これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

前にディスりまくった選択公理の話なんだけどさ、最近いきなり思い出してブルバキの数学史を読みなおしてるんだけどっつーか上巻しか持ってなくてさ、いや、なんでか?っつーと買った当初は内容がさっぱり分からなかったから(笑)あれだけ手に取るように内容が分かるようになっている自分にも驚くけどさ、本自体がすげー楽しいんだよねっていうか面白いんだよね。まぁ数学全般そうなんだけどね。分かりだすと面白くて止まらなくなるわけで。


で、あと最近自分なりの躓いた時の処方箋もあるからね。いや、それはその本との相性が悪いから他の本を買って読むってことね。で、その他の本であることが分かるようになると相性が悪いと思い込んでいた本が読めるようになって・・・っていう好サイクルに入るんだよね。まぁだから本はもう数学書しか買ってないんだけどまぁなんか凄く充実しているっつーか本が届くのが楽しみでしょうがないんだよね。


あ、んで選択公理の話なんだけど昔にそんな話があったみたいね。やっぱそうじゃん!って思ったんだけど、ルベーグがさ、ようはunthinkableなものに対して恣意的な禁止事項っつーか決まり事を作ってそれを公理にするというのは如何なものか?みたいなツッコミをいれてたらしいんだよね。そう。俺と同じなんですよ!ということは俺はやっぱり鋭いというかセンスがあるってことだね。うんうん。選択公理についてはググってもらったほうがいいね。下手に解説するとアレだから。いや、なんつーか自明なことならいいわけじゃん?言わばユークリッド的な公理ね。


線とか角度っていう物性から来る具体性によってそれは疑いようがないというようなことなんだけどさ、選択公理の場合、とりあえず色んな集合から一つの要素を取り出して新しい集合を作る事が出来るというのはユークリッド的というか物性的で分かるじゃん?でも無限集合の場合ね、無限集合から一個取ってこれるようにするってそれってどうなの?っていうさ、一気に具体性が無くなるっていうか、自明性が無くなるんだよね。集合論の矛盾がそれで解消される的なさ、そうしちゃったほうが便利でいいじゃん!的な便宜主義によって作られた公理なんだよね。だから凄まじく人工的なわけだ。数学の公理なのに人間が決めた決まり事になっちゃってる。だからそれってどうなの?ってことになるわけだよね。ようは無限回必要な順に選び出すっていうプロセスがようは具体性がないじゃん?


なんだったか忘れたけどさ、この無限回っていうプロセスが曖昧だからそれをなんとかしようとして函数として表現したっつー定理があったな。なんだったか忘れたけど。それやらなきゃダメなんだよね。函数的に定義されるとかさ、それはもう数式によって定義されているわけじゃん?でも無限回やろう!っていう操作をそのままやっちゃうっつーのは数学的にマズい気がするんだよね。で、しつこいようだが連続体仮説については証明も反証も出来ないっていうさ、そんなの解決でもなんでもないじゃん?それは絶対システムの不備っつーかさ、足りない事があるわけよ。


だって濃度とかに関わる話なわけで論理でどうのじゃないじゃん?なんかここが凄く数学の嫌なところなんだよな。形式主義っつーのかな?ようはそれがなんかね、凄く抽象的で全く具体性がなくて直感が働かないようなのでも数学的に証明されているからって理由でアクセプトしなきゃいけなくて、んでそういうような直感的に自明だとは思えないなんだかフワフワしているような定理をベースにまた他の定理を作っていく・・・ってなるともうどんどん人間からかけ離れていくよね。その理論のアクチュアリティってどうなの?ってことになるよね。


それ言い出すと解析学とかの定理でもそういうの多いよね。感覚的に分からないけど論理的にそうだからそうなんじゃないの?的なやつね。なんかやっぱ理解というかさ、定理でこうなっています・・・じゃなくて頭の中で概念として理解出来るってものじゃないとなんかもうやる気しないよね。それこそそんなのやってて何になるんだ?っていうただの抽象ゲームみたいになっちゃうような気がして。そう思うと俺ってさ、抽象的な理論のほうが好きなんだけど、でも具体性がないやつはすげー嫌いなんだよね。ようは具体性から端を発しているものから抽象へ行くとね、そっちのほうが理論的に楽しかったり、あとやっぱ俺に合ってるんだと思うのよ。でもむやみやたらに抽象ってのはそれこそアブストラクト・ナンセンスなんて言葉があるぐらいでさ、数学自体に具体性がないっつーのかな?


なんかそこのバランスがよく分からないってのはあるよね。抽象って別に悪い事じゃないけど度が過ぎるとどうなの?ってなるしさ、ただ工学系の数学みたいなのには全然興味無いし。別に見下してるとかじゃなくて単純に計算とかが嫌いだからってことなんだけど。んでも数論とかになると「で?」ってなっちゃうのね。解析が好きなのはやっぱり抽象度が高くても測定が出来ていたりさ、具体的な範囲が函数によって指示できたりするっていうことなんだと思うんだよね。


ところでカントールって解析学から数学始めたらしいね。で、色々あってっつーか解析をやっていてなんか気がついたことがあってんでそれがきっかけになって集合論が出来上がったっていうさ、そのおかげでルベーグ積分とかが生まれたりして、ようはやっぱ俺が興味あるのはカントール的なものなんだよね。無限に関するものの解析っつーのかな?無限っていう捉えどころがないものに数式という具体性を持たせて無限的なものをtangibleにするっつーのかな?まぁ空間を数学的に整備するのも言わば数や連続体をtangibleにするためとも言えなくもないよね。


ようは具体化のための抽象化っつーのかな?抽象化のための抽象になるとただのナンセンスになるわけで。具体化のための抽象化といっても抽象的なものが具体的になるということではなくて、あくまで抽象的なままなんだけど知覚しやすくなるとか扱いやすくなるとかってことなんだよね。そういう大局的な見方があるとなんつーか細かい定理とかも納得がいくんだけど、どうもテキスト的なやつとかってさ、なんかただの定理事典みたいなやつって大局的なものが見え辛いからだからつまらないんだろうね。あんなのをまともにやれるほうがどうかしてるわ。


知的刺激を受けながら数学書読んでるやつは絶対大局的なものが見えてるから興奮するわけだよね。細かい定理の厳密性に知的刺激を受けるやつなんていないだろう。多分。いや、俺って細かい作業大嫌いなんだよね。プラモデルとかハンダづけ的なやつとかすんげー細かいやつね。数学然り。だからなんかオイラーが大好きなのはさ、すんげー気違いみたいな実験的な数学をやって凄まじく大胆に数を扱って本人としては「直感的に自明である」なんて感じてたりするんだけど凡人が見るとラマヌジャン数式状態なんだけど帰結としての納まりが半端じゃないんだよね。すんげー綺麗なシンプルな数式になってたりするわけよ。結果的にね。


最近思うのはだからまぁ自分が数学で何かをやるっつーよりかはまずはやっぱこうやって知的刺激を受けて楽しむってことをプライマリーにしないとダメだなってことね。まぁ社会的には良くないのかもしれないけどようは将来のこととか考えずにひたすら楽しい!と思った事をひたすらやる感じね。そうやってやってる数学のほうが絶対いいわけだし。


色んな理論とかに感動するってようは数学リテラシーが高くなってそれを観賞して楽しむっていうことが可能になってるってことなわけでさ、ようは人生が楽しくなるって感じだよね。まぁそれでいいんじゃないかと。変に気負うのはもうやめようかなと思って。ようは数学をやっている時に嫌な思いをしたくないんだよね。楽しいからやっているわけだし、あとそれ以外に楽しい!って思える事が日常にないし、日々打ち込めることってのも色々やり尽くしたのもあって無くなったんだよね。ホントに。だからこそまぁポジティブな意味でも消極的な意味でも数学しかないんだよね。本当にこれぐらいしか楽しい事がないわけで。


んでもこれは分からんのよね。数学がより理解出来るようになったから楽しくてしょうがない!っていうレベルになってるのか、ただ他にやることが無くなったから消去法的な感じで数学が残ってるだけなのか分からんよね。ただでも馴化が来ないというのが我ながら凄いと思う。6時間ぐらいなら一瞬で過ぎちゃうからね。これは他にはなかなか無いことだもんな。10時間だとさすがに一瞬だとは感じないけど(笑)


文章を読むんじゃ絶対無理ね。読書自体に飽きることがあるし、まぁ色んなジャンルのを読めばいいんだけど、数学の場合、あるジャンルのものを読んでいてちょっと飽きたら別のジャンルに行くっていうハシゴができるんだよね。だから結局解析だけっつっても他のも読みたくなるから楽しみを増やすってことで代数もやってみるとかってことになるわけね。まぁいつも書くように高度になると分類なんて関係無くなるんだけどね。


まぁ楽しめればそれでいいや!っていうようなアマチュアリズムではなくて、楽しむ事が極めるということに繋がるっていう自分なりの考えの実践だよね。だから求道的であったりしてはダメなんだよな。血の滲むような努力もダメ。そんなものが介在した時点でもうそれは向いてないって判断しないとね。本人が「頑張ろう!」なんて思って頑張ってやることなんて結果はたかが知れてるからね。孔子様の言葉にもあるように「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」ってことだわ。


岡潔も言ってたけど数学にマジでハマってるときは自我なんて無くなるんだよね。もうそれそのものになっちゃう。言わばそういう境地に自然に達するか達せられないか?ってことだと思えてきたんだよね。それはどんなに頑張っても無理だからね。努力は所詮努力だよ。大変で辛いものなわけだ。なんかソフトバンクの広告とかアイドルの曲とかで今更努力って素晴らしい!みたいにくだらない過去をほじくり返すかの如く努力ってのをまだ美徳に仕立てようとしてたりするけどさ、もう本当にやめましょう。そういうことは。辛けりゃ意味無いんです。人生は。年収が高かろうが毎日ストレスフルなのであればそれは辛いってことなわけでクソみたいな人生なわけです。


いや、今の時代、年収低くても最低なんとかやっていけてすげー打ち込めることがあるとか、このためだけに生きてるんだ!って言えるぐらい好きな事があるとかね、幸せってそういうことでしょう。もうお金とかじゃないよね。マジで。お金に執着すればするほど不幸になる気がする。まぁそれでもあるに超した事ないけどお金のために自分の人生を捨てるってのはようは身の切り売りなわけで、どう生きるか?ということとは向かい合ってないよね。まぁ金儲けっつーかビジネスが好きでしょうがない人はそれでいいんだけどね。


なんかさ、数学で身を立てるために俺は頑張るんだ!とかそれは凄くバカバカしいよね。まずその時点でもうそいつには見込みはないよね。頑張る頑張らないではなくて勝手に好きだからやっちゃうっていうオナニーとかゲームとかと同じ次元の快楽っていうさ、それが数学であるっていう境地の人じゃないとあれはモノにならんよね。いや、ツールとして数学を使う人ならともかく数学そのものをやる人なんてのはそんぐらいじゃないとダメなんだろうなぁーって思うよね。今の俺はもうかなりそういう境地になってきてるからだから毎日充実してるんだと思う。ミネルバになってから一回も鬱になってないし(笑)


まぁこれがいつまで続くかだよね。まだミネルバになって一ヶ月も経ってないし一過性のものかもしれないしね。俺ってまぁ燃えるときはすんげー燃えるからね。熱しやすく冷めやすいってやつですな。で、今までこんなに数学に対して熱してたことはないからこそまだ先は分からないってことね。これが日常生活っていうレベルになったらそれはホンモノだと自分でも思えるようになると思う。あと数学は古典の文学とか哲学を読みあさるのと違って膨大に時間がかかるからなかなか終わらないってのはあるよね。だから制覇しようと思うととんでもない時間がかかるんだけどそれを楽しんじゃうんだよね。そればっかできるんだしそれしかやることがないならやればいいじゃん!ってことなわけだ。


結果的にそうやって楽しみまくってきた結果、それが極めるということに繋がるわけで、極めるために頑張るというのは間違いだね。努力じゃ無理です。これは。本当に好きじゃないとどうにもならんね。この境地が言わば俺における哲学と同じなのよ。やるやらないとか才能とか挫折とか関係無い次元ね。そういう次元に数学もなりつつあるという凄まじい進歩なわけよ。学力がついてきた!とか本当にどうでもいい話なんだよね。進歩したというのはハマり度が上がったということでしか言えないと思うね。学力とか練習問題とかそんなレベルの話じゃ本当にどうにもならないわけよ。


だから前にも書いたように大学に完全に興味を失ったってことなのね。帰国後の流れからまさかの急展開なわけで、これが仮に続けばニューヨークに居るより全然学問的にはかどるということになるから、そうなればもう運命愛を感じずにはいられない!ってことになるよね。そうなってほしいと心から願ってるわけだけど、まぁ思えば幸せってそういうことだよね。モノとか何かに依存しない完全な内発性によるものから来る自己充足感ね。まぁネガティブに言えば自己満足ってことになっちゃうけど、そこがようはアマチュアリズムとプロの違いで、俺はやっぱりモチベーションとしては社会的な意味も含めてプロ的でありたいって思うわけね。ようは極められたら何らかの形で社会に還元したいっていう気持ちが当然あるってことね。ただそれは結果なのであって目標ではないのね。目標が達せられた時にそれは自動的に達せられるってことだよね。そういう意味での結果ということだよね。


そんな感じで今日はこの辺で。