ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

分析哲学だとかなんだとか。

分析哲学について批判的に色々と読んでみるって前に書いたぢゃん?で、まぁ今読んでるんだけどさ、あとでアフィっておくけどね、なんかやっぱ予想通りなんだよね。まず俺の偏見というか勝手な印象だとやつらは思考をやたらめったら論理に還元して全てのものは論理学的に処理できるとかって考えてるっつーかアレなんだよね、ウィトゲンシュタインのTractatusがバイブルになってるっつーかそれがようはマルクス資本論とかのレベルでのバイブルになっちゃってるんだよね。前にも書いたっけ?


で、ウィトゲンシュタイン教みたいなのがあって、クリプキみたいなのがああいうどうでもいいのを書いたりするんだよね。教祖様はさぞかし深いことを言っているに違いないっていうさ、それはマルクスにも言えるじゃん?所詮は人なのにすんげー緻密に読み込むじゃん?まぁシュトラウスにおけるプラトンとかマキャベリも一緒なんだけどね。で、もうそれ自体が一つのschoolみたいなのを形成するんだよね。


いや、でもマルクスとかは分かるんだよね。教典になりそうな気がするけどTractatusってどうなのよ?っていう。実際、ウィトゲンシュタインは後期にめっちゃ変わったわけだし、むしろ後期のウィトゲンシュタインがひっくり返したようなものを教典としているっていうのがさ、いや、まぁ教典というのは語弊があるけど、まぁ初期ウィトゲンシュタイン的な考えのまま哲学をやってるってことね。それがどうなのよ?って感じなんだよね。分析哲学とか科学哲学ってすんげー表面的で薄っぺらい感じがするんだけど、なんか本当にそうなんだなーってのが実感だよね。こんなことをあーだこーだやってるっつーのがまずなかなか信じられないね。


まぁ大陸系の哲学との対比としてさ、ようはポストモダン系との対比で分析系って存在してるように見えるんだけどさ、いや、分かりやすいじゃん?大陸系=形而上学的で分析系=はまぁリテラルに分析的なのね。ただ後者は形而上学を無くすっていう信念があるよね。あとは命題として見た時に意味を成していないものは語る意味が無い的な。いや、それってさ、言語的だったり論理的に見るとナンセンスってだけなんであってさ、それ自体が意味無いってことはないじゃん?いや、ようはそれは人間によるでしょ?むしろそういうのを考えるのが哲学だし哲学者っつーのはそういうことを考える人達なんじゃないの?っていう。まぁでもね、こういう大陸系と分析系って大雑把に分けちゃうとこれはまぁ学派というかさ、見方の違いだからディスってもしょうがないなって気はしたよね。


ただなんかさ、「人生とは何か?」なんて言語的だとか論理的に意味を成してないから意味の無いことを考えるということになる的なこととかマジで言ってんのか?って思うよね。思うに分析系の人って完全に理系のメンタリティで哲学をやってるっていうかさ、「何のために生きてるんだろう?」とかって考える事がまず無い人達がやってる感じだよね。まぁそんなことを考えちゃうのがようは実存系の哲学とかにのめり込むってだけでさ、まぁ系統の違いと言えばそれまでなんだけどね。だから形而上学側から「分析系はナンセンスだ」とは言えないんだよね。


スクールの違いっつーかなんつーかさ、分析哲学って大半がくだらないとは思うけどやっぱ有用な研究とかあると思うし完全に否定はできないけどさ、でもまぁすげー嫌いだわ。ただでも形而上学とか実存系の人は分析系の思考は入ってたほうがいいよね。ようは考え方の一つとして分析系っていうメソッドがあっていいってことね。でも逆は無理なんだよ。恐らく分析系の人達は形而上学的なことで悩む才能が無いからああいうのやってるのが大半だと思うからね、まぁ例外はあってもあんなのやってて哲学自称してるとか感覚が悪過ぎだろって思うんだよね。そんな感じでまぁだから現象学が一番良いと思うんだよな。フッサールなんて分析系の考えなんて余裕で入ってたと思うし、現象学はそれが入った上での主観という意味での観念に立脚した哲学なわけだからそもそも哲学のバージョンが高いんだよね。分析系とかはバージョン1のまま永遠に色々やってる感じだよね。まぁ論理のこねくり回しということならいいんだけどあれで哲学とかって思ってるのが相当アウトだよなーって思うんだよね。


まぁ彼らの言うことを見るとそれこそが哲学のパラダイムでなんとでも言えるものなんてのは厳密性を欠いたどうでもいいものだってことになってる感じがあるよね。それはまぁ言えなくもないんだよね。特にポストモダン系とかはそれをやり過ぎちゃったからそういう言いっぱなしみたいなのを指摘されるとまぁ痛いよね。んーまぁでもやっぱ俺のデフォがいかに「いかに生きる系」になってるか?ってのを思い知らされたよね。それもまた一つの哲学のスクールなんであってそれだけが哲学じゃないっていう。ただそれだけしか見えなかったというか興味がない俺としては分析系とか言われても「は?」って感じなんだよね。全然ピンと来るところが無い。


ウィトゲンシュタインは凄い哲学者とされているから「何が凄いのか分からない」とかさ、「言葉にこだわり過ぎじゃね?」とかって思ってたのはさ、絶対俺の勘違いか理解の浅さだと思ってたんだよね。そんな浅い人が偉大と言われるわけがないから俺の理解が絶対おかしいんだって思ってたけどまぁ改めて色々と読んでみて全然それは間違えじゃなかったなって思うね。いや、ただ後期に色々変わったってのを見るとウィトゲンシュタインはむしろ実存系の人なんであってさ、初期の分析系のメソッドなり考え方がマルクスマルキストを生み出したようにウィトゲンシュタイナーとも言うべき人達を生み出したってだけだよね。基本的にTractatusの影響が凄まじくて本当にあれは一部の人たちにとって一種のドグマになってるよね。The Book of Dogmaって感じ。


でも俺はウィトゲンシュタインのあの流れを見ると凄く好きになれるんだよね。すげー実存系で哲学感度が半端じゃないというのがあの流れを見るとよく分かる。一時期分析的だったというだけでその分析的メソッドが宗教を生むようなぐらいクオリティの高いものを書いていたわけだしさ、そっからまた色々と考えて考えが発展して初期の事をひっくり返すような結果になったっつーのも凄く哲学的に真摯だなって思うんだよね。だから分析哲学=クソだとしてもウィトゲンシュタインは別格だよね。ウィトゲンシュタインに関しては一時期そうだったってだけでやっぱ全体として解釈しないと話にならんよね。


だから分析哲学はどうでもいいけどウィトゲンシュタインはやろうかな?と思うけどでもまぁ大体こんな感じでこう終わったってのは分かるしっつーかまぁ別にそこまで深いわけじゃないんだよね。「ふーん。なるほど」ぐらいのもんで別にそれに時間を割くぐらいなら自分で色々と考えたほうがよっぽどいいっていう。ようはやっぱそういうところで言えば所詮昔の人なんだよね。マルクス然り。やたら研究する人ってさ、現代に起こっていることをなんでもかんでもマルクスに結びつけたりさ、「ここでこう言っていることと合致している!」だのなんだのっていうさ、いや、最近日月神示ってのを知ったんだけどさ、あれと同じだよね。震災とかも日月神示に当てはめれば全部分かる!的なそういう解釈の仕方なんだよね。ドグマとなるものの共通点はこれだよね。ソースが凄く強くてさ、んで凄まじい数のフォロワーを生むぐらいのカリスマ性があるものでさ、だからこそそのドグマを実証しようとする人達が大勢居るっていう。


ただマルクスもTractatusも日月神示も思想として見ればやっぱ有用なところはあるわけだしさ、どれも優れてるよね。まぁ予言書と思想書を一緒にするのはどうかと思うけどまぁドグマになってる系ってことで。それで言えば聖書だってまぁ予言というかなんかが降りてきたっつー類のものなんでしょ?宗教としてはどうかと思うけど聖書の教えには有用なこととか示唆的なことがいっぱい書かれてるわけでさ、だからまぁ聖書も例外じゃないよね。思想書としては優れてるよね。ただドグマ化するのはどうかと思うわけ。日月神示にしてもあれを実証するために争いが起きるとかさ、戦争が起きるとかそんなの全然ダメじゃん?まぁあれはそういう類のものではないからいいんだけどね。むしろ俺はすげー気に入ったよね。俺が普段から言っている魂を磨くだとかさ、道理に外れていなければ絶対イケる!的なさ、まぁ似たような思想って禅とか唯識とか仏教にあるから俺には色んなもののハイブリッドに見えるんだけどさ、まぁ良い事言ってるよね。


予言の部分は分からないにしても、まぁでも俺はそういうところはオカルト好きだから楽しいんだよね。オカルトはまず科学的というかそれこそ「分析的」な科学的な目線ってのがある上で楽しむには最高のエンタメだと思うんだよね。オーパーツとかムー大陸とかさ、ロマンだらけじゃん?あとは超能力とか霊とか体外離脱とかさ、本当かどうかは分からないけどまだ色々と研究されている段階だから全部噓だとは言いきれないところがあるじゃん?それがまぁ科学的な視点なんだよね。完全な反証がされていないわけだから存在の否定にはならないってことだよね。かといっても信じるというわけではないんだけどただまぁなんかまだ科学で分かりきってないところの一部として楽しめるじゃん?


完全なる噓ってのが分かってても楽しむとかじゃなくて本当かもしれないってこともあるかもしれないっていう蓋然性があるから楽しいんだよね。実際霊能者とか占い師とか霊媒師とか半分以上が噓だと思うんだけど、でも逆に本当にある人は人に言わないっていうよね。あとは限られた人だけに霊視とかをするとかさ、沖縄にそういうイタコがいるらしいけど、普通に考えてそっちのほうがむしろもっともらしいよね。まずテレビに出ないだろっていう。


あと日月神示で面白かったのがさ、神の政治とかって言われる「与える政治」と言われるものがベーシックインカムそのものってことなんだよね。ようはみんな生きる権利があるんだから働く働かない関係なくみんな普通に生きていけないとおかしいだろみたいなことも言ってるんだよね。まぁこれも古典的なユートピア思想でさ、それこそ空想的社会学者とか言われたフーリエだとかユートピア主義の人達が言ってきたことだからなんら新しいことはないんだけどね、ただまぁそうだよねーとは思うよね。そういう社会が実現すれば最高だとは思うけど。


でもそれが3分の1の生き残った人達によってそういったユートピアが訪れるってのが怖いよね。言わば選民主義なんだよね。それは別にユダヤ的な選民主義ではなくて魂を磨いている徳の高い人達が必然的に選ばれたものとして神の子として残るからそういう人達は神の子だからまず奪い合いとかしないしだからこそユートピア的な社会がワークし続けるという永久機関的なものが可能になるっていう千年王国的な思想でもあるんだよね。シオン賢者の議定書とバージョンは違えど結局は言っていることは似ている気がするね。まぁ日月神示のほうがそりゃいいけどでも日月神示シオン議定書で言われているような「大衆」は流されるって考え方だからね。解釈によってはそれはもう神の国には「いらないやつら」だからさ、ある意味ではシオン賢者の議定書より怖いよね。まぁシオンのやつは儀典ですけどね。日月は分からんけど。


ヒトラーが仮に日月神示を読んでさっつーかヒトラーも予言系の人だったじゃん?あの人にダイレクトに何かが降りてきてたんだよね。だから仮にそれが本当に降りてきた神と解釈したとしてさ、俺が思うに恐らく同じ系統の神だと思うんだよね。日月神示が言う石屋ってのをフリーメーソンだと解釈しちゃえばさ、どの道まぁ日月にせよヒトラーにせよユダヤは相当な悪なわけだからさ、そういうところが共通してるよね。日月はそれでもユダヤとコラボするっつーかあいつらを改心させないとダメだって言ってるけどさ、まぁヒトラーの場合、「殲滅すべし!」なんだよね。


攻撃性の違いだけでまぁ同じ系統な神な気がするね。どの道まぁ選ばれた人達しか生きられないユートピア思想だからさ、同じだと思うんだよね。日月の○の真ん中に点みたいなのが入っている人間が神の人間だっつーのとヒトラーが言う神人ってなんかまぁ言い方の違いだけで同じな気がするしね。指している者が。俺はどの道ヒトラーにせよ日月にせよ予言とかは関係無くそういう神人というか超人になるというのがどの道今後を生きる上での重要な要素になると前から思ってたからなんらインスパイアされることはないよね。別に当たり前のことっていう感じしか無い。あと日月は読む人によってそれは解釈が変わるって言ってるけどこれも上手いよね。ようはオカルト的な意味にせよそうじゃないにせよ神人になりたい!って思ってる人が見れば神に後押しされるような気がするものになるし、そういう類のものを信じない人にはただのオカルト文章にしか思えないんだよね。まぁでも基本的にこの類のものは全部そうだよね。


あ、いやさ、それこそ「分析脳」とかを持ってる人とかってこういうの一切読めないんだろうね。俺は日月を肯定も否定もしないけど思想としては精進というところを見れば素晴らしいものだと思うから凄く優れているものだって思うけどさ、分析脳にかかれば何にも受け取れないもんね。ナンセンスなものの集積みたいになっちゃうわけでしょ?ゲーム脳みたいな意味でのネガティブな意味での分析脳だよね。それでしか考えられないっていう。つまんねぇー脳だよな。そういう脳で哲学やってるつもりになってるからやっぱなんか許せないんだよね。ラッセルとか本当にどうしようもないよな。


今でもラッセル読書会とかやってたりするところがあってなんかやっぱもう分析脳ってのは永遠に存在するんだなーって思っちゃったよね。別に日本に限らず分析系こそ真の哲学だ!って思ってるやつらは欧米にもいっぱいいるだろうし。バカバカしいにもほどがあると思うんだけどこういうやつらから見れば俺のほうがよっぽどバカバカしいんだろうなー。ヒトラーの予言とか日月神示について色々と書いているって時点で既にアウトなんだろうな。まぁ一般的な尺度でもアウトかもしれんけどね。あとなんかさ、自分の地位とかを気にしてヤヴァそうなのには言及しないみたいなところがあるよね。そんなこと言ったら学会でやっていけなくなるとかさ、自分の言論の信憑性が無くなる!とかさ、ようは自信がないんだよね。自分に。そういう腰抜けが哲学研究とかやってたって何も出てこないのは自明なことだよね。別に勝手にやってりゃーいいとは思うけど。


まぁそんな感じで分析哲学には嫌悪感しか持てないので到底読むのは無理だなと思いましたね。批判的に読むというのは凄いパワーがいるよね。俺みたいに知的刺激を求めるという意味でしか何かを読めないやつにとって批判的に読むというのはまず全く刺激がないものを読むわけだし、どうでもいいんだけど知識として持っていくみたいな動機で読むものだから極めて学校のお勉強的な詰め込みで読むってことだから凄い苦痛なんだよね。まぁそれでも今読んでるやつはよく書けてる本だから哲学史として読んでるけどね。んでもその分析哲学史に名前が挙がっているような人達の個別の論文なり本を読むのは到底無理だなと思いましたってのがさっき書いたことね。


なんかさ、ああいうのって論理に逃げるっていうか何でも論理システムへの還元をしていかに思考を介在させないか?っていうさ、そのプロセスに頼れれば何でも解明できるようなシステムに言葉全般が織りなすものを依拠させたいっていうバカの理論だよね。で、その欲求が強いからいかにシステムを補強するか?とかラッセルのバカみたいな論理変換みたいにいかに扱いやすくして答えを出すか?みたいなのに腐心するわけ。まぁ100年前ならあるのも分かる気がするしさ、それはやっぱ時代じゃん?だからあんまりそこをディスり過ぎてもフェアじゃないなってところはあるじゃん?それは確かなんだよね。今の観点からいかにアリストテレスの物理理論が間違っていたかってのを批判しまくるようなことと結局は同じことになっちゃうような気がするけど、問題はそんぐらい間違った物理理論を平気で使って現在形でまだ何か後継者としてやってるやつらがいるっていうバカバカしさだよね。いや、分析哲学が間違った理論とかメソッドだってことじゃなくて、後継者がなんのアップデートも無くそのぐらいのパラダイムで色々やってるってのがバカバカしいってことね。


かといってもまぁそこは分析哲学といってもピンキリだけど、そういうラッセル的なバカな分析哲学とかを平気で普通に今もやり続けているやつらの頭って完全に「分析脳」だよなって思うんだよね。あれはやり過ぎるとただですら無い思考力がもっと無くなると思うね。なんでも論理とか記号に変換すりゃ済むと考えるわけだから。いや、かといってもあれだよ、別にさっき書いた対比って意味での大陸哲学万歳!ではないんだよ。ポストモダンは前から書いているようにこれまた分析哲学に負けずを取らずクソ度が半端じゃないわけで。分析哲学は何にでも論理に変換しようとするのに比べてポストモダン系は何でも相対化して真理というものの存在を否定しまくっていかに難解にそれっぽく書くか?ってことに腐心してるからまぁ同じ穴の狢だよね。


前に郡司ペギオ幸夫さんが凄い哲学者だ!って書いたけどこの人って完全のこの二つが融合した感じなのよ。都合のいいところは数学とかを使ってあたかもそれが真実のように見せて分かりづらい抽象的なところはドゥルーズだのなんだのっていう難解な哲学を引っ張りだしてきて「それはドゥルーズがこう言っていたことだ」みたいな補強をして理論をそれらしく見せてるんだよね。なんかそれの繰り返しなんだもん。凄い!って思ってたけど全然だね。分析哲学ポストモダンの最悪な部分を引き継いで哲学やってる感じ。この人の場合、部分的に脳科学とか生物学とか科学でちゃんと証明されたことを出してきて真だと言うんだけど、そこにドゥルーズだのなんだのっていう曖昧な形而上学を混ぜるでしょ?で、あと間違ってるとの指摘もある概念の数学的説明ね。


で、それがこう対応しているからこれはこう数式で表せるみたいなのでそれらしく思わされちゃうんだけどそもそもやってること全体っつーか手法がどこもかしこも胡散臭いから鵜呑みにするのがヤヴァイな!って雰囲気がビンビンなんだよね。時間論のやつを読んで思ったんだけどね。あれは最悪だな。本当に。それこそ難解もの好きな大学生とかがコロッといっちゃうような代物だね。知的詐欺とまでは言わんけどソーカルに読ませて感想を聞きたいぐらいだわな。俺がソーカルぐらいになればいいんだけど道のりは長いな。いや、ソーカルは目指したい人の一人だよね。でもまずあのぐらい理論的に数学とか物理をやってないと到底数式の濫用なんて指摘できないじゃん?


もうその自分の無能さ加減に吐き気がするね。んでもソーカルが凄いのはこの人は分析脳じゃないからさ、大陸系の哲学を批判しつつもちゃんと理解してるところは理解してるんだよね。んでもだからといって何なの?ってことをちゃんと言ってるところが凄い。別にこんなトポロジーとか持ってこなくたっていいじゃん!っていうさ、それがなぜ言えるのか?というとまずラカンとかの数式の濫用とかの誤りは指摘できるよね。数学分かってれば。恐らく。でもそれが何を意味するのか?というのを理解してるんだよね。これがこう言いたいのになんでメビウスの輪の話とかをわざわざ出してくるんだ?っていうさ、そういうある意味でのメタ的な視点で批判してるから凄いんだよね。


だから俺はソーカルが好きなんだよね。本当に科学者としてあるべき姿と同時に思想家の鏡でもあると思うわけ。ソーカル的なインターフェースを持ってそれから思想をやれと。それが出来ている人は恐らく全然いないだろうなと。いや、こういう批判って分析的にやり過ぎて結局は分析側が形而上学的なものとか難解なものをディスってるようになりがちじゃん?でもソーカルは違うんだよね。分析哲学も大陸系もちゃんと理解してるし批判する上での勉強量が半端じゃない。フィールドが違うのに哲学を独学でみっちりやってるんだよね。もう本当にため息が出るぐらい羨ましい頭脳を持った人だと思う。


あ、んでさ、塩谷賢さんも凄い哲学者だ!って前に書いたと思うけどこの人はペギオさんほど酷くないにしてもまぁ分析的過ぎて俺はダメだね。まぁただこの人は独自にやればいいんじゃないか?っていう感じではあるんだけど類ともなのか科学的にも怪しい茂木周辺にいる人はなんかロクなやつがいないというイメージしかないんだよねぇー。茂木さんペキオさん塩谷さんってなんか同じ系統に入るもんね。俺の中で。塩谷さんは知識を持て余してる感じだよね。あんだけの学識がありながら言葉だとか既存の概念っつーか枠組みの中の頓知的なパラドックスとかさ、矛盾とかそんなのばっかに時間を費やしてる感じだよね。もっとその頭脳を他に使えばいいのにって感じがするんだけどまぁそれがあの人の限界でもあるのかもしれないね。まぁ勝手に期待し過ぎたんだけど俺の悪い癖だよね。「この人凄い!」って思うともう全部期待に答えてほしくなっちゃうんだよね。でもまぁ大抵無理なんだよな。だからもう自分がそういう人になるしかない。


そんな感じで今日はこの辺で。



これが今読んでる分析哲学の本って書いたやつね。で、



これも読もうと思ったんだけど読む気が失せたのね。無理だなと。



これがペギオさんの時間のやつね。まぁ散々色々と書いたけどこれを読んでて思うのはこの人の問題点は語りのモードなんだよね。どこが形而上学でどこが自分の意見でどこが科学的でどこが数学的なところなのか?ってのをもっと明確にして書かないと全部ごっちゃに見えちゃうんだよね。だからなんか都合のいいコピペに見ちゃうんだよね。本文にも書いたような都合のいいところはドゥルーズだのなんだのあとは構成主義だとかなんだとかで、科学で分かっているところは科学の例を出して、んで怪しい数学のところはこれは数学的構造を持っているだとかなんだとかさ、なんか全部恣意的なんだよね。色んな所がちゃんとしてないから胡散臭さが半端じゃないんだよね。


ポストモダン系に影響を受けているであろう文体も大問題だね。無駄に難解な言葉とかが多過ぎて余計に元々分かりづらいものをもっと分かりづらくしちゃってるっつーかなんつーか読者に伝える気があるのかな?っていう感じがするよね。その割に還元主義的なところもあって「?」って感じ。この本全体が伝える雰囲気は「難解だ!凄い!」っていうドゥルーズみたいな雰囲気ね。信望する人は徹底的に信者になるだろうなっていう感じがするね。すげー読み込みをしたり読書会やっちゃったり。まぁ勝手にやればいいと思うけど。とにかくなんか煙に巻かれた感が凄いものに関しては「この人凄い!」って思うんじゃなくてまずは批判的でいるべきだね。色んな本とか普通に読んでれば別にこっちのオツムに問題はないからそれはもう書き方がマズいか著者が意図的に権威付けに難解に書こうとしているか、とにかく「こっちの問題」だと思わないことね。


「こっちの問題」と思うとようはあっちの術中にハマったことになるんだよね。「分からんけどこの人凄い!」っていうさ、分からなさとか難解さがイコール凄さになっちゃう構図ね。まぁただでも思想的にもドゥルーズ直系の人って感じがするから「トンデモ」とかって批判しないでドゥルーズ系の思想家として読んでいけばいいと思うね。それは散々ディスったかに見える塩谷さん然り。あんだけ学識がある人は滅多にいないから一級の分析哲学者として話を聞けばいいのよ。合うか合わないかは本人次第だからね。あ、俺が言いたいのは茂木系=怪しい=価値無しってことではないってことね。ただまぁ絶対必要なのはone of themとして見ないと絶対ダメってことね。それは苫米地さんとか宮台さんとか佐藤優さんとかもそうだけど大抵カリスマ性がある特になぜか日本人に多いんだけどそういう人達って偉人と信者みたいな関係性ができやすくなるんだよね。


圧倒的な学識と持ち前の頭脳から「凄い人だ!」って思っちゃいがちだけど、それは絶対ダメってことね。いや、今名前を挙げた人達って全員大学生が崇拝しそうな人達なんだよね。で、東浩紀とかは良い意味でそれが無いんだよね。そういう意味であの人には凄く好感が持てる。良い意味でカリスマ性ゼロだからね。本人も頭が良い人だからそれが分かってて思想家見習いとかってもう言わないようにしたりもう完全に恥部もさらけ出すようなツイッターやってたりすると思うんだよね。そこがいいんだよなー。東さん。そういうのが無い人達がようは神格化されやすいのね。それがマズいってことなんだよね。完璧に見えちゃうっていうかなんていうか。そんなん絶対ちゃいますよ!ってことなわけ。



ソーカルの論文を集めたやつなんだけどね、あ、物理とかのテクニカルなやつじゃなくて主にソーカル事件系の関わるやつを集めたやつなんだけどね、俺的には21世紀の必読書という感じがする。まぁ俺がソーカルに惚れ込んでいて例によって盲目的になり過ぎている可能性もあるから何とも言えないけどね。あとはソーカル主義とかソーカル派とかね(笑)