数学主義の浅ましさ。

なんかさー、まぁ「人は人」的な価値観を認めると寛容になり過ぎてつまらなくなるよね。どうでもいいんだけど前から言ってたことに繋がるっつーかピッタリのやつがあったんでっつーかまずこれを見てみてくれ。


http://togetter.com/li/97798


まずタイトルがおかしい。よって終了。でいいんだけどさ、比較って本当に意味無いよね。「生物学より天文学」とか「そばよりハンバーグ」とか「映画よりアニメ」ぐらいの意味の無さなんだよね。一見比較できるように見えるんだけどすげーナンセンスっていう。んーまず何からいこうかな・・・。いや、まぁそやね、このページの全部とは言わんけどさ、中にまぁ所謂俺が普段から批判してる「数学者の無知」ってあるじゃん?いや、数学者っつーか科学主義者というかさ、厳密な学以外の学問は無意味的なさ、そういうところから哲学を否定するっつーか意味無い扱いにするっていう人いるでしょ?これって完全にただの教養不足なのと感覚も欠落してるのよ。


数学的感性と哲学的感性が両方あるに超した事はないけどさ、でも無いもんはやっぱ欠如なのよ。だからまぁ哲学とか分からんから形而上学的な話とかはしないとかね、言及しないとかそういうのがあればいいんだけど、数学を最上のものとしてさ、理解できない哲学を批判するとかさ、そりゃ理解出来ないのが悪いんだって。哲学が悪いんじゃないわけよ。で、なんでそこでんなら数学を理解してればエクスキューズになるっつーか何を言っても許されるのか?っておかしくね?


数学を理解してないやつが哲学とか笑わせるなとかもうアホだよね。マジで。やっかいなのはこういうやつの価値観なんだよなー。そもそもさ、哲学ってのは数学みたいなただの論理じゃないわけよ。まぁ俺は数学は論理じゃないって書いてるけどさ、んでもまぁ一般的には論理の学とかって考えられがちじゃん?まず定義があってそこから・・・的な公理主義というかさ、定義ありきっつーかなんつーかさ、でも基礎論とか考えても分かるようにそのpostulateについて考えるわけじゃん?あとは言わずもがなだけど客観的なpostulateなどの正しさってのはそのシステムからでは真だと言えないってゲーデル不完全性定理があるでしょ?


でさ、哲学ってのはさ、いや、数学が例えば「数」について考える学だとすればさ、その「数」を函数的に考えるとまぁその「数」に色々なものが代入出来るってことなんだよね。まぁようはあれこれ考えるという意味ね。そこに「人生」が入ったり「死について」ってのが入ったりさ、ただそれは「数」ほどそれ自体にシンプルで客観的な定義って与えられないしさ、辞書的な定義なら正しいのか?っていうとそんなことでもないじゃん?あとは数学的にとりあえずpostulateを出してそこから演繹的に考えるんじゃなくて、例えば経験とか知識とかってところから帰納的に考えるんだよね。まぁスピノザみたいに公理的に哲学やってた人もいるけどさ、そもそも数学主義なやつらの考え方って数学的な考え方が絶対だって思ってるんだよね。所謂公理ありきでそこから幾何学的に色々やっていくみたいなさ、まぁそれも一つだけど絶対じゃないじゃん?


そもそも論理なんてのはただのツールなんであってさ、それだけで人生とか死とか定義できるわけないじゃん?そういうそもそも厳密性を持たせるのが難しいものも語っていくというかさ、そうやって語って考えて対話したりとか書いたりってことが哲学なんであってさ、書かれたものが哲学じゃないんだよね。だからそんな「書かれたもの」っていう静的なものに対してそれを哲学だとしてそこから厳密性が無いとか論理破綻してるとかって言うのは本当におかしいんだよね。そんな批判は哲学にとって何の意味も成さない。それは言わば哲学という行為が生み出した結果としての文字なんであってさ、それが完成品じゃないのよ。


実際、ウィトゲンシュタインとかすげー変わってるわけじゃん?言ってることが。でもそれも含めた哲学なんだよね。だからtractatusだけでウィトゲンシュタインを判断するとかってのがナンセンスなようにさ、いや、まぁそれだけで判断するっつーかそれだけでウィトゲンシュタインを解釈するってのもまぁ一つだよね。その解釈の自由さというか多様さというかさ、そこから立脚してまた自分の哲学を紡ぎだすとかね、それは解釈学的な一つのパラダイムなんではなくてもっと多様なものなんだよね。


ようは思考というか思想というかさ、でも人間が考えることに数学的な一貫した論理性があるかっつったら大抵の人は無いと思うんだよね。でもそこが人間なわけじゃん?俺が最近書いている人間性っつーか人間臭さってことなんだけどさ、だからまぁ人間だからこそ認識とかが例えば生きるということ一つにしても死ぬような経験をして考え方が変わるとかね、近い人とか友達の死に立ち会ったとかさ、スピリチュアルな体験をしたとかさ、そういうリアルタイムなものなんであって静的なものではないんだよね。公理ってのは静的じゃん?


それがそれだといったら宇宙が無くなろうがなんだろうがそれはそれっていう事実があるわけだけど、哲学に数学ほどの客観的な事実なんてないし、むしろ哲学をそういう立場でやると大抵まぁ失敗すると思うんだよね。かといっても厳密性を無くしていいとかってことではないし、言いたい事を言えばいいってことでもないんだけどさ、んでも例えばまるで公理みたいに定義してしまったものが例えば20年後の自分にとって変わるとかね、んでも一貫性を保つためにその自分の古い理論を無理矢理守ろうとするとかさ、そうなってくるともう終わりだよね。悪い意味での保守っつーかさ、あとはまぁ科学者とかが陥りやすい知的な堕落だよね。科学で説明出来ないってことがあるとそれをあたまごなしに「ありえない」ものとして考えないとかさ、現象として客観的にあるにも関わらずありえないからそれを見ないことにするっつーかそもそも扱わないっていうさ、それって完全におかしいよね。


なんかまぁーこれと同じなのよ。ジャンルは違うけど俺が言いたい事は。人生とか死とか愛とかさ、数学的に厳密な定義ができないから語るのがナンセンスだとかね、そんなもんただの知的な堕落なのよ。まぁもっとも哲学者ってのは別に哲学書とか読ませなくても勝手に色々考えるような人達だからさ、原理なんていらないんだけどね、いや、そのそもそものそうやって考えるという行為が哲学なわけだからさ、数学とは違うよね。でもそれの逆が哲学に言えてさ、公理的にばっか演繹しかしないような数学なんてクソなんだよね。


色々な定理とか物理的現象だとか経験だとか思想とか考え方のパラダイムとかさ、いや、それが生物学であったり天文学であったりさ、それが数学的なインスピレーションに繋がることもあるでしょ?そういう多様さなんだよね。そこから帰納的に数学的に厳密に言えるような構造なりなんなりを見つけるんだよね。猿のように演繹ばっかやってるなんてはっきりいって機械みたいなレベルなんであって人間的な行為ではないよね。まぁそういうやつがいてもいいけど、思うにそういうマインドのやつが哲学とかリテラシーとか意味無いとかって言いだすんだと思うんだよね。その結果のまぁアナロジーの理解不足とかさ、数学書を書く時に全然気の効いたことを書けないとかね、そんな数学者どうなの?って思うよね。まぁそれはそれでいいんだけどそいつは感性不足なんですよってことなんだよね。


言わば俺が文学を批判するようなもんなのよ。いや、あんなもんアニメとか映画で見ればいいじゃん?って俺は思うけど、こんなの明らかに間違ってるって言い方あれだけど、俺の文学的センスが無いだけじゃん?絶対俺には分からないような良さとか芸術性とかってのが文学には存在するんだけど、残念ながら俺にはそういうのを感じられる感性が無いってことなんだよね。まぁ無いかは分からないけどあんま小説とか読もうと思わないからね。俺。かといってもだからといって小説なんてくだらないって言えるか?って言えないじゃん?それは俺の文学的センスの無さなんであって、むしろそれは恥ずかしいぐらいのことなはずなのよ。少なくとも無知を誇ったり正当化できるようなもんじゃない。文字なんてただの記号だから・・・とかなんとか昔は書いたかもしれないけど、まぁそういうのがいかに鈍臭いバカらしい言い方なのか?ってことだよね。それで文学批判とか笑わせんな!ってことね。


いやさ、そこであと文学と哲学とか比較するのも意味ないじゃん?そこで文学のほうが優れている!とか哲学書のほうが文学書より価値があるのだ!とかって言うのとかもうバカじゃん?なんかこういうのが心底許せないんだよな。アホな比較とか考えしてるくせにドヤ顔で意見言ってるっつーのが本当に許せないね。で、それが文学主義者とかならまだ分かるんだけど、それが数学になるとすんげー嫌になるんだよね。それがさっきから書いている数学主義者ってことなんだけどね。なんで数学が中心ってのはあれだけの正当性とか自信を与えるのかな?ってことなんだよね。凄まじい勘違いなのに。数学の厳密性とか科学の万能性みたいなのを盾にして自信満々に何か言うって最高にみっともない行為だよね。もう完全なる知的堕落なのよ。定義が与えられてないと考えようが無いから意味が無いとか本当にバカなんじゃねーの?って思うよね。それについて考えられないんだったらそれこそ黙ってろ!って話なわけで、そんな知的に不能なやつが哲学批判とかするなよ!って話。


まぁーあとあれだよな、俺で言えばアート的なセンスとかは偏ってるよね。シュルレアリスムとかダダとかは好きだけどルネッサンスだとかさ、宗教画だとかなんだとか良さが分からないんだよね。うちの母と妹はそういうの大好きなんだけどさ、でもこれもまぁ欠落だよね。俺にそういうアートを理解するセンスが無いってだけで、俺を軸にしてああいうアートなんて何が良いんだ?なんて言えないじゃん?それは俺の感性が無いって話だけなんだよね。別にそこまでアートを深く掘り下げようと思わないのもまぁようはそこまでアートに対する感性が無いってだけでしょ。


決してアートがどうでもいいとかつまらないってわけじゃないわけだ。まぁ俺が言うアートってまぁ美術のことね。 まぁでも完全にセンスが無い人よりかはあると思うけどさ、んでもアート好きな人って半端ないじゃん?だからそういう人を見ていると俺のアートへの感性がそこまで高くないってのが相対的に分かるよね。まぁその辺の美大生なんかよりかはよっぽどあるとは思うけど、俺はもっとレベルの高い話をしているので。まぁあとは詩とかだよね。あれもいいんだろうけど俺には感性が無いから分からないわけで。そういう分からない側から批判をしたところで、それはもう全部そいつの感性の欠如ってことで説明がつくのよ。


だから数学を中心に哲学を数学と比べたりなんかして学問として劣っているだとか意味が無いっていうやつは「自分には哲学的センスが一切ありません」って言ってるだけなんだよね。それはしょうがないことだけど別にあえて明言するほどのことでもないし、むしろダサいことだよね。センスないですって自覚してるならいいけどその自覚の無さが最悪にダサイってことね。


音楽で言えばまぁ最近は理解出来るようになってきたけど、んでもやっぱ俺がロックとか聞こうと思わないのもそれはロックが音楽としてダメなんじゃなくて俺がその良さを理解出来ないってだけだよね。まぁ音楽に関しては色んなのが好きだとは思うけどまぁロックは本当にダメなんだよな。でも例えば俺が大好きなさ、例えばドラムンベースとかミニマルテクノが音楽的に優れていてっつーかかっこ良くてロックはダサイなんて比較してたらその比較するセンスがもうかなりアウトじゃん?数学主義のやつら然りなんだよね。


なんつーのかなー、そういうやつらの哲学批判ってもっともらしく見えてすげー的外れって感じで言うと言わばミニマルテクノに対して「音数が少ない」とか「展開が無い」とか「歌が入ってない」とかって言うようなもんなんだよね。確かにそれは事実ではあるけど批判としては的外れですよってことなんだよね。で、例えばJ-POPとかを基準にして「AメロがあってBメロがあってサビで・・・」ってのを基準で全部の音楽を計ろうとするみたいなさ、そのバカバカしさね。でも数学が基準だとあたかも学問の王者のようにさ、それがもっともらしく見えるから勘違いするやつらが多いんだよね。


厳密性=学問の価値とかさ、論理性=学問の価値だとか馬鹿げてるよね。いや、哲学が非論理的というわけではないんだけど、ただそんな狭い世界の話ではないところの話もあるわけじゃん?その一方で分析哲学みたいな論理だけでやってるようなどうでもいい哲学もあるじゃん?だから分析哲学とかってのも本当にカタワなんだよね。本当に哲学的センスゼロで哲学らしいものをやってる気になってるなぁーって感じだよね。哲学的センスがあって分析的なものをやってたっつーとやっぱりウィトゲンシュタインだよね。そういう意味で俺のウィトゲンシュタイン評価ってすんげー最近高くなったんだけどね。本人のキャラ的にはむしろ実存主義とかに近いような人が分析哲学をやっててんで最終的に分析哲学的なものとは全然違う帰結になったっていう。なんでそんなことができたか?っていうとそれはひとえにウィトゲンシュタインの哲学的センスでしょ。ただの分析哲学者になくてウィトゲンシュタインにあるものだよね。


なんつーか数学的な厳密さとか哲学的な形而上学を思考する思考力とかさ、それは行ったり来たりするもんなんだよね。ようは人間が考えることなわけだからもうそれは大元は「概念」ってことなんだよね。で、そこに例えばオートポイエーシス的概念っつーとようはそれって生物学的概念だったりするわけでしょ?でもその概念が哲学的思考にも役立ったりさ、そのまま応用出来たりね、まぁ厳密な意味ではないけどようは試論的に書けたりするわけじゃん?


数学的構造然りだし哲学的な形而上学的思考然り。それが宇宙論に繋がることもあれば実存的な定義に繋がることもあるよね。それはようは概念っつー人間の思考の宇宙の中でグルグル回ってるものでさ、どれがどうとかって分けて考えるのってナンセンスだし、ましてやそれを比較してどうこう言うなんて最高のナンセンスだよね。なんか元素同士を比較するようなナンセンスさなんだよね。ヘリウムより炭素のほうが優れているとか分け分からないじゃん?凄まじく頭の悪いナンセンスな比較だよね。あとは学問を所謂本屋のコーナーで分けられているような意味でしか理解してないっつーかさ、そんぐらいのレベルで捉えているっていうレベルの低さだよね。


だから例えば数学のコーナーが右にあって哲学のコーナーが左にあれば右側のコーナーにいながら左側のコーナーを「意味が無いよねー」とかって批判するようなさ、そういう感じなんだよね。でももっと抽象度が高い「概念」ってことで言えば階層とかないじゃん?全部が混ざってるっつーのかな?本屋みたいに分かりやすく分かれてないんだよね。そういう仕分けみたいなのがようは低いレベルで行われていることだからだよね。別に現実で言えば便宜的に必要なことだけど頭の中でまで分ける必要は無いよね。


だからなんつーか数学でしかものを考えられないって「数学脳」みたいなもんでさ、「私には哲学的センスが全くありません」ってことなんだよね。別にそれはそれでいいけど決して褒められるもんではないよね。だからまぁ黙って数学だけやってりゃいいのよ。そんな数学しかできないようなやつが哲学批判するなってことなんだよね。別に数学ができることなんて凄い事でもなんでもないわけだし。それは哲学然りね。哲学主義的な立場から数学を批判してもそりゃ数学主義と一緒ってことね。そもそも「主義」ってつくものって排他的だよね。マルクス主義とかフェミニズムとかアナーキズムとか、全部カタワだよね。「主義」がつくものに恐らくロクなものはないと言えるね。


まぁとにかくあれだ、数学主義はそれっぽく見えるけど同じ穴の狢ってことね。バカはバカなわけだ。思考の偏りという意味ではカタワなんですよ。ええ。あとまぁツイッターカルチャーってロクなもんが無いよね。最初に貼ったやつみたいな数行のものなんで中身が無いの多いし、利点と言えば注目度と速度って感じだよね。ツイッターが表れてブログは消えたとか言うけど、それってツイッターが表れたから文章が無くなったって言うようなもんだよね。


ツイッターもなんか悪い意味での「数学脳」とかと一緒でさ、ツイッター脳ってあるだろうね。ツイッター的思考とか語りってありそうだもんね。完全に人間を軽薄でバカにするツールであることは間違いないね。ツールとして使えばいいんだけどあれが中心になってるとかってもう本当にアホらしいよね。元々たいして書く事がないけどなんとなくブログとかやってた人がツイッターで事足りるっていうのなら分かるんだけど、そういうのも含めてなんつーかツイッターで要約できるようなことしか書いてなかったってことだよね。無理だもんね。ツイッターだけにするなんて。それで事足りるならいいんだけどツイッターに移行した的な言い方って本当にアホだなって思うよね。それこそ普通に普段文章を書いているような人もそんなこと言ってたりするんで本当に唖然とするわな。


ってことで今日はこのへんで。