Logical Disobedience。

分析哲学者の中にはさ、カルナップなんかがそうらしいけど哲学を「論理の科学」と定義して、ようは徹底的に形而上学を排除するっつーか、まぁようは論理的に曖昧になったり、論理的に言えばナンセンスなものを全て「扱えないもの」として看做して全部それ自体を意味無い事だとするみたいなさ、そんなことをマジで思ってたらしいんだけど、もうここまで来るとただのバカなんじゃないか?って気がしてくるね。


恋愛で例えるならこうだよね。「恋愛とは脳内で快楽物質が出ていて恍惚状態になることである」ってこれ自体が実際に厳密かはともかくとして厳密に仮にまぁこんな感じで定義するじゃん?で、それをもう思考の中で例えばさっき定義した命題をSだとすると恋愛=Sという同値関係っつーのかな?それが成立するとかって言いだしてさ、例えば誰かがこんなことを書いてたとするよね。「恋愛とは人生を豊かにしてくれる素晴らしいものである」みたいな感じで。で、恋愛とは定義によればSだから「Sとは人生を豊かにしてくれる素晴らしいものである」ということになるからつまりは「脳内快楽物質を出して恍惚状態になることは人生を豊かにしてくれる素晴らしいものである」ということと同意義になるみたいに言うことなのよ。バカだよね。ホントに。意味論を完全にすっぽかして構造的にすりゃーいいと思ってる。


まぁ俺も一時期こう考えてたから人のこと言えないんだけどさ、だからまぁ「脳内快楽物質放出」が人生を素晴らしいものにしてくれるならそれはつまりはドラッグが人生を豊かにするものであるということとほぼ同意義になるみたいなことだよね。まぁドラッグは大抵依存性があるけど、まぁ恋愛も依存性があるのはつまりはドラックとほぼ作用が一緒だからなんだよね。でもさ、だからといってんじゃあ恋愛=ドラッグなのか?っていうとやっぱ違うじゃん?色んな作家や詩人や哲学者なんかが恋愛については色々と書いてきたわけじゃん?そんなさ、「Sである」なんて定義できるもんじゃないじゃん?そいつがSであるって思ってる分にはかまわないけどさ、勝手にそんな定義してくれるな!ってことだよね。マリーシェイファーの世界の調律的な傲慢さを感じるんだよな。で、凄くサウンドスケープなり恋愛ってものを味気ないもののようにしてくれるなっていう。


こんなことをしていて何が哲学なんだ?って思わない?哲学とは全く逆のベクトルだよね。こういうの。ましてや俺は論理なんていつも書くように人間という視点からのただの都合に過ぎないと思ってるからさ、まずこれを絶対的なものとして看做すというのがもうおかしいんだよね。大抵のことにはワークするけどワークしないものもあるし、論理だけでは語れないものっていっぱいあるじゃん?そういうのを語ったり考えるのが哲学じゃん?そこを答えが出ないことを永遠に考えるなんて意味が無いなんてさ、まるで哲学に一切理解を示さないような人達が言うのと同じようなことを分析哲学者は一応ジャンルとしては哲学をやっているのにも関わらず言ってるような気がするよね。


だからこれは理系の哲学なんだよね。逆にこういう論理学とかくだらない分析哲学というのは文系の数学でもある。言わばまぁ中途半端なものってことだよね。こういうのに手を出して研究なり色々書いてるやつらって大抵二流なんだよな。前にもそれは書いたじゃん?そもそも思考力が無いから書いていることがつまらないんだよね。あと喜びを感じるポイントが気持ち悪いっていう。定式化できた!とかっていうさ、型にハメることに喜びを感じるみたいな。ただの害悪としか思えないんだけどね。


言葉に対する意味とかを定式化できるっつったって人の数だけ意味とか定義があるわけだしさ、その人なりの恋愛観なり人生観なりなんなりを語るのって俗語で「その人の哲学」とかって言うじゃん?言わば「観」のことで、それはつまりは主観なんだよね。主観によって定義される一方通行なものが観なんだよね。で、一般的になんとなく思われているのが最大公約数的な意味合いだよね。でも厳密性なんてあるわけないよね。辞書によってそれが定義されていてもそれはただの辞書の定義なんであって、そういった特に恋愛とか人生のような概念に関してはさっき書いた主観でしか定義は成り立たないわけよ。だから人の数だけ様々な恋愛が存在するってことなわけだよね。そりゃそうだよね。むしろそれが当たり前で言葉で定義しようとするのが無茶だよね。


そこでなんか全部に意味を与えたりするということで世界を作り出すとかさ、論理の体系みたいなさ、それを哲学のパラダイムとするとかさ、勝手にやってりゃいいけど凄まじい勘違いだよね。まぁ一つのパラダイムということならいいけどパラダイムとかって言い切られるとムカつくよね。おめーみたいな思考しかできないやつに定義されたかねーよ!っていう。本当にだから乱暴だよね。別な意味での言葉の暴力だね。形而上学を排したいから無駄な意味とか定義しにくいものを徹底的に削ぎ落とすみたいなさ、それがオッカムの剃刀的なやり方だとかって思ってたら大間違いだよね。科学にはそれが必要だけど哲学でそれをやるのはいかがなものかと。


分析脳というか分析病ってのは本当に重い病だね。哲学とは病気のことであるみたいな定義もあるけど、分析も病気だね。これは。分析する事で何でも分かるようになるとかって思ってる分析脳だよね。方法論としては当然必要だしみんな持ってたほうがいいけどそれで全部答えが出るなんて思うのは大間違いだよね。まぁTPOというかなんというかさ、分析哲学的な方法が良い場合もあるけどそれをもうデフォのマインドセットにして全てそれで挑むっつーのに違和感を感じるんだよな。その分析モードのまま恋愛とか人生とか分析的に言われても何もならないんだけどっていう感じだよね。


あとそんなことを認めちゃえばなんとでも言えるようになっちゃうよ!とかさ、いや、概念ってそもそもそういうもんでしょ?ってことだよね。なんとでも言えるようになるのを認めたくないから分析脳のやつらのパラダイムで都合良くおさまるやり方なり理論なりを恣意的にピックアップしてそれでパラダイムを構築するみたいなさ、凄まじく真理に反するやり方だよね。でも本人達は真理に近いやり方だとかって大抵思ってるからタチが悪いよね。自分がそれじゃ困るとか分析的なメソッドが使えなくなるからそれは認められないとかそんなこと言ってる時点でダメなんだよね。もうなんでも定義定義ってさ、それ自体が曖昧なんだよ。凄く。なるべく主観とかを排して客観性とか論理の実証性に徹するとかいってさ、そういった態度がすでに概念に対する主観的な接し方だって何で思わないのかな?イデオロギーじゃん?あれって。イデオロギーから一番遠いのをやってるつもりなんだろうけどありゃ完全にイデオロギーだよね。全部マルクスとかヘーゲルとかカントとかに結びつけようとする所謂「主義者」達と何ら変わりはないよね。ドグマが「実証論理」というだけで。


あ、んでね、一気に話は変わってノート的に数学のことも色々と書こうかなと思ってさ、で、書いたやつを貼ろうとしたんだけどまたもや分析哲学について色々と書きたい事があったから例によって書いてたら長くなったんだけど、まぁここからは数学の話ね。いや、数学ってさ、「こうなんじゃねーの?」とかって思うっつったってそれは勉強すれば分かることじゃん?勉強って言い方が嫌なんだけどさ、ようはそれはこういうことですってのが哲学とかと違ってよりピンポイントに調べやすいよね。そうなんだけどまぁ書くわ。いやさ、連続体仮説が証明も反証もできないってことが証明されているってさ、これって何の証明にもなってないってことだよね。


ゲーデルもコーエンの証明は我々が何も知らないことに関する証明であるって言ってるんだけどさ、まぁ俺の数学の理解って周知の通りかなり怪しいですからね、素人ノリでいきますよっていうかまぁこういうのに限らず全部そうなんだけど、でも哲学とかに関しては意見とかが言いやすいのに対して数学って厳密だから的外れだと全部完全な的外れになっちゃうんだよね。だからまぁすげーダサいことになるってことなんだけど、でもそもそもウォール伝にかっこよさなんていらないし厳密性なんてのもいらないし考えた事とか書きたい事を書くわけだからそれは数学についても色々と言っちゃっていいじゃん?いや、フェルマーの定理を初等的な数論のみで証明しました!とかさ、角の三等分ができた!とかっていうそういうトンデモじゃないわけだからいいよね。


いやね、それってようは問題の置き換えなんだよね。知識がない俺にはそういうのって一時期のラッセルとかがやってたさ、フランス王ははげであるというのを集合論というか記号論理学的なものに変換してどうの・・・っていうまぁあれはすげーレベルが低い分析哲学者とかがいかにもやりそうな姑息な手段でコーエンのはそういうレベルではないにせよやっぱり公理主義臭さがあるよね。「ようはそれは公理じゃ無理なんすよ。新しい公理でも無い限りね。フッ・・・」的なさ、そんなのカントールとか納得しないと思うんだよね。


ちなみに俺もそれはどうなんだろう?って思ってて最近ようやく数学的に連続体仮説を理解してんで「なーんだ。俺が思ってたことだ」ってことが分かってさ、いや、だからこそ今更だから言えるんだけどコーエンのやつなんて全然ダメじゃん?結局なんかあの辺のすんげー細かい実数の周密性とかに思いを馳せるのがダメだから論理でそれがなんとも言えないみたいなことが分かったっつったってそんなもん問題の解決になってないじゃんね?そうはゲーデルも卸さないわけだよね。あ、ちなみにさ、さっきの「なーんだ。俺が思ってた事だ」ってのは哲学でよくある話と同じね。ニーチェとかが俺と同じ事を考えててどうの・・・ってのが信じるか信じないかは別としてそういうのがあったってのは別に人間が考えることなんだからそれがニーチェだろうがヘーゲルだろうが一致したり似た事を考えることなんていくらでもありうるってことでよくある話ってことなのね。


で、話を戻すとさ、ZFCからの独立性なんてのは解決でもなんでもないじゃん?いやーこういうのって素人だから言えることの強みだよね。数学のクラス取って興味持ち始めたときもカントールの無限の定義について異を唱えてたからね。ホント、クロネッカーみたいな感じで(笑)まぁそれはともかくさ、実数の周密性っていうことが連続体仮説のコアじゃん?それが言える言えないだの矛盾するだのしないだのってのは俺が最近書いているただの人間の都合じゃん?ようはロジックの都合だよね。


それによって矛盾でも無矛盾でもないだとかなんだとかってのは実数の周密性とは関係無いじゃん?なんであれが解決でしかもフィールズ賞もらってるって何なの?恐らく今の所だと俺が勘違いしてるとかバカって可能性が高いよね。フィールズ賞の権威から言っても。でもまぁそんなのかんけぇーねぇー!ってことで思った事を書くというルールに従って数学のことも思ったら間違いであろうがなんだろうがとりあえずノート的に書くっていうさ、conclusiveなものなんて無いわけだからさ、いいんだよね。書けば。


いやね、具体的な理論的なことは今やってる最中だから書かないっつーか書けないんだけどさ、ようは書けるほどの知識がないんだけど、ただ今の所の印象で言うとね、それはまぁ最近書いていることと繋がるんだけど、まずロジックとか公理ってのは人間の認識上の都合で人間が便宜的にそれらの諸概念を体系的に扱えるか扱えないか?ということなわけで、そのentityというかさ、それを指すその存在そのものの属性や本質なんかを必ず指せるわけでもないし、それは前にも書いたようにそのentity自体がロジックを規定する場合があるわけね。ようはそのentityによってロジックの体系が変わっちゃうこともあるからcompatibilityみたいなのが無くなっちゃうんだよね。


で、それはおかしい!矛盾だ!って考えるのがようは公理主義なのよ。これが絶対っつーかさ、これで全部表せるとかって勘違いしてるんだよね。何かでもこの辺の俺の言いたいことはなんか物理学とかのほうが近い気がするな。やべー!こんな物質あったら矛盾だらけになっちゃうよー!ってそれなのよ。それはこっちが勝手にそれが体系だとか真実だとか分かっていることだって勝手に恣意的に決めて合意している体系なんであって存在自体がそれをぶち壊すものなんていくらでもあると思うのね。それこそ観測不可能な物質とかあるわけでしょ?でもいつかは観測可能になるだとか、不可能だったものについて研究できるようになってさらにもっと不可知であった領域に手を出せるようになるとか。そこが理論の凄いところなんであって恣意的な境界線とかを設けてドヤ顔するのが理論ではないでしょ。


前にも書いたように何もかも全部観測できたとかね、分かったって言えるならそれはかなりconclusiveな意見が言えると思うんだけど、今はまだ全然分からないことだらけじゃん?俺が数学がsyntaxではないって書いたのもまぁそういうことなんだよね。syntaxだって言い切るには数学の分かってないことまでも全体が分かってないと言いきれないじゃん?っていうことでさ、まだ分からないところがある中でなんでそんな限られた領域だけを見てまだ見えない部分までもそれまでの見えてきた数学とか理論っていうある意味での経験論的な観点から全体像のことを言い切るわけ?ってことなんだよね。よくそんなことが言えるな!って思うわけ。


それは常に人間は無知であるという教訓が必要だみたいな道義めいたことではなくて単純にぜんっぜん分かってないことだらけなのが明らかなんだから何もまだ言えなくない?っていうさ、全体像に関しての意見は全然まだ言える段階じゃないでしょってことなんだよね。なんだからすげー俺は公理主義とかが大嫌いなんだよね。イマジネーションゼロの数学の考え方っつーかコーエンなんてもろにこの系統でしょ?こんな公理主義者に何ができるんだ!って思うわけね。思考停止もいいところだよね。公理主義って考え方が成り立っていること自体に腹が立つしなんでそんなもんにフィールズ賞なんて与えたのかさっぱり分からないんだよね。適当過ぎねぇーか?って思うわけ。


何々により可算できるとかできないとかさ、そんなのたまたまその時に誰かが証明した一部のものじゃん?実数が何個あるかは特定できないっていうのは使ってるロジックが悪いからでしょ。そりゃ今のロジックではそうかもしれんけどそれを特定できるやり方とかシステムがあるかもしれないわけで、そういうのを探していこうぜ!っていうのがカントールとかゲーデルの方針だったんじゃないかな?って俺は勝手に思うのね。だからコーエンとか何やってんだ?って思うわけ。強制法とかも何が凄いのかさっぱり分からない。あんなのただの論理操作じゃん。だからさっきラッセルの姑息な手段と似てるって書いたのね。分析哲学者とかのレベルの数学だなっていう印象があるわけね。なんかそれは当たってる気がしてるんだけど。


コーエンの動機もそれに興味があったっつーよりかはそれが歴史的な問題だったっていうのを知ってて解決したら凄いな!みたいなものだったらしいんだよね。まぁこれは確かな情報じゃないけどでもコーエンとゲーデルが会って話したときの齟齬とかがモロに彼らの数学観の違いを表していて俺はもうコーエンに嫌悪感しか抱けなかったよね。ゲーデル形而上学的でコーエンはあくまでリアリスティックに解決できそうな道を探すっていうさ、そこがもうダメだよね。なんで解決が目的なのか?ってことじゃん?あんたは実数の濃度に関して興味があったんじゃないの?っていうさ、もう最悪だよな。コーエン。


ZFCなんかも印象としては扱うのが面倒だったり都合の悪い矛盾とかが起こってしまうようなところは恣意的に扱わないとか認めないみたいなさ、人間の恣意的な都合だらけのように思えるんだよね。いや、扱える所を扱いまくるのがZFCなんだけどさ、ではなんでそれを認めてなんでそれを認めないとかさ、これはこうであるって言い切るのかな?っていう。それはそう思いたいからでしょ?扱うのが楽で今の所それで言いきれるからっつーんでそうしてるだけじゃんじゃねーの?っていうすげー時代遅れな理論って気がするんだよね。別にこの違和感は今始まったことじゃなくてさ、いや、もっとすげーものかと思ってたらZFCって全然ご都合主義的なものなんだよね。便利だからそれを使いたいというのは分かるけどそれは人間の都合なんであって数自体の概念を扱う態度としてはproperじゃないよね。いや、「ご都合主義だ」って言えるほど詳しいわけじゃなくてまぁ印象だからね。だからまぁ全然conclusiveじゃないんだけど、ただまぁ思った事を書くってことで書いてるってことで。


なんつーのかなぁー?数学的スキルが無さ過ぎて全然説明できないんだけど、ようはそれがwell-foundedだとかなんだとかっていうさ、構成できるってことを良いものとするっていうのがさ、そもそもそのwellってのが恣意的なのよ。それは人間から見たwellでしょ?逆に全く構成的じゃない観点から出てきた証明とかはどうなるの?って話じゃん?構成的ではないという理由からオミットされたりするのは人間の都合でしょう。それは扱うのが困難であったり面倒だから放っておくとかさ、むしろ逆に全然構成的じゃないところから証明が出てきたっていうところにこそ別の構成を見るとかさ、ストラクチャの変化というかなんというか、まぁそもそも数学にストラクチャがあるというのがもう全体主義なんだよね。それは人間から見た場合なんであって数学自体に構造はないんだよね。そんな人間風情が「構造」と言えるほどシンプルで理解可能なストラクチャは持ってない。


そんぐらいややこしいもんだから既知のものだけでそれをストラクチャ扱いするのは数学側から見たら凄く危険だと思うんだよね。構造扱いしたがるのはようは全体主義なんだよねっつーかholismっつーのかな。全体論ね。なんでそもそもの「体」が分かってないのに「全体」と言えるのか?っていうシンプルな話よ。ちなみに社会とかはシステムとか全体とか構造扱いしやすいよね。だってたかだか人間が作った人間による構造なんだから。もちろんその背後にある数学的なカオスとかそういうのは含まないにしてもさ、例えばまぁなんつーかね、ペットホテルの基本構造とかってまぁあるじゃん?数学ほどややこしくないし情報量が多いわけじゃなくて全部人間が把握できるものだからそれを構造と言えるよねってことなんだよね。「数学の構造」なんて言うことは「宇宙の構造」とかっていうぐらい馬鹿げたことなんだよね。宇宙については分からないことだらけでどうやって全体論を語るんだ?っていう。


恐らく数学の構造主義なんかが語っている構造らしきものはその数学的なものに関して一つの形を与えているだけでそれはそれを指すものの一つなんだよね。だからそれが指せたということでその数学の存在が定義されたことにはならないわけ。もっと色んな定義とか色んなジャンルからの定義とか見方とか証明の方法とかがあるわけだからさ、それだけで存在の定義なんて出来ないよね。フェルマーの定理もなんかイメージ的にそんな感じがするんだよね。散々やった挙げ句背理法なんだろうなーって勝手なイメージがある。


まぁそれはともかくさ、俺が最近言いたい事はこれに尽きるよね。ようは論理がどうのってだけでそれを説明した気になるな!ってことね。それはシステム上の都合のことで、それが論理系でどうあろうがね、例えばさっき書いた連続体仮説の話で言えばコーエンの証明は何にも連続に関する答えを出していないわけだ。強制法なんてただの論理テクニックなわけだからさ、いや、必要なのは連続に対する数学的アプローチでしょ?ってことなのよ。哲学然りね。それが論理でどうのっていうのは論理学者とか分析哲学者の言い分なわけで、必要なのはそれそのものに対する思考だよね。答えは出るかは分からないけどそれを考えるのが哲学だよね。


いや、その「それ」ってのが最初にも書いたような恋愛であったり人生であったり学ぶということだったりさ、なんかそれだけで一つの本になりそうなことね。で、話題にしたら真剣喋り場!みたいなので永遠と話が続きそうなことね。そこでそういう対話が続くとかさ、それが哲学的対話だよね。システム的な分析はただの分析なんであって哲学じゃないよね。で、思うに数学も同じだという気がしてきてるのね。これがこうでこういう答えが出るからこうだってのはただの計算なんであってさ、計算上そうかもしれんけど、やっぱ俺は意味だと思うんだよね。リーマン予想なんて本当にそんな感じじゃん?アレ自体にすげー意味がありそうだから多くの人を惹き付けるんだよね。で、色んな観点からのアプローチとか思考が必要なわけだ。ただ分析すりゃーいいってもんじゃないよね。


加藤和也先生なんかが良い例でさ、あの人の数学的世界観とか完全に物語じゃん?それはあたかも素数さん達が集まって云々・・・っていうビジョンだよね。ただ計算してるわけじゃなくて色々やっていくうちにそういう世界観が見えてくるのかもしれないし、才能によって元々そういう世界観があるというのはあると思うんだけど、とにかく野暮ったいような計算主義とか分析主義じゃないんだよね。それこそ分析的な見方をすれば素数とかを生き物扱いするとかさ、それがアナロジーであれオッカムの剃刀的にそういうのはいらない!ってことにもなりそうじゃん?全員がそれを否定するかはともかくさ、そういう野暮ったい剃刀なんだよね。


俺は少なくとも生き物扱いしないと見えてこない世界ってのがあると思ってるし、大抵の数学の天才なんてそういうビジョンが見えてたから凡人には到底不可能なことを思いついたり見つけることができてると思うんだよね。だからそういう意味でやたら分析にこだわるやつらは大抵が二流だって言ってるわけよ。そういうビジョンとかが無いし分からないから分析が全部だって思っちゃうのね。で、なんかやっぱ優等生系に多いんだよね。秀才系がそういう方面に走りがちな気がする。あとは美術とかでも美術の良さとかが数理工学的に記述できるとかなんとか、こういうのもいかにも!って感じの秀才的なバカさ加減だよね。どんくさいというか野暮ったいというかなんというか。dead poet societyに出てくるロビン・ウィリアムス扮する先生がすんげー怒ることだよね。俺もようは怒ってるポイントは同じだよね。詩とかならそれが顕著だし分析するっつーのがいかに野暮ったいかが分かりやすいけど、俺は概念系全般にそれが言えると思ってるのね。分析はただの方法論なんであって本質じゃないし、それをはき違えて本質扱いするのをやめてくれ!って話なんだよね。


連続対仮説に話を戻すとさ、論理がどうので解決しましたじゃ何にも解決になってないわけじゃん?まぁそれは別に明らかなんだよね。何も解決になっていないというのはもう別に事実だからあえて強調する必要はないんだけどね、それとこれとは分けましょうよってことなんだよね。それは論理の世界の話なんであって数学の世界の話ではないでしょってことなんだよね。数学は論理の世界だって言うけどそれは間違いだよね。それは人間が扱う論理と言うものが数学っつーモンスターに追いついてないってことね。それを記述できるほど万能ではないからそんな狭い世界の話じゃないってことなんだよね。ようは思い上がるな!ってことだよね。やっぱ絶対論理なり分析っつーのはone of themじゃないとダメなんだよね。メインにすべきものではないしそんな万能じゃないしそれをメインにしちゃえばそれこそ人間原理的な狭い数学とか世界しかできないわけよ。ぜーんぶ人間に都合が良いように定義されてる世界観なんてつまんなくない?俺はそんなの絶対嫌だな。まぁ別にそれに服従しなければいいだけのことだから、Logical Disobedienceだよね。まぁ逆にそれはロジックが無いと成立しないからまぁ完全にロジックっつーものを自家薬籠中の物にしてからだよね。分析的手法然り。言わばメタ的なんだよな。でもメタの視点に立つには下部構造のことを理解してないとダメっていう当然のことになるわけね。


って感じでとりあえず今日はこの辺でいいや。んじゃまた。