ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

u.さんへの返信。

u. 2011/09/26 10:56


また僕ですみません。

最新記事にコメントしようかな、と思いましたが内容的にこちらに対してなので(あんまり関連してませんが)過去ですがこっちにコメントします。相変わらずのアウトプット量なので(揶揄では無いです)理解するのに時間がかかります。まあ、僕の理解力、想像力、補完力の乏しさが主な要因ですが。長文なんかの要約は本当に難しいですね。まあ、それはわりと下品といえば下品な作業なんですけど。


自分なりに解釈して展開する為には、それに対して以上に明確な知識を要しますし、mimisemiさんは明らかに水準レベル超えてますから、なおさら高い次元で解釈しないといけない。それに対して、書いたように僕の能力が追いついていないのが悔しいところです。悔しいので、こうしてアプローチしているんですけどね。


人間、というか動物の肉体は構造上必ず限界があって、視野なんかは目がある範囲しか認識できない。しかし、人間と動物の違いは思考な訳ですけど、この思考というか、内面的な能力には限界は無いように感じます。もちろん、個体差はあるんですが、それはしかし比較したときに生じる相対的なもので、むしろ個体としての限界は無いんじゃないかな、と。


内面的な能力というのは、感情だとか、創造力、思考力。具象から抽象の展開のような、まあ、人間だけが持ち得た能力の意味で、これは外面的な方向性、距離に限界があるのとは違って、どんな方向にも、そんな場所にも、どこまでも見える、行ける、どこにでも存在できるようなものかな、と感じています。


聞きなれたフレーズの「限界は自分が決める」ってのがありますけど、まあ、ある意味ではそうかな、と思います。もちろん、一般で使用されている解釈とはまるで違う意味に僕は捉えていますけれど。


元来、感情なんかも嬉しいと悲しいは同時に感じる事もできる筈なんでよね。ただ、一般化された社会の中で対極という概念が形成されて浸透したせいで、白があったら黒があって、それらは別個の存在である、みたいな、本来、個人としては限界の無かった人間の能力がどんどん狭い空間に追いやられていってるんじゃないかな、と。


悟りと欲求も、本当にすごい人は同時に感じる事ができるし、どこでもいつでもできるんじゃないか、という事です。環境によって左右されるのは、つまりはそれだけ内面的な能力が低いからで、外面的な影響下で自分が変化することに対する期待、つまり、自分は世界に存在していることを感じたいが為の、一種のデカルト的な世界に対するアプローチだと思いますね。


世界があるから自分が居ることを感じるのではなく、自分が居る事は自分にとって事実な訳ですからね。他人にとって虚構だろうがそれは関係なくて、自分の内側から発露するものが、唯一の世界なんじゃないか。そしてその世界は外部からは一切干渉されることなく、絶対的に在るものだと思うんですよね。


話変わって、以前、書いた共感の事なんですけど、僕に関して言えば、価値があるから嬉しさを感じます。共感は感性が似ているから起こる現象なので、感性が近いことはそれだけ自分にとって、吸収しやすいものだという事なんです。僕にとってはですけど。


アプローチする相手が自分より高次だった場合、一方的に得るものがありますからね。しかもそれが水に砂糖みたいに吸収しやすいとなったら、それを表現するとなるとやっぱり嬉しさかな、と。知識欲の一種かもしれません。


まあ、感性もクオリアと一緒で、同一のものは絶対に無いんであうけど、ただ近い位置で同じように感じる事はできますし、それが人間の特性のひとつだと思っています。


毎回長い上に、あんまり内容に関係してなくて申し訳ないです。
それでは。


いつも書き込みありがとうございます。


僕も内面的な限界というのは無いと思っています。そもそも脳は完全に使われてないなんてクリシェのように言われていますし、あとは僕もいつも感じることなんですが、とんでもない能力を持った人を見ると自分の無力感を感じてしまいますよね。でもそれがまさしくuさんの言う個体差というやつで、結局は相対的なわけです。しかも個体というのは人間などという便利な類型に分けられるほどシンプルなものではなくて、生得的な遺伝情報だとか育ってきた環境とか現在の環境だとかが色々と関わって形成されているものなので、単純に能力差などということで能力を比較できるものではないんですよね。


例えば英才教育を受けてきた人が頭がある程度良いのは当たり前なんですよね。だって脳の使い方とか様々なパラダイムを良い教師なり個人教師なりに教えてもらっているわけで、それはようは脳の使い方が上手いってことですよね。残念ながら公立の学校なんかは教師が大抵凡人でどうしようもないので生徒のポテンシャルを引き出すことに成功していないわけですが、そこは教育システムに求めるのは無理かな?という気はしますよね。


あまりにも求めることが高過ぎるので公立の学校の教師なんかにそれを求めるのは不可能でしょう。普通の親然りです。なのでまぁインテリの親だとかを持つと遺伝情報もさることながら後天的な良い教育環境の中で育てられるので脳の発達が良くなるというか、そういった環境が与える影響というのは計り知れないですよね。


まぁある程度大人になってからはどう時間を作るのか?というのが問題になりますが、本当に自分の能力を開発したり知力を磨きたいなら色々とやりようはありますよね。それこそ筋トレと同じようなもんで。筋肉で言えば元々の筋肉質だとかの体質はありますけど、結局は訓練でみんなマッチョになれますよね。知力なども同じだと思うんですよね。感覚やセンスなんかもある程度はそういうところはあると思います。


そこの壁が天才と言われる人達とそうじゃない人達の壁で、まぁこれは認めざるを得ないわけですが、でも天才達が持っている特殊な能力が人間全ての能力を規定するわけではないですし、天才じゃない人だって磨き様によっては素晴らしく光ることがありえますよね。天才のほうが圧倒的に有利ですが、逆に秀で過ぎた能力が無い分、僕もいつも書いていますが「磨こう!」という気持ちになるんだと思うんですよね。


そういう意味で限界は自分が決めるんだと僕も思ってます。「自分はこんなもんだ」と自己規定することでリミテーションを作るわけですよね。で、何かを磨こうとすることを「能力の限界」や「時間が無い」みたいなことをエクスキューズにしてやらなくなるんですよね。で、そうやって自己規定したもんなので確固たるもんなんですよね。面白いぐらいそのリミテーションの中でその人は生きるようになるわけです。


で、そのリミテーションのアヴェレージってのがあって、特に日本みたいな足の引っ張りあいが凄い社会だと、そのアヴェレージを超す人を見ると居心地の悪さを感じて排除したり「お前になんて無理だよ」って言ったりするんだと思うんですよね。凡人のベルカーブを凡人が無理矢理決めようとするという同調圧力なんだと思います。


悟りとか欲求に関しては全くその通りですよね。環境がどうのってのは本当に内面的な能力の欠如です。それを言い訳にするのは精神の弱さですね。僕がまさしく過去に外面的なものに変化を求めていたのが海外幻想であったりニューヨークにいるということだったんです。まぁもちろん場所的に今でもあっちのほうが好きですが、別に僕が学問をやることに環境は関係無いですよね。ましてや今は学校に所属しているわけではないので、全部自分のやり方次第なわけですし、洋書もアマゾンなんかで簡単に手に入りますし、ドル安で洋書が相対的に凄まじく安いですし、一人で何かをやり続けるということに環境は関係ありませんよね。


それに気がつくのにえらく時間がかかったわけですが、それも僕が海外にいるということを経験できたからだと思っています。日本にいたままじゃ絶対世界観は狭いままだったはずなので。そういう意味での外面的なものが認識に与える影響というのは凄く重要で必要なものですが、それは常に必要なものではないですよね。気付きのきっかけを与えてくれるもので、常にそれが必要なものではないんですよね。最終的には内面的なものに全てが託されると思うので。まぁ物理的な衣食住を提供してくれる環境とかそういうものは外面的な要素も必要ですが、僕が言いたいのは内面的なことについてですね。衣食住は身体的なもので、精神性みたいなのは当然内面的なものですからね。


僕もuさんの言う絶対的な内面的なものの発露に存在の根拠を置くことに凄く共感を覚えます。それは独我論ということではなく、言わば個人の実存の規定というか、価値の置き所ですよね。内面があるからこそ実質的にはヴァーチャルリアリティとリアリティの区別が無いはずなのにも関わらず、リアリティ上には外延的なものに対する内面的なものが存在するので、そこで起こる発露や感情や欲や楽しみといったものに極めて個人的な価値を発見したり置けるんだと思うんですよね。


客観的に何もかもに意味が無いことが明白だからこそ、人間的な何かに価値を求めようとするのはようは生きるということの肯定といいますか、生きるという選択をするなら選ばざるを得ない生の作法なんだと思います。道徳や倫理なんかもこういった実存抜きに語る事は困難ですよね。分析哲学のようなドライな感覚だけでは世界は分からないし、人間の実存や道徳や倫理なんかも分かりませんよね。そこが論理と倫理の違いというか、相対性と人間臭い基盤が脆弱ながらも常に人々や社会が必要とする絶対性なんだと思います。


で、実存に関しては絶対性しかあり得ませんよね。そこを認めないと生きることの価値が無くなるというか、死ぬぐらいしか道が無くなりますよね。そういう人間臭い絶対性を求められたり認識できるのは人間にとって凄く良いことなんだと最近は思うようになりました。もちろん相対主義ニヒリズムなどを経ての認識ですけどね。


長くなったので今回はこの辺で失礼します。