概念とか認識の話。

ゲーデル不完全性定理の概念の誤用並のものだと思ってほしいんだけど、まぁようは比喩的に言うだけだからね、概念と概念が完全対応してるとかそんなのじゃないんだけども、ようはここ最近俺が書いているオントロジーの話で、まぁ例のゲーデルの話から続くやつの続きなんだけど、こないだも書いたように俺は言語哲学の類が大嫌いで、何が何を指すのか?とかそれをこれが指すとすればこれはこういうことになって矛盾するじゃないかとか、そんなのは言語というシステム上の矛盾とか混乱とかなんであって本質とは関係無いってまぁしつこく書くけどさ、だからまぁその分析をやり過ぎるとただの頓知みたいになってばからしくなるってことなんだけど、ではその本質とは?というとさ、それは俺が勝手に解釈しているゲーデルだとゲーデルは数学的概念を恐らくこの本質として捉えてたと思うんだよね。それが記号とか数学で意味されたり指示されたりするものであってもそれは方法論的な概念を使ったり指したりするためのものなのであって、そこのシステムなり「指す」という行為なり「意味する」ということなりには本質は全く関係無いっていうさ、その指すということで本質が現れるのか?って大抵の場合は現れないと思うんだよね。


でも人間は感覚だとか「これってこうだよね」とかって何とも言えないけど「うん。そうだよねー」っていう言葉とかではない感覚とかで理解してるものがあるでしょ?っていうかそこで言語感覚とか表現に長けた人がarticulationって意味での表現力があるってだけで感覚のレベルではそれこそ何も指されないというか記述できないからまぁなんとも言えないということになるよねっていうか最初の比喩的な話ってことなんだけどさ、そこがようはハイゼンベルグの不確定定理に例えるとさ、その指す概念なりを観察したり指そうとするという人間の認識が介在したらもうそれは人間の認識の影響を受けてしまっていて本質とは違ったものになるんだよね。でも完全にってことではなくてようはそれを言語なりなんなりで表すということでそういうプロセスによる劣化が起こるわけね。だから完全的な客観性なんて到底人間には想像不可能なんだよね。それは主観で認識される客観性と人間が呼んでいる意味での客観性で本当の客観性とは違うよね。


これってのはようは唯識的なんだよね。人間の認識によって何かが認識されて作り出されているわけで、それそのものの認識なんて不可能というかさ、そもそも主観性を介在しないものなんてのがありえないってことなんだけどってこれは唯識でここまで言ってるかは分からないけど、まぁようはだからただ意識があるだけってことなんだよね。細部は違えどフッサール現象学にも通じるものがあると思うんだけどさ、そこをまぁフッサールは超越論的主観性だとか本質直感だとかさ、西田幾多郎で言えば純粋経験なんてのが近いと思うんだけど、でもまぁそれも「感」なり「観」なりが当然介在するよね。まぁ人間だから当たり前なんだけど。だからといって俺は別に不可知論を説きたいわけじゃなくてさ、つまりはプラトニックな意味での数学的概念というのがようはこの本質にあたると思うのね。


それを数学という言葉で記述していてしかも数学は言語なんかと違って凄まじく細かい抽象的な部分まで表せるから自然の言語だとか神の言語だとかって言われるんだけど、でも表せないものもあるんだよね。こないだ書いた存在そのものが論理構造を規定するから、存在そのものを表す原理的な論理構造は存在しないみたいなことを書いたけど、数学的に厳密じゃないから同じだとは言わないけど似たような話が選択公理にあるんだよね。選択公理を認めることで証明できることはいっぱいあるけど、それを認めることで生まれる直感的な矛盾とかがあるわけだよね。


でもそれは単純に選択公理で証明できているものはその証明できているものが選択公理によって記述可能だったという話なだけで、そこから生まれる矛盾とかはまた別問題だと思うんだよね。矛盾が生まれるから公理系として妥当なものか?というのは違うんだよね。いや、あからさまに背理法とかで「ダメです」って言いきれるような矛盾ではなくてね、公理系がワークするものとそれを全てに適用しようとすると矛盾が生まれるものもあるってことね。でもそれは「指す」ということからくる公理というシステムの問題なんであって本質の問題ではないんだよね。


それで指せるか指せないかはともかくとして、人間をあざ笑うかの如く数学的事実というのは明らかにそれそのものとして存在してるんだよね。で、その「それそのもの」というのが俺が最初に書いた「本質」ということなのね。別にこれは数学的対象に限らず何かの対象であればそれは必ず存在するんだけど、でも必ず人間側が作るルールとか認識とかなんだとかってのが介在するとそれでは表しきれないものとか矛盾が生まれて指すということが出来なくなるとかっていうことが色々とあるってことなんだよね。だから言語で全てが表せるだとかなんだとかって笑わせんなって話なんだよね。そんなに人間は優れた動物じゃないだろっていう。全てが表せたり知ってるのは神みたいな存在しかありえないんだよね。まぁ人間がそういう認識を得られる日が来るかもしれないけど、それはカントが言ってたよね。神的な認識ってのはまぁそういうことだよね。


で、なんでその感覚が重要なのか?というとね、ようは前に書いたところで言うところの感覚与件だよね。センスデータね。それがなぜ数学に介在するのか?ってところが面白いところなんだよね。もちろんゲーデルが言うように感覚からかけはなれているのに公理自体がそれを真だと表しているから認めざるを得ないものもあるんだけど、でも逆に人間の感覚で言えば真だろうと言えることも数学的に表せなかったりすることがあるじゃん?ゴールドバッハ予想なんてのが典型だと思うんだけど。経験論的に見れば「うん。十中八九そうでしょう」って言えるけど数学的に証明されてないからそれはもちろん証明でもなんでもないんだよね。でも真であろうと思わせるような経験的なものが数学的概念に介在しているんだよね。それはモロに数学的概念が人間の感覚に与えているものだよね。「真であろう」と思わせるものだからね。


かといってももちろん経験主義的な数学の考え方なんでバカにもほどがあるわけだ。前にそういうバカな立場に立って色々と書いてある本を散々批判しまくったけどさ、笑っちゃったのがね、パイとかが計算できるっつーか無限に小数点が続くというのを計算機を使って証明できる前にはパイなんていう数値は存在しなかったのだ!みたいなことが書いてあったんだよね。他にもバカな議論が多数でしかも言語学者だかが書いた本なんだよね。本当にバカ過ぎるね。本を捨てようと思ったけど凄まじく間違った立場から書いている本としてまぁとっておくのもいいかなと思ってとってるけどね。


まぁ話を戻すとさ、こういう認識論というのは数学的対象を考えたほうがよりクリアになるんだよねってことなんだけどね、ようは感覚から乖離しているからといってそれが真ではないという意味では当然ないし、逆に感覚的にはそうだろうって思わせるのも数学的には真じゃなかったりするじゃん?もちろん直感的な妥当性というのがあると考えるのもいいけど、そこに重きを置き過ぎると肝心な真実が見えなくなる場合もあるんだよね。そもそも19世紀の無限に対する批判の大半はこういったものだったような気がするんだよね。そんなものを数学に持ってきたらナンセンスを認めることになるじゃないか!っていうクロネッカーみたいな有限主義があったわけだ。まぁ歴史的に見れば妥当だったとは思うって前にも書いたけどね。むしろ分かるほうが異常なわけで。


で、無限を扱うものになるとそもそも無限の感覚ってのがそもそも感覚的じゃないからさ、まぁ俺は感覚的なものだと思っているけど、でも一般的にはそうじゃないと思うんだよね。一切無限というものが理解できない人もいるらしいからね。でもそれはそんなものとは縁がないわけだから当然と言えば当然だよね。頭の善し悪しは関係無いよね。でも感覚的な妥当性ってのに数学なりなんなりの妥当性を重ねあわせちゃうとそれこそ量子力学とか成り立たなくなるわけでしょ?


まぁでも量子力学が人間の感覚を変えることはあると思うけどね。それは数学然りだけど。そこがいつかは混ざるというかクロスしていくんじゃないか?というのがゲーデルが言ってたことだよね。それは人間の認識が高度化していくということであるし、もしかしたらゲーデルはカントの神的認識的な概念に影響を受けてたかもしれないよね。それはまぁすげーカントにコミットしてたからすげー可能性あると思うけど。でも俺もやっぱそう思っててっつーかそこが前に書いたハイパーリアルなんだよね。最初に書いてから一年ぐらい経ったけどようやくちゃんとクリアに書けるようになった気がするね。


ここまでの話だと人間は有限的な生き物だし人間中心では何も理解できないみたいな不可知論に陥りそうだけどそうじゃなくてその認識の高次化だよね。それによって凄まじく乖離があったり理解不可能であるように見える数学理論とか物理理論とかも感覚として理解できるようになる気がするんだよね。時間はかかるかもしれないけどそれこそ100年前とかに微積理解してたらエリート扱いされてたわけでさ、今なんて高校でやるわけじゃん?だとしたら今から100年後の数学的感覚なんてのは今よりもっと発展したものになってると思うんだよね。


それこそ無限の数学とかを中学ぐらいでやってるかもしれないわけで。まぁ別にそれが必ずしもハイパーリアルへの道でもないしさ、本質的認識への道ということではないんだけど、でも概念そのものを捉える感覚というのが高次化していけばなんつーか今の人間じゃ分からないか、一部の人間しか分からないようなことがもっと当たり前のように理解できるようになると思うんだよね。それはそれこそテクノロジーとかが発展しまくってそのテクノロジー自体が量子論的世界観の妥当性を裏付けるものになっていて、そんなパラダイムなんて小学生でも理解してるってぐらい当たり前になってると思うんだよね。まぁ量子論のもっと次かもしれないけど。これはまぁ現実世界がどんどん高次化していくってことだよね。


物理理論を扱えるようになってテクノロジーとかに応用できるようになるってのはようは俺的に言えばイデアを現実に適応するというか、イデアの真似事を現実にも具現化させることに成功しているということになるんだよね。全てではないけどイデアの反映の一部をより多くの事に使えるようになることで色々とまぁ便利になるってことだよね。それによってまぁ地球が滅びる可能性もあるわけだけど、そこがまぁようはもっと重要な善のイデアの出番だよね。それを分かっている人間が扱わないとイデアはとんでもないことになりかねないわけで。だからまぁ結局哲学が凄く重要になってくるんだよね。科学ばっかやっててもダメなわけで。なんかあの数学者とか科学者の哲学への軽蔑とか嫌厭が嫌なんだよな。それは根本的にすげー間違ってるぜ!って俺的には言いたいんだけど。


あとちなみに言語の話だけど言葉では全ては表せないみたいなさ、なんか仙人とかが言いそうな諦めってあるでしょ?なんか悟ったように思わせるような感じのね、そんなことではないからね。俺が言いたいのは。もちろん分析哲学言語哲学も批判的だろうがなんだろうがそもそも言語ってものを扱って色々と記述をしたり意味合いだとかなんだとかを考えているということは先人が四苦八苦してきた様々な思想のプロセスなんかを辿る必要性はあるんだよね。


だからあんなのくだらないではなくてくだらないとは思うけどでもなんでくだらないのか?というのをさ、「なんでそんなに言語にこだわるわけ?」ってのも気になるわけだし、だからそういう意味でもなんつーか分析哲学とか言語哲学とかは日和見的な感じではなくて深くコミットしようと思うよね。俺って元々まぁやっぱドロドロ実存主義みたいなのがまず俺の思想の根底にあると思うしそういうのを読んできたとは思うけど、今は今日書いてきたような「本質」を考えるにあたって分析哲学とか言語哲学とかを深く掘り下げる必要性が出てきたって感じなんだよね。


それで分かるようになるとかではなくて考えているものと近い分野ということで知る必要があるというか、まぁ単純に俺が知りたいってだけなんだけどね。本当にノーチェックだったからね。あとはやっぱり数学というよりも存在を指すものそれ自体の作用とかシステムという意味での集合論も興味というよりかは自分の中の哲学の分野としてリアルに必要になったよね。それは2年前ぐらいから目覚め始めた数学とは全然違う流れでまぁ元々の哲学の流れとして数学が出てきたって感じだよね。まぁ前にも書いたけど自分の中で哲学と数学がクロスしてきて嬉しいんだけどね。それとは別に単独の数学として興味があるのはやっぱり確率っつーか複雑系と解析と位相だよね。まぁ言わば連続系のやつだわ。


んでもまぁなんとなく大枠としてはやっぱり俺の最大の興味である無限があると思うね。何に感動して目覚めたか?って集合論の無限の数学なんだから。まぁもう2年前になるんだよねー。はえーな。実際、ちゃんとやり始めたのがここ半年だから2年前から考えるとその1年半が勿体なかったなと凄く思うよね。まぁ全然何にも分からなかったからしょうがないと言えばしょうがないんだけどこんなfruifulな分野に深くコミットしてなかったなんて勿体なかったなって思うんだよね。


あと今思い出したから書くけどさ、岡潔がしきりに数学とは情緒であるって言ってたけど、これが俺に言わせれば数学の感覚与件なんだよね。それを岡潔仏教とか正法眼蔵なんかで語ってたけど、それは恐らく岡潔にとってそれが一番しっくりくるというかone to one対応が明らかだと思われるから岡潔の直感とか数学的感覚を仏教の言葉で語ってたんだと思うんだよね。まぁあまりにも高尚過ぎる認識のレベルで常人を超えているのは明らかだけど、でも俺がさっき書いた数学的直感がより本質的なものと近くなるというのはつまりはそれが磨かれるということなんだよね。で、それは数学にコミットすることで磨かれる場合もあるけど、さっき書いた何百年単位で見るとコモンセンスのレベルとしてそれがもう底上げになるんだよね。今は別に微積分の基礎ぐらいならそんなに難しいわけじゃないじゃん?100年前に比べたら割とまぁ広く理解されてるよね。こういう卑近な感覚ね。


だって今って前にも書いたと思うけど100年前の人の一年分だから一生分の情報を現代人は一日で得てるとかなんとか、did you know?っつー有名な動画なんだけどさ、あれを見るとよく分かるんだよね。もちろん情報量=真実ではないけど、でも昔の人にはたいそう困難だったこととか概念が今の人にとっては当たり前っていうさ、そういう差みたいなのを100年単位とかで見るとようは俺の言いたい数学的感覚とか直感というのも凄い天才が出てくるとかっていう話ではなくもっとgeneralな意味での感覚が上がっていくってことなんだよね。まぁ歴史的に見れば当たり前のことなんだけど。


でもそれはやっぱり対象が数学であるが故に数学ってやっぱピュアな概念でしょ?本質を言語なんかとはもっと違った意味で近く正確に表しているって意味で人間の感覚がそれに近づくってのはより本質に近づくってことだと思うんだよね。人間の言語は恐らくそんなに発達しないから言語系の内在するパラドックスとかは多分残ったままかまぁ学問的に解決されるかもしれないけど数学に関して言えば今から見ればremarkableなぐらいの違いがあると思うね。まぁ俺が50年後どんな世界を見ているか?ってことだよな。それを考えると長生きするのも悪くないなと思えてこなくもないよね。


という未来に思いを馳せつつ今日は寝るです。んじゃまたね。