ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

最近はもっぱらゲーデルですね。

最近あんま書かないけど何で書かないか?ってまぁ書く事が無いからだよね。いや、ありがたいことに店がそこそこ予約が入ったりしててさ、夜は預かっているワンちゃん達と一緒に過ごしてるんだよね。なんか犬と一緒にいると心が優しくなっていく感じがあるよね。それに比べて人間の場合、どんどん擦れていくからね。知らないうちに自分が嫌なやつになってたり。


いや、犬とだけ接してればよかったらホントこれが一番いいよね。まぁ一部の話せる人とは当然コンタクトはしたいけど滅多にいないしさ、そういう意味だと今は限られた人とネットなんかでたまぁーにやりとりをしたりしつつリアル生活ではほぼ犬と一緒に過ごしているっていうさ、まぁ何からの悪影響も受けない生活だよね。数学やるのにすげー適してる気がする。


まぁそれはともかくだな、なんかあれなんだよね、最近思うのはね、いや、色々あるんだけどまずは本のことなんだけどさ、買い過ぎは良くないなと。いや、積読とかって意味じゃなくて、ようはノルマっつーかさ、何冊もあると気が散るんだよね。ようは色々とあるからそこそこのペースで読まないと終わらないみたいなさ、それが特に数学の場合、何の良い影響も及ばさなくてさ、数学ってまぁ本当に決定的な一冊を集中してやるのが一番いいよね。


だから何冊も買うとかってあんまり良くないなって最近は思えてきたんだよね。んだからまぁ最近は集合論と解析の本をゆっくり読んでるかな。いや、いつも書くようにほんっとに進まんのよ。まぁそのぐらい時間かけてるってことだからいいんだけどさ、でもなかなか先に進めないもどかしさってあるよね。


で、あれなんだけどさ、ゲーデルなんだけどさ、去年ぐらいに書いたハイパーリアルって話があるでしょ?あれとまぁゲーデルの認識論みたいな話になるんだけどさ、なんだったっけな?こないだ再読した本なんだけどね、まぁいいや。自分で書くか。まぁゲーデルがよく言ってたのはさ、ちょうど一年前ぐらいに書いてたことだけどさ、引用するとね、あ、ゲーデルのやつね。

感覚からかけはなれているのに、公理はそれ自身が真であると強制している。この事実からもわかるように、私たちは集合論の対象物に対する認識のような何かをもっている。なぜ私たちは、感覚認識よりも、この種の認識、つまり数学的直感に対する自信を失わなければいけないのか私にはわからない。この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる。数学における集合論パラドックスは、物理におけるだまされるという感覚に比べ、そう難しいものではない。


このさ、集合論の対象物っつーかさ、まぁ俺の言葉で書いていくけどさ、ようは集合論でね、集合だのエレメントだのさ、所謂メイクセンスするところってあるじゃないっていうかまぁメイクセンスするよね。まぁこれがこうならこうだよねって納得できるっていうか。で、一番卑近なやつだとまぁ結局なんつーか物理オブジェクトとして理解してるのかなぁー?ってところはあるよね。ようは感覚認識とかセンスデータとかってことだよね。感覚与件か。解釈とかそれ以前にアプリオリなものってのが数学をメイクセンスさせるんだよね。まぁーそりゃーそうだよなと。


でもね、そこが数学的直感なのかな?っていうと違うよね。恐らく。多分大抵の人は何かに置き換えて理解してる気がするんだよね。3つの要素があって・・・っていうその3つってのは対象物であるけど、でもまぁりんごとかコップみたいなさ、そういうモノとしてカウントしてるんじゃないか?っていうかさ、それ自体が真というよりかは身近な経験からそれはわかるってレベルのものとさ、数学的にしかわからないっていうのがようはごっちゃになってるんだよね。現実と別世界のようなものとして有名なのがやっぱイプシロンデルタ論法だと思うんだけど、それで言えばreal numberなんてのもセンスデータではとても受け取れないものではあるよね。でも数学的には理解できるんだよね。


かといってもまぁチャイティンとかが言うにはreal numberは存在しないってことらしいんだけど、んでもそれって形式的な意味なんであってさ、オントロジーじゃないと思うんだよなー。だってそもそもreal numberという概念が数学的な感覚でメイクセンスしててさ、いや、わからんけどゲーデルが言う集合論の対象物に対する認識のような何かってのはreal numberなんかにも言えると思うんだよね。そこが感覚与件と統合されるっていうかさ、感覚与件として数学的概念を理解できるようになったり感覚認識が数学のそれと同じになるか近くなるようになるってのがまぁ俺の去年書いたハイパーリアルの話なんだよね。まぁ結局それはプラトニズムなんじゃないか?という気がしてきていてかなりゲーデルの数学というよりかは哲学の部分が気になってきててさ、まぁ最近色々と昔は分からなかったから読んでなかったゲーデル系の本を読んでたりするんだよね。


なんつーかそもそもさ、あるかないか?と言われたら形式的には無いとしか言い様が無いものを、でも数学的な感覚は「ある」とか概念的に理解できるっていうさ、それは何なの?って話だよね。数学における意味合いなんてのもさ、客観的に見れば意味はないし、論理学者だったと思うけど完全にんな意味なんてないって言ってる人もいるけどさ、これまたこれも形式的な話なんだよね。でも言うまでもなく数学を楽しめる人がいるってことはそこに意味合いとかさ、面白みを感じられるってことじゃん?ようは面白みって意味合いがあるから面白くなるんだよね。


全く意味がない公理のルールの集積に面白さは感じないよね。んでも中身を見ると公理自体が意味合いがあるように見えて、んでそれを辿っていくとある体系があったりさ、何かを学ぶ入り口を見つけることができたりとかさ、ようはフォーマリズムの中に人間的な感覚というかセンスデータが内在されている場合もあるんだよね。なんで「場合」なのか?っていうと完全にフォーマルなもんはフォーマルでしか理解できないからね。さっきも書いたけど量子力学の一部分とかね。


まぁまだ色々と読んでる最中なんだけどゲーデルはようは概念ってのを実在というか存在として認めてたんだけどようはそれってプラトニズムになるから下手するとオカルトみたいな話にもなりかねないからなかなかペーパー類を出さなかったらしいけどさ、でもempiricalな意味での数学とかさ、プラトニズムを排除するempiricalな数学論とかなんとかって結局はempiricalな感覚から言うとさっき書いたような実数とかってようは実在ではないわけじゃん?でも実数は実数なわけで。


そこをmathematical fantasyとか言っていいものか?って思うのはさ、俺もまぁ色んな意味でプラトニストだとは思うけど、数学に関してはよりいっそうだよねっていうのはさ、ようはロジックとかで定義できないものとかさ、computabilityが無いだとかなんだとかさ、でもそれってようはフォーマルシステムの限界ってことなんじゃないの?って思うんだよね。そうはそれをはみ出すものは規定できないんだけど、でも明らかに実数やら無限ってのは存在するわけでしょ?っていうかようは暗黙知として存在するというか扱うんだよね。でも実在云々に関して言うと形而上学になるからやらんと。まぁようは禅問答になるってことだよね。


いやさ、人間が概念として理解できたり概念として生み出せるもののみが実在じゃないじゃん?んでもまぁ無理そうなものに関してはconceptualizeして人間にとって扱いやすいものにするわけだけどそれはまぁ便宜的な意味だよね。そこでまぁ概念と言いやすいものになるんだけど、でもconceptualizeされる以前の生の概念に関して言えばそれがパラドキシカルだったりそもそも考えられないようなことだったりしてさ、だからまぁ便宜的に記号化したりなんかしてルールに当てはめて使うんだよね。でもその元の概念はルールを超越してる場合があるよね。


あとはextractできないっつーかrenderできないっつーのかな?んでもそれは方法次第だと思うんだよね。それはスーパーコンピューターがどうのって話じゃなくてようはフォーマルシステムでも規定可能っていうか生をもっと生のまま使える可能性ってあるんだけど、そこがやっぱりまぁ数学基礎論とか集合論的な仕事なんだろうね。あと前に論理学を散々くだらないと言ったけどかなり語弊があったなっつーか集合論って言わばブランチで言えばロジックなんだよね。イプシロンデルタ論法なんかもロジックだよね。いや、俺が言いたいくだらないロジックってのは前にも書いたように論理パズルとかのロジックね。一見頭が良くなりそうに見えるとかさ、論理トレーニングできそうとか思わせるんだけど、ただ頭をポンコツ化するだけなんだよね。ああいうのって。


まぁそれはともかくさ、ようは俺の感覚で言うとなんつーか抽象化される前のものって生ものなんだけどさ、そこを生もののままその生の感じを加工したり使いやすいようにしないまま具体化して使えないものかな?ってことなんだよね。抽象化→具体化→抽象化…っつープロセスを一つのプロセスにできないものかなと。いや、これ以上細分化できないものとしての一つのプロセスとしての加工しない生の感じなんだよね。ようは何かを通すともうダメなんだよね。


俺はそのなんつーか生の概念を扱えなくしたり矛盾を導きだしてしまうようなものってのはそのシステムが概念に対応してなかったりするだけの話で、そこで規定できないからといってそれが存在しないものだったり規定不可能なものか?っていうとそうじゃないんだよね。乱暴に言ってしまえばフォーマルシステムが悪い場合もあるわけだ。ようは改善の余地があると。そこを既存のもので規定不可能とするのは早計な気がするんだよな。で、その生ものを扱う動機づけってのがようはプラトニズムなんだよね。いくらmathematical notionとかfantasyであるとは言えそこは想像上というよりかはようは具体化できてないってだけなんだよね。


抽象的なものをそのまま抽象する感じだから具体化と言っていいかは分からないんだけど、んでもさ、そもそもなんつーかね、虚数なんかもそうかもしれないんだけど数学的概念とは言えそれがフォーマルシステムの中でワークしてるってことはやっぱりそれは存在なんだよね。もちろんそれはsyntaxとしての記号なんであって意味論は含まないかもしれないんだけど、でも意味論が介在しないとワークしないっつーか扱えないっていうかさ、むしろ意味論を介在させてそれがよりワークするようになるだとかね、計算を続けるうちに無味乾燥なプロセスから意味論が出てくるとかさ、ようはそこが人間である限り意味論を感じずにはいられないっていうか、そこがようは数学の面白さだと思うんだけどさ、んでもそう思うとsyntaxってのもようはただのツールなんだよね。


それ自体が構成しているというよりかは構成するためのツールというか部分なんであって恐らく絶対人間には知覚できないような全体っぽいものはあると思うんだよね。でもその全体像が見えないから結局は全てを統辞論的に解釈するしかないとかさ、その統辞論的解釈ってのもまた解釈なんであって客観ではないんだよね。それは統辞論で解釈するという主観が存在しているわけで。ようはあとはもう形而上学に終止符をつけるようなある意味での思考の放棄でもあるんだよね。統辞論的理解は。俺は絶対それは違うだろって思うんだよね。


んじゃあ何なの?って言われるとまぁまだ分からないんだけどさ、んでもまぁこれについてはなぜか最近すげーハマっている話題でさ、っつーか「何なんだろうな?この日常性」とかもう考えてもしょうがないからね、まぁでも逃げちゃいけないんだけどでも疲れたよ。マジで。日常性にうんざりするし疲れるよね。だからこそ数学ってのは最高の逃げ道になるし、深遠であればあるほど深みにハマっていって、んでもそれが故に鬱になったりとかまぁ普段使わない頭を使うから疲労から鬱っぽくなったりするんだけど、んでも日常感からの疲労よりかはよっぽどいいんだよね。


なんかまぁ俺的に言えば今の時期はロジックと集合論と実数論っつーかまぁ連続系の解析とか無限とか位相とかと数学基礎論みたいなのが色々と繋がってきててさ、んでその繋がりからまた色々とディグってる感じなんだよね。数論とか幾何とかもう本当にどうでもよくなってきたね。もうとりあえずこれに興味があるんだったら当分これでいいやと。まぁもはや数学ですらないのかもしれないけどね。あまりにも局所的過ぎて。いや、でもまぁ数学なんだけどね。もちろん。


でもまぁ位相とかってようは無限とか実数とか連続性と論理の世界だよね。論理だけじゃさっぱり興味ないのに連続と繋がると途端に論理が輝きだすっていうかさ、連続を得た論理の如くだよね。まぁようはあれだよね、まぁ当初は完全に独立したもんとして数学っつー体系をやるつもりだったけど、やっぱり地が残るっていうか、むしろその地があるほうがはかどるっていうか、それが無いとできないんだよね。その地ってのがやっぱまぁかっこよくなるけどphilosophical point of viewっつーのかね?真面目に本を読み出した頃の俺と地続きな俺が延長で数学やってる感じね。俺としては断絶したと思ったんだけど結局まぁ色々やっていくうちに繋がっていったんだよね。それがなんか異様に気持ちが良くて。なんかかなりエロいんだよね。性器同士の擦れあいみたいななんかフィット感がエロいよね。フィットするものって何に関してもエロいからね。基本的に。


まぁそんな感じで今日はこの辺でってまぁ何の帰結もないけども久々に書いたらやっぱスッキリしたね。俺はやっぱ書かないとダメだな。膿を出す感じで。