかね、時代遅れってそういう感じのことね。時間論に限って言えば。政治で言えばいまだに階級闘争って言ってるとか革命がどうだとかそれも時代遅れでしょ。まぁ古い定義での革命ね。