ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

まぁ最近の流れの続きですわね。

こないだは後半で原発の話とか秋葉原殺傷事件の話とか出しちゃってなんかやめりゃーよかったなと。ああいう天下り的なのは本当に嫌だね。実際なんつーか例のゲーデルのやつから続いてたやつに余計なのが入ったっつーかまぁそれは重要性とかじゃなくてまぁ凄くいらない蛇足だったってことだよね。別にあれはあれで独立して書けばいいんだけどまぁあえて書くほど書く事ないし。


まぁそれはともかく色々と続くけどもさ、あまりのもまぁこないだ書いたやつがイマイチだったっつーかさ、やっぱ言語化って難しいよね。まぁいいや。前の事はどうでもよくて今日は今日で書くけどまぁ結果的に繋がるとは思うし補足にもなると思うんだけどようはあれなんだよね、すげー気になるのがその昨日書いた函数的というか相関性が生まれる場の話なんだけどさ、んじゃあその場が存在しなかったり介在できなければそもそも何にもならないじゃないかってことになるんだよね。極めて独我論的というか、勘違いされがちなウィトゲンシュタインというか。


まぁ俺もウィトゲンシュタインのことを相当勘違いしてると思うんで今回のこの話題もあるからじっくり読もうと思ってるんだけどね。いやーミスリーディングだよなー。書きたい事書きまくってるから厳密性なんてのはあったもんじゃない。でもまぁあれなんだよね、ようは言いたい事を「フッサールじゃないけど」とか「ハイデガーじゃないけど」っていう「何々で言えば」って言い方で表している場合もあるわけで、俺がウィトゲンシュタイン論とかフッサール論書いているわけじゃなくて俺が言いたい事を書いてるだけだから言いたい事の中に厳密性というとまぁちょっと大げさだけど論理的な整合性があるんだよね。「フッサールによれば」っていうそのフッサール解釈が間違ってますよって言われた所でまぁ俺が思考していることには何の影響もないからね。だからまぁ書きたいことを書きまくれるわけだ。ちゃんとした学問的な哲学の事を書こうとかって思ったらまぁ俺は一生何も書けないよね。


あ、話が飛んだな。で、まぁその場なんだけどさ、シニフィアンとかシニフィエとかって言葉で書くと俺自身がややこしくなるからやめるとしてっつーかなるべくポストモダン用語を使わないようにしてるんだよねっていうか最近は哲学用語とかに依存しないで全部ウォール伝で書くっていうのを結構意識的にやってるんだよね。色々な解釈を与える曖昧な用語としての哲学用語ではないって意味で俺の言い方とか言葉だからまぁそれでも色々な解釈が生まれるにしても、俺の中ではもうそれはダイレクトにそれですって言ってることでようはそれは用語ではないからさ、俺的に言えば用語に逃げないということは厳密に概念を指し示すってことになるんだよね。それがようは自分の言葉で語ることの良いところね。


自分の言葉で語るってことが何となく良いこととされているけどまぁ理由は色々あるよね。良いとされる理由があってまぁそんな中でむしろ哲学的概念とかに依存して色々書くなんてもはや思考の上では害悪でしかないとすら最近思えてきてるんだよね。自由な学問である数学のおかげかもしれんな。数学は俺にとって良い作用しかもたらしてないよね。万能薬か!っていう。


また話が飛んだんだけどさ、いやね、意味すらされないとか指し示されないものの存在はどうなのか?ってことだよね。存在や概念や指し示されるものというのがあってそれが指し示されるとか何かと同型であるとかってことによって意味合いが与えられるっていうところで、ではその場が提供されないものに関しての意味とか指し示すという行為をどう行うか?ってことだよね。昨日言いたかったのはそういうことです。いや、本当に昨日のはマズかったな。あまりに説明が下手過ぎるっつーかなんつーか。


まず人間にとって無を考えるって難しいことだよね。そもそも何も要素がないものを考えるということは対象が無いわけで指し示すとか意味合いを与えるとかそれが超越論的主観であってもいくら超越論的に上に上がったところで指し示せない無があるでしょ?でも俺が言いたい無は本当の無ではなくて指し示すことも意味も与えることができないが故に属性としては無みたいになっている実は有なものの存在だよね。英語で言えばpositiveとnegativeってところだわ。そこがまぁ凄く言語とかで記述することが困難なんだけど、例のゲーデルの話でも書いたセンスデータではないけどさ、そこは逆に直感というか感覚が効いてるんだよね。少なくとも俺の中では。


そういうものがあるんではないか?っていうよりかはむしろあって当然という感覚が存在するにも関わらず何によっても記述できないが故に存在という属性も有やら無という言葉やら意味合いすらも与えられないっていうさ、でもそれは存在するんだけど、でもそれを存在すると言った時点ですでに「存在」という言語の意味合いが介在してしまっていてその存在の本来の属性なり本質みたいなのを穢すというか犯していることになるんだよね。


こういうのはようは言葉とかformal systemのパラドックスだったりするわけで、前にも書いたようにそういう言葉とかformal systemで記述ができないから存在しないとか、そこでのパラドックスとか矛盾ってのはその体系での矛盾なんであってそもそもそれはformal systemですらも本当の本質というか存在の属性なりなんなりを示したり表すということができてなかったりするわけなんだよね。ようは存在とformal systemが示す体系なり構造なりってのは全然対応関係ができてないのね。それは何でか?っていうとまぁそれがズバリ人間だからなんだよね。そもそもそんな途方も無いものを記述できるほどの技術なり言語なりシステムを人間が取り扱うことができるわけないっていうさ、でもそこで諦めるんじゃなくて、それを認めた上でのinvestigationっつーかquestはあるよね。それを認めるということがメタ認識を与えることでもあるわけだから。


だから数学の限界とか言語の限界とかと存在そのものみたいなのは全然関係無いんだよね。あたかもそれがダイレクトにそれと関係しているように思われるしそういう風に思わせるような言葉とか概念の濫用とかがあったわけだけど、まぁ実は全然関係ないですよっていう。そこの関係無さこそが実はプラトニズム的実在を担保することになるんだよね。言わばsyntaxとしての数学みたいなモノの見方に関して最高の批判を与えることになる。まぁゲーデルがカルナップについて色々と書いてたっつーかまぁ講義だったんだっけ?あれ。まぁそういうことだよね。でもこれは分からないことなんだよねー。本当に。


何でゲーデルなのか?っていうと語弊を恐れずに言えばズバリゲーデルが考えていたプラトニズムと俺の実在論というかオントロジーが凄く似てるとか親和性があるからなんだよね。まぁ俺にとっての哲学って全部それでそういう親和性があるものしかむしろ読めないんだけど、でもそんな含蓄がゲーデルにあるとは思わなかったわけ。ハイパーリアルについてってボードリヤールのそれじゃなくて俺が何となく命名したハイパーリアルとしての現実ってのが言わば俺にとってのオントロジーとか実在になっているんだよね。それを考えていたから結果的にゲーデルを理解できるようになったというよりかはまぁ似ているから手に取るように分かったんだと思う。まぁ客観的に見ればゲーデルの受け売りにしか見えないかもしんないけどね。


んでもさ、いや、全然これでエンディングでもなんでもなくてさ、課題は残りまくりなんだよね。俺にとってはその記述不可能なものに関する記述を与えるにはどうすればいいのか?っていうのをさ、いや、そこで集合論とかロジックとかの手練手管を使うのには全然興味無いしそもそもテクニックとしての数学とか証明とかって全然興味無いどころかむしろ嫌いなんだよね。システム依存の思考だからね。あれは。で、サイエンスっつーバックボーンがあるから証明したやつはドヤ顔でいられるっていう科学者の強みがあるよね。これはまぁソーカルが書いてたことだけどまさしくそうだよね。そういう科学の面が凄く嫌いでさ、バックボーンが無い下手すると勘違いしている気違いにしか見られないような中でガンガン形而上学とか語られない領域にまでも誤解を恐れずに大胆不敵に挑むのが哲学的態度だよね。理論とか証明とか厳密性を重要視する科学者だの数学者だのには出来ないことだよな。


むしろそんなの足かせでしかないんだよね。なんか位相でもあるじゃん?収束概念を擬位相で考えて発展させた後に後で厳密な定式化を与えるっていう。最初から厳密性を求めてたら人間がやれる範囲なんて限られちゃうよね。それこそフォーマルシステムとか数学の限界みたいなのに人間そのものの思考の可能性が内包されることになって、そのシステム自体の限界には挑めなくなるんだよね。あ、んで俺が言いたいのは人間が勝手に与えた数学の限界とかフォーマルシステムの限界ね。それがようはsystematizeされることなんだよね。こっちがsystematizeするならいいけそsystematizedされるとダメなんだよな。あくまで主導権はこっちが握らないとっていうか主体がこっちじゃないとダメだよね。そういう結果がどんどん発見に繋がってきて結果的に複雑な概念とか構造にもよりシンプルな概念とか定式化を与えることになると思うんだよね。そういう論理の飛躍は絶対必要でしょ。


それが顕著なのが物理な気がするけどでも言語とか何らかのシステムってものが介在しているものに関しては絶対全部に言えると思うんだよね。論理の飛躍が。あとはまぁ偶然とかね。理系女子高生の偶然の発見がアメリカだかの理系のジャーナルに載ったとかってのもまぁ言わばブラックスワンみたいなもんでしょ。ある程度のレンジを措定して「色に変化がない」って言い切るってこと自体が間違ってたってことなんだからねっていうかまぁ色があんな風に変化するなんてことが想定できなかったわけだから。経験的に見て二つの色しかないなってことだったわけだよね。「黒い白鳥はいない」っていうのを有限的な概念の立場から言い切ってるのがすでにアウトってことだよね。だからこそ常に人間は無知であるという自覚が無いと得られるものが少なくなるっていうか、むしろ「これはこうだ」とか「これについては知っている」とかそういうことって実際は何にも良い効果をもたらさないんだよね。脳がレイジーになるだけっていうかそこについてはもう思考力を使わないって断言してシャットアウトすることだからね。フォーマライズってのはそのシャットアウトの繰り返しでもあるよね。


フォーマライズできると信じ込んでいるけどそもそもフォーマルシステム自体が疑わしかったりさ、分からないことが多いわけだしさ、だからこそ限界なんて有限の立場から規定できるわけがないんだよね。だからこそsyntaxとしての数学なんて見方はまずありえないだろっていう。神しか無理だよね。何でも知っている神がいて「いや、実はsyntaxなんだよ」って言ったらそりゃーそうだけどそんなことを知れる人いないわけで。知れる存在はあるかもしれんけど。だからまぁどちらでもないんだよね。syntaxの可能性はあるけど断言できるほど人間は数学について分かってないじゃん?その分かったフリが俺は大嫌いなのね。そういう傲慢な態度が誤謬を生むんだよね。間違ったフォーマリゼーションなり結局は間違ったコモンセンスなんかも卑近なところで言えばそういうところから発生する場合もあるよね。


んーでまぁ話を戻すとさ、まぁようは概念とか指し示すってことが言語であったりまぁarticulateするということであったりさ、あたかもone to one correspondenceが成立しているかのように錯覚してしまいがちなんだよね。でも言語にしても指し示すということにしても概念にしても存在にしてもそもそも分からないというか記述されてなかったりまだ無いもののほうが当然多いわけだから部分的なところを見て結局はそれを全体像だと錯覚するんだよね。


むしろそんな狭い世界観でこれがシステムだ!とか体系だ!とかって言えるのか?って言えるわけねぇーじゃんっていう。かといってもこれは別にベタな不可知論とか懐疑論とも違うんだよね。そんなもんに矮小化できるほど簡単な話じゃないからね。懐疑論とか不可知論も実は閉じた体系なんだよね。疑う原理みたいなのがあってむしろあれは宗教だよね。懐疑論とか不可知論の人って自分は一人で立っているつもりだけど実はその宗派の徒なんだよね。凄く考え方とか言い方が似てたりして。だからまぁありゃーダメだな。すげー形式化されてるもんね。


まぁただ形式というか原理って言っても言い過ぎないのがやっぱ無知の知だよね。ソクラテスがそこまで考えてたかはともかくとして色んな意味で人間が有限だってことが昔より分かってるわけだから、そもそも何もかも知るとかさ、全て解明できるとか無理じゃん?無理だけどやるんだけどさ、んでも「知ってる」っつー感覚がまずありえないよね。それはまず根本的に知るとか分かるってことがイマイチ分からないし何を持って分かったとするのか?って話もあるけど、まず有限な存在としてそんな存在が分かったところで分かってるところはたかが知れてるじゃん?


そういう分かったという感覚によって遮断される思考の可能性だよね。まぁんでも元々無知の知を持ってる人とか達成できる人っていると思うんだけどね。教えられるわけでもなくプラトンを読むわけでもなく人間として考えるなら当然の態度だってことが分かるんだよね。それは大事な態度ですとかってモラリスティックに言われたりするけどむしろそんなもん原理と言っていいほど自明の理なんだよね。人間は死ぬっていう命題ぐらい自明なことなわけで。そういうのに反してるのが形式主義とか数学をsyntaxとして捉える考えとかさ、まぁそれをなんて呼ぶのかは分からんけどさ、んでもまぁフェアじゃないけどね。昔の人ならそう考えても仕方ないっつーのはカントールに批判的だったのは何もクロネッカーだけじゃないのと同じだよね。


当時ならむしろ当たり前ってぐらいの感覚かもね。あと誰だったっけ?バークリーだったっけ?微積の理論を詭弁だって言ってた人。でもそれをバカだなーなんて言えないんだよね。当時としては全然頷けるわけだから。むしろ丸々理解するほうがおかしいよね。アルキメデスで言えば当時アルキメデスを理解してたのって本人ぐらいだったらしいじゃん?俺は勝手にアルキメデス微積の開祖だと思ってるけどね。


で、まぁ話を戻すとさ、なんとなくまぁ考えているのはその存在対象というか、指し示すものによって論理構造なりなんなりが変わるってことね。そもそも全ての存在を0か1のない/あるで表せるっていう古典論理がおかしくて、そもそもそんなんで表せるほど存在というか指し示されるもの達ってシンプルじゃないんだよね。だからまぁイメージとしてはその指し示されるものによって指し示し方の形式が変わるので、それは全ての存在証明にワークするということではないということね。指し示す側が論理構造の違いを要求してくるっていうかなんというか。それで記述可能でも例えば普通のものはそれで記述不可能だったとしてもそれは存在の属性の違いによるもので、そもそものこの存在の属性を全て一元的に考えていることが間違いなんだよね。


それは単純に量子的であるとか時系列に依存するとかそういうことだけではなくてさっき書いたような言葉ですら言い表せないような存在に関してもね。だからまぁ俺はその辺にある時間論とかが大嫌いなんだけどね。時間なんつーもんに普通のロジックとか考え方を持ってくること自体がもうすでにアウトなんだよね。もしくはそれで記述できないから時間は存在しないとかするだとかなんだとかそれはもう時間自体の存在論と乖離したフォーマルシステムの問題じゃん?それをごっちゃにしているのが凄くバカバカしいって思うんだけど、まぁあんまそれに関しては読んでないからなんとも言えないんだけどね。ちょっと触った程度でバカバカしいから読む気が失せるんだよね。ようは批判するために綿密に読むとかそんなことできないからね。俺。それこそ「時間」が勿体ないし。


あと俺が割と真面目に霊魂は存在しないなんて言いきれるわけがないじゃん!と言っているのもこういうことなんだよね。ようはその指し示されている霊という存在に対して0というnegativeの値を決定的に与えられるほどの基盤なりreasonを持っているのか?ってことじゃん?存在証明よりも存在の否定のほうが難しいからね。小室直樹ネッシーの例を出して書いてたと思うんだけど。まぁオカルトとか信念とこういう事実は別にしないといけないけどね。


ただよくテレビでも見るさ、大槻教授みたいなあの徹底的な「科学的にありえない!」なんて言いきれる根拠の無さだよね。否定できるほどの材料が無いのにあれはイデオロギーなんだよね。科学が万能だという。だからまぁすげーバカだなって思うんだけどテレビタックルの場合、霊の存在を肯定する側とかUFOの存在を肯定する側が問題外のバカばっかで話にならないんだけどね。実際は大槻教授も肯定する側も間違ってるって言いきれるよね。そもそもそんな曖昧なものに対して0か1の存在の値を与えられるわけがないんだから。まぁだからそのために科学的な調査とかすればいいと思うんだけどね。イギリスとかではあるよね。超自然現象を研究するみたいな。でもあれって結局、研究の結果としてそれがマスヒステリアでしたとかさ、サイコロジー的にそうでしたとかさ、言葉の誤謬のメカニズムとかさ、そういうのが分かるから有用だと思うんだよね。凄く。


あとまぁ単純にさ、解析しても作りもんじゃないとかさ、合成っぽいけど実は本当にうつり込んでいるんだけどまずありえない写り方だみたいな写真がたまにあるじゃん?ねつ造とかは問題外だけど、そういうマジで分からないやつに関してもそれが何なのか?ってのを指し示さないといけないよね。それが絶対的に何かの反射でしたとか誰かの指でしたとかさ、そういうのが絶対的に示された時点で少なくともそれは心霊写真とか言われる類のものではありませんって言いきれるようになるんだよね。ようはそれが指ですという存在を指定する意味するものがあるから、他にそれは指であると当時に蛙の頭ですとかってのがありえないようにさ、一個しか属性がattributeされ得ないものに関して一個の属性が与えられたら他の属性の入る余地が無くなるからその存在にとっての他の属性である可能性が一気に消されるんだよね。


こういう感じで心霊写真とか心霊現象が解明されれば面白いのになーって思うんだよね。でも実際はやっぱ怖いから例えば将門の首塚とかの科学的分析とかやりたくないんだろうね。霊現象を批判しまくるなら「俺がやる!」っつってやればいいのになーって思うんだよね。そこをやらないのが本当にチキンだなって思うのね。それをやろうとしない人の否定なんて全然説得力ないよね。ちなみに俺は信じてるから絶対やろうと思わないけどね。小さい頃に体験があるからやっぱそれがデカいよな。いつも書くように逆に全く噓をつく必要がないような人がどっかの神社の前でモンペ姿の人とか戦時中みたいな格好をしている人達が大勢で歩いているのを見たとかさ、同時に居合わせた4人全員が同じものを見ているとかさ、それは逆に認知科学的にどうなのよ?って話なんだよね。


なんかそういうのの否定って全部帰謬法だもんね。あれ?あってるかな?いや、そういうことが科学的にありえないからそれはありえないので作り話か何かだろうっていうさ、すげー判断停止だよね。例えばそこで何人もの人が同じようなものを見ているんだったらむしろ科学的調査をしないとダメじゃん?って思うんだよね。むしろそれこそ科学的に見ればそういう場所で全く違う人達が同じないはずのものを見るなんてことはありえないわけだから。そのあり得なさはそれこそ確率論的にありえないもんね。すんげー確率低いわけよ。そんなものを大勢の人が見る可能性は。でもあるんだったらそれはあるとは言えないけどなんぞや?と調べなきゃいけないよね。別に霊とか関係無くその多くの人が見ているものは何なのか?って普通に気にならない?「あそこの有名な落ち武者に関して言えばこういうことでした」みたいな研究結果とか無いもんね。愛する栄子のためにも色々と調査してほしいって思いますよね。


まぁいいや。もう話が逸れてきたからやめるわ。とりあえず今日はこれでいいや。んじゃまた。