ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

狸さんへの返信2。

zxtuu
2012/02/06 22:32


耳蝉さん

返信ありがとうございました。
少し自分の些細な話をさせてください。


僕は現在、博物館でデザインの仕事をしているのですが、そこで感じたことは表現物に対するシビアな視線でした。絵画とはまるきり違います。自分が何週間かけて作ったものでも、誰もが絵画を前にしたように臆することなく、「いい」「わるい」の判断をしていきます。一瞬でです。拡大解釈になってしまいますが、たぶんこの視線の無慈悲や一刀両断の価値判断に耐えられてこそ、ホンモノなのだろうな、と思いました。家で描いている絵を僕は世界で一番おもしろい絵であると自負していますが、存在論的というか、舞台に上がっている否かの時点で、デザインの稚拙なポスターの方が上なんだろうな、と最近感じました。だから、自分のこの経験を耳蝉さんに当てはめ、ひどく雑な印象を書いてしまいましたが、返信を読んで、ひどく納得しました。色々合点がいきました。


哲学が天職であるという当然の帰結として、耳蝉さんにとって、数学が重要になってくるのですね。ゴッホの比喩は確かに数学には当てはまりませんね。あらゆる行為の中でゴッホの批判が唯一当てはまらないのが、数学の気がしてきました。舞台に立つ敷居が極端に低く、それに比例して、シビアな視線の度合いがシビアであると。おそらく一番シビアでしょう。


つい、自分が大学に進学し、権力とコミットメントをリンクさせたため、場というとアカデミアのイメージを与えてしまいましたが、少しニュアンスは違います。僕がいいたかった場というのは、「視線の有無」だけです。「ものを言うには東大くらい入ってからいえ」、とか、まったくないです。ただ東大=権力というのがわかりやすく「視線」を集める場を持っているというだけです。で僕は実際に東大に入ることも、確かに場を考える上で重要だとは思いますが、そこまで権力志向ではありません。単に「視線」にさらそうとしているか、の態度だけが、プロ意識たるには十分だと思っているのです。だから耳蝉さんが「書かなきゃいけない」という発言があった時に、自分のゴッホ批判が間違っていたと思いました。ごめんなさい。


と同時にこの推論の帰結として、耳蝉さんの葛藤のエネルギーは半端じゃなくなりますね。数学の敷居の低さは、知識欲をもつ人間の誰にとっても魅力的であると思いますが、その反面、非常に諸刃の剣でもありますね。全肯定か全否定しかないような気がします。妥協だとか、折り合いがない気がします。そうしたものに、自分の存在を賭けるというのは、苦しいと思います。でも、この苦というか熾烈な憂鬱は、哲学を閉じつつ開くという矛盾の実践なんだと思います。もし、数学がなければ、耳蝉さんの考える哲学は片手落ちになってしまう。ただ、それだとあくまで哲学の天職であることを支える支柱として、背理的に設置される対概念の気もしてしまいます。いや。やめますね。あまりに深読みですね。まともな論理展開になってません。


耳蝉さんの哲学が、数式に置き換えられて、哲学と数学が等号で結ばれ、世にもおもしろい概念をみることを愉しみにしてます。



早速なんですがちょっと異論があるので色々と書かせてください。


絵のことなんですが、舞台云々の話に関して違和感があるんですね。確かにそのシビアな視線に耐えられるというのが良い作品の条件かもしれませんが、でも逆を言えば様々な人の視線に耐えられる作品って無難なものばかりだと思うんですよ。それこそ誰もが良いと思うような絵ですよね。極端な比喩を出すとハリウッド映画みたいなものです。でも全ての人には良さは伝わらないけど良いものって絶対ありますよね。そこがまぁ僕がよく「それでいいじゃないか」と落ち着いてしまいがちな「分かる人には分かる」類のものになってしまうんですが、あくまで価値というのはその本質にあって、舞台や鑑賞者に規定されるものではないと思うんです。


稚拙なデザインのポスターが舞台に上がれるのはそんなのが良いとされる風潮というかセンスに問題があるわけだし、そんなものが舞台に上がれるっていうのがおかしいですよね。あとはゴダールみたいに特にインテリなんかに過大評価されている映画監督なんかは「ゴダールを評価できる自分がかっこいい」的な目で高く評価されたりしますよね。ゴダールには良いものもありますが、はっきりいって80年代とか90年代のやつなんて全然ダメなんですよ。なのに浅田彰みたいな人がやたら評価しますよね。で、その浅田ブランド的な、ああいうインテリが評価している映画ってことで他の人も「これは凄い映画なんだな」なんて勝手に思わされたりするわけじゃないですか?僕が嫌いな権威主義ですけどね。


そのぐらい鑑賞者って価値基準がズボズボですよね。そんな人ばかりではないけどそういう人も多いわけで、そんなものに価値判断なんてないだろうって僕は思います。良い作品というのは然るべき人が古今東西で評価するようなものだと思うし、それがなんで時代とか国とか関わらず評価されるのか?と言えばその価値が作品に内在されているからですよね。あとは最近園子温が芸人とか芸能人なんかが映画を作ったりするのに凄く批判的なことを言っていたんですよね。ようは映画プロパーじゃない人間がネームバリューのみで映画を作れるのは如何なものか?と。


ようは僕が言いたいことはまさにこれなんですよね。ようは芸人が作ったたいしたことない映画もネームバリューと宣伝費なんかで堂々と舞台に上がれるわけじゃないですか?それこそハリウッド映画並にテレビの宣伝とかもできますし。でもこれが映画の質を規定するわけではないですよね。これは書籍なんかにしてもそうですがクズみたいな本が本当に山のように出ていますよね。でもあれってまぁ舞台に上がっているってことになるし売れていればそれはホンモノということになってしまいますよね。1年後にはブックオフで100円でも出た当初は舞台に上がっている感じがしますよね。水嶋ヒロが書いたKagerouなんかは賞までもらっていますよね。でもホンモノではないし優れたものではないですよね。


あれはシビアな価値判断に耐えたから賞を取ったはずですし出版にまでこぎ着けたわけですよね。とまぁ僕が言いたいことは価値判断の曖昧さですね。価値判断には出来レース的なものとか「誰々が書いたものだから」とかなんとか、そういう不純なものが多分にあるじゃないですか?Kagerouとかは極端な例ですけど、結局これって芸人が映画を撮れるということと同じですよね。そういうわけで僕は舞台に上がるという話になるとその胡散臭さばかりにフォーカスがいってしまいます。


あとアカデミアの件なんですが、勘違いしていました。すみません。zxtuuさんが意味していたことは理解出来ました。で、まさしくzxtuuさんが言うように葛藤が凄まじいんです。そこそこ努力したからその努力が評価されるとかそんな生温いものはなくて本当に全肯定か全否定なんですよ。エリートコースを驀進してきた人が色々と10年やった結果、証明は失敗に終わったとかで自殺するケースとか普通にあるんで凄くメンタル的にシビアなジャンルなんだなって思うんですよね。


テニュアとかもらって論文も書かずにただの教授でいることは楽だと思いますが数学者でいるということは並大抵のことではないと思います。で、僕にとっての数学って確かにその背理的に設置される対概念かもしれないですね。今の自分にとって数学が無ければ自分の哲学は成立しないし、哲学を捨てて数学を単独でやるということもありえないので、相互的ながらもお互いが支えあうというような協調的なものではなくて、もっと実存的なものでそれ自体が葛藤の一つかもしれないです。ようは自分にとっての両者の欠如を埋めあっている感じかもしれません。