ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

@さんとweatherさんへの返信。

昨日のエントリーに書き込みをいただいたので。

@ 2012/01/03 21:17
久しぶりに書きこませてもらいます。


確かに、年末年始だからこうだろうってな感じで同じ方向見てる人はわんさかいますね。自分はブログはやってないのでこうやって長文を書くことはほとんどしないのですが、mimisemiさんのブログ読んでてハッとすることが多いんですよね。勝手ですが、こうやって読んでると、そうなんだよなーと思うことが多い。outputせずに生きていると群集というか大衆に染まってる自分も自覚するんですよね。多分、普段から頭の奥のほうで感じていることなんだと思います。


お酒は大好きなんですがウコン飲んでまで飲み会はしないですねぇ。自分の場合ドラッグみたいに飲酒してるだけなので、飲み会自体は苦手です。やっぱり一般的に若い人でもお酌文化が見に付いている人が多いんですよね。自分より少しでも年齢が上だと、「年下なんだからお酌しろよ」っていう空気とか圧力を感じる飲み会が大嫌いで。まともにコミュニケーションや腹を割っての話すらしないで、そういうマニュアル的な行為をしただけで好意的になるみたいなクソな文化でしかないなと。同じ20代なのにそういう行為をさせようとしてくる人がいると絶望的だし違う動物だなーくらいに感じます。


ネットでは今の時代に「大衆」は存在しないという論も見かけますが、実際に外を歩いてると確実に存在していると感じますね。世代交代は確実に必要ですね。ただ単に人員交代で若返るだけという意味ではなくて、新しい考え方になるべきだと。やけに排他的ですよね。今の主流とは少し違う人間がいても白い目で見ずにそういうやつもいるよねーくらいになればいいですね。というか、そういう社会になるにはどうすればいいんだろうなーと。


そうなんだよなーと思いつつも周りが大衆だらけだとそういうパワーに飲まれちゃうじゃないですか?それは抗った末に負けた・・・的な闘争的なものではなく自然に飲まれていく感じですよね。この自然さが怖いんですよね。思想教育とかの場合、洗脳みたいな感じなので、例えば北朝鮮の人たちとかアジェンダが変わっちゃえばそこまで劇的ではなくてもまぁまぁ変われる気がするんです。中国ももっと民主化が進めばちゃんとした中国人ってもっと出てくると思いますし。んでも日本の場合、それが文化的というか行為的というか、強制力によってやらされているものではなくて、大衆が勝手に生み出す空気とか圧力とか「そういうもんなんだよ」的な思考停止な考え方とか、そういったものを大衆が担ってしまっているのが怖いんですよね。アジェンダがそういうハビトゥスみたいなものをインストールしているのならOS書き換えればいいわけですから、まぁそれがさっき書いた中国とか北朝鮮ってことなんですけど、個々がそれを担ってしまっているというのは凄く変わることが難しいですよね。Windowsでファイル一個一個書き換えるみたいな面倒な作業ですし困難な作業ですよね。


あとお酌文化なんですけど、これは僕の勝手な仮説なんですが、恐らく昔の日本では意味があったことなんだと思うんですよね。昭和の映画とか見てても思うんですけど飲むっていってもそこには腹を割って話すという前提ありきでやっているような印象があるのでコミュニケーションが濃い気がするんですよね。そういう中でまぁフォーマルなやり方としてお酌文化みたいなのがあったんですが、あくまで「飲みあう」というちゃんとしたコミュニケーションがベースにあるので形式が機能していた気がするんですね。でも今の場合、完全に形骸化されていて形式だけ残ってる感じがするんですよね。こういう形式だけ残っているというのはお酌文化以外にも色々とあるとは思いますが、そういったものに批判的になれないとか「ただの形式なんだ」って認識できないとかっていうのはある意味での虚偽意識と同じですよね。あとそういった形式だけの薄いコミュニケーションに絶望とか虚しさを感じない感性の鈍さも大問題ですね。だからこそ人間不信になったり付き合いが悪くなったり引き蘢りがちになるほうがむしろ感覚としては全うな感じがしますよね。


僕は大衆というのは性質だと思っているんです。そういう大衆らしい家柄に生まれてそういう人達の中で育って・・・というプロセスの中で永遠と繰り返される言わば現象みたいなもので、それは無くなるものではないと思いますね。本などを読んでいても面白いぐらい古今東西の大衆らしさみたいなのって不変なんですよね。普遍といってもいいぐらいの不変さです。だからもうこれは批判してもしょうがないんですよね。どの時代にもそういった大衆に嫌悪感を感じていた人がいたし、大衆が支配していたわけですし、もうそれは変わらないものだと受け止めるしかないんですよね。でもそんな中でそのネットで言われる「今の時代に大衆は存在しない」といったようなテーゼは大衆的な流れが絶対的ではなくなったとも解釈出来ると思うんですね。


ようはネットとかが無い時代には大衆的なものが凄まじい力を持っていて抗うのが大変だったり飲まれないということが大変だったりしたわけですが、今は別に無理に人付き合いしなくてもピンポイントでネットを介して気の合う物同士とだけコミュニケーションを続けるということが可能になりましたし、例えば飲み会を断ったところで家に帰ってからメル友がいたりだとかネットの掲示板とかでもいいんですが、物理的な付き合いに人間関係が限定されることが無くなった事でようはコミュニケーションが選択的になった気がするんですね。その結果、強い大衆的なものが様々なものを支配するという時代が終わりつつある・・・とかって言えるのかもしれませんが、でも先ほども書いたように現象としての大衆は無くならないので、だからこそそういった大衆に対する自律が個人にとって凄く必要になると思うんですね。


飲み会を断ってちゃんとコミュニケーションが出来る人とメールのやりとりをするとかって主体的ですよね。流されてただノリで飲みに行くとかとは違って、こういった選択的なコミュニケーションができるようになっているというのは個人の自律にとっては凄くプラスな気がしますね。大衆はいつでも排他的なんですけど、大衆から排除された人達でも孤立せずに勝手にやっていけるってこれは大衆的なものに対するカウンターになり得ますよね。大衆的なノリがあまりにもダサいって思う人達って少なくないと思いますから、そう感じてる人達は単純にそういう流れに乗らなければいいんですよね。アフターファイヴとかに付き合わなくなってる若者が増えているみたいなことを見聞きしたりしますが、これって肯定的に捉えると言わば主体性なんですよね。「そんなの行かねーよ」って言えている人が少なからずいるってことなわけですから凄いことだと思います。


アルコール離れだとか車離れとかもそんな気がするんですよね。なんとなくっていう主体性がない意味が無いものに対して「意味無いからいらない」って思えるようになって来ている人達が増えてるってことだと思いますね。言わばただの場の流れ的な括弧付きのアルコールであるとか、飲むという事がなぜかデフォになっている考え方だとか、男なら車みたいな意味分からない価値観とかに同調しない若者が増えてきたってことだと思うんですよね。金が無いというのもあるとは思いますが、アルコールカルチャーの虚構性が露になっただけって気がしますよね。もちろんドラッグ的な意味だとか単純に嗜好品としてのアルコールは全然アリですし僕も好きですが同調圧力としてのアルコールカルチャーみたいなのが廃れてきているってのはいいことですよね。まぁノンアルコールで同じノリで飲み会とかやってたら僕が言っていることは完全に見当違いってことになっちゃうんですけど(笑)


僕の前向きな予想だと同調圧力に負けてる人って多いので、別に大衆に迎合しなくたって自分は自分でいいんだっていう当たり前のことを認識出来るってことが重要だと思いますね。大衆に迎合するしかない人達がいかに大衆に迎合せずにやっていけるか?ってのがポイントなので、それはやはりシステム的なことも不可欠ですよね。構造的にいじめとか村八分みたいなものが発生しやすいものを変えていくとか、あとは「こんな感じで職場がレベル低過ぎて最悪なんだけど」ってネットで晒すとか、まぁそういうのって今はありますよね。だからこそ懸命な人ほど働かなくなるみたいな流れも出てきてしまうわけですよね。クソみたいな人間とか職場が多かったら合理的に考えればそういう場所に行かないのが良いのは言うまでもないですよね。ただでもそれでは結局はニートとか無職で終わってしまうので、そういう場所に行かなくても「そういう場所はもう嫌だ」って思ってる人達同士でやっていけるような何かがあればいいんですよね。結局そこでやはり相互扶助的なシステムとか中間団体ってのがやはり重要になってくると思うので、そこはやはり考え方的にはアナーキズムに近くなるんですが、この構図で言えばアナーキズムが国家に抗っているのに対して、僕のバージョンだとそれは大衆に抗うということになるんですよね。


経済的なシステムが大衆を中心に回ってしまっているというのが問題なので、その大衆独占みたいなのをいかに変えていけるか?ってことですよね。一番なのはそういった大衆に抗っている人が組織の上層部に登ったりすることなんですけどね。まぁほとんど政治の構造と同じなんですが、国家並に大衆って怖いものなんですよね。まぁ両方定義上リヴァイアサンですからね。でもこれは人の流動性によって変えられるものだと思うので国家規模の問題ほど難しいものではないと思うんですよね。


かなり長くなったのでこの辺で失礼しますね。ちょっとイマイチ言いたい事が固まってない感じなので、これについてはまた続きを考えるつもりです。「どうやって変えていけばいいんだろう?」ってホント難しい問題ですよね。具体案が無ければどうにもならないし、啓蒙には限界があるし、個々の意識を変えるしか無い!みたいなことって昔からあるし・・・。ベタな言い方になるとやはり新しい価値観を持った人達がヘゲモニーを握るしかない気がしますね。さっき書いた組織の上層部にそういう人達が上り詰めるってことに尽きるんですが。

weather
2012/01/04 11:36


結局のところ、間主観性にハマるってことは、その内部の「普通」の観念を行動原理にして、その観念に死ぬまで脅され続けるだけっつーか、そんなイメージがあります。なんか大衆というとちょー巨大な感じするけど、突き詰めると個々の実存的な話ですよね。頭の中で思い込んでる基準がそいつの現実を決定する訳だから。


まあ人生や認識自体が表象の世界みたいな事だとすると絶対的なものがないと不安になるのも然もありなんというか、自分が肯定される空気に流されていれば楽なのは確かなので、こういう無意識レベルの話を具体的な他人に押しつけたりもしたくないんだけど、ただまあ他人に接すると同時に自分を確かめるのは普通だけど、確かめ方が尋常じゃないっつーか、他人を監視する仕事でもしてんのか?みたいなレベルの人っていてさ、微妙な気分になるんだよなーなんて。そういう人って何に怯えてんだろ?って考えるとやっぱ人と違ってはいけないみたいな観念な気がするんだよなあ、とか。元々ある被害妄想と区別つかなかったりするんで余計敏感ってのもありつつ。


なんてーか「みっともない」って妙な感覚だなあというか、まあそれに関しては一概には言えないけど、なんかそんな感覚を最近特に持ちつつ生きてるので、パワーもらいました。


さしくそれなんですよねー。間主観性にハマることの恐ろしさはそれが原理となってしまうので気がつかないままハマったままそれで終わるってことなんですよね。言わばマルクスの虚偽意識の概念の大衆バージョンといった感じでしょうか。で、そのweatherさんがおっしゃる日本の異様な相互監視的な大衆的パノプティコンな感じって本当に異様なんですよね。結局はベタな言い方で「村社会」とかって言うしかないんでしょうかね。僕が普段から批判しまくっている日本人の島国根性ってやつなんですが、この違いを認められなかったりするというのは本当に痛いですよね。先進国のくせして最高に後進国的というかせっかくの文化レベルの高さもこういった村人根性で台無しになっちゃってる感じですね。文化レベルが高い北朝鮮って感じなんですよね。金正日の葬儀での人民の異様さを笑えないんですよね。


あとやっぱりあれですよね、議論がダメってのが最高に痛いですよね。前にも書きましたが晩飯の時にニュースで捕鯨の話をやっていて、で、それについて父と話していたんですが、父が「それで食べてる人がいるんだから」みたいな的外れなことを言うので色々と言ったらそれがなんか勝手に口論みたいな雰囲気になっちゃたんですよね。で、飯の時にこんな言いあいはやめようなんてバカみたいな話になったわけです。まぁもう父とは細かい話は一切しないようにしているんですが、これって日本人の典型ですよね。まぁ僕の批判が的を得過ぎているというのがあり過ぎたにせよ、日本人全般って「いや、それは違うんじゃないかな」っていうそこから始まるコミュニケーションがないですよね。


「いいよねー」「うんそうだよねー」「あれってこうじゃない?」「そうだよねー」っていう同調のコミュニケーションばっかですよね。こんなの相づちみたいなレベルなんであって人間の会話じゃないと思うんですが、同一性を確認しあうだけのコミュニケーションほどダサイものはないと思いますね。村人のダサさってここなんですよね。田舎者のダサイ感じってあるじゃないですか?ステレオタイプで。これをそのままコミュニケーションとか人間のあり方にも置き換えちゃえばいいんですよね。どんだけ都市型でお洒落でセンスが良さそうに見えても中身が村人じゃダサイわけですよね。そんなのただのお洒落な村人なわけで、それは最高にみっともないんだって風潮とかあればいいのになーって思いますね。で、あえて言う必要は無いとは思いますが、別に僕は田舎者がダサイとは思わないんですね。ようは村人臭さがダサイんであって出身地とか住所は関係無いわけです。


ここでなんかあれなんですよね、日本人の多くが集まる「東京」に住む人達の内面のダサさというのは結局は大半が田舎から出てきている物達があたかもジモティーのように振る舞って生きようとするのが東京という場所なので、結局は田舎の村人同士が集まってるだけなので都市部も内面的にダサイ人ばかりになってしまうのはしょうがないのかな?って気はしますね。この構図で言うとやっぱ田舎は田舎なのか!っていうことなんですけどね。アメリカで言うとまぁテキサスとかのダサイ感じですね。行動の全てが原理的で排他的なんです。テキサスのいなたいカウボーイ達が噛みタバコを地面に吐きながらウィスキーを煽って汚い英語を喋りながらバーで飲んでいるって最高にダサイと思うんですが、日本の大衆居酒屋って大抵がこういう感じですよね。都市部はやたら見た目とかが凝ってたりお洒落なバーとか店が多いわけですけど洗練されてない人間が多いので基本的に大抵がカウボーイレベルなんですよね。英語で言えば全部語尾に「right? right?」って言いまくるみたいなコミュニケーションですね。


ニューヨークのかっこよさとかってお洒落なバーとか店があるってことじゃなくて人々がかっこいいわけですよ。お上りさんもアメリカ都市部の洗練されたリベラルな価値観に洗礼を受けるので内面的にかっこよくなるって感じですかね。僕が感じるニューヨークのかっこよさってここですよねー。やっぱ。だからやっぱ日本はどんだけ見た目がお洒落だろうがダサイ人が多いのでニューヨークみたいな都市にはなれないだろうなって思いますね。