根本的な理解ね。重要なのは。

結局、数学っていつも書いてるように本当に理解しようとすると泥沼と化すっていうか、「公式はこうです」って言われて納得出来ないっつータチだとっていうかさ、ごまかすのが寸分でも嫌なやつはなかなか前に進めない感があるねっていうかようは知的に正直なやつほど理解を深める事ができるけどまぁ難点はあれだよね、時間がかかるってことだ。


いや、これはまぁ別に理系に限らずだよね。哲学でもwikiとかまとめレベルでしか理解してなくても理解したふりをしてるやつらが多いっつーか実際大半なんだよな。本当にマジで数学出来る人が少ないのと一緒で哲学も実際すんげーやってるやつなんて少ないわけだ。そもそもなんつーか病的なまでの理解へのこだわりって社会ではなんのメリットもないからね。暗記とか言われた通りに機械的にやるっていうほうがシステム的には良い結果を残せるし、逆に永遠と考えてるやつなんて落第するだろうしさ、効率悪いんだよね。


だから俺みたいな病的にまで理解にこだわるとかさ、あとはもうごまかしが嫌だっていうさ、実際知ったかぶりをするやつらが凄く嫌いっつーのもあってとにかく分かってないと気が済まないっていうね、それは別に数学に限らないことなんだよね。だから普段はそれが生活に支障をきたすことがあったりするわけだ。人とうまくいかなかったりっていうか、「気にしすぎだよ」って言われて終わるみたいな。でもこの病的な感じを学問に向けると凄いパワーになるんだなってのを数学をやってて分かったよね。思えば哲学も自分の頭の良し悪しというよりかはこの病的なまでのこだわりによってパワーが生み出されてるって気がするんだよね。


んでもそれは自分ではパワーだって気がつかないんだよね。でも端から見ると「すげー没頭してるな」ってことになる。でも自分としては没頭っていうよりかは分からないという感覚が気持ち悪いし、分かりたいと思った事が分からないままでいるということの居心地の悪さに耐えられないんだよね。だから知ろうとするんだけどでもなかなか分からないんだよね。でもまぁ凄い細かい計算を必要とするようなやつは最初からやろうと思わないし、やっぱり自分が理解しようと思うのは概念的なことだよね。


でもなんつーか数学のベーシックなところっていうと大抵は凄く肝心なところでってまぁ当たり前のことなんだけど、でも結局、少なくとも集合論とか微積分で言えば基礎を細かくやろうと思うとそれが高度化に繋がる感じなんだよね。もっと細かく厳密にやるって意味でもそうなんだけど、かといってもロジカルに厳密にやり通すというだけではなくて、なんつーか根本の概念をよりクリアに数学っていう言語に乗せるっていう感じなんだよね。


結局まぁなんつーかだから高度なことをやろうとしているわけじゃなくてようは「分かるということ」ってことに常に意識をフォーカスしているとそれが教科書であれなんであれまぁ大抵があれなのよ、足りない感じがするわけね。それを思考で補うしか無い場合もあるし、とにかくそういった思考ありきでより詳しく書かれている本をあたるとか、それを繰り返していくしかないんだよね。そういう意味で思ったより積み重ねなんだなというのは実感するよね。王道なしというのはまさしくその通りだなと。ただそのawarenessってのが根本的な本質的な理解ということに向かってないとモチベーションってのは維持されないね。だから思うに数学は学校でやるのに適してないと思うね。ようは本当に深くやるなら独学が一番という気がする。まぁ哲学と一緒だわ。


そもそも今度テストがあるとかなんだとか単位がどうだとか凄くそういうものとの相性が良くないものだよね。哲学にせよ数学にせよ。数学なんてのは本当にそうでさ、問題が解けるってことが別に理解を表すわけではないし、だからこそ学校の成績が良いってことが優秀ってことを必ずしも意味しないんだよね。ツールとして使うという意味では技術って意味では凄く大学に適していると思うけど、根本的ななんつーか凄まじくラディカルなところで問い続けるという意味では哲学と変わらないから学校っつーシステムとの相性は必然的にすげー悪くなるよね。そもそももう自分で考えろってことになっちゃうし哲学にしてもそうだけど教師だってそんな深いレベルでやってる人達なんて滅多にいないだろうからね、だからようはさ、ラディカリズムだよね。ロジックというよりかはラジック。


原理を探ろうとするっていうさ、計算出来ますとか証明出来ますなんてのはどうでもよくてそれがなぜそうなるのか?というのを明快に理解したい!っていうさ、それはもうテストとか計算とかってことじゃないんだよね。まぁ計算によって分かることもあるんだけど、なんつーかさ、何々によって・・・っていうさ、なんか大抵がまぁ公理主義的なものになりがちじゃん?そっから始まればあとはもう天下り的に大抵が証明出来ますっていうかまぁ大抵っつーのはまぁその本の中でね、ようは機械的に証明していくってことになるじゃん?でもあれは凄まじい間違いだね。あれはようは数学事典なわけだ。ネットとかにあればいいわけね。ああいうのは。そうじゃなくてやっぱ根本的な理解ってのはやっぱり概念だよね。口頭で「何々による」とかって言わないじゃん?理由なり理論の背景があるわけだよね。で、モノによってはそれが物理現象とかで記述出来たりなんかの例え話にできたり。


こないだネットでノイマンのこんな名言を見つけたんだけどさ

思考こそが一次言語であり、数学は二次言語である。
数学は、思考の上に作られた、一つの言語に過ぎない


ようはこれなんだよね。数学ってのは思考なりコンセプトを記述している二次言語なわけだ。まぁ言語自体がそういうことなんだけどさ、でもそうなるとあれなんだよ、ようは理解ってのは「前の定理により」なんてことはありえないよね。全部そういうのはその概念を記述する補助みたいなもんでその補助自体が概念を意味するわけではなくて補助が概念を記述するのに役立っているってだけだよね。んだからなんつーか数学ってのは俺がいつも気にしている「分かる」ということについて実存的にもう直面せざるを得なくなるんだよね。テストで点が取れればいいとかパスできればいいって考え方じゃそんなことはどうでもよくなるけど分かるということを気にしだすともう時間がいくらあっても足りなくなる。まぁそっからのスタートだよね。


なんつーかね、いや、こんな基礎概念も理解出来ないで俺は向いてないんじゃないか?っていうね、そういうのが永遠とあったわけだけどまぁそれは凄くいい躓きなんだよね。その分かってないということを自覚しているというのが凄く重要で、しかもその引っかかりってのは今思えばさっき書いたような根源的な意味での引っかかりだからね、俺はもうようは根っこから理解したがってるから浅い本とかじゃそんなもんは解説されてないし、それこそ高校ぐらいの数学のレベルで分かったなんてことはありえないわけでさ、だからこそまぁ今思えばディレクションが良いってことなんだよね。ようはその根源的な理解を求めるという姿勢がもう元々高次元なものに向かっているっていうか、その引っかかりさえあればいいんだなってのが凄く分かったよね。


それを解消していくことが結局は前進に繋がるってことで決められたディレクションでやるのではなくて知りたいとか読んでいて分からなかったということを徹底的に理解しようとする態度だよね。まぁエロスだと思うんだけど、でもいつも書くように凄く細かい計算的なやつは興味なくてさ、まぁそれは興味あるのと無いのとで激しく分かれるわけだけど、まぁとりあえず凄くいいんじゃないかな?ってことが言いたかったわけね。なんかあんままとまってないけど。


結局、数だとかそれに関する構造っていう根本的な所に引っかかってるわけだよね。それは基礎が分からないんじゃなくてそもそも数学が難しいわけだよね。基礎から厳密にやればもう恐ろしく深遠なレベルになってしまうっていう。んでもその浅いレベルでの理解に居心地の悪さを感じるっていうさ、それが凄く重要なのね。それがあるかないかだよね。「は?これでいいの?」っていうさ、「どうも納得いかねぇーな」っていうさ、そっからもっと深く掘り下げることになるわけだよね。だからまぁ納得いかないことだらけなんだよね。それを思うと大抵の数学書なんて記述不足に思えてくるから自分の思考で理解を埋めるしかない。だから眼光紙背とは真逆なんだよな。


読んでれば読んでるほどアホになってくると思うんだよな。「何々定理により・・・」みたいなバカみたいな定義で納得するやつなんて最初からやらないほうがいいと思うんだけど、読んでればいいっていうさ、いや、そうじゃなくて考えて理解しないと理解出来るわけがないんだよね。だからまぁみんなやらないんだと思うわけよ。簡単に理解しようとしたりそもそもそんなことに思考力を使うことに価値を感じないだとかなんだとか。まぁもっともだと思うけどね。それが普通だし無味乾燥な教科書を読んでそう感じるのが普通だよね。


で、そうじゃないところで数学ってのを捉えられるようになると一気に変わるんだよね。それが俺にとってのまぁ2年前のね、専攻を変えるきっかけになった集合論っつーかまぁ数学基礎論系のコースだったんだけどさ、んでもまぁその頃はっつーかしばらくは俺は集合論に興味があるだけで数学ではないっつーかやっぱ数学にずーっと違和感があったんだけど本当に最近だよね。実はそんな差なんてないっていうかさ、まぁ今思えば当たり前なんだけどね、んーまぁでもそこまでいくのにえらく時間がかかったよなぁ・・・。


なんか何を言いたいのか分からなくなってきた。まぁ何もかもあてにならないんだわ。現実と一緒で。自分でやるしかないんだよね。まぁ丁寧に書かれている本があったらそれはそれでいいんだけどデフォで不親切だと思ってたほうがいいね。本を読めば分かるか?っていうとそんなことはなくて本は理解への補助装置なんだよね。理解は考えてやらないとダメなんだよね。まぁその考えるための理解へのためのステップとしての計算っていうか練習問題を解くってのはありだと思うけどね、んでもまぁ俺はやっぱ手を動かすより頭を動かせって思っちゃうなぁ。なんかとりあえず手を動かせっていう計算主義ってどうも嫌なんだよな。


なんかもう分からなくなってきたからやめるわ。んじゃまた。