超訳・文明国には必ず智識ある高等遊民あり。

文明国には必ず智識ある高等遊民あり


内田魯庵


超訳 by 耳蝉。


遊民ってのはどんな国にもどんな時代にも居るわけ。どこいってもみんな朝から晩まで稼いでるか?っつーとそうじゃない。だけどまぁ国に遊民がいるってのは別に悪い事じゃないっつーかそんなに嘆く必要はないんだよね。ようはそれってのはその国に余裕があるってことなわけだから、勤勉に働いている人だけが金持ちってのは見ようによってはその国が貧乏ってことなんだよね。


ようは働かなきゃ食っていけないってのはその国に余裕が無いってことじゃん?だから勤勉オンリーだと国が貧しいって言えるわけ。遊民が多くなって国がヤヴァいなんて思うのは大間違いなんだよね。文明が進んだある程度金がある国には必ず遊民がいるわけよ。遊民がいるから俺の国はすげーぜ!っつーかリッチだぜ!とかね、ビバ遊民!ってことにはならないのね。ようは別にいても問題ないってだけでまぁ言わば人畜無害ってことなわけだ。例えばさ、どこの国でもいいんだけど、遊民がいるって国があるとして、くだらないアイドル歌謡曲とかK-POPばっか聞いてるとか、なにもやらないでニートでいるとか、2ちゃんばっかやってるみたいな馬鹿で下世話な遊民が良いか、知識がある高等遊民のほうが良いか?って言われたら当然高等遊民のほうがいいに決まってるよね。


例えばそれを貧乏人に置き換えても、無知で低級で下世話で馬鹿なやつよりかは知識がある高等な貧乏人のほうがいいじゃん?どこの国にも遊民ってのはいるわけだけど、その遊民たちに知識があるか無いかってのでその国の文明が分かれるわけ。高等遊民が多いのかただのニートが多いのか?ってので文明が分かれるってことね。知識がある高等遊民がいるってのはその文明として喜んでいいわけね。遊民達の存在を肯定するとか遊民達を好くとかってことじゃなくて国が文明になれば遊民の知識も進むってことでそれが文明になるのね。それは国の文明が進むにつれて教育が進歩した結果、当然来ることなわけで、例えばみんなが高等遊民化することを恐れて手抜きの教育をするみたいなことはアホな話なわけよ。


一国の文明の中で国民の知識ってのは平等ってのを求めるけど、この平等ってのは高いレベルじゃないといけないわけね。例えば大臣から小役人の間にある程度の地頭とか才能の差はあっても知識って意味では同じレベルじゃないといけないのね。そうじゃないと一国の文明ってのは進歩と発展を遂げることができないでしょ?そんな感じで一般の階級の人間の知識のレベルを高めるには、一般の人間が高等な知識を受け入れることができるようなインフラが必要なんだよね。高等遊民が出来上がってしまうってことを恐れて教育の手加減をするなんて愚の骨頂なんだよ。もう一つ言えばさ、国民の知識が高まるってのは必然的なことなのね。文部省の方針だとか、制度がどうのってことでどうにかできるもんじゃないわけよ。


文部省だのなんだのっていう施設やらインフラに関わらず国民ってのは自分達で進歩していくものなのよ。自分達ってのは高等遊民を国家のために恐れるのではなくて、高等遊民を怖がって高等の知識に向かおうとする国民の勢いを抑えようと恐れるわけね。


原文

http://www.aozora.gr.jp/cards/000165/card2393.html


あと参考に。


http://www.nttpub.co.jp/test/doc/cheak/webnttpub/contents/university/001.html


なんつーかまぁ当時から遊民的な人たちをスケープゴートにするっていうやり方があったってことだよね。今のニートスケープゴートになってるのと同じ事だわ。んでもなんつーか政府が恐れる高等遊民ってのがあったとしたらそりゃ最高だよね。あとは最近「書生」って言葉を知ったんだけど、まさに今の俺がそうだよね。実家の事を手伝いつつ読書してるっていう。まぁなんつーかこういう層も今は一緒くたにニート扱いされてると思うからなんつーか明確に分けたほうがいいよねっつーか高等遊民的な存在をニートと同じにするのは良くないっていうさ、それこそ日本にはそういう文化があったわけでしょ?高等遊民だとか、そこまでいかないけど書生さんだとか。


んだったらそういうのに社会的なサンクションを与えてもいいんじゃね?って思うんだよね。別にそれで高等遊民が偉そうにしていいってわけじゃないんだけど、んでもやっぱ気にしないっつってもニートと同じ扱いをされるのはどうかと思うよね。もちろん好きな事をただやっているだけって意味でニート高等遊民も同じだって前に書いたけど、それこそ今超訳したやつで言えばカルチャーって観点とか国って観点から見ればさ、やっぱ高等遊民って財産だと思うんだよね。在野の知識人とか科学者でもいいし、まぁようはインディーズの知識人ってことだよね。俺は自分がどうなのか?ってのはどうでもいいし位置づけしたくないからまぁ自分を議論に入れたりしてもごちゃごちゃになるから嫌なんだけど、んでもまぁ俺の生き方ってアメリカにいた頃は高等遊民的で今は落ちぶれて書生さん的でしょ?んでもなんか社会とのつながりっつーか社会的な機能ってのをあきらめてないっつーかさ、何がやれるかわからないけどニヒリズムだとかシニシズムに陥らずに何かをやるっていうさ、それ自体はやっぱ肯定されていいことだと思うんだよね。そういう意味で社会の事を気にするって人たちを今後は「社会人」と呼ぶことにしていいと思うんだよね。そうなると大半の社会人は社会人じゃなくなって結構な数のニートと呼ばれる人たちが社会人となる凄まじい逆転が起こるよね。でも定義はそれでいいと思うんだよね。むしろそういう定義じゃないとおかしい。働いていれば社会人なんてばかげたことじゃん?


今の俺で言えば仮に俺がただのバイトで家から店まで往復するだけの生活を永遠と続けてるっていうそれで社会人なの?っていうさ、意味わからないよね。労働と社会的市民って全然関係ないじゃん?まぁそれがつながってればいいけどマルクスを出すまでもなく完全に阻害されてるわけで、そもそも労働ってのをそんなに特化した何かの概念にしないほうがいいんだよね。もうホント、脱原発もいいけど脱日本教しないとただのお上に洗脳されたイエローモンキー国家になっちゃうからね。ホント、世の中の事を憂うんだったらまず自分から変わらなきゃいけないね。そういうイエローモンキーはむしろ国賊だぐらいに思ってたほうがいい。そんぐらい過激じゃないと脱日本教はできないよね。そのぐらいイデオロギーが強力なわけで。結果そういうのに洗脳されてるやつらが脱政治化っつーかさ、社会的じゃなくなるわけじゃん?それこそ害悪なんだよね。apoliticalって意味だけど。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。