数学雑談。


Haruomi Hosono x Emalkay - Heliotherapy (Crusader Mix)


Haruomi Hosono「Heliotherapy」+ Emalkay「Crusader」


DJ Bold Mushroom, 2012



こないだ日本語で数学書を読むって話をしたけどさ、いや、ようは親和性でしょう。言語への近さというかさ、いや、言語的には数学を記述するには断然英語のほうがいいんだけど、でも俺がこないだ書いたような文字だけでなんとなくイメージが浮かぶっていうさ、いや、日本語がなんだかんだで俺の第一言語だから例えば完全に未知で専門的なものを読む場合、分からない用語がいっぱい出てきてもアルファベットじゃさっぱりだけどっていうかようはその単語の意味は分かっていても数学的なコンテキストでは意味が違ったりするじゃん?まぁそれも調べりゃいいんだけどさ、それに比べてまぁやっぱり日本語のほうがなんとなくの意味が分かるんだよね。


まぁ全部じゃないけど分かるものもある。ってことになるとさ、なんつーか数学ってまぁ理解するのに数学そのものを理解するわけだけど、でも学ぶ際に概念って形成されるわけじゃん?まぁ他人の脳は分からんから数学的概念がどう形成されるかは分からないけど、でも少なくともそれは文字によってじゃん?ってことはその言語で学んだ数学っていうさ、まぁ劇的な違いはなくても日本語が意味する数学的概念と英語が意味する数学的概念の違いってさ、それって例えば俺が英語で学んだやつの場合、少なくとも「対数」とかの場合はlogって言われたほうがいいっつーかようは対数ってなんのこっちゃさっぱりでlogなら分かるっつーと変だけど最初にlogで覚えてんで後で対数ってのが分かったからさ、それはlogなんだよね。で、対数は「英語で言うlog」かっていう感じになるわけ。意味分からないか。


んー説明がアレやなー。ハリーポッターを邦訳で読んだときの印象と原著で読んだときの印象の違いかなぁー?ハリーポッター読んだ事ないから分からないけど、どちらでもストーリーは同じでしょ?翻訳が完璧じゃなくてもまぁベースは原著なのは言うまでもない。でも言語的なニュアンスによって全然印象が違うわけだ。映画の吹き替えと英語の違いみたいなもんかな。まぁあれは声が入るからな。でもまぁ指示された意味が同じでも印象が変わるって意味でさ、それがね、日本語によって数学的意味が指示されるってのと英語によって指示されるときの違いってさ、それはあくまで数学的概念ってものを指すもので小説とか文章とは違うものだけど、でもその指示するっていうところで介在する言語のキャラクターっていうのかな?それがなんかゲシュタルト的なさ、ある種のイメージを作り出す場合もあるんじゃないかなぁ?って思うんだよね。


なんかだからまぁ論文とか数学のやつにしてもデフォで英語っつーのもそういう印象の違いみたいなのを統一するってのが無くも無いと思うんだよね。ベンヤミンとかでも翻訳論的なのってあるじゃん?まぁ言いたい事はああいうことなんだけどね。指示するものには言語以前にある意味でのまぁイデア的な対象があるっていうさ、でもそれはまず人によっても違うだろうしっていうかようは「女とは」とかって言うときの「女」という言葉が指示するものは人間の性別としての女だけどさ、でも実存的バイアスがかかったりなんかして、「ビッチ」とか「苦手」とか「基本バカ」みたいな属性がついちゃったりするじゃん?コンテキストにもよるんだけどね。


保健体育のコンテキスト内で示される「女」はいかにもな生物学的なジェンダーとしての女だけど、文学やら評論やらましてや「世の女性」とかになったらまぁすげーその認識する個々の女性像ってのがかぶってきちゃうよね。そういう意味で中立的な絶対的な「女」ってのは存在しないとも言えなくもないと思うんだよね。


数学はまぁようはイメージで言えば保健体育のコンテキストの中での「女」ぐらいの意味とかを削ぎ落としたそれ自体を意味するっていう指示になるとは思うんだけど、でもまず数学って教わるものじゃん?何らかの言語によって誰かとか何かのテキストによって教えられてるんだよね。その時にバイアスってかかるのか?ってまぁかかるよねぇー。物理とかではそれが顕著に出てるよね。その物理観の違いによって定説とされているものへの反証みたいなのが出てくるわけでまぁすげー素敵な科学だよね。でもそこでさ、数学はそういうの無さそうなイメージあるじゃん?


貞操が良い一つのことに尽くすような感じっつーの?でもやっぱ数学にも解釈学的なさ、数そのものというわけではなくて捉え方とかイメージとかさ、まぁそういうのって数学の厳密性から言うと余計だから語られないけどまぁあると思うんだよね。そういう色々な見方から出てくる色々な数学観っつーのかな?それが客観的に結果としてアウトプットされてもそれはその人がどういう生い立ちでどういう人に数学を学んでどう考えた末にこれを思いついたとかって語られないでしょ?その数式に関する物語的な。


その数式とその物語の関係性なんてどうでもいいとかって特に理系は考えそうだけどそこはまぁ文系的なセンスでさ、特に文系なんかではその人がその哲学なり物語を紡いだプロセスとか時代背景とかその人の人生だとかってすげー関係するから深い理解に必須だったりするじゃん?まぁそうじゃない場合もあるけどね。で、まぁこれは数学にもある程度言えるのではないかなと。いやさ、そういう意味で有限主義者の主張って凄まじい実存的バイアスがかかってるってことになるよね?クロネッカーがあそこまで執拗にカントールを責めたのは人間的にクズってのもあったけど一種のオブセッシヴな有限主義があったんだと思うんだよねっつーかまぁ明白か。


ヒルベルトの公理主義的な考え方もまぁ数学的イデオロギーだもんね。だからゲーデル万歳!ってことになるんだけど。位置的にゲーデルは革命家的だよね。で、なんかすげー数学に足りないものってのはこの「ゲーデル的なもの」なんだよね。いつも書くように公理主義的なコーエンとゲーデルの齟齬に象徴されるようなね、ある種形而上学的なんだけど、でも立場としては数学を考える上で凄く重要な思考回路というか態度というかさ、ショーペンハウエルなんかも言ってたけど数学的演繹ってのはインチキなんだよね。まぁインチキではないんだけど、ただ論理によってのみ「ここがこうなるからこれは必然だ」って考えるのはただの計算なんであって思考じゃないじゃん?


様々な情報の中から「こうなのではないか?」と仮説を立ててそれを数学的に実証していくってのが数学だと思うんだよね。言わばまぁーほぼ哲学と同じなんだよね。思考のプロセスが。でも色んな本を読んでても普通の数学者のマインドって過度なオッカムの剃刀っつーかさ、そういうのをむしろ排除するとかくだらないものとして語らないなりさ、いかにそういうものを語らずに数学だけやるか?ってのがクールみたいな価値観あるじゃん?それは前にも書いたような欠如なんだよね。


思うに数学的思考と数理的思考は違うわけ。前者は哲学的でようはお手本がゲーデルなのね。で、後者は安っぽい一般書とかで言われるような「数学は役に立ちます!数学は武器です!」みたいな意味での数理的な考え方ね。まぁようはデータとか数字を客観的に分析するなりさ、なんとなく・・・ではなくて数字というエビデンスをベースに考えるっていう言わば分析的な考え方だよね。まぁそりゃー役には立つけどそれイコール数学ではないぜってことが言いたいのね。そういうイメージ強いじゃん?


でもライプニッツが言ってたように哲学無しじゃ数学できないし逆もまた然りなんだよね。数学的とか数理的なものがない哲学ってまぁようは放言じゃん?数理側から「なんでもありだよな。あいつら」的なディスられ方をするようなさ、まぁでもこれは哲学者に問題ありだよね。明確に書かなかったりやたら意味不明な専門用語を使ったり。んで逆に数学で言うと哲学的な何かが欠けている数学って計算主義になりがちっつーイメージがあるんだよね。ひたすら練習問題を解いて計算のスキルを身につけながら手を動かして数学を覚えていくみたいなスポーツみたいな感じっつーのかな?


まぁそれは必要だけどそれだけじゃないよね。俺に言わせればこんなのどうでもよくてやっぱ考えるってことが重要なのよ。あれだよね、岡潔の本とか読むと本当によく分かるよね。優れた数学者の数学をやっている時ってのはもう思索そのものなんだっていうさ、あれこそ数学者なんだよ。だからなんか計算でどうの・・・ってやってる数学ってすげー下世話な気がするんだよね。まぁリサーチの結果が数学にコントリビュートする可能性があるから否定する必要はないんだけどさ、ただなんか思索が無い数学なんて結局は計算ドリル的というかさ、ただの演繹ゲームになると思うんだよね。そういうところから数学はシンタクスだとか公理だとかっていう的外れな数学観が出てきちゃうと思うんだよ。あとは数学という言語内でのゲームみたいなもの的な数学観ね。まぁどれも違いますな。


数学は現実的な形而上学だよね。まぁ最近の物理なんかもそうだけどさ、はっきりいってまともに言って扱えなさそうなものを扱うっていうさ、まぁ数学でもリサーチ型ってのもあるじゃん?重箱の隅をつつくようなまったく役に立たなくてどうでもいいような定理を見つけ出すっていうさ、まぁ意味無いとは言わないけどまぁはっきり言って興味無いわな。やっぱりあれなのよ、数の概念を扱うパラダイムの高次化だよね。でもそれは必ずしも複雑化を意味するわけではなくて、複雑なプロセスの中からシンプルな結果とかが出てきて、例えば今まででは大学院生ぐらいじゃないと理解できなかったようなものが高校生レベルでも理解できるようになる定理なり数学のとある分野なりさ、言わばその「扱い」によって簡素化されるっつーのかな?それは前に書いたよね。


フェルマーの定理なんてのは絶対それがあると思ってるわけよ。もっと誰にでも理解出来るっつーか誰にでもってのは言い過ぎでも世界でも数えられるぐらいしかいない証明ってさ、それは証明なんだけどね、でもあんなシンプルな問題から証明が全く理解不能なぐらいややこしいものであるってのがどうも腑に落ちないところがあるじゃん?まるでバカみたいな物言いだけど呆れずに聞いてほしいんだけどさ、無限にせよ数の扱いにせよより簡素なり比較的扱いやすいっていう数の捉え方の方法ってやっぱあるわけでしょ?逆にほぼオミットされているけど実際は厳密にやったらそれこそ大学院生ぐらいにならないと理解出来ないものってのが高校数学で平気で出てくるじゃん?


でもまぁ凄く細かいディティールまではいかないけどなんとなくのさわりは別に超高等数学をやらなくても初等的なもので理解可能であるっていうさ、それはあらゆるものに言えるんじゃないかな?って思うのね。実際それで言うとスマリヤン不完全性定理をパズル的な解説で分かりやすく説明したものとかあるらしいけどさ、読んだ事ないから分からないけど、まぁそういうことなんだよね。それは比喩とかっていうレベルではなくて厳密に数学的にパズル的なものに置き換えて完全に劣化なく不完全性定理を解説可能であるってのはつまりはそれは「扱い」の問題なのよ。


スマリヤンがよりシンプルなやり方でそれを扱ったと言えるわけね。まぁそれはもちろんとんでもない深い理解から来るものだからさ、それは必然的に高度なものから来るんだけどね。なにも浅い理解でいいとか簡素な数式が良いとかって言うわけじゃないのね。発達の一つとして簡素に扱えるということがあるってことね。これもまぁ凄まじい数学的進歩じゃん?昔で言うlogだよね。あれでまぁすんげー飛躍的に計算が楽になったわけじゃん?あれは本当に凄い発明なんだよな。そこに感動を覚えたよね。まぁ深遠なところもあるけどね。本当にlogって面白いから。


んでもコミカレでlogを知った時の感動っつったらやっぱこの発明の凄さだよね。ネイピア凄い!!!っていうその感動ですよ。当時のブログにそのまま多分書いてあると思うけど、数学の感動ってここなんだよなぁー。先人達の仕事の凄さに感嘆するとか耽溺するとかって美術とかと近いものがあるよね。そんな凄い仕事をさ、普通に俺みたいなやつでも扱えるようになってるってのが凄いじゃん?もう凄い数学的進歩なのよ。それで言えばまぁ高校生でも微積やってる凄さなんだけどね。まぁあれは別に理系に限ればいいだけだから無理矢理やらせることはないと思うけど。そもそもカリキュラム的に無理があるからね。そもそも数3ってのがいらない。あんなの大学の初年度で理系がやればいい話なんだよ。受験とかを飛躍的に難しくしてるのもやっぱ数3でしょ。


まぁこれだけが原因じゃないけどまぁやらせるのがおかしいんだよね。まぁそれで言えば数Cもそうかな。まぁ俺全然そんな枠組みでやってないから詳しくは分からないけどああいう恣意的なカテゴライズに殺意を感じるよね。やってることがバカ過ぎてそりゃー数学嫌われるわっていう。思うに数学が嫌われる原因の一つとしては数学を数学好きが教えてないってことだよね。変な恣意的で学生を苦しめるだけみたいな目的のためにあるようなカリキュラムのせいで最高に嫌われてるもんね。そもそも好きになるやつは自分で本屋なり図書館にいって独学でやるしさ、学びたい!とかって思ったらそりゃー理学部入るだろうしさ、いいのよ、そんなの大学からで。


カリキュラム組んでるやつとかさ、あれでいきましょうとかって思ってるやつらって絶対数学好きじゃないよね。全く愛が感じられないもんね。むしろああいう高校ぐらいまでの準備期間までは数学を好きにさせるっていうかさ、いや、実は理屈の世界じゃないんですよってのを教える必要があるよね。それが現実でどう使われているのか?とか自然現象にどう現れるのか?的なまぁ応用数学的な観点とかね、あとは純粋数学的なものでも数学史と絡めてやるとかさ、あんな結果とか定理だけ持ってきたって全体像が見えないし本当に好きなやつが目覚めにくいでしょ。


俺が仮に高校行ってても絶対無理だったな。あれじゃ。だから本当にコミカレのリベラルアーツには感謝してるんだよねってまぁ批判的な部分のほうが多いんだけど、自分の物語で言っちゃうと集合論との出会いの感動がまぁーそりゃー衝撃的でしたよね。本当に。数学観完全に変わったもん。いや、数学って無限を扱うものだったのか!っていうあの宇宙が広がる感じっつーのかな?で、面白いもんでさ、集合論だとか無限を扱う数学にしか興味が出ないと思いきや数学はいたるところに無限が出てくるからそれこそ確立だとか解析だとかが必然的に面白く感じられるようになるんだよね。数論とか幾何とかはそんなに興味ないんだけどっていうかこの2つって俺が嫌いだったときの数学観を支配していた数学の感じに凄く近いから未だに苦手なんだよね。


あ、んでさ、話を一気に戻して思索的な数学ってことなんだけどアインシュタイン相対性理論の発見のエピソードっつーかアインシュタイン的な感じが俺の言いたい数学なのね。ビジョンなり「こうなんだ」っていう概念ありきでどうそれを数式で表現すればいいのか?っていうむしろアイデアとか考えはあるんだけどアウトプットの問題があるっていう。そこでなんか奥さんの助けとかもあったらしいんだよね。アインシュタイン。ああいう感じだよね。だからなんつーかアインシュタインゲーデルが親友同士だったってなんかすげー納得がいくのよ。コーエンとゲーデルはまず話は合わないだろうけどアインシュタインとだったら永遠と喋っていられるんだよね。これが俺の言いたい思索的というか思索ベースの数学ってことね。まぁつまりは概念ってことで演繹とか証明とかではないってことね。方法として演繹とか証明があるだけで本質は違うじゃん?


なんかそういうところを科学教育は伝えて行かないといけないわけ。教育してその学科が嫌われるとか問題外なのよ。それはまぁアメリカも一緒なんだろうけどね。数学系の書き物では本当によく見かけるもんね。なんであんなに意図的にと言っていいほど数学嫌いにさせるようなカリキュラムにしているのか?ってまぁ本当にそうなんだよね。逆に数学教育が成功している国ってあるのかな?まぁとにかくあれだわな、「国語」の一環として中学ぐらいから論理学をやらせるってのは前から言ってるけどこれは必須だよね。理屈臭いやつが増えてうぜー!とかって思うかもしれないけどそんな風に思うやつが多いってことはもうそれは民度の低さを表しているわけよ。


論理的思考があってもでも論理的ではない何かを楽しめるとかさ、論理的過ぎると場合によっては無粋というかさ、鈍臭いっつーか映画に対して「現実味が無い」っていうぐらいの無粋さっていうのかな?それはダメじゃん?論理的であっても人間的につまらないからね。それ。ただまぁ基礎として日本語を使えるってのが当たり前のように論理が使えなきゃそれは言語を使えていることにならないからさ、だからまぁとっととやってほしいよね。論理世代みたいなのが出てきていいと思うのよ。ロジックをもう必須でやってきているからやってなかった世代と比べてやってきた世代は悪く言えば理屈っぽくて良く言えば分析的っていうさ、アメリカ人がやたら子供でも話をまとめるのが上手いとか論理的に喋れるとかっつーのはやっぱり教育の賜物なのよ。


アメリカ人だから凄いわけじゃなくて。あれは必要だよね。空気に支配されるというのを無くすのも論理って一つのツールだと思うね。おかしくてもなんとなく・・・ってのに論理で抗えるじゃん?なんでその先輩が言うことがここの空気を支配しているようだけどそれがいかにおかしいか?ってのを分析的に語れれば空気壊せるんじゃないの?って思うけどね。まぁ問題はそういうことをやらないで荒波を立てないっていうコミュニケーションにあるんだけどね。


まぁもっと俺みたいなやつがいてもいいのにねぇー。みんないい子過ぎるんだよ。言いたい事もっと言えばいいのに。空気ってのはダサイっていう風潮作れないかね?風潮メーカーって必要だと思うなぁー。一時期「いじめかっこ悪い」的な風潮メーカーがあって成功したのか分からないけど空気の支配もダサイっていうさ、それは一人一人が何も考えていない証拠だとかね、悪い村人的マインドセットの表れだとかね、とにかくまぁ凄まじくダサイことなんだってことね。


それが前にも書いたいかにショップとか飲食店とかが洗練されてお洒落になろうが人間がださけりゃいつまでもパリジェンヌとかニューヨーカーに敵わないわけよ。あいつらがなんでかっこいいか?ってやっぱ人々なのよ。それが形成する街の雰囲気とかオーラね。それでまぁかっこよくなってるけよ。まぁそういう意味で俺はニューヨークは本当に良い街だなって思うよね。ロードアイランドみたいな無くなったほうがいいような州にいたからよく分かるんだけど。本当にアメリカはロスとニューヨークぐらいでいいよ。他のダメな田舎とか無くしたほうが国のためだし世界のためになるよね。エヴァンジェリカルズとか票取れなくなったほうが世界的に絶対いいはずだし。


なんか話が逸れたしもう今日はいいです。これで。んじゃまた。