数学雑談2。

いやぁーさー数学なんだけどさ、「日本語で読む数学書」ということでラングの解析入門ってのを買ってみたんだけどかなりの定番らしいね。これ。正直、内容が知ってることばっかりで「しまった!」と思ったけどっつーかこんだけ色々買ってりゃーもういらないはずなんだよね。手元にあるやつをやっていけばいいだけなのに色々読みたくなっちゃう。


っつってもなんかやっぱ弱いなと感じるところがさ、俺の連続とか解析の理解ってまぁ大雑把っつーか超概念的なんだよね。数学的に細かいのが大嫌いだからそういうのは読めない性分でだからまぁ一気に位相とかに行っちゃったほうが楽なんだけど、でもなんつーか泥臭い工学的な細かい微積ってのを理解してたほうがいいなーっつーかさ、集合論の本を読んでいてもそもそもの俺の連続の理解ってのがやっぱり大雑把なんだなってのを感じることがあってさ、やっぱり数学向いてないのかもしれないけど、基礎飛ばしまくってるからちゃんとやろう!とか思ってちゃんとやれる本いっぱい持ってるのに買ったんだよね。ラングのやつ。



なんかんでさ、ググってみると「高校1年生から2年生ぐらいにオススメ」とかって書かれてたりしてさ、やっぱ頭おかしいジャンルなのかな?って思ったね。あんま気にしないでやることにしてたけど世間的にこんなのを高校1年とかで読んでたら怖いぞ。数学できるやつってやっぱそうなのかなぁー。こんなの高校ぐらいで読んでたら敵うわけないよなぁー。そりゃ。いや、分からんけどさ、普通の人バカにしてんのかな?こういう時だけ都合良く「普通の人」とかっていう自分に嫌気がさすけども。まぁジョーダンですけどね。


いやさ、この細かい数学的な証明ってさ、ようはパラメーターの範囲とかが狭い場合、計算出来るっていうだけでさ、普通に計算することが不可能になる値とかっていっぱいあるわけじゃん?なのになんでそれを計算可能の範囲内でのみ計算して練習するのかさっぱり分からないんだよね。竹槍で飛行機を落とすような感じっつーのかな?イメージで理解ばっかじゃダメだから厳密な細かい数学的な理解をしよう!とかってまぁちょっとはプロ精神の芽生えかと思ったんだけどやっぱりあの証明の恣意性っつーかさ、どこまで概念的に理解できていて、どこまでがただの論理操作なのか?っていうさ、記号操作でそうなっているからそうなっているってだけでさ、やっぱり微積っつーか計算って行き着くと例の量子力学とかの頭のおかしい数式とかになるよね。黒板2つぐらい埋まるようなやつ。あれを理解するって無理なわけでしょ?計算はできるけど理解ってのがありえないわけだ。いや、理解出来るものもあるんだろうけど「計算でそうなるから」っていうことをやっていて何になるんだろうな?って思うんだよね。


いやーでもね、知ってても読んでて新たに知ることとかあってさ、いや、合成関数のね、内部関数と外部関数って概念全然知らなかったんよ。いかにも基礎やってないって感じだけどさ、そういう意味でやっぱラングのやつは色々と読み進めていけば詳しく書いてあるのかなー?と思ったりなんかして。あーなんか自分で書いてて頭が悪そうなこと書いてるなーって呆れるわ。マジで。いや、合成関数とかはともかくとしていや逆にね、イメージでなんとなく分かってたことが結局は細かい詳しい証明によってより理解が深まるんだって言うありがちな帰結になっちゃってるわけよ。結局それかよ!っていう。


んでもこれはさ、まずは大体イメージを掴んでるってことが最初に必要なんだよね。普通の高校生みたいにいきなり計算とかやらせて計算だけできていてもそこで何が起こっているのかがさっぱり分からないわけだからさ、それじゃ意味ないんだよね。だからなんかプロセスとしてはまず何歩か前に行ってるんだよね。山頂とまでは言わないけどある程度高い所から見てる感じね。で、細かい証明とかを見てそこですげー緻密なレベルで何が起こっていたり行われているのか?ってのを観測するわけ。で、「なるほど!」と理解してより理解が深まるんだけど、でもやっぱ印象としてはなんかただの操作じゃん!ってのが多いんだよね。数学的にこうだからって言われてもそれは理屈にならんしなぁー。ここでこれだからこの法則を使うって言われても理由が無いとダメなんだよね。


まぁそこは自分で考えろってことなんだろうけどそれやってると時間かかり過ぎるし飽きてくるから嫌になるね。だからまぁーみんな暗記とかあんま考えずに計算を機械的にやるんだろうな。一個一個の意味とか考えてると頭がパンクするから。でもその意味を考えちゃうやつのほうが多分数学に向いてると思うんだけど、世間的には計算出来るやつのほうが向いてるって思われがちだから俺みたいなやつは必ず脱落するよね。「俺は向いてない」って思っちゃう。んでも実際はそこまでreasonにこだわるっていうこの態度自体がかなりの才能と言うとあれだけど、awarenessだよね。ようは。


まぁこれは一般的なことにも言えて「なんでこうなるわけ?」っていうのをとにかく俺は知りたがるのよ。あとはまぁ俺みたいなやつはね。で、それは数学にも言えるんだけど大抵の教科書的なやつには一個一個の理由なんて書いてなくて「何々により」とかっていうただの公理で進んで行く感じがあるから意味分からなくてつまらなくなるんだよね。でも実際は恐らく大半のものに必然があるんだけど、そこまで考えないんだろうね。普通は。だから「練習」しかなくなるわけだ。んでもこりゃおかしいよね。考えるってことだろって思うんだけど。実際ハルモスとかもそんなことを言ってたよね。計算っつーよりかは思考することに多くの時間を使ったって。まぁ超一流の人が言うことだから凡人が真に受けてはいけないんだろうけど。


なんか計算とかってバカバカしいんだよなー。どうせ変数とか増えたら無理になるんでしょ?っていうさ、だったらなんで1とか2ぐらいの変数の計算とかでヒーヒー言わなきゃいけないの?っていうさ、その目的が工学とかにあれば分かるんだけど単純に学ぶって意味から言うと変数が多くなると計算出来なくなるから無理!みたいなのを計算出来る範囲の中でやろうって思わないよね。なんつーかやっぱ一般性が無いと嫌なんだよね。nになっても計算可能であるっていうことじゃないとやる気が起こらない。だったら最初から機械にやらせればいいじゃんって思っちゃうんだよね。


線形代数とかもそうなんだけど、あんなの人為的にやるもんじゃないよね。絶対ミスるじゃん?あんなの。あれを手で計算することの意味が分からないし練習する意味も全く分からない。概念を理解してればいいんじゃないか?って思うんだよね。その理解のための証明なり計算ならいいんだけどただの記号の操作としての計算って本当に意味無いと思うんだよね。無駄な苦労っつーかなんつーか。


んだからね、微積の根本的な概念とかさ、範囲を表すとかさ、ここでこうなるとこう範囲が変化する・・・とかってようは根本的な数の性質全般に言えることだから変数どうのに計算が依存したりしないでしょ?言ってることがおかしいか。ようは基本概念はどれも数に関するものなんであって変数の計算に関するものじゃないってことなんだよね。そういう意味でジェネラルな数の扱いという意味での数学の概念の記号化としての数式ってのが重要なんだよね。それをより深めることでようは数の性質の理解がより深まるってことなわけでさ、だから結局全部繋がるんだよね。数学っつー全体で。集合論とかなんてめちゃめちゃ重要じゃん?


その範囲の概念とかさ、数を捕まえるなんつーか漁みたいなことなんだよね。そのスキルっつーのかな?それがないと当然集合論もできないわけだ。逆に論理だけの集合論ほどつまらんものはなくて、常に概念がある集合論で記号操作はあくまでプロセスとしてのみ介在するんであってそれが目的であってはいけないんだよね。だから猿みたいに演繹ばかりやるなんてのはもってのほかなわけだ!とかって書いてると俺はどっちかだよね。本当に数学に向いてるかただのバカかどっちかになるよな。政治然りだけど気違いとしか思えないようなことも書いてるけど俺の中では全然全てがメイクセンスしてるんだよね。だからそれは論理的必然があったりするんだけど世の中のロジックと合わないみたいな。でもそうなると数学にしても俺が考えている数学のやり方ってのが凄まじく間違ってたとすれば俺の他のことも相当間違ってることになるんだよね。


ようは思考法とか思考のプロセスの進め方という意味では他も一緒じゃん?それは数学的構造どうのではなくね、進め方の妥当性は自分にあるわけでしょ?誰々がこういってましたとか教科書に書いてありましたじゃなくて自分はこう考えてきていてんでまぁこう考えるってのがやっぱりそれは色々と考えてみるとすでに過去の思想家とかが考えてたりすることだったりするとさ、それってやっぱ人間が思考するっていう所産なんだよね。それと同類の帰結が出てるんであればそれはやっぱ妥当だったわけよ。完全に気違いだったらどれとも合致しないだろうけど少なくとも俺が書いていることも考えていることも当然ながら人間が理性的に考えるという枠の中からは出てないんだよね。


だからまぁオリジナルなもんは一切無いしまぁ一応自分では考えているけど大抵は考え尽くされているよね。もしくは知らないうちに概念を流用していたりもするだろうしさ、つくづく自分はまともだなって思うんだよね。書きたい事ばっか書いているくせに全然ぶっ飛んでないのね。まぁだからまともなのよ。俺は。


ってのが俺の数学的な態度でもあるわけ。こんなまともな俺が考えていることなんだから間違いない!って思うんだよね。ただ大抵は世の中で言われていることと違ったりするから気違い扱いされたりすることもあるけど、それはまぁ世の中が遅れてるっつーか無知なだけなんだよね。そこまで深く考えてないから浅いコモンセンスで止まってるんでしょっていうさ、俺は一応色々と考えて地頭を使っているって自負があるからさ、例えばだから計算やらなくていいとかね、分からないところの分からなさを正当化するとかさ、そういう動機づけでやってたりしないってのも自分が一番分かってるじゃん?いかに理解するか?っていうことにポイントがあるわけだから、そんな中で考えてきた中で普通とは違った数学観というと大げさだけどさ、学習の考え方の違いとかがあっても当たり前だと思うんだよね。


んでもそれはお前にだけ言えることなんであって普通は違うよって言われたらまぁ本当の気違いか相当正常かどっちかだよね。でもそれは究極的に言えば分からないってのは確かソクラテスが言ってたことだっけ?自分が狂ってるかどうかは分からないっていうね、んまぁでもそこらへんのやつらに簡単に理解されるぐらいの浅さじゃないってことなんだよね。深過ぎるから狂ってるとしか思えなくなるってことでしょ。哲学的には元々まぁ一般的に見れば俺は狂ってると思うけどいよいよ数学にもそれが来た!ってことで凄く嬉しいのよね。恐らくそれはまともなんだろうけど学校とかで教わるそれとは大きくかけ離れたものだから完全な勘違いとかただのバカの考えかもしれないんだけどさ、でもそれは結果でしか分からないんだよね。


それでマジで理解が深くなった!とかさ、数学の場合、その理解が割と哲学とかに比べて客観的だから結果が出やすいよね。ご学友とかいれば理解とかを確認しあえたり一緒に勉強出来たりできるんだろうけどまぁ独学でやるってまぁかなり狂いが必要だよね。それはそればっかりやる!って意味での没入ではなくてフォーマルなやり方とは違った我流のやり方がどんどん出てくるってことでそれがどんどん世間のそれと離れてくるってことなんだよね。真面目な人は「数学を自己流でやるなんてとんでもない!」とかって言う人もいるだろうけどそもそも独学ならもう自己流でやるしかないっしょって思うんだよね。


ようは俺が思うさっき書いた計算とか記号操作の話とかさ、それは一応やっぱやってて思った事じゃん?ってことはそこには理由があるんだよ。思える理由が。でも「これは意味のないことであるが」とかって教科書に書かれたりはしないし恐らくみんなそんな深く考えないから勝手にスルーされてることとかいっぱいあるわけよ。それはかなり高次な段階で分かればいいことなのかもしれないけど割と最初から分かるやつもいるはずなんだよね。そこでなんか数学特有の悪い意味での煩わしさに惑わされてやることをやめちゃうんじゃなくて不快に感じているのにはちゃんとした理由があるって思えればさ、少なくとも「自分の頭が悪いから理解出来ないんだ」って思わなくなるんだよね。


大抵の場合、煩わしいのは計算のプロセスのややこしさなんであって根本的なものは前にも書いたように基礎的な数の操作ということの拡張がよりマニアックになっていくだけだから一個一個ちゃんと理解してれば理解出来ないのなんてないはずなんだよね。だから恐らく難しい数学って無いんじゃないかな?って思うようになってきたね。それを感じるのはただの無知だからなんであってさ、分かっちゃえばそれは文字のように全てが必然的なわけでしょ?その「分かる」って感覚がどんどん増えていくから予想とか立てられるようになるんだよね。多分。まぁただ必ずしもそんなに線形的じゃないというのもあるけどね。全くそんな既知なものには属さない概念とかもあるんだなってのは前に貼ったinfinityを読んでて思ったよね。まぁあって当然だと思うけど。


ここがまぁ一般的な数学に関する誤解なんだよね。既知のものを普通にやっていればどんどん色々分かるようになるっていう積み上げ感ね。でもそれはただの一部なんであってさ、俺としては必要性があったら別だけどそんなただの一部のことにすげーマニアックな計算とかやっててどうすんの?って思うんだよね。やっぱり大局的なものにしか興味がないからさ、やたらマニアックになっていくだけの数学とかって全然興味ないよね。だからやっぱ努力って違うんじゃないかなー?って思うのね。受験数学的なイデオロギーに犯されている人が多いし教育者とかですら積み上げとかさ、努力の重要性を強調したりするけど、ようはperceptionなのよ。数学って。数に対する知覚ね。美術と一緒で捉える方法とか描く方法は技術的に学べても根底の知覚そのものは磨くのには限界があるわけだ。


それこそ元々めちゃめちゃ感受性が高い人にはさっぱり敵わないわけだ。絵画って努力じゃないじゃん?世界レベルで凄い絵を書いている人を何人も知っているけどみんな努力じゃないもんね。まず彼らの強烈で異様なperceptionがあるんだよね。何らかの感じ方の違いとか強度がある。で、それを彼らは絵にして書くんだけどまぁそれがアウトプットってことだよね。で、その中でそのアウトプットの精度って意味で技術的な技巧とかね、そういうのがもちろん関係してくるんだけどまずはその出力ありきじゃん?なんで出力が生まれるか?っていうと恐らく知覚なんだよね。あとはなぜか急にすげー変なビジョンが浮かんじゃったとかさ、あんなの無理だもんね。


少なくとも俺が知っている本当にすげーなー!って知り合いだからお世辞で言っているとかではなくて本当に凄いな!って思える人の絵には圧倒的な個性があるんだよね。でもそれは狙っている個性なんではなくて本当にアウトプットの結果なんだなってのを凄く感じるのね。ある意味で作為性が無くてダイレクトでプリミティブなんだよね。だからこそ強烈なわけだ。俺がいくら練習したところで彼らのような強烈な絵を描けるようになるわけないじゃん?それはもう分かりきったことなんだよね。


で、それは数学然りなんだよね。恐らくまぁ哲学もそうだと思うね。哲学とか数学が割とアート寄りなのはさ、ようはなんかバカみたいな話になるけどさ、よく人間をタイプ別で分けたりするやつあったりするじゃん?で、あなたは研究者とか学者タイプです的なさ、で、なぜか思想家とかって系統としてはアート寄りなんだよね。数学はどうか分からんけどでもたけしとか見てると完全にそうだと思うんだよね。あの人も知覚が違うでしょ。天才かどうかは分からないけど。


あとコミカレの近くの本屋の数学コーナーで会ったやつね。黒人の異様に数学ができるやつね。あいつも自分で言ってたけど見えないものが見えるっつってたもんね。それを彼女にバカにされたりするけど俺には本当に見えるんだっつってたもんね。だからもう世界の見え方が違うのよ。それは数学の勉強をしたところで見え方は認識のレベルでは若干変わるかもしれないけど純粋経験的な完全なる知覚という意味では感受性は変わらないじゃん?鈍いやつはいつまでも鈍いし。そこがやっぱ才能なんだと思うよね。まぁそれで言うとまぁ科学とかも同じなんだけどね。


ただそれは厳密な意味での科学で社会科学みたいな似非科学は違うけどね。だからまぁ積み上げ的にずーっと腕立てみたいな感じで計算あるのみ!とかいって数学ができるように評価されてきちゃった人とかが大学院とかのリサーチレベルになって詰むんだよね。ようやくあそこまで行って才能の無さに気がついて詰むっていうさ、んでも時遅し!だよね。なんかやっぱダメよ。なんでも努力とか積み上げで出来るなんて幻想を与えちゃダメだよ。数学はめっちゃ残酷やで。努力とかで達成出来るレベルなんてたかが知れてるよ。本当に。


だからもう俺は自分の感覚を信じるしか道が無くなってるんだよね。卓越した計算力があるわけじゃないし数学書をスラスラ理解出来るほどの地頭も無い。んでも割とまぁ分野によるけど凄まじく興味があって割と頭に入ってきやすいものはかなりあるしそれで色々と感覚を掴んできたわけだから少なくともまぁ何かあるんじゃないかな?って思ってるんだよね。まぁ無いかもしれないけどでもまぁ自分でやってることだしリスクが無いっつーかまぁ好きでやってるわけだしさ、ただでも「趣味の数学」みたいなのを続ける気はないんだよね。何か卓越したものっつーかあとは何かを作り出せるとかさ、そういうレベルまで行けないっていう壁が完全に見えちゃったらもうやめるよね。一気に冷めると思うし。


俺は今自分を信じてるわけね。いや、もっと色々分かるようになってもっと未知の領域にも踏み出していけるんだろうな!って勝手な期待をしているわけね。でもそれは地頭というか計算とかって意味でもそうだけどそういうところから見ると絶望的なんだよね。まぁ普通よりかはマシかもしれんけどまずはまぁ卓越してないわな。だからもう信じられるのは感覚しかないんだよね。でもまぁ色んな意味で感受性の強さはある俺だからさ、まぁそんなんで社会に適応できないんだけどさ、でもその感性ってのが数学の領域で活かせたりしたら凄いじゃん?まぁ俺が勝手に思っていることだけどね。


何々の才能的なことではなくて感受性ってことでまぁジェネラルに考えるっていう。そういう感性的な数学なんだったらさ、いや、逆に計算だけできるやつなんかよりよっぽど使える人間になれるかもしれないじゃん?だから別にそこは計算力無いとか計算やる気になれないとかっていうので絶望しなくていいんじゃない?ってことなんだよね。自分に都合良過ぎ?


でも俺的に言えば明らかに違うんだよね。計算的スキルと数を知覚するって感覚は。計算的スキルが異様にある人はそのスキルによって数式とか計算から数学を理解出来るようになるかもしれないんだけど、数式とか計算からじゃなくて感覚から数学を理解出来るようになるやつっていると思うのよ。で、さっき書いたようにその感覚で掴んだものありきで厳密な証明とか計算を見たりして数学的に理解することでその感覚で掴んだものの理論的背景がより強固になって深い理解に繋がるっていう。だからこういう人の場合、一般的には数学が苦手である可能性があるんだよね。完全に俺はこのタイプに入ってるって自称してるけど、まぁ俺が仮に入っていなくてもそういうタイプはいるだろうなって思えるのね。俺の実存的バイアスとか関係無しに。そこがいつもごっちゃにされるところなんだよねー。


俺が天才論とかを語ると自分が自分を天才だと思いたいから天才について自分の都合の良いように語っているみたいに思われたりするのね。で、一般的に言われる「痛いやつ」なんていう度を超した「痛いやつ」になるんだよね。まぁ全然関係ないけどね。あとベーシックインカムとかもそうだもんね。俺みたいなやつだから賛成だしああいう話を展開しているんだっていう実存的バイアスがかかってるもんだって解釈されちゃうんだよね。んでも俺的に言えばそんなの意見でもなんでもないんだよ。自分の都合のいいように話を展開しているだけじゃん?俺には一番興味が無いことだよね。俺は自分の体験とか思った事とか読んだ事をベースにして予想したり考えたりしてるわけよ。で、「こうなんじゃないか?」って思ったりしているわけで、そこと自分が天才かどうか?とか数学的才能があるかどうか?とか自分にとってベーシックインカムが達成された世の中はどうか?なんてのは全く関係ないのよ。


まぁ分かってもらえなくていいんですけどね。キワモノ扱いされるとなぜか嬉しいタチなので。逆になんかいつも足りない言葉からも色々と補正して理解してくれる人ばっかりがこれを丁寧に読んでくれていてまた相変わらず深い理解をしてくれているんだろうなーっていうさ、それだけになってもつまらないからねってまぁ読んでくれている人達に失礼な言い方になるけど、やっぱ常に「何これ?」って思う人がなんとなく読んでみて「こいつ頭おかしい!」とかって思ってほしいっつーかそういう機会があってほしいんだよね。だからまぁこうやって無制限に晒されるwebって場所は最高なわけだけど。昔のエントリーとか見ててもさ、唖然とするんだよね。


見た目は気違いっぽいんだけど全部ちゃんとしてんのよ(笑)まぁ俺が自分で思ってることそのままだから俺が理解出来て当たり前なんだけどたまにそのままそれが頭に入ってきてシンクロして気持ち悪くなったりするって人とかいたりするじゃん?まぁすげー嬉しいんだけどね、んでもそれってやっぱある程度ちゃんとした思考のマッピングじゃないと成立しないと思うんだよね。真性の気違いが書いているだけだったらそんなシンクロ生まれないだろうし。


いや、気違い的な意見ってまともな意見とかに多いんだってば!よくもまぁ事実をここまで曲解したり変なエビデンスを立てて論を立てているよな!っていうさ、唖然とするぐらい頭がおかしいのっていっぱいあるんだよね。まともな文体でちゃんとしたやつでね。異様にちゃんと緻密に書かれている分析哲学の論文とかまぁあれは俺に言わせれば頭おかしいよね。まぁ頭悪いだけなんだろうけだそこまで書けちゃうってのはやっぱ頭がおかしいんだと思うよね。なんであそこまであんなに徹することができるのか?ってことだもんね。あの信条システムが全く理解出来ないんだよなぁー。まぁそれはいいか。


まぁあんま見た目だけで判断しなさんなってことですよ。ちゃんと書かれていておかしいのもあればおかしい書かれ方をしていてちゃんとしてるのもあるわけだから。俺の場合アスペルガー式速記ですかね。それにしてもアスペルガーっつのも予想以上に世の中に広まったね。ちゃんとした定義とか知識がないまま言葉が一人歩きしちゃってるから鬱とかパニック発作みたいな言葉が出回り始めた頃みたいな誤解とか理解の浅さが酷いよね。「アスペ」とかって略されたりして。


思うにでもさ、気違いってのも凄く難しいよね。狙ってできるもんじゃないからね。気違い風の絵とか文章ってまぁ映画とかもそうだけどすげー簡単だし見かけ倒しってすぐ分かるじゃん?でも本当の狂気って内在してるもんだからね。見た目とかではなくてそれに接していて感じる狂気だよね。リンチの映画みたいな。まぁ俺は自分の事を狂ってるとは思いませんけどね。でも「狂ってる!」とかって思えるってことはあんまりこういう人がいないってことだよね。なんて寂しい世の中なんだろうか。普通の人ばっかってことだもんね。だから新しい価値観とか創造が生まれ辛いのも頷けるわ。マジで。


なんかでも本当に納得いかないのがさ、論理的であったり理性的であったりするってことが極端でもそれは認めてほしいんだよね。それが行き過ぎた人が世の中にとけ込み辛くなるっておかしいんだよね。むしろそういう人が世の中引っ張っていかなきゃいけないんじゃないの?って思うわけで。普通はまぁ色んなところで誤摩化したり「まぁーいっかー」で済んでるから世の中回るってのは分かるんだけどさー、なんかでもそれがデフォじゃダメだと思うんだよね。それ言うと普通の人はそれが分からないっていうんだけど、なんでんじゃあその普通とやらが世の中を支配するのか?ってことだよね。


いや、常識で言えばそれこそ有か無で言えば無であるということが分かれば有であることが否定されるとかね、有であるなら無ではない的なさ、数学ってそういうの多すぎじゃん?あんま深くやってるとは言えないけど俺が公理主義的なものを嫌がるのはここなんだよね。別に公理主義に限らずっつーかまぁ数学全般をディスることになるけどさ、それが全射であることがありえないだとかさ、それが証明できてしまえば十分的なものってまぁなんつーか背理法が嫌われる理由ってここにあるんだけどやっぱ直接証明じゃないと納得がいかないよね。


それで済ませるってなんつーかさ、いや、理由が「それでは矛盾するから」とかさ、これはおかしいよね。それがなんでそうであるのか?という証明なり理由なりが必要なんであってさ、「矛盾するから」というのは公理系の問題なんであって理由ではないよね。だからそれで済んじゃってるっつーか直接性が無い数学なんて本当に空虚だなって思うわけ。あとはもうそれこそ眼光紙背じゃないけど納得いかないところは自分なりに徹底的に考えるしかないよね。理由づけに納得がいかないならやっぱ自分で考えないとダメだ。


「矛盾するから」なんて理由で納得できるやつなんてそれこそ頭おかしいよ。何がよくて数学やるんだか。それではないということを証明すればよいとかさ、卑怯にもほどがあるよ。やっぱ直接性なんだよ。数学は。近接性というかなんというかproximityだよね。矛盾なりそうでないということを証明するなりなんなりってやり方は俺的に言えばproximityゼロだよね。そんなんで済んでるからあれなんだよ、やたら抽象化だけが進んで形式的なものになっちゃうんだって。それは直接性の無さとか近接性の低さが原因の一つでしょう。絶対。


まぁ今日はもういいや。んじゃまた。