ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ピローリーディングな日々。

最近はずーっと横になってるね。数学でやっていこう!とかやっていけるのか?とか向いてるのか?とかシリアスに考えるのがバカバカしくなったのでケセラセラな感じでずーっと横になってる。でもそうなると面白いもんでなんつーか本来のナチュラルモードなんだろうね。何かに頑張る!とかじゃなくて日常に耐えられないから何か面白いことを探すとかやるとかね、これって刹那的に見えるけどまぁこれでいいんだなって思ったね。


先のことを考えるとかまぁこんな世の中ってのもあるしなんかすげーバカバカしくなってきた。実家の事でいっても店はどうなるか分からん状態だし、そもそも家族の将来すら分からん!って感じなんだよね。で、ある意味でここまで追いつめられ過ぎるとそもそも心配するということがバカバカしくなるんだよね。そこにエネルギーを使うのは勿体ないから建設的なところにパワーを使おうってまぁある意味でポジティブになるのかな。まぁそんな風に考えてるのは家族の中で俺だけかもしれないけどさ、目標はこうあるべき!という指標は必要だけど、でもそれに縛られ過ぎると不安感が半端じゃないじゃん?俺の数学への不安ってそれだよね。ズバリ。なぜか異様にプライドが高いのかなんなのか分からんけど何かを始めるんだったら極めないと気が済まないってことだからそもそもなんつーか2流ぐらいの数学レベル以上理解できないとかそんな風になったらすげー嫌だなとかって思ってたんだけどまぁ意味の無い不安だよね。まぁ大学でやっていくということを考えてたからあったのかもしれないけど今はそれがないからむしろ本当に意味の無い杞憂になったというかなんというか。ある意味で本当に快楽主義的でいいんだよね。


目標を失うと人間ってみんな快楽主義になるらしいけど、そこは俺の場合、なんつーか自分のnatureみたいなのにシンクロさせるっていうかさ、なんつーまぁ頑張る!っつーよりかは楽しいのが好きなんだよね。その頑張る!のために今を殺すのが大嫌いなんだよね。かといっても先の事を考えないということではなくてまぁむしろ考え過ぎてるぐらいなんだけど、その先を考えるということがいかにナンセンスなのか?ということをね、今みたいな状況になって思ったよね。


そもそもどの道一緒なんだよね。店の売り上げが仮に凄くてさ、すげー良い調子だったとしたって将来どうなるか分からんし、俺が仮にアメリカのコミカレでもまぁこっちの大学でも入っててさ、んで学部でまぁまぁな感じでやってたとしたってそもそも極めるという究極的な目標から見たら些細なことだよねっていうか学部でどうとか学校入れたとかってのが関係無いよね。学校に入れたからレールの上に乗れたのか?ってそもそも今なんてレールが無い時代だし、数学なんてましてや昔からそうでしょ。自営業然りだよね。だから先の事はどうなるか分からんけど、でも店でいっても別に完全に閑古鳥が鳴いているわけではないしさ、俺の数学にしたって全然ダメどころか最近はペースが凄いわけでっていうかそれは前にも書いたよね。


あとは逆に変にシリアスにやっていくみたいな気負いが無くなったことで良い意味で適当になれてるんだよね。分からないしつまらんものはもう今頑張っても時間と労力の無駄だから面白くて分かるやつをやっていこうっていうさ、でもそれは別に分かりやすいってことじゃなくて今の俺が理解できてなおかつ楽しい!って感じるものね。このまぁjoyな感じってのを軸にやっていくっていうかこれを一種の響きみたいに捉えるんだよね。それが響いてる時はまぁ大抵良い感じだっていうかさ、それが響いてる時に読んでる思想でも数学でもなんでもいいんだけど、そういう強度を持って接しているものってすげー血肉化するじゃん?それ自体が強烈な体験になっているから忘れようにも忘れようが無い感じだし。で、それを軸にしてやっていくとさ、まぁ哲学がそうだったけどね、結局まぁ色んな知識が増えるし思考力も鍛えられるから前に分からなかったものとか興味が無かったものにも興味が湧くようになったりとかさ、結果的に色んなものを制覇していけるようになるんだよね。このjoyを基準に。


まぁでも体系的にやるとかって意味だとダメだろうけどまぁそんなのもう知らねーよって感じだね。真面目にやるのがばからしくなってきちゃって。何をそんなにシリアスになって不安になっているんだろう?ってもうバカバカし過ぎるんだよね。あまりにも滑稽で間抜けっつーか。それが楽しいからやってるわけで俺的にはそれでいいんじゃない?ってことじゃん?俺は結局はインナートリップしたいわけじゃん?で、結果的に社会的なものに結実すればいいわけだけど、そこがまぁある種のいつも書いてる極める事の必然性ってことで、仮に俺が何かを極められたとしたら自ずとそれが社会的に役に立つものになるとか必要とされるようになると思うんだよね。だからそれまで永遠とインナートリップを続けていればいいわけで、そういう磨く段階で社会的にどうのとかって考えるのがそもそもそれはノイズだよねってことだよね。まぁそれが必要なジャンルもあるかもしれないけど少なくとも数学とか哲学とか思想の場合はむしろどんだけインナートリップできるか?ってのが極める道って気がするね。雑音がない純粋な感じね。


雑音だらけの世の中とは相反するもんだからこそ隔絶して純粋さを極めたほうがいいっていうかさ、それが逆に武器になるぐらい磨きあげればいいと思うんだよね。でもそれは目標として措定せずにインナートリップということが結果的に磨き上げになっていたって後から定義できればいいんだよね。だから今俺がこうやって生きていることに関しての定義はいらないってことだ。そういう意味でのケセラセラね。それはなるようになるっていう放っておくということではなくて定義なり意味付けなりはとりあえず留置しておくってことね。それは結果が全部決めてくれるだろうっていうことだよね。ある意味でまぁすげー成功主義なのかもしれん。でもそれは確信する成功なんではなくて行為の積み重ねによる結実なんだよね。それが一般的に成功と呼ばれるものに繋がったり繋がらなかったりするわけで。


んでもそこでなんつーか「俺は成功するんだ!」みたいなバリバリな感じを出すんじゃなくてむしろそんな世俗的なことなんてどうでもいいっていうさ、今を生きるんだよね。その積み重ねでしょうっていう。そこに未来への不安なりなんなりっていう雑音が介在したら今に雑音が入るってことでさ、それが一時のことならいいけど永遠とそれを感じ続けてるって例えば1年とかのスパンで見たら超雑音長いよね。塵も積もれば山となるなわけで不安も蓄積するとろくなものにならないしそもそも不安を感じていて何も出来ない時という無駄になっている時間の累積が半端じゃなくなるわけで最高に建設的じゃないよね。良い不安もあるけど俺の場合は大抵ろくでもない不安だね。いや、だからこそそういうのから逃れるためにとりあえず体動かすっつーか何かやるってそういう意味だと凄く重要だなって思ったね。


でもそれは誤摩化しなんではなくてそういう不安は意味無いから建設的に時間を使っていこうっていうそういう意味で常に何かをやるとか精進するってことだと思うんだよね。でもそれはバリバリしている感じじゃなくて自分のnatureに沿った感じの自然体だよね。凄くなんつーかエレガントな流れなんだけど凄くパワーと強度があるみたいなそんな感じね。だからまぁ端から見てると全然精進しているように見えないっていう。まぁ今の俺で言えばずーっとベッドに横になってるわけだからまぁニートより酷いかもね。


いや、でもベッドって最高なんだよね。鬱っぽけりゃ寝るなり目を瞑るなりして休めばいいし何かやりたかったりっつーか読みたかったら読めばいいわけでさ、それだけで完結するよね。あとやっぱ強みは鬱を感じ辛くなるってことね。そもそも体が頑張ってないから頑張れ信号を出さないからすげーリラックスしてるのよ。かといっても緩んでるわけじゃなくてさ、いや、逆にずーっとそんな状態じゃつまらんから刺激を求めるわけでしょ?だから結果的に刺激を求めて数学に行くっていうそういう感じだよね。やろう!という感じではない自然な感じね。こうじゃないと俺の場合続かないしっていうかそもそも俺にとって続けるという事はこういうことなんだよね。頑張るということからはかけ離れているのね。だからこそ客観的に見ると継続になっているっていう。


あとdoverとか買いまくってるんだけどさ、読みあさってるのはそれこそ体系的に一歩一歩やっていこう!なんていう生真面目さが無くなったからだよね。もうかんけぇーねぇー!っていう俺がやりたいようにやらせてもらう!ってことで興味あるのは高度であろうがなんだろうが徹底的に手を出すっていう。でもそもそもそれは興味あることだから大抵の場合楽しいんだよね。まぁさすがにEdwardsのリーマンゼータ函数のやつは難易度高過ぎたけど。あとやっぱなんつーか俺は工学的なやつっていうかcomputationalなやつがあんま好きじゃないのか苦手なのかさ、概念的なのが好きなんだなってやっぱ色々読んでて思うね。だから別にcomputationalなものに興味が持てなかったり理解できなかったとしても別に絶望することなく楽しいと思う分野を自分で開拓していけばいいわけだよね。


数学っつっても色んなジャンルがあるわけで全部やるってのはちょっと無理かもなってさすがに思ったね。好きなのとそうじゃないやつのと差が激し過ぎるからね。代数的な感じでちょっとは興味を持てた幾何学ユークリッドの原論はちょっとあまりにつまらな過ぎて今の所ダメだね。幾何学だけってのは無理かも。あと角度がどうのとかやっぱどうでも良過ぎてダメだね。三角関数に関しては色々と読んだんだけどなんかいまいちしっくりこないんだよな。今はフーリエ級数の本を読んでるけどずーっと波って感じだよね。もっと俺的には深遠なのを求めてたんだけど三角関数は所詮三角関数でしかないのかなって思ったね。まぁでも分からん、恐らく色んなものが高度化すると深遠なものになっていくのかもしれないけどね。分からないところで繋がるからね。数学って。


いやさ、数論とか図形が苦手だから頑張ろう!とかってことをやらなくていいっていう気負いの無さは凄くいいわけよ。純粋にもう知的刺激のためにやるだけだったら楽しいのだけやってればいいんだから。でもいつも書くように哲学はそういう知的好奇心に任せてやってたら色々と理解できるようになったから数学に関してもこれでいいっつーか俺の場合、何に関してもこのさっき書いたjoyな感じを軸にするというのが凄くキーな気がしていてさ、これが機能すると大抵のことはワークするっつーか円滑になるっつーか上手く行く感じがあるんだよね。さすがにこれだけ生きてれば経験ってものがちょっとは昔より出来てくるわけだからまぁ経験的に言ってそうなんだよね。俺の場合。逆に苦痛とか嫌だなーってのが介在しているもんだと大概上手く行かないね。


頭も働かないしようは去年とかさ、帰国してから数学にイマイチ燃えなかったのもやっぱ受験を念頭に置くっていうhave toの割合が結局は大きかったからだと思うんだよね。方法論的にはwant toとhave toを同時進行って感じだったんだけど、want toというほど自発的に何かが湧くほど数学的な知識がなかったし、だから知識欲も生まれ辛いじゃん?そもそもまぁ去年は全然基礎ができてなかったからなぁー。今思えば。そう思うとやっぱここ半年すげーって。「この本は大学院生向けに書かれています」とかいって序文見たりすると「えー!」ってなるもんね。4年も飛び級かよ!って。まぁ半分ぐらいジョーダンですけどね。


まぁでもこのjoyな感じっつーかさ、ワクワクする感じに任せるとマジでポテンシャル半端じゃないよ。全然自分でも驚かないもん。なんつーか自分の元々持ってる激しいエンジンを上手く数学に適用できるようになってきてるなって感じがするのね。最近。でもそのエンジンをバリバリ使うためにはやっぱりhave to原理は凄く邪魔でさ、そこで例えばただ「やってないから」という理由だけで幾何学を素直にユークリッドとかも読んでやろうと思ったりさ、数論とかもイマイチしっくりこないから読んでみるとかさ、でも興味持てなかったらダメなんだよね。これも哲学と一緒でいつかは結局は興味が持てるようになると思うけど今は違うんだったら今楽しい!と思う分野をやりまくればいいわけでそうなったらもう楽しい!っていうことだけなわけで人間の快楽原則に忠実に沿った感じになるよね。これこそが俺のnatureなんだよね。


横になってオナニーとかエロサイト巡回とかそういう快楽の中に数学も哲学も思想もあるっていう。でも最近よく書くように哲学とかには以前よりかは知的刺激を感じなくなってるからさ、やっぱ今一番「おー!」って思うのは数学なんよね。だからそもそも数学っつーよりかは快楽っていう観点から見て俺がエロサイトにオカズを探しに行くのと同じような感覚でnatural instinctな感じっつーのかね?穴があったらチンポ入れるみたいなそういうノリなんだよね。それが結局は一番理にかなってるしなんだかんだで一番はかどるわけだ。まぁ俺って勉強机に座って勉強した事なんて一度も無い人間ですからね。全てはベッドの上で学んだ!といっても過言ではないぐらいのピローリーダーなんだよね。おかげで万年童貞ですけども。


そんな感じでまぁ将来どうなんの?とか食っていけんのか?とかっていうまぁね、そういうジェネラルな不安はありつつもそれがメインになるってのはバカバカし過ぎるしさ、やっぱ俺本来の楽しむっていうさ、快楽万歳!っていうのを無くしたら俺のキー装置であるjoyってのを活かせなくなるじゃん?そうなるとなんか芋づる式に全部ダメになりそうな気がして。だから今はその装置なりエンジンを使えるものがあるんだからそれに没頭すべし!っていうさ、それに尽きますよね。こうなるとネガティブもポジティブもクソもなくなるんだよね。オナニー気持ちいい数学楽しいっつー知的な白痴になる感じだよね。でもあれだよ、世の中なんてどうでもいいやーっていう厭世主義ではないよ。いつでもぶっ殺したいやつがいるなら殺しに行きたくてしょうがない!ってぐらい中二病的な革命家気質は常に持ってないとっていうか俺の中のエンジンにそれは入ってるからエンジン使うってことはそういうことなのよ。だから俺が数学に没頭することで非政治的になることはまずないわけね。


俺から政治性が無くなるわけないっつーの!って感じね。哲学然り。それが俺のnatureだからね。暴力は絶対俺の中から排除できないね。これは排除したら自然に抗うことになるからやっぱダメだわ。まぁある程度コントロールしないといけないけどでも無くすってことは俺の中の原理に反することだからそこは暴力を否定しちゃいけないんだよね。そんなこんなで最近はソレルの暴力論とか読んでますけども、あれがファシストにもアナーキストにも支持される理由はさ、ようは普遍的な自然としての暴力とかまぁゲバルトとかさ、ソレル用語で言うフォルスだよね。生のパワーとしての暴力なんであってなんつーかそれはニーチェ的だよね。まぁ実際ソレルはニーチェの影響を受けているしソレルの暴力ってのはエラン・ヴィタールってことでしょ。なんかさ、だから仏教的な滅な感じってこのヴィタールを否定することになるんだよね。前はそれでいいと思ってたけど最近はほんまにそれはアカンなって思うようになってきたよね。だから前にもそんな感じのエントリー書いたけども。


やっぱ自然に抗うのはダメね。全てがダメになるわけよ。なんかさ、万物にそのエコとか環境とか地球とかって意味ではない原理としての自然ってのが内在されてる気がするんだよね。でもそれは存在じゃなくて原理だから見つけるなりさ、あとは見つけたつもりでも違ったりするから常に確認していかなきゃいけないことっていうか「抗ってないかな?」っていうか自然と上手く調和してるかな?って常にチェックしないといけないんだよね。で、俺はある程度経験的に自分の中の原理としての自然ってのが色んな経験によってなんとなく分かってきたところがあるからさ、それに抗わず上手く乗っていこうって思うわけだよね。


それが俺の場合、一番上手く行く方法って気がするっつーかまぁそれが今までそうだったからってことなわけね。まぁ人によっては自分の自然をそのままにしてたらとんでもないことになるからっつーんでhave to原理で動かなきゃいけなかったり常に制御しなきゃいけない人もいるだろうけど幸いなことに俺はそうじゃないどころか上手く行くnatureってのを持ってるわけでさ、いや、で、それを見抜く力もあったわけでしょ?まぁ今後も見抜いていかないといけないわけだけどでもそれはやっぱ伊達に長い観念時間過ごしてないですよね。自分との対峙の賜物なのではないですか?


いや、あとあれだよね、修行僧をただのやせ我慢だって書いたのもこれだよね。そもそもなんつーかその悟りへの道ってのが自然になってない時点でアウトだよね。心頭滅却だの欲を断つ修行だのそんなことしてる時点でもう才能ないからやめたほうがいいよね。ホントにあれはバカバカしいね。悟りへの道なんてむしろ世俗の中にいながら磨いていかないと磨けないでしょって思うね。隠匿で言えばグロタンティークの醜態はまぁ酷かったね。本当にああいう隠匿こそみっともない隠匿はないよね。現世への未練丸出しの隠匿ね。それは逃げている隠匿だからダサいよね。修行僧然り。身体的肉体的ダメージ与えたいならワープアになるのが一番だよね。出家して衣食住与えられる中で修行するとかどんだけヌルいんだ?っていう。


やっぱ現世が一番ハードコアだよね。いや、別に俺は現世の肯定はしないけどまぁ昔みたいな否定はしないよね。そもそも放っておけないレベルになってるし隠匿とか言ってる場合か!って感じだしさ、そういう歴史の変わり目だよね。だからダメなやつはメンタリティとかそいつの価値観という意味で本当にダメになると思うね。それは地位とか富とか関係なしの価値観ね。ニーチェって価値の創造について凄く強く色々と言ってたけどああいう生の哲学だよね。必要なのは。これほどニーチェがタイムリーな時代もないだろうな。絶対100年前より今がニーチェの時代だと思うよね。いや、別に何でもニーチェに繋げる必要はなくて「価値観」というものが凄まじく強い力を持つようになるってことだよね。貨幣にも勝る力っつーかさ、それこそがなんか脈打つ人間臭い生っつーのかな?まぁ結局は超人ってことになるのか。んでもまぁ別にニーチェにドグマティックになる必要はないからね。あれは教典ではないんだから。ただまぁすげーシンクロニシティがあるよね。俺が10代の頃にマルクスに感じたようなものに近いぐらい強いもんだね。それは。


っつーか久々に書いたらすげー出てくるね。何にも書くことねぇーなーとか思ってたんだけどあり過ぎてもう寝なきゃ!ってレベルになっちまっただ。ホラー食っちまっただ。may in the microwaveな感じでそろそろ終わるか。いや、あんま時間ズレるとダメだからね。これはメリハリってやつですね。別に自然に抗ってませんね。ってことで今日はこの辺で。


あ、んであれね、今回の話はマキャベリで言うヴィルトゥとフォルトゥナだね。俺が言う自分のエンジンってのがヴィルトゥっつーかそれを行使するってのがヴィルトゥでそれを使ってればフォルトゥナをコントロールできるようになるってことだね。だからまぁ荒々しいんだよね。でも別に俺自体は落ち着いてるんだけどまぁだからようは方法論の荒々しさだよね。それが生って気がする。だからなんつーか本当に最近は仏教的な実存が凄く嫌になってきたのね。