ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

オントロジカルにハードコア。

最近一遍っつー仏教の坊さんのことを知ったんだけどさ、一遍上人とかって言うんだけど、この人は何もかもを捨ててひたすら遊行と呼ばれる色んな所に言っては踊りながら念仏を唱えたりして人々を極楽浄土に誘うっていうかさ、「もうオッケーですよ」ってギャランティーしてたのか分からないけど、まぁそういうので常に各地を回っていたような人なんだよね。超ハードコア断捨離とでも言うべきか。まぁ断捨離なんていう言葉が生温いぐらいオントロジカルにハードコアなんだけどさ、やっぱ前にも書いたようにいつも思うのが何もかも捨てるっつーか自分という存在すらも捨てるっていうね、死から生を見つめるというのは方法論的に凄くいいと思うんだけど、現世で生きることがそのまま死に繋がるというかさ、生を肯定せずに生きないっていうかね、まぁそれが生でもありうるんだけどさ、なんつーのかね?別に一遍がやっていたことは苦行とは関係ないんだけどね、でも例えば自分を捨てるということができればさ、派遣社員ワーキングプアみたいな環境でも自分の生として受け入れられるみたいなことになるじゃん?まぁホームレスでもいいんだけどやっぱ衣食住は必要ってことで苦行をやるみたいなさ、まぁ一遍は衣食住が三大悪だって言ってたみたいだけど、でもそれってようはさ、衣食住にコントロールされるからだよね。フーコー的に言えば生権力的に。


最大の苦行はそれをやらなきゃ死ぬけどそれが精神的に苦痛ってことをやり続けることでしょ。仏教のくだらない苦行とかは全然苦行じゃないよね。あんなのSMレベルだ。ホント、未来が無い明日すらも分からないワープアほど望んでもいないのに苦行をやらされてるって存在はいないと思うよね。じゃあそこで一遍上人的に全てを捨てればいいのか?っていうかホームレスになれば楽なのか?っていうとまぁ恐らく楽ではあるんだろうけど大半の人はそれを望まないよね。いや、何が言いたいか?っていうと仏教って全然ユーズフルじゃないってことね。それはまぁ色々と読んで分かった事なんだけど、現代人ってのはもう生を何らかの形で肯定するしかないわけよ。さっきも書いたように生の肯定の形としての何もかも捨てるっていう概念とかはあると思うけど、でもそれは生きるということと根本的に矛盾するんだよね。だったら死ねばいいじゃん?ってことになるし、仏教の場合は念仏を唱えるとかさ、捨てるということで人々を救済する行動に出られるとかっていう概念があるでしょ?まぁドグマだよね。仏教っつっても色々とあるから一概には言えないんだけどさ、むしろそういうのが無い状態でそれはありうるのか?ってやっぱなんつーか念仏ありきっていうかさ、極楽浄土とか解脱という概念ありきだよね。それがあるからこそ捨てられるっていうのかな?


んでも現代ってそうじゃないじゃん?むしろそういう考え方はナイーブだとかなんだとか。まぁ宗教信じてる人もいっぱいいるけどさ、でもまぁなんつーか現代人の心理というか環境とは相容れないところがあるんだよねぇー。でもまぁ仏教は良い意味で全てに意味は無いとかって教えてくれるからやっぱ哲学としては超一級品だよね。それこそ西洋哲学がクソに思えてくるぐらい仏教とか東洋哲学は深い。でもやはりそこで生を肯定するということになると仏教のドグマには頼れないんだよね。まぁそれで救われる人ならいいけど俺は無理だということが本当によく分かったんだよね。ましてや今は昔みたいな「数学で博士号を取ってアカポスを得てアメリカで永住権を得る!」みたいな分かりやすい目標が無くなったじゃん?それが可能か不可能か?は別としてもとりあえず数年後に達成したい目標としてはそれを置けると虚しさからは若干解放されるよね。学校に行くのが虚しくてもその目標への道なんだ!と思えばやっていけてたわけだし。まぁ誤摩化しだけどね。


前はもうそれしか道は残ってないだろう!ってあえて思うことでそれに没入できてたけどさ、あ、ようはその目標を置く感じね。あとTAで教えることになるだろうからレクチャーできるぐらい英語力を磨いておこうとかさ、日々やれるっつーか意識できることがあったんだよね。今は本当に無いからね。マジで。かといっても両者で見てもっつーか引いた感じで見るとさ、将来の分からない感ってどっちも同じどころかアメリカのほうがリスキーだよね。やたら借金背負って全部ダメでしたということがありえるわけだからさ、そうなったら自殺するしか無いって思ってたけどね、んでもそういうリスクを背負ってでもやる価値があるって思ってたからね。


一回しかない人生なんだから!と思っていたけどさ、引いて考えてみるとっていうか結局俺は何がしたいわけ?っていつもの繰り返しになるけど学問がやりたいわけじゃん?別に教師になりたいわけじゃないしさ、そりゃまぁアメリカのほうが好きだけど、環境云々というよりかはそこで何をやるのか?ってことなわけでさ、そうなると場所とか関係無くなるってのはいつも書いてることだけどさ、あとはまぁ学校に行ってたり何らかの形で仕事をしてたら自由時間が減るわけだから学問をやれる時間は少なくなるよね。なんのためにそれをやるのか?って身を立てるためってのもあるけどさ、でもそれ以外にやっぱそれ自体をやりたいからなんじゃないの?っていうさ、それで言うともう全てと矛盾してくるんよね。それこそ空手バカみたいな世界観になる。自己の鍛錬が目的になるので定職とかに就かないで山ごもりしてひたすら毎日鍛錬みたいなさ、俺はそこまでストイックじゃないけど結局はこれだよね。で、今はそれがやれてるんじゃないのか?っていうさ、でも何か虚しさがあるんだよね。


アメリカ永住!とかアカポスゲット!みたいな分かりやすい目的があったほうがなぜかやり甲斐が感じられるんだよね。まぁ実際はアメリカ永住もアカポスも憧れるほど良いもんではないのは分かってるけどさ、でもまぁそうやって間違ってても憧れてたほうがやる気が出るんだよね。いやーすげー矛盾してるよな。まぁ目標で言えば普段から言う極めるということに尽きるけどさ、抽象的だよね。具体性が無いし。いや、具体性なんて無くてもいいんだけど、それこそ数年先の話じゃないじゃん?何十年かかることだからさ、だからこそその大きさに潰されそうになるのか具体性が無さ過ぎるから実感が湧かないのか分からないけどさ、なんつーかあれだよね、やっぱり今までは学問をやることに社会性も結びつけてたっつーかさ、いや、そういう構造にしてたじゃん?結果的にそれが社会性に繋がるってのがまぁアカデミックな分野で働くってことだったんだけど、とりあえずそれはなさそうだってことになると学問だけが残るからさ、だからまぁ社会的なイニシアチブがなくなるんだよね。


結局まぁ俺にとっての哲学とプロセスは違えど同じ感じになったんだよねぇー。政治哲学みたいなのを大学で専攻しようと思ってたわけだけどっつーかまぁポリサイだけど政治思想系をやろうと思ってたわけだけど、まぁ結局それはアカデミックでやる意味が無いって分かったわけじゃん?まぁ俺にとっての哲学全般は実践なんであって研究対象ではないということだよね。で、ピュアに学問的な研究対象になってなおかつそれが面白くてしょうがないものということで数学ってのが偶然まぁ見つかったわけだよね。まぁ「見つかった!」って思いたかったんだろうね。心に穴が空いてた時だったから。まぁ実際、いつも書くように集合論を知ったときのあの衝撃と興奮は忘れられないよね。まぁもう2年も前になるのか。数学関連だとその年にサイモン事変があったりして色んな意味で数学が強烈なものとなってるんだよね。んでもやっぱ好きになろうとしてたってのもあったよねぇ。ホントに知識的に中学2年ぐらいだったわけで、まぁ俺の留学初期の英語力と一緒ぐらいだよね。


まぁいいや。回想は。まぁその社会性ですわね。両立させようとする感じね。でも無理にやろうとするとリスクが半端じゃなくなっているわけだよね。ポストが無いという中に飛び込むっつーのはあまりにもアレだよね。そうなるとあとはもう学歴なんてのは自己満足でしかないわけで、そんなもののために学校に行くつもりはないし、なにより学校っつーのは本当に時間の無駄だからね。こうやって自分で本を読んでいるときが一番学習できてるわけでさ、まぁ毎日じゃないけどね。調子が良い時と悪い時があって悪いときはさっぱりやる気が起こらないしとにかくダルいから寝てるんだけどね、まぁでも学習って結局はそうじゃないですか。だから結局引き蘢りでええやんってことになっちゃうんだよね。まぁ今は実家の手伝いをしてるからニートにはならんのだろうけどまぁでも無職ってことだからさ、まぁ職業とか関係ないんだけど、でもまぁ永遠と書生さんを続けるって感じになるよね。あと別になんかの定理を発見しようとかさ、なんかの賞を取ろうとかっつーこれまたくだらない理由で数学やるわけじゃなくてさ、あ、それで言うとポール・コーエンって連続体仮説に取り組んだ動機がこういう世俗的な動機だったらしいね。すんげー失望したんだよな。それで言えばグロタンティークの手紙ってあるじゃん?


http://sbseminar.wordpress.com/2010/02/09/grothendiecks-letter/


隠居してるのに自分が書いたやつの権利を主張してんだか再出版するなってわざわざ手紙書くとか相当アホだよね。なんか数学者ってアンバランスなのが多いと思うな。志村五郎然り。数学的に凄くても人間的にダメだったり、あとはまぁあんまり頭が良いとは言えなかったりさ、人間性を犠牲にしてまで数学的才能を得ようとは思わないよね。そう思うとニュートンなんかもモロにアンバランス系だったんだろうなと。いやーでもグロタンティークに関して言えばただの老害になっちゃったっつーか死ぬ間際に自分の名前に泥を塗った感じだよね。数学者には反面教師が多いと思うな。まぁ数学者っつーか科学者全般ね。日本人でもいるじゃん?ノーベル賞だかなんだか取ってるんだけど人間的にロクでもないとかパワハラしまくりだとかさ、こういう理系のアンバランス加減って絶対才能に原因があるんだよねって前にも書いた事だけどね。


自分の才能のみでやっていけるから人間的に成長しなくてもそれだけでやっていけるんだよね。だから苦労しないわけよ。かといっても楽というわけじゃないんだけど才能という凄まじい懐刀があるわけで人間的にクソでも全然オッケーなんだよね。まぁ全部一緒くたにはできないけどね。グロタンティークはその例のノーベル賞の日本人とかと同じにするべきではないダメさ加減だからまぁ色々あるわけだからさ、そこはまぁごちゃ混ぜにはできないってことね。でもやっぱなんつーか人間性って大事だよねー。本当に。アンバランスなのって凄く嫌だな。なんかやっぱ俺はこうありたい!って思うのはさ、興味がある学問を極め尽くしていて人間的にも凄いっていうかさ、深みがあるっていうか、そういう人になりたいよね。だから学問だけ極めればいいか?っていうと全然そんなことなくてさ、やっぱ人間性も同等に極めないとなんか凄く違和感があるっていうかさ、それは凄く嫌だなって思うんだよね。まぁ物理的なアレはあるけどね。人が当たり前のようにできることを俺はできないことが多いっていうそういうアンバランスさはしょうがないとしても俺が言いたいのは知的な部分でのアンバランスさね。それだけは絶対嫌だなって思うのね。


で、結局まぁどう締めるんですか?今日のエントリーは。話題がなんだったかも分からなくなったな。色々と書いてたら。腹減ったから今日はもういいや。んじゃまた。