ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

toarugakuseiさんへの返信。

ちょっと間が空いたけどtoarugakuseiさんから書き込みをもらったので返信をエントリーにするです。

toarugakusei 2011/10/31 17:28


初めてコメントさせていただきます。.さんへの返信記事なのに、横から失礼します。


伝わらない人がいるというのは、本当にそうで、卑近な例で恐縮ですが、例えばうちの親なんかは、「結婚しないと一人前ではない」みたいな考えなんですね。別に僕は結婚を否定はしませんが、必ず結婚しなくてはいけないとは思いませんし、そもそも一人前ってどういうことだ?とか思うんですけど。「結婚するかしないかは俺の自由でしょ?」というと、「いや、でもやっぱり……」とか返されるんですよね。自分の考えに凝り固まっていて、そこで思考が終わっているので、何をいっても無駄だという。


2ちゃんねるについていえば、一時期僕は2ちゃんのニュース速報+板を覗いていたことがあるんですが、ひどいものだと感じました。ドグマに固執していて、これは妥当じゃないか?という意見があっても、「チョン乙」の一言で一蹴される、みたいな。それに対して「これだからネトウヨは……」となって、結局はレッテル貼りの応酬になってしまう、というような感じだったと記憶しています。そんなわけでとても不毛に感じたので、すぐに見るのをやめてしまいました。


僕がものすごく疑問だったのが、どうしてそんなに自分の考えの確かさを信じられるんだろう?っていうことだったんですよね。それで考えたんですが、彼らは一応議論みたいな体でレスをしてはいますが、その実、やってることは議論じゃなくて一種のゲームみたいな感じなのかな、と。「こういうときはこういうレスポンスをする」「反論されたらチョン乙でおk」みたいなのが決まっていて、その枠の中でコミュニケーションをしているだけなのかな、と思いました。だから、結局は彼らは、何が正しいのかということには関心がなくて、ゲームのなかの一種の役割として意見を持っていて、それはファッションみたいなものなのかな、と。だって「どういう考えが確かなのか」と考えているとしたら、相手の考えと自分の考えを相対化して吟味するはずじゃないですか。それなのに「チョン乙」で済ませちゃうわけですから。


耳蝉さんのエントリを読んで思い出したことがあるんですが、佐藤卓己という人が「教養とは話せばわかる、ということだ」といっているんですね。正確に引用しますと、


「教養の定義は難しいが、ここでは「教養がある人」とはどういう人かを考えればよい。それは「話せばわかる人」である」(佐藤卓己歴史学』;岩波書店


と書いています。これはなかなか妥当な考えじゃないかと思っていて、話せばわかる、というのはつまり、自分の考えを相対化して批判的に吟味できる、ということですよね。根拠のない考えに凝り固まることなく相対化して、より確からしい考えを確定していくという。教養という言葉はよく広範な知識、というような意味で使われますが、知識ももちろん必要ですが、むしろ批判的思考力としての教養が大事だなと思いました。サイードもどこかで似たようなことを書いていたような記憶がかすかにありますが(一つの考えに固まらず、常にオルターナティブを探していくべき……という感じだったような)、なぜ学校教育でこういうことを教えないんでしょう? 例えば歴史なんかは「歴史的事実」とされるものを教え込むだけで、それに対する批判的な視点を与えませんよね。いや、教えているところもあるのかもしれませんが、僕は教わった記憶がありません。


横からすみません。伝わらない人がいるってのはまったくそうだよなー、と共感したので、コメントさせていただきました。それでは失礼します。


親の話が出てますけど恐らくどこも一緒なんでしょうね。ただ親の場合、なんというか凝り固まってる感じですよね。概念が古かったりそれが常識だったみたいなことがあって考えが変わる余地が無くなるというか、ジェネレーションギャップって基本的にこれの繰り返しだと思うんですよね。音楽の例で言えばジャスラックなんかがそうですけど化石級の概念の古さですよね。ジャスラックそのものからおっさんのスーツの臭いがしそうな感じがするっていうか、そういう古くささですよね。


これも伝わらないのひとつではあると思うのですが、2ちゃんねるの場合、まぁ結局は似たようなものかもしれませんが、toarugakuseiさんがおっしゃるようなドグマの塊というか、あれって言わばあそこにたむろしているネット住人の集合的な観念みたいなものですよね。で、その激しく疑問な確かさはズバリ空気だと思いますね。具体的なドグマとかステイトメントがあるわけじゃなくて流動的な流れから決まってくる通念みたいなものがドグマ化するというか、暗黙の了解でそれが常識みたいな感じになって、それ以外の意見を聞けなかったりするんだと思いますね。


あと確かにまぁあれはゲーム的なコミュニケーションですよね。でもあれって凄く大衆的だと思うんですよね。自分で考えられないし意見も無いのでツイッターぐらいの長さの文でしかも定型の形で何かを書くっていう、もうそこにコミュニケーションはないですよね。ああいう独特の言葉とかやりとりをするということでアイデンティティを無くしているんだと思うんですが、それはようはアイデンティティの欠如の埋め合わせを欠如そのもので代替するみたいな感じですよね。アイデンティティという言葉が正しいかはわかりませんけど、ようは自我的なものとか意見とか考えとか主張とかっていうようは主体が軸の様々なもののことです。


例えば本当に言いたい意見とかがあったらブログに書くなりなんか色々とやり方はあると思うんですが、ああいう匿名の場所でハンドル名とか無しで書くっていうのは凄く中途半端というか、ようはブログ未満な人達なんですよね。自分の名前を出すなり固定ハンドルでやるぐらいの自身も度胸もないけど、でも言いたい事があるというのでああいう場で放言するっていう。これも言わばレベルの低さの埋め合わせですよね。失言とかしても問題ないし言葉に何の責任も生まれませんからね。何が正しいのか?とかには関心が無くてもでも政治的なことに口出ししたいとかなんだとかっていうのは単純なナショナリストにありがちなことだと思うんですね。アメリカ人でも特に田舎とかだとそんな連中ばっかで、2ちゃんねるってなんか日本のテキサスって感じがするんですよね(笑)


田舎のレッドネックの意見っていうそういう感じがします。凄く荒くて洗練されていなくて知的な雰囲気が一切しないという。でも凄く攻撃的で民族的で排他的なんですよね。どこの国でもこういう人が右翼になったりするんで右翼=バカみたいな構図が出来ちゃうと思うんですよね。まぁあんなの右翼でもなんでもないとは思うんですが、へなちょこナショナリストという感じですよね。ナショナルなものに依りどころを求めるというのも弱い大衆の特徴のひとつで2ちゃん的なものというのは色んなところでそういう大衆的な条件を満たしてますよね。それこそ絵に書いたような現象としての大衆というのがありますよね。


誰だったかは忘れましたがギュスターブ・ル・ボンだったと思うんですけど大衆というのは特定の誰々というものを指すのではなくて心理のことなんだって言ってたんですけどまさしくそれですよね。で、そういう心理から起こされる行動なり発言というものが現象として現れるという。あとはやっぱり2ちゃん的なものはマスコミュニケーションという言葉に尽きると思います。主体性が無い脆い人達が心理的不安を埋めるために他者と「こうだよね」「うん。そうだよね」的なやりとりを永遠と続けるという、これは2ちゃんに限った話ではなく昔から社会学者やら政治学者やらが書いてきたことで面白いぐらい普遍的なんですよね。日本だからアメリカだからということではなくて人がある所ならこういうコミュニケーションは必然的に発生してしまうということなんですよね。だから僕はそれを現象だと解釈しているんです。それこそ物理現象みたいなものなので止めさせるとか規制するとかそんなのはありえない話なんですよね。もうそれはいつの時代も存在する普遍的な現象なんだと思っています。


ところで教養がある人の話なんですけど、「話せばわかる人」というのは凄く的確な定義だと思いました。で、僕もそれは知識というよりかは思考力という感じがします。専門家とかでも専門知は凄いんだけど議論になるとどうしようもないとかそういう人っていますよね。だから別に知識があれば思考力があるのか?と言うと全然違うと思いますし、あとはベタな言い方になりますけど情報化の時代では知識ってそんなにもう重要じゃなくなってますよね。それは血肉化している知識でそれを元に普段の思考が形成されているとかっていう意味での教養って凄く大事なんですけど、ただの情報としての知識の価値ってもうあんまり重要じゃないですよね。あるに超した事はないですけど、ようはなんというかソースへのアクセシビリティが半端じゃないですよね。


何かの定義なり意味なり歴史的背景とかなんだとかってのがネットを調べればすぐ出てくるっていうのはもうようはネットが百科事典みたいなもんなんですよね。だからそういう百科事典的な知識ってもう結構どうでもよくて、必要なのは思考力ですよね。全ての基盤を作るのがこれだと思います。toarugakuseiさんがおっしゃるような自分の考えを相対化して批判的に吟味するということもようは思考力の問題ですし、こればかりは機械では代替不可能ですからね。誰々がこう言っていた・・・とか何々の定義によれば・・・的な知識って本当にどうでもよくて、そういうのはもう頭に入っているというのが前提で、そこでじゃあ自分がどう考えるか?ということですよね。これって情報量が多くなればなるほどどんどん重要になるものだと思ってます。情報を取捨選択する能力とか文章なりネットの意見なりツイッターのデマなりなんなりを批判的に読む能力とか、ようはリテラシーですよね。教養というと知識という感じがしますがリテラシーというと凄くしっくり来ますよね。


くだらない議論とか思考停止している人達とか自分では何も考えられない人達に共通しているのはズバリリテラシーの欠如ですよね。それこそが僕の言いたい「絶望的に伝わらない人達」なのかもしれません。そういう意味だと冒頭の親の話はまだわかるんですよね。古い世代の凝り固まった意見というのはジェネレーションギャップという話になるので、2ちゃんねるとかレッドネック的などうしようもなさとは違いますよね。まぁこれも伝わらない人達ですし、伝えようと思っても無理なんでそもそも議論そのものをしないというのがベターということになってしまうのですが、僕が本当に危惧するのはまだそこまでおっさんとかではない人達のリテラシー不足ですよね。まぁこれって古代から言われ続けてきたことで繰り返しになるので書いてもしょうがないんですが、でもそれこそtoarugakuseiさんも書いていることですが、ちょっとぐらいは教育でなんとかなる部分もあると思うんですよね。アメリカで言うcritical thinkingとかっていうやつです。あとは議論の基本ですよね。ディベートの基礎というかなんというか、そういうのってやらないと結果的に国力の衰退になりますからね。


かといっても全部教育で解決できるか?というとそんなに簡単な話じゃなくて、伝わらない人達には永遠に伝わらないことがあるというのをただ認識するしかないのかなっていうそういう悲しい帰結になってしまうんですけどね。他にも伝わらない系の話を出していけばキリがないぐらいありそうですけど、とりあえず長くなったので今日はこの辺で失礼しますね。