ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

数覚について。

こないだの数学の話ね。まずは例のページをまた貼るです。あと新作があったんで貼っとくね。



United Future Organization x Comoestas - Off Road 747


United Future Organization「Off Road」+ Comoestas「Bossa 747」


DJ Bold Mushroom, 2011


で、これが例のページ。


http://sand-storm.net/wordpress/?p=5846

◇数学と宗教


このもっとも合理的に圧縮された表現が、現実世界の人間が到底扱いきれないようなことを表し、処理できる、答えを導き出せるとなると、人間の感覚と認知の中で逆転の現象が起きる。数学が魔術的、宗教的な輝きをおびてくるのだ。


数学が異常にできるヒトの言うことを聞いていると、彼らは前提を疑うことなく、その数字や処理、記号が現実世界の真実を表象したものであり、それを操作してできた結果を当て嵌めれば同時に世界も操作できると見なしていることがよくある。数学者はそういう純粋性の高い人が多い。私のような何事にも疑り深い人間でなく、前提をそのまま受け取り無条件にそれに没頭できる人間が数学ができるようなのだ。


この魔術的な感じって全くその通りでオイラーとかラマヌジャンとかが魔術師の異名を取るのもそういう魔術的な神がかりな感じだと思うんだよね。んでもちょっと異論があるのが数学が異様にできる人ってのは前提を疑わないと言う感じではなくて自分の感覚と数学的な感覚が合致してるからだと思うんだよね。普通の人には大量の情報量が圧縮された記号の集合にしか見えないんだけど彼らにはそれが見えてるんだよね。マトリックスみたいなもんだよね。バイナリコードが風景に見えてくるみたいなさ、これは数覚というよりかはもうそういうレベルじゃないんだよね。魔術的なレベルで天与のものとしか思えないような感じなんだよね。


だからまぁ疑わないということではなくてあたかもそこにテーブルがあるのでコップを置いたぐらいの感覚で数学の世界を感じられてるんだと思うんだよね。で、あとはまぁ昨日書いた「わからない力」で言えば俺は前提をそのまま受け取るということをしないというか、そのまま受け取るというのが言わば公理主義だと思うんだよね。そのルールの構造が数学だと。


んでも俺はそういうのに興味が無いしルールを守るだけだと理解した感じになれないんで疑うということではなくて理解できるまで前提を吟味するって感じだよね。それをそのまま自然に感じ取れるような高い数覚はないけど理解したがるというか理解しないと納得しないということがあるわけで結果的にそれを積み重ねていくと数学の理解度が上がっていくって感じだと思うんだよね。まぁ俺の場合はその見えてる人達と同じ風景を見ようとしてるって感じかな。だから「そういうものです」と言われても「は?」ってなるんで全然わからないわけ。だから前に書いたようなさ、証明と定理だけの本ではなくてやたら長い文章の具体的な解説が書いてある数学書が好きってことなんだよね。


で、そのバイナリに風景を見出すのが魔術的な数覚とさっき書いたけどさ、でもそれって言わば覚者ってことだよね。それこそ宗教で言えば修行によって覚者になれる場合もあるので、先天的な才能がそこまで無くても修行によってある程度の数覚を得られると俺は信じてるよね。バイナリの中に風景を見出せるようになる力ってマジで数覚だと思うんだよね。その一般的に言われる数覚とかではなくてかなり悟りに近い数覚ね。語弊があるかもしれんけどこれは自然哲学だろうっていう。


言わば認識なんだよね。数覚という認識力。だから最近は数学をディシプリン的な一つの学問としてってよりかは認識の力として解釈してるよね。俺にとって哲学が良い意味で学問じゃ無くなったのと一緒の意味で数学もまたそういう感じがしてきたんだよね。つまりはまぁ分野の違いはあれど俺の中ではもう同じようなものになりつつあるんだよね。何かを認識する力とか思考する力とかそういう感じね。まぁそれで言うと科学系全般がそうなりそうだけど、ただようはさ、それは括弧付きの科学者とかとは違うんだよね。


プロパーとかそういうのではなくて認識する力とかツールとして科学を捉えるっていうさ、前に批判したプロパーのバカってそれが全てとか万能とかって思ってるじゃん?なんつーか俺が言いたいのは学問や分野としての科学ではないんだってことね。自然哲学としての科学だよね。んでもそれは別に自然科学としての科学だからといって定義とか体系が変わるわけではなくて、その人の科学への取り組み方なんだよね。だからそういう意味で狭い専門バカほどつまらないもんはないわけだ。そういう意味で数学は凄くできるけど教養が無い人間とかいるわけでしょ?そういうのだとなんかやっぱダメだよな。プロパーバカだもんね。そういう意味で俺のイメージっつーか理想とする数学との体面の仕方ってゲーデルなんだよね。まぁ実際はわからんけど色々と読む限りゲーデルは俺の言いたい自然科学として数学と取り組んでた気がするんだよね。そこがコーエンと合わなかったところでもあるわけで。


アメリカに言ってからは哲学研究ばかりしていたっていうさ、特にライプニッツだったらしいけどすげーわかるんだよね。それで言うとホワイトヘッドとかフッサールなんかも同じ香りがするのね。実際この三者は俺が本当に尊敬する人達なんだよね。彼らの思想が好きだし書いたものが好きだしまぁ心底惚れ込んでるよね。難解だけども。だからこそフッサールは厳密な科学としての哲学みたいなのを提唱していたわけだし、哲学的認識論を科学的にやろうとしてたっていうかそれが現象学に繋がったんだと思うんだよね。凄く構造的に数学的というか対象の扱い方が集合論的というかさ、数学独特の感性なんだよね。間主観性みたいな概念も集合論で言うインターセクションみたいなもんでさ、なんか基本的に数学だよね。


それは俺が数学やりだしたからわかるようになったことだけどね。ホワイトヘッドは言わずもがなだけどね。でもああいう数学者がprocess and realityみたいなのを書いちゃうってのがさ、やっぱりそこなんだよね。そこが俺の言いたい自然科学なんだよね。それで言うとヘルマンワイルは数学者とか物理学者でありながら哲学的な態度を持ち続けていた人って感じがするよね。んでもカントールの批判をしてたんだっけな?クロネッカーほど酷いもんじゃなかったんだけどポアンカレっぽい感じで批判してたような。まぁいいか。


だからまぁなんつーか哲学寄り過ぎる哲学って良い意味で苦手になってきてるんだよね。例えばポストモダン系は妙に科学性というかさ、科学的な厳密性を持たせようとしてヘタに科学用語とか濫用してダメなことになってるじゃん?俺が言う自然科学のリバースをやっちゃってる感じだよね。で、あとやっぱ言葉に依存してるっていうかさ、言葉がどうのってこと自体がすでにダメだよね。ウィトゲンシュタインがtractatusをナンセンスだと自分自身で言っててさ、ただそれは哲学をする上で重要なステップだみたいなことを書いてたと思うんだけど、このtractatusのナンセンスさ加減だよね。ウィトゲンシュタイン自身が証明したかのように見えることが哲学全般に言えると思うんだよな。


そういう意味だとウィトゲンシュタインは凄いよね。何が凄いのかさっぱりわからないって書いたけど、このさ、tractatus自体はナンセンスだって自分で言ってるって意味で全然評価変わるでしょ。これ自体がハシゴなんだってことだもんね。そういう意味だとウィトゲンシュタインのほうが全然上手だよね。あと比較的深く理解できたからこそ何が凄いのかわからなくなったんだと思うよね。あ、俺自身がね。で、その上でハシゴの意味もわかるようになったっていう感じだよね。それがウィトゲンシュタインの読み方なんだ!って思った時にえらく感動したわけよ。


で、何が言いたかったのかはわからなかったね。結局。何を言いたくて書いたのかわからなかったわ。マジで。いや、二日前ぐらいに書いててアップしてなかっただけなんだけど。まぁそんな感じで今日はこの辺で。