洪水のような量の近状。

ここ数ヶ月、こちらから話しかけているのが主に犬っつーかここ半年ずーっとそうなんだよね。まぁ人間との対話に置き換えることはできないけど日常的な会話で言うと犬の場合、人間に比べれば二面性はまだないほうだし、こっちが信じればあっちも信じるしvice versa的な関係性がシンプルに築けるから負担がないよね。人間関係もこのぐらいシンプルならいいのに人間っつーのは悪い意味で色々とやっかいだからね。厄介な割に得られるものがないどころかただ疲れるだけっていうさ、その結果が黙り込むとか限られた人とだけネット上でやりとりするとかさ、客観的には寂しいんだけど、実は合理的な判断の結果なんだよね。それが今は許されるっつーかなんつーかそもそもこの許されるって感覚がなんか嫌だよね。デフォなら誰かと喋ってなきゃいけない的な空気ね。許されるって俺の人生なんだからいいじゃねーか!って話なわけで。コンビニのバイトとか接客業とかよくやってたよなぁー。まぁあの頃はイニシアチブがあったからね。留学するだとかレコード買うだとか。


今は欲しいものが無いか足りているし、むしろ欲望したいんだけど欲望したいものが無いっていうさ、ある意味での事足りているが故の絶望感だよね。料理研究家の栗原さんも似たようなことを言っていて驚いたんだよねって絶望なんて言葉は使っていないけど、色々とまぁ大変な経験なんかを経て至った結論というか考えがさ、実際面白い事は少ないってことなんだよね。日常内でもそうだし別に外的なものに何かを求めても同じようなもんだよね。だから限られた日常の中に面白さを見出すっていう絶望からのスタートなんだよね。そこから能動的に人生に働きかけているんだよね。その結果と言っていいかはともかく、だからまぁ栗原さんは料理に凝りだしたり家事とかも楽しむようになったみたいなのをプロフェッショナルだかで見たよね。


いや、これこそがフィロソフィーなんだよな。こういう人間の生に内在しているものだよね。実際、本当に哲学的と言われる問題の多くは俺にとっては本当に興味がない事ばっかなんだよね。特にいつも書いているようにやたら言語とかにこだわる哲学とかが本当に嫌いなんだよね。なんで本質が言語とか「指す」みたいな意味作用とかの関係性の中に内在されているって考えるのか?ってことだよね。まぁそれについては色々前に書いたからいいや。


まぁ最近は批判的だけど大嫌いな分析哲学とかを批判的に読むとかいうのを割と趣味にしてる感じだよね。ちなみにウィトゲンシュタインはあの言語へのオブセッションみたいなのを後期ではだいぶやらなくなって反省的になってたりしたらしいけどさ、ようはTractusとかだけで当然判断しちゃいけないんだよね。ホント、自分の中でウィトゲンシュタインってただの言語哲学者って感じなんだけどトータルで見ると絶対違うだろうなっていう。本買い過ぎて今は買えないんだけどこんど一気に買って色々と読むつもりでいるんだけどね。


っつーかさ、あれなんだよね、今日書こうと思ったのはさ、日常性だよね。なかなか耐えられない日常性があるよね。まぁ基本的に毎日手伝いはやってるんだけど基本的にまぁでも生活ってルーティン化するもんじゃん?むしろルーティンでやっていけるだけまだマシなんだろうけどさ、こういうルーティンが成立しているからいいんだっていう相対的な価値観を持ってこないと日常性って耐えられないよね。ようは実際はデフォで言えば余裕で俺より拘束時間長いし出勤も毎日満員電車とか拷問としか思えないような生活をしてる人が多いわけだよね。それに比べて俺は道を歩くだけじゃないかっていうさ、まぁこういう価値観嫌いなんだけどさ、でもそうでもしないとなかなか耐えられないところがあるよね。まぁそれで言うと留学してた頃も同じなんだけどね。俺みたいな歳になって海外の大学にいかせてもらってるなんてすげー恵まれてる!って思うしかないっていうか客観的に言えばそうなんだけど、でもまぁ本人としては実感がないし別に楽しいわけでもなんでもないっていう。


かといってもまぁ俺は別に何かを求めてるわけじゃないんだよね。日常に何かを期待しているわけじゃないし、むしろ俺が毎日手伝えるぐらい店が回ってるってのに感謝しなきゃいけないぐらいなわけで。んでもまぁそれとは違う問題としての単純な日常性ってのがあって、やっぱりこれに耐えられない人種ってのはいるんだよね。俺がそうなんだと今更ながらつくづく感じるよね。あっちに居た頃も日常性に耐えられなかったし、だからこそまぁ詐欺師のサイモンとの経験はすげー嫌なことでもあるんだけど実はアメリカに居た頃で言えば一番楽しかったし強烈な経験でもあったわけだ。なんかすげー矛盾してるよな。あっちは詐欺師なのに実はすげーエキサイティングだった!ってなんか映画のハート・ロッカーみたいだよな。あそこまで極端じゃないけど俺はすんげー主人公の気持ちがわかったよね。だからまぁすんげー感情移入して見ちゃったよね。


思うに俺が大学に行きたい!とかって思ってたのもっつーか日本の大学ね、まぁそれも何かの期待だよね。調べれば調べるほどそんなもんは無い!と言いきれる状況にあって現実的になればなるほど何も得られるものがないというのが痛いほど分かるからもう行こうという気すらもなくなってしまったよね。最初はポストがないみたいな理由だったけど内状とか実際どうなのよ?的なことで言ってもアメリカのコミカレなんて比じゃないぐらいつまらなそうでホント全然ダメなんだよね。


別に学位を得て仕事がなくても学校がそこそこ楽しければいいって思ってたけど日常性を仮にゼロとして置いた時にプラスがないんだよね。学校もゼロがむしろストレスフルな状況があってマイナスにもなりかねないっていう。アメリカもそうだよなー。現実的になればなるほど夢がなくなるっつーか自分が期待してた「何か」みたいなのが本当にただの幻想だったというのがよく分かるよね。ちなみに自分の夢とは関係無いからね。ようは自分が何かに期待するということの幻想ね。それが本当に幻想に過ぎないということを現実が教えてくれるんだよね。


そうなるともう俺は欲望するものっていうか能動的に何かをやりたいです!ってことが無くなるんだよね。とりあえず虚無が怖かったから日本の大学に逃げようと思ったけどまず状況的な意味ですぐには行けないってことになって、ただそのすぐに行けないおかげで段々と現実的になって、そういう観点から情報を集めてみるとクズ加減がどんどん浮き彫りになるっていう。知り合いでもなんでも「大学生活が楽しかった!」なんて言う人はいなかったしむしろそこそこのところでもどうしようもない感じだったっつー情報ばっかり聞いてたけどやっぱそれが現実なのかってのがどうしても客観的な事実として出てきちゃうんだよね。


少しでも俺が期待する何かってのに答える要素があればいいんだけど何もないからね。まぁそもそも期待するのがバカだという話になるしまぁそれは実際そうだろうね。ニヒルになるということではなくて現実的になるって意味だとそもそも期待なんてことば馬鹿げたことなんだというのが本当に分かるよね。実際、ニューヨークにも俺は求めてた何かってなかったし、あそこになけりゃどこにもないだろうという俺なりの帰結は別に日本に帰ってきたということのエクスキューズでもなんでもなく事実としてそうだろうなってやっぱ受け止めるしかないっつーか、あとはまぁ例の香港のダレルも同じようなことを言ってて、結局俺が帰国した半年後に彼も帰国したんだけど、なんかあとこれは近さもあるなって思ったよね。


昔の留学の話を聞くと日本語がないから日本語に餓えるってことで仕送りで送ってきた何かの包みになっていた新聞紙を隅から隅まで読んだとかさ、そんぐらいまぁアメリカどっぷりになるしかなかったんだよね。でも今ってネットがあるから本当に関係無いんだよね。ただ物理的な生活圏だけが住んでいる場所によって規定されるだけで受け止める情報とかは自分次第じゃん?だから実際、あっちにいっても同じ国の人同士で永遠と喋ってる人とかもいるし、あとはまぁ俺もそうだったけど日本の番組とか動画で見れるじゃん?だから帰れば普通に日本のテレビがテレビでやっていて当然日本語のネットにも繋がるし食事もニューヨークってことで日本食が手に入るんでまぁほとんど日本と変わらないんだよね。結局は場所とかじゃなくて情報なんだよね。あとはその場所に依存するような何かだよね。


それは人間関係であったり仕事であったりしてそれは物理的なものだけだよね。情報で言えばリテラシーがあれば得られない情報なんてほとんどないわけだしYou Tubeだけで見ても無料講義とか腐るほどあるじゃん?すげー良い講義とかでもアクセス数がそんなになかったりしてまぁー実際の本質的なデマンドってこんなもんだろうなーってああいうのでよく分かるよね。


どっかの大学に所属しないと得られない学問なんて特殊なものを除いてほとんどないよね。昔はあったんだろうけど特にあと今はアメリカも国力が低下してるしっつーか昔より日本が上がったってのもあるしネットも当然デカイしっつーか日本も低迷してるんだけど世界が低迷してるから所謂「良い場所」なんてのがないんだよね。そんなのあればむしろ世界から人が押し掛けてくるだろうにないからまぁみんな四苦八苦してるんだよね。なんつーかもう完全にアメリカンドリームがないよね。移住の夢とかも無いし。ここまでストレートにどこも大変ですって言われると本当に場所がないし相対的に日本がまだマシに思えてきちゃうから怖いよね。こんな自分の嫌なんだけどね。


まだアメリカ生活を楽しんでいた頃のほうがいいんだけど、今のほうが現実的で賢くなっているが故に色々と見えてきてしまって、だからまぁアメリカ生活にまた戻りたい!なんてことも無いしっつーかむしろ思いたいんだけどね。また戻って学校に行く!とかさ、そんぐらいでいたほうがまだ夢があるんだけどまぁさすがに無理だよねっていや、状況的に無理ということではなくて色々と分かるからもう夢が持てないんだよね。まぁようは幻想が持てないってことね。幻想は無知が故に生まれるんであって現実を突きつけられたら大抵の幻想は消えてなくなるよね。そんな状態になったんだよね。今は。


逆に今の手伝いをやりながらもこれを軌道に乗せてお金を貯めて再渡米だ!とかさ、日本の大学に行くんだ!とかさ、そんなのがありゃーいいんだけどそれがもう無くなっちゃったんだよね。むしろそんな無駄なもんにカネと時間を使うのが勿体ないっていうさ、だから自分で本を買って読んでるのが一番良いし誰にも邪魔されないし最良な学習の方法ということになる。そうなると最初に書いたように喋る相手が犬だけになってひたすら本を読むだけの生活が続くっていうさ、それがやりたいことではないの?って自問自答するんだけどなんか違うんだよなぁー。


別に手伝いが辛いわけでもないし家族の配慮があるからっつーかまぁ一般的に言えば甘やかしてるってことになるんだろうけどまぁそういう配慮もあって無理とかは言ってこないのよ。だから全然俺が俺のやれる範囲の手伝いを出来るってことで条件だけで見ればこれ以上のものってないよねってぐらいのものなんだよね。ましてやニートの罪悪感なんてのも手伝いをやってるから薄まるみたいなところもあるじゃん?まぁすげーダサい話だけど。


んじゃあ何が違うのか?ってんじゃあ俺が誰かに教えるだとかなんだとか輝かしいことをやれば自分が満足するのか?っていうとそんなのも全部幻想なんだよね。実際はただ時間が消費されるだけで得られるものと言えば微々たる金だけでさ、所謂、「仕事」って枠組みだとマズロー欲求段階説じゃないけど、そもそも色々なややこしい欲求を仕事だけで満たすなんて無理なわけだ。そんなものを仕事で満たそうとするから不満が生まれるんであって。んでも俺が不満なのか?って何も不満じゃないんだよね。給料欲しい!なんてマジで思わないし。


一番欲しいのは時間で自分はそれを得られてるわけだからね。あと仮に金があっても買うのはほとんど本だけだろうしそんなに買っても読めないから今ぐらいの買える金額が限られている中で読んでいくっていうペースが何気に一番良くてさ、いや、じっくり読めるし金が限られてるから大切に読むようになるんだよね。気に入った本とかは読むのが惜しくなるぐらい。貧乏臭いけど学問と貧乏くささってのの親和性はここにあると思うね。


金が限られているからキャバクラにもいけないし旅行にもいけないし・・・そんな中で本を買ってひたすら読むっていうさ、それが一番はかどるっつーかなんつーかさ、んでも俺の場合、金があってもキャバクラ行こうと思わないし海外旅行も行こうと思わないし、そもそもどこに行こうとも思わないし本以外にリアルに欲しいものがないんだよね。んでもその欲しい本はアマゾンのカートには100冊近くあるけどいつかは買う本なわけだからもうすでに買ったぐらいの感覚なんだよね。ちゃんと読む時期になったら買うってことでまずは目の前にある未読の本を読み終えろってことになるわけだからそもそも大量に本を買うということがありえないんだよね。


ましてや最近はもう一般書の類はほとんど買わなくなったし新書なんて全然買ってなくて買うのと言えばペーパーバックばっかだよね。言うまでもなく洋書はすんげーボリュームがあるのがデフォだしとにかく安いから結構買えちゃうんだよね。でも買えても全然読み終わらないし数学の本ならなおさらなんだよね。


どうよ?これ。俺って自分の今の生活を正当化してるかね?いや、してないんだよな。お客さんの犬を預けるために道を歩きながら色々と考えている中で今書いたようなことがあるわけだけど全然正当化でもないんだよね。実際は自分は常に刺激を求めていてどっかに行けばそれがあるならまた親に色々な無理を言って歳とか関係無くゴリ押しでやると思うんだけどそういうのが無いんだよね。で、買うものとか向かうものは本ばっかになるから、だからまぁ自動的に隠居モードになるっていうかなんていうか。だからよく思うのは学者と言われている人達の中でラジオやら家庭やら執筆やら講義やら飲み会やら遊びやらなにやらこなしていて研究できてんのかな?って思うよね。俺みたいに時間がジャブジャブ水のようにあっても全然足りないんだから。


だから自分の「専門性」みたいなのを決めてそれだけを「専門知」としてキープしてスペシャリストぶって学者面するしか方法が無くなるんだろうなってのも思うよね。時間のなさとか研究できてないってことを見せかけだけの専門性とか喋れば色々と喋れるように見えるこなれた感じで誤摩化すしか無くなるもんね。研究という観点から見れば例えば日本の大学のシステムなんて最悪だよね。ちゃんと学問やるならアカデミックに所属してないとできないものはともかくとして、自分でできるやつなら自分でやったほうがいいんだもんね。あえてあんなこき使われて全然時間が無くなるような場所に所属してなくたっていいっつーかあとはもう閑職みたいなのを見つけるってのがベストになるよね。生活は地味になるし退屈になるけど研究ははかどるもんね。


そういう意味で知的な満足感と身体的な満足感はなかなか両立できないものだってのが分かってきたんだよね。女の子との交流とか一切無くてさ、可愛い子とも話す機会がないから毎日服も同じで髪も伸ばしっぱなしでさ、永遠と色々考えてたり鬱になったりたまに調子良くなったりっていうさ、ただ毎日やっていることは笑えるぐらい地味で同じでさ、でも知的には満たされているんだよね。すげー良い本に囲まれていて読み終えてない本が大量にある割に欲しい本もなんだかんだで色々とあったりしてさ、これ以上何があるの?ってことだよね。


そういう意味で何が違うのか?って思うんだよね。やりたい事できてるじゃん?っていう。アメリカの大学にいなきゃやれないことがあるの?ってないからね。さっきも書いたようにむしろそれがあればそれを欲望するんだけどマジでないから困ったもんだって感じなんだよね。あといつも書くように「わたしのニューヨーク」的な番組あるじゃん?ニューヨークを聖地化して誇大に描くような番組ね。でもマンハッタンなんて慣れちゃえば本当にただの街だからね。むしろこんな不況でも異様に高いrentを払い続けて楽しそうな生活をしているやつらがやたら目立つってことでルサンチマンしか湧かないような街だよね。いつも思ってたもんなぁー。


まぁルサンチマンなんだろうけどNYUを通るたびに「こいつらみんなのバカ高い学費払ってんのか?」って。まぁみんなじゃないだろうけどね。あの異様に金がかかったエントランスとか景気が悪いアメリカの中でもう嫌みにしか見えないんだよね。悪質なブルジョワ趣味にしか見えないぐらいNYUは下品だったな。ホームレスがゴロゴロしてんのにマリーアントワネットが民衆の不満とか無視してどんどん建物とかに金をかけているような感じね。まぁ別に私立だから何やってもいいんだけどね。


なんかでも学校的なものに異様に金がかかってるってなんかやっぱダサいんだよな。ボロい校舎にすんげー優秀な先生と生徒が少人数クラスでやってるっつーのが俺の勝手なエリート感なんだよね。そういう場所にすげー憧れてたんだけどまぁそんな場所俺の頭の中にしかないわけで、だからまぁその頭の中のボロい校舎で永遠と勉強を続けている感じだよねってまぁなんかポエティックに書こうと思って失敗した感じになったけども。タイピングミスした時しかバックスペース押さないからね。書いたのは基本的に全部そのまんまなんだよね。


あとはそんなところは無いと書いたけどそりゃー超一流大学に行けば違うわけよ。アメリカでもハーバードとかイギリスのケンブリッジとかオックスフォードとかさ、俺のイメージに近い風景があると思うんだよね。でも学力的に全然無理っていうのがあるから無い物ねだりなんだよね。で、俺程度の学力で行けるところは限られているからそんなところなら行かないほうがマシだってことにもなるわけで。大学って本当にアンフェアだよな。哲学だけ異様にできるやつとかさ、数学だけ異様にできるやつとかいるわけじゃん?でもシステム的にそういうやつって劣等生になるからね。


まぁ俺はそんなに異様にできるというほど出来るとは思わないけどんでもまぁ学びたいっていう意欲はあるわけでさ、んでも所謂システム的に計られる学力じゃー全然求めるようなコースに入れないんだよね。だからまぁ結局俺の力不足ってことなわけでもうしょうがないんだよね。ちなみに今読んでる本の著者はケンブリッジ大学の教授なんだけどまぁようは別に本を買えばいいってことだよね。ケンブリッジに行けなくてもケンブリッジ出版だのオックスフォード出版だのMITだのハーバードだのシカゴだのから出ている出版物はバカでも買えるわけで。まぁバカじゃ読めないけどね。


なんかでも本当にリアルにこのまま行くと前にも増して凄まじい隠居モードになりそうなんだよね。もちろん女子との接点もないまま永遠に俺は歳を取っていくって感じでさ、いや、なら女子なのか?っていうとまぁそういうわけでもないんだけどね。いや、でもまぁやっぱ学校はそれがあるわけだよね。女子との接点があるってのがいいんだけどまぁでも大抵バカだからそれはどこも同じだよね。アメリカでも同じだもんな。別にそこまで顔が良くなくても話が合えばいいんだけどそんな人と会ったことないもんね。これもまぁ無い物ねだりですな。


とりあえず接点を持ちたかったら妥協してでも接点を持て!ってことになりそうだけど正直そこまで求めているわけでもないんだよね。それこそそんなのに時間を費やすのが勿体ないわけでってこれはあっちにいたころもしょっちゅう書いてたな。結局あんまりニューヨークに居た頃と変わってないんだよなぁー(笑)やっぱ俺は俺だなっていう。全然環境とか関係ないんだもん。本当は環境とかに関係したいし何かを求めたいんだけどないものはしょうがないからね。


慣れってのは嫌だね。本当に。大抵の音楽にも映画にも感動しなくなるんだもんな。経験の集積は本当に人生をつまらなくするよな。だから大人になるとつまらなくなるんだろうね。ちなみに俺は全然脳は退化してないと思うのね。普通の所謂「社会人」と比べてストレスないし酒も飲んでないし何より睡眠時間が足りてるから脳にいい生活しかしてないし感覚とかも全然衰えてないよね。そういうものの衰えによって人生がつまらなくなるのは単純に脳がダメになっているからだと思うんだけど俺はそれはないからね。だからまぁようは経験なんだよね。


10年前と比べて色々な経験をしたからまぁ慣れちゃうよね。思えば英語を喋るとか英語で読むとか夢の一つだった気がするけど知らないうちに喋れるようになってたし読めるようになってたっていう感覚になるよね。長期的に見れば。まぁ当たり前なんだけどね。日々の積み重ねがただ結果をもたらしているだけだから。まぁスピーキングは喋ってないから落ちてるだろうなってまぁ日本語ですらも全然喋ってないんだけどね。


俺の中の感覚だとだから今ではまだ夢物語に思える数学マスターも昔の英語マスターを夢に見ていたような感覚と同じで続けていけばいつのまにやら分かるようになってるしできるようになるんだよね。だからまぁこれはリアルに続けていけば達成可能だとは思ってるよね。現にこの半年間での俺の数学の知識の伸びといったら半端じゃないからね。一気に累乗したか?ってぐらい伸びたと思うっていうか6月ぐらいにまだ入試とかまだ考えてた頃に開店直前の店で解析序説を絶望的な気持ちで読んでたもんな。来年受験するのに全然わからねぇー・・・っていうさ、しかも面白さもほとんど無い・・・どうすればいいんだ?って感じだったもんな。思えばもう今は数学が完全に生活化してるもんね。


それこそ半年前みたいな「数学やる」なんて意識がなく哲学の本を読むかのように自然に数学書を読むようになってるわけでさ、だからまぁどんどんやりたいことっつーか達成したい事が達成していけてるんだよね。それはまぁこれだけを求めているしこれしかないからまぁ達成できるのがむしろ当たり前なんだよね。だってこれしかやってないしこれにしか接してないわけだから。自分の中では没頭しているという感覚はないし、そんな凄まじい時間接しているとは思わないんだけどようはこれが年中無休で毎日やってるから結果的にすげー積み重ねになってるんだよね。一日大量にやるとかじゃなくて毎日必ず読んで楽しむっていうそういう感じだよね。


結局これを続けていることが知識の定着に繋がってると思う。少なくとも俺の経験では「頑張ろう!」とか思って頑張って読んだりして身に付いたものってないよね。全部楽しかったり理解するまで大変だったけど「うわー!すげーー!」とか「あー!これこれ!」っていう感動が必ずあるよね。小さい事でも常に小さな感動がある。これが知的刺激を満たすということだよね。


身体的なもので言えば代替可能なのはドラッグぐらいしかないだろうっていうのが知的刺激の場合はそれ自体をやることで満たせるからね。あとやっぱ面白い事にこれも哲学と一緒で「面白い!」って感じた所に関しては次に読みたい本ってのがどんどんできていってさ、いや、数学でね、だからまぁ自分で道が勝手にできている感じなんだよね。だから次何やったらいいのか分からないなんてことがまず無いわけ。読んでない本とか読みたい本が多過ぎて何やったらいいのか分からないなんて感覚が想像できないぐらいになるんだよね。そういうのがあるとすれば最初だけだろうね。


乗ってきちゃえばあとはもうそれに乗るだけって感じだよね。だからまぁ学校なんていらないんだけどね。そもそも俺みたいなやつが学校的なものに憧れを抱いてるのがおかしいんだよね。自分で出来ていることをもっとスローペースでなおかつ劣化したクオリティでやっているのが大学なわけでさ、良書に勝るものなし!でしょ。言わば学問のソースが本にあるとすればソースにダイレクトに電脳を繋いでるようなものが読書なわけだから余計な中間アクセスポイントとかただの劣化を与えるだけだからいらないんだよね。「ここが分かりません」っていうのを直接聞けるのが良いという意見もあるけど、俺に言わせればそんなもん自分で考えろ!ってことだよね。


聞けば答えが返ってくるなんて逆に思考力なんて全然身に付かないじゃん?思うに数学と哲学は独学が一番向いてる学問な気がするな。徹底的に自分でじっくり考える思考力と「そうか!」とかって思う直感力と「こうなんじゃないのかな?」って思う独創力ね。まぁ独創力に関して言えば大抵の思いつくことはもう誰かが思いついているけど自分がそれを単独で思いついたんだったらそれはいい線いってるって評価してあげないとダメだよね。俺で言えばこの繰り返しだもんね。色々と読んで「こうなんじゃないのかな?」って考えてて何かと出会って「これだ!」ってことになるってのが統合された知識を生み出してるんだよね。


ようはもう芽は自分で育ててるって感じがある。逆を言えば芽が出てないから出そうもないものの本を読んでもほとんど何も得られないし表面的な衒学的なものしか得られない気がするね。本質的なものはもう意識に薫習されている状態から意識の中に顕在化すると思うんだよね。それがないと「誰々はこう言っていました」とか「誰々によると・・・・」的なグーグル先生で代替可能なもはやあんまり意味がないただの「情報」になる気がするね。


だからあんま今はそういう情報的な意味で博学な人って昔ほどの価値はないよね。いつも書くようにだからこそ思考力がある人の価値が余計高まるんだよね。もうそういう博学な感じっていらないしむしろ情報量が凄まじい中で思考力でやっていける人ってレアでしょ?みんなそういう人を求めるって気がするし。「何々によれば・・・」的な回答しかできない人じゃなくて「こうなんではないでしょうか?」ってハッとさせられるようなことを言える人に価値があるって感じがするよね。本質的な「知」が求められるのが大量の情報の洪水の中ってなかなか面白い現象だよね。


なんかもういいや。今日は。気が済んだから終わるわ。あとあれだね、もうちょっとやっぱ頻繁に書いたほうがいいよね。最近は店ではもっぱら読書だし日中は本を読まなくてんでパソコンやるっつったら動画かエロサイトぐらいだもんね。やっぱ書きたい事があったらすぐ書けるようにネットの誘惑とかがありつつもやっぱ手許にパソコンを置いておくのは必要かもな。そうじゃないと俺も大変になるからね。書きたい事が多過ぎて今日みたいな洪水になっちゃうから。あと書かないとどんどん病んでいくからね。マジで。メンタルヘルスとしてあたかもジョギングのように書く事は俺にとって絶対必要なんだよなって今更言う必要もないんだけど。