ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

情報による形式化。

数学が面白くてしょうがないのか、哲学に飽きたというか慣れたというか初期のような知的刺激をあまり受けられなくなってきたっつーこともあって数学ぐらいしか知的刺激を受けられるものがなくなっているんだと思う。まぁ哲学もたまに出会う良書があると凄く感動するけど、んでもようはそれって「よく書けてるなぁ!これ!」ってなもんでさ、パラダイムとかはまぁ一通り読んじゃうと大体分かるじゃん?いつも書くようだけど細部の事を研究するってことになるともう文献学になるんだよね。


哲学ってのは頭の中でやるもんなんであって特定の哲学者の研究をすることではないわけだ。まぁでも考える材料として哲学書を読むってのはいいんだけどさ、でも「へぇー!」っていう感じは何年か読んでればなくなるよね。やっぱ「へぇー!そうなんだ!」っていうドーパミンドピュドピュな感じは数学でしかもう得られない感じがしてるんだよね。でもやっかいなのは例えば寝起きとか日中ダルい時とか、頭がちゃんと働いているときじゃないとさっぱりできないってことね。エルデシュみたいにアンフェタミンでもやればいいんだろうけどさ、読書にもまぁその読書モードに入るまでに毎日大変っつーかまぁ大変なときもあるよね。で、数学は思うに読書モードに入るより大変だね。


まぁ俺がまだ慣れてないってのはあるんだろうけどさ、んでもなんつーかまぁ何か考えてると気がまぎれるっていうか、それが俺の精神の安定をもたらすんだよね。何かがないと発狂しそうっていうかさ、ネガティブなことを考えたり被害妄想だとかなんだとか色々と面倒だからやっぱ志向性を何かに常に向けていることってすげー重要なんだよね。


だからまぁ最近凄く思うのは寝起きからもうずーっと数学できないものか?ってことなんだよね。日によっては全然気が向かないときがあるしさ、読みたい時は凄まじく読みたくなるんだけどね、んでもなんつーかもっと俺が数学をやるということに意識的にならなきゃいけないなーと思ってるわけよ。最近。アメリカにいたころはやっぱり政治のこととかさ、認識がどうだとかって考えてた気がするけどやっぱあんだけ考えてると考えつくしちゃうんだよね。で、ある程度自分の中で持論みたいなのができるようになってさ、んでもまぁまだ考える必要はあるしっつーか例えば民主主義についてとかってやっぱ本は読むけどさ、


マッシュアップなんだけどさ、前にイギリスのナルシストのデブガキからさ、「キーが合ってない」みたいな書き込みをもらったんだよねっつーかガキがネットにいるってのを本当に実感する時でもあったんだけどさ、いや、そもそもウォール伝だと接点ないじゃん?シリアスに何かを考えている人しか書き込まないから良いゾーニングができてるんだよね。どうでもいいガキなんて来ないしそもそも読まないから。でもYou Tubeってその辺がズボズボっつーかさ、それこそパフュームとかキュリーとかだと悪く言えば俗悪なもんじゃん?だから当たり前のことなんだけど全然俺が意図してないっつーかさ、思ってなかったような人が聞いたりするんだよねっていうかだからまぁアクセス数増えるんだけどね。


で、まぁそのアクセスとかについては当たり前だからいいとしてイギリスのナルシストのデブのコメントでなるほどなぁーって思ったのがさ、ああいうガキの世代ってそれこそガキの頃からっつーかさ、もうかなり前からっつーか幼少期からもうネットがあるんだよね。そういう世代じゃん?音楽についてもそうなんだよね。試聴できないからジャケ買いでギャンブルとかって感覚がないわけでしょ?ある人もいるかもしれないけどまぁ大抵のもんは試聴できたりするからね。


で、なんつーかさ、びっくりしたのがマッシュアップみたいなもんに「キーが合ってない」なんて発言をドヤ顔ですることのナイーヴさっていうかさ、へぇー!って感じなんだよね。いやいや、マッシュアップですよっていうさ、リミックスでもないし、そもそも作曲でもないわけじゃん?ただの組み合わせなんだから。まぁ中にはリミックスっぽくなってるやつもあるかもしれないけど、そのへんの境界線なんて曖昧だしそもそもどうでもいいことだよね。


でさ、いや、俺ってもう感覚が古いんだなって思ったんだよね。まぁ一般化はできないけどマッシュアップみたいなもんにももうリミックス性みたいなのをデフォで求めるんだなっていうさ、マッシュアップって音楽理論とかコード進行とか全部無視な自由なもんだと俺は思うんだけどさ、聞く人はそうじゃないんだよねって当たり前か。俺はそのフリーダムを満喫しているんだけど音楽理論とか展開とかを気にして聞いている人には雑音にしか聞こえないっつーか、そもそもコードとかキーとかを気にして聞く感じが分からんのよね。


合ってなくても聞ければいいわけでそんなのどうでもいいじゃん?いや、逆に音楽理論みたいなつまらない感覚に戻っていくんだなぁーと思ってさ、俺的にはそれは退化だと思うんだよね。若い世代はぶっ飛んだことをやるのか?と思いきやかなり保守的というか常識的過ぎるっていうかさ、実際、お手本みたいなマッシュアップとかリミックスやってる若い人多いよね。破壊どころか凄まじく音楽に忠実なんだよね。それが逆になるほどなって思えるのね。


ようは完全に何でもありの相対主義的なさ、時代とか歴史とかが情報に内在されないっつーか、例えば勝手に日活浪漫ポルノにハマってる高校生とかがいてもいいわけでしょ?っていうかネットがあるし昔より色々なものが手に入り易くなったから別に今流行ってるのがどうこうとか関係ない世界じゃん?むしろいろんなフリーなもんがネットに転がってるし、昔は見るのが大変っつーかレアだとされていたものも共有財産みたいになってるわけでしょ?


なのにも関わらず退化しちゃうってどういうことなんだ?っていうさ、逆にそこは思ったのはね、情報が自由だからこそまともな人間感覚が働いちゃうのかな?って思ったんだよね。ようは音楽理論だとかちゃんとした音楽だとかアートだとかさ、そういうのしか逆に引き寄せなくなるっていうか、俺の感覚で言うと情報がフリーっつーか今ほど色々と手に入らなかったからこそ「何か」を求めて必死だったんだよね。それはまぁ生得的な好奇心がそうさせているってのがあるにしてもさ、やっぱりまぁディグる感覚っつーのかな?ないからこそ求めにいくっつーかなんつーかさ、それ自体が俺を形成するみたいなね、でもそれはありふれた情報という形式ありきの脱形式とかさ、一般的な形式とは離れた形式にあこがれたりね、ようはオルタナティブってことだよね。安っぽい言葉だと。


でも今みたいに全ての情報が手に入るみたいな状態だとオルタナとか関係ないもんね。そもそも形式がないんだよね。情報に多様性というか自由性がありすぎるからこそ形式みたいなのができないんじゃないかな?って思うわけね。まぁそりゃー社会っつーさ、学校なりなんなりっつー日常空間が与えるコモンセンスってのはあるにせよさ、逆にそういうコモンセンスが多用であるはずの情報をよりクローズドにするっていうかね、何でも見れるはずなのにやっぱりコマーシャルなもんにすげーアクセス数があったりするじゃん?


文章とは言えないようなもんを乗っけてるブログとかが日に何百万というアクセス数があったりとかさ、それこそ俺みたいなやつが思ってたようなインターネット幻想が完全にぶち壊される感じだよね。情報がフリーだからこそ求めれば何でも得られるっつーよりかは所詮はやはりコモンセンスの延長上のものがネットに形成されてそれを受け取るという図式があるっていうかさ、逆にそのネットという情報がよりつまらないコモンセンスの形成に一役買ってるんじゃないか?って思ったのね。


ようはエンハンスするわけだ。情報がなかったら考えられるけどネットなりSNSなりYou Tubeってのがあると形成されるより当たり前な感じっつーか一般的な感じっていうかさ、当たり前が当たり前を形成するんだよね。だからそういう当たり前なやつが真っ当なつまらないリミックスとかマッシュアップ作っちゃったりさ、本来もっと自由であるはずで何をやってもいいはずなのに過剰なほどの形式感を持つっていうのはね、最初からある一定の形式ってのを情報によって操作されないからこそ形成される逆説的な形式ってのが形成されるってことなのね。


それがようは情報による形式なのよ。「普通はこうだよね」というものがネット的な情報でより強化されるんだよね。だから凄まじいほどの常識感とかつまらなさとか2ちゃん的な脱個性的なさ、そこの住民になるみたいな独特のクローズドな空間が形成されるっていうかさ、なんかだからネットが基本的に右傾化するのも頷けるよね。あまりにもつまらないコモンセンスの共有っつーかさ、くだらないイデオロギーなり差別なりルサンチマンで形成されるネットワークっつーかさ、それがより顕著に見えちゃうし顕著に見えるからこそもっとそれが広がったりするわけじゃん?


いやさ、何でもありって感覚も結局は俺が形成してきたもんでさ、だからこそそういう感覚でネットを使えるし何かを書けるし何かを作れたりするんだよね。ネットがあるから何でもありだと思うのは大間違いなんだよね。いや、よくよく考えてみれば当たり前のことなんだけどさ、情報のavailabilityと人間の形成って関係ないよね。結局はコモンセンスに支配された環境で育てばネットの使い方もSNSの使い方も常識的なものになるし、当たり前の文章を書くブログだとかツイッターってことになるんだよね。もっと狂人が顕在化してくるかと思ってたら俺が勝手に独走してる感じだよね(笑)


もっと色々と狂っていていいはずだし、例えば学校なんかでも登校拒否なんてもんで悩まなくてもいいんだよね。相変わらず自殺する中学生とかいるのを見ると本当に心が痛むよね。俺も中学の頃に登校拒否になったから自殺したくなる気持ちが分かるからこそ本当に辛いよね。いや、学校なんてクソだし、ましてやその辺の公立みたいな学校なんて教師も含めて烏合の衆の典型みたいなもんだからそんなつまらないポンコツなやつらの感覚に騙されるな!とかさ、むしろそこに異常性を感じたりストレスを感じて学校に行けなくなるとかって感覚こそがちゃんとした感覚なのにそれがコモンセンスというか生活圏の中で否定されっぱなしなんだよね。


こういうことを書いてるやつがいてもそういうやつがいて今は普通に暮らしているっつーか普通じゃないかもしれないけどさ、それはなんつーか極端なマニアックなフェチに関してのサイトとか掲示板とかがあって「似たような変態がいるんだな」って安心できるっつーかズリネタとかを分けてもらえるっていうかさ、それっていろんな事に言えると思うんだよね。別に変態でいいしゲイでもレズでもいいし登校拒否でもいいし落ちこぼれでもいいしっつーか登校拒否と落ちこぼれで言えば可能性の塊みたいなもんじゃん?


でもそれがつぶされたままだったり差別されたままなんだよね。そんなわけないっつー感覚をネット上でシェアしていたりする空間がある中で、そうじゃない側はそもそも情報にアクセスする手立てがないっつーかきっかけがないからさ、つながらないんだよね。なんかそこにコモンセンスというか通念の強さを感じるよね。何でも素材が自由自在に転がっているからといって自由なものが必ずしも作られるわけではなくて結局は作る側に依存するんだよねっつーか当たり前なんだけどさ、いや、でもむしろ今回のガキみたいにあんな年齢で今の時代にあんなこと言っちゃうなんて本当にどうかしてるよなぁーって思っちゃったんだよね。


まぁ俺のただの思い違いなんだけどね。情報量の多さと主体性は関係ないよね。主体が情報に能動的にアクセスすれば得られるけど、そういう機会が得られないまま終わる人もいるわけじゃん?同じ世界にいるのに全く接点が得られないっていう感じだよね。


あ、んで2ちゃん的なものはさ、いつも批判的だけどまぁこれまたいつも書くように悪い事だけじゃなくてさ、匿名だからこそ書けることっていっぱいあってさ、職場の暴露話とかさ、アカハラについてとかさ、まぁエビデンスがないから情報の正確さは分からないけどでも噂話程度には色々と見れるじゃん?その情報公開度っつーかさ、いや、俺は2ちゃん見すぎたのかもしれないけど実際の院生だとか研究室にいるだろうと思われる人達の書き込みとかを見るとまず日本の大学で研究者になろうとはまともな感覚だと思わなくなるよね。院生と思われる人が親切すぎるぐらい内部事情を語っていたりさ、本当のオススメできないとかね、なるとしたら絶対海外のほうがいいっていうさ、それがいろんなところで一致してるんだよね。


俺はそういう別々な色々な書き込みとかさ、あとは書籍とかっていう情報も含めた色々なものの相関関係の中で情報の正確さみたいなのをある程度認識するんだよね。ようは全く別の人達が別な媒体で色々なことを語っているのに例えば特定のフィールドではそれが匿名であれ本であれ面白いぐらい共通することってのがあればそれってやっぱ事実なんだなって思うじゃん?日本のアカデミアに関して言えば本当にロクな話がないよね。


でもそれもまぁ俺が色々と知りたいから本を読んだり信憑性がない掲示板の書き込みを見たりして判断するわけで能動性が介在してるよね。「なるようになればいい」って思っている人に情報は来ないじゃん?まぁー大学院にでも行ってー・・・ぐらいの感覚でいるやつは内部事情の厳しさとか腐敗に気がつかないもんねっつーかawarenessが配られてないから当たり前なんだけどね。いや、だからまぁナイーヴに研究職志望とかさ、まぁ俺も人の事言えないけどさ、そんな風に思い続けちゃう人がやっぱい続けると思うんだよね。


教授に騙されて大学院に進んだって学生がどれほど多いのか!っていうさ、んでも今は「やめとけ!」って情報があるんだけど、そういうのを取得する機会がないと本当に全く関係ないことみたいになっちゃうじゃん?なんか日本語おかしいけどさ、ようは登校拒否とかもそうなのよ。「行かなきゃ」と思ってる人に「行かなくてもいい」という情報が伝わらないんだよね。「日本の院に進むのはやめたほうがいい」って情報も大学院に当たり前のように行く連中には伝わらないんだよね。


前にも書いたことだけどさ、数学然りなんだよね。大学院の後半ぐらいで「実は俺には数学は向いてなかった」って気がつくのってさ、凄まじい誤謬の結果なんだよね。そういう勘違いをするやつらってのは「数学が得意」ということを勘違いしてるんだよね。実際は数学が得意なんではなくてディレクションを指示通りに守って上手くこなすっていう事が上手いってだけで数学っつー創造的な行為とは全く関係がなかったっていうさ、んでも事遅しなんだよね。


もう大学院の後半まで来てるわけじゃん?だったらそうじゃないぜって勘違いさせないためにも色々と情報はあったほうがいいんだけど、それは実際にかなりあるんだよね。でもそれは俺が情報を求めた結果なんだよね。それによって当初の俺が思っていた世間の数学感と実際の数学の乖離ということの事実がより明確に分かるようになったっつーかさ、んでもそれは俺が「違うんじゃね?」って思ってたから得られた情報なんであってさ、例えば俺が受験数学漬けとかになってる哀れな学生だったらそんなのを読む機会もないだろうしさ、受験とかでやってきたっつーかこれまで学校で当たり前のようにやってきた数学が数学なんだ!って思っちゃうのも経験論的に言えば当たり前だよね。実際は全然違うのに。


まともな音楽しか聴いてこなかった人には「まともな音楽」という常識というか一種のマインドセットみたいなのが出来上がっちゃうしさ、それが情報の多様性とかavailabilityとかでどうにかなるようなもんじゃないってことなんだよね。ただ疑問を持っているとか本当のことを知りたい!って思うやつらが情報を得られる率は凄まじく高くなってるよね。でも俺にはそこのね、疑問を持つだとか知りたい!って思うということとそうじゃないことの間の差が恐ろしくあるなって思ったわけね。一見ただの一歩ぐらいの距離にしか見えないことなんだけど実際はもう別物のように離れていたりお互いが見えなかったりするんだよね。


だったらああいうアホらしい数学のカリキュラムをやめるべきだって大抵のまともな数学者たちが昔から同じように語ってきたのに一切変わってないもんねっていうか一切じゃないだろうけどまぁ数学がクソに見えるやり方しかやってないっていうのは驚くほど変わってないよね。これはなんつーかさ、音楽は自由でいいとかね、学校なんて行かなくていいとかさ、それと同じような感じで「こんなもん数学じゃない」っていうさ、そういう情報はあるんだけど伝達しないんだよね。間違ったやり方なり考え方なりさ、そういう枠組みしか持っていないし与えられてない側から見ると見えない情報なんだよね。見えたところで理解できるとは限らないし。


そう思うと情報っつーよりかは認識なんだよなぁー。基本的に認識が先立っていないと情報は受けられないっつーか受け入れられない気がするね。まぁ全部が全部そうとは言わないけどさ、でも認識が先立たないとどうにもならないってことは多いよなってすげー思ったわけで。普段からの話に置き換えれば「働くことが美徳なんてくだらない」みたいなことも常識的な人から見ればトンデモだもんね。それこそがまさしく常識なわけで。まぁ変わってきてはいるとは思うけど常識を変えるって大変だよねっつーかだんだん変わっていくってことでしか変わっていかないよね。


あ、んで数学もそれね。概念を分かった後なんだよね。計算とかに意味が出るのは。何がそこで起こっているのかを理解しないまま計算だけやっててもそれはただの計算トレーニングなわけで数学ではないよね。何が起こっているのを理解しつつ計算するってのが数学だし、それで言えば練習問題をやるなんつーのは最後のことだよね。まずは理解しないと意味ないよね。


とかっつってもまぁジョーシキは変わらないんだよねぇー。それを間違ったジョーシキだ!と言ってもトンデモ扱いされるっつーかさ、だからまぁ俺は一時期マジで逆学歴みたいな意味でのさ、逆説的な学歴を手に入れようとしてたんだよね。例えばこれが東大総長の意見だったらどうなるのか?っていうさ、正論ならまぁある意味で誰でも言えるからね。まぁ誰でもではないか。ただやっぱ伝えるってことは難しいよね。そもそも分かっている人には「同じようなことを考えている人がいるんだ」っていう再確認でしかないし、分かってない人には「こいつアホだな」ってことになるだけだし、その断絶というかさ、そこが埋まらないよね。ホントに。永遠とコミュニケーションが生まれないんだよね。


まぁ切実な問題に戻すとさ、学校に行かなくてはいけないと思い込んでいる親御さんにいかにどれだけ学校に行かなくていいのか?っていうかむしろ場合によっては有害になり自殺をトリガーするかもしれないみたいなさ、そういうことをどう伝えていくか?だよねっていうかやっぱNHKあたりがやってくれないと無理だよなぁー。これに関してなら俺がNHKに出て語りたいぐらいだよ。マジで。ホントにそんなつまらんことで死なないでほしいよね。あんなクソみたいなもののために命を犠牲にするなんてもったいなさ過ぎるじゃん?


啓蒙とかにもほんとに限界があるよね。所謂、悪い意味でのジョーシキを変えるって啓蒙だけじゃ無理だからね。あとはやっぱそういうのを担ってる人達というかさ、特に古い世代で社会とかシステムを管理する側にいて古臭い今では有害でしかないジョーシキを振り回している人達を撤退させることだよね。これはまぁ洗浄って感じだよね。完全に腐ってるからなぁー。


別に俺が「伝えたい!」とかってことじゃなくていつものように一般的な事象としてのこういう断絶はどうすればいいのかな?って思ってるってことね。仮に俺の言葉が伝わったとしたってまだ伝わってない言葉とかいっぱいあるじゃん?だからそういう意味で個別のことは関係ないんだよね。そこを「人々の意識」とかに帰結させないやり方ってないものだろうか?って思うんだよね。まぁ今日書いた限りで言えばネットっつっても全然楽観できないという現状があるわけじゃん?まぁないよりかは全然いいんだけどね。


なんか話が終わってないけどそんな感じですね。最近数学は楽しいんだけど永遠とうつ状態が続いてるような感じでもあるんだよねぇー。まぁこれについてはまた今度書くわ。ホントに俺って安定しないよね。マジで。抗鬱剤マックスなのに余裕で鬱だからな。しかも最近は軽症じゃなくて結構ヤヴァい感じなんだよね。あーどうすればいいんだろーってどうにもならないんだけどね。あ、このどうにもならないってのは俺の将来とかお金とかそういうことではなくて、この実存自体ってことね。これはホントにどうにもならんのよね。ニューヨークに行こうがパリに行こうがずーっと一緒だからね。だからこそ逃げられないって意味でなかなか死ねるよねぇー。


朝起きてるし朝日も浴びてるのに全然ダメだもんな。「そんなんでどうにかなる人なんて軽症だ」って思ってたけどマジでそうだもんね。俺のやつってそういうのでどうにかなるレベルじゃないからね。ホントに困ったもんだなと。ジョギングとかで治る人もいるけどまぁ俺は無理だね。そんなんで治ったらとっくにやってるぜっていう。まぁ書いてるときは楽だよね。あとは何かに集中してるときね。だから何かに集中するしかないんだよな。だからマジで数学しかない感じだよね。


まぁ今日はそんな感じで。