ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ブルバキ。

最近はなぜかブルバキにハマってるんだけどっつーか、凄く数学の中の思想的なものに飢えてるね。理論だけじゃなくて立ち居地みたいな。で、ブルバキってまぁ俺の今までの流れで言えば一番相性が悪いんだよねっつーのがようは俺は公理的なものが嫌いでしょ?数学はイメージだ!って思ってるわけで。ブルバキ・スタイルっつーのはようはヒルベルトの公理主義と一緒っつーか引き継いだんだろうけどさ、ようは公理ってのがあって、その公理で言われている「点」とか「角」ってのを別に「ビール」とか「ジョッキ」と置き換えてもなんら変わりないってのはようはその公理自体は「点」とか「角」といったものに依存していない言わば独立した構造なんだと。


凄く無味乾燥なものに見えるけどさ、ヒルベルトだけ見るとそうなんだよね。でもブルバキの場合、ようはヒルベルト幾何学でやった現代的な公理主義的記述ってのを現代数学全般に広げて記述しようっていうさ、最初は解析学の教科書にロクなのがないっつーか解析学の課程の中で色々と問題があるんでそれを一気に解決する術はないのか?ってことでちゃんとした現代的な解析学の本を書こう!ってことだったらしいんだけどやっているうちに現代数学全般にまでその手が及んだって感じなんだけどさ、そのプロセスの中でベストな記述の仕方は公理的な書き方だ!ってことになったんだけど、ようはなんつーか「いや、イメージとか図に頼らずに論理でちゃんと理解しないと!」とかって言ってる人がいるのは言わば70年代とかにブルバキスタイルが世界的に広まった時のブルバキイデオロギーなんだよね。


いや、別に俺が普段書いてるように別に数学は理解できればいいわけで、それが公理的であろうが退屈な論理的なものであろうが、それはようはやる人間によるんだよね。でもその論理で理解しなければ!っていうか、それこそが数学の理解だ!って思わせてるのがブルバキ的なものの残り香なんだよねっていうかすげー残ってるわけだ。賛同していたかはともかくとして、大抵のおっさんとか爺さんみたいな数学者は少なからず影響を受けていたり、ようは時代的な流れで見るとマルクス主義みたいなもんだわな。広がり方とか時代背景が凄く似てると思うね。


そういうブルバキ的なものが構造主義って言われるもんで、ラカンとかはブルバキの数学スタイルから影響を受けたらしいんだよね。んでも実際は現代的に見ればブルバキスタイルってマルクス主義と一緒でめちゃめちゃある意味で流行った分、それがメインストリームみたいになっちゃったからこその批判があるんだよね。独自のスタイルとか思想ならいいんだけどそれが数学なのだ!とかマルクス主義にしてもそれが社会なのだ!とかって言われると違和感あるじゃん?いや、もちろん当時から否定的だった人もいっぱいいるわけだけど、んでもその影響が大きかったから当時の人は大概知ってるって感じなんだよね。


あと評価的にはブルバキは例の構造主義的なやり方で数学の抽象化に成功したんだけど別に実用性があるわけでもなくてっていうかまぁ役に立つものもあるんだけど全部が全部そうじゃないし、それこそ現代的にもっと分かり易く記述したりすればあえてブルバキを読む必要も無いなんてことでもう価値がないらしいんだけどさ、なんか俺はそのアプローチに異様に興味を持ったのね。いつも書くようにヒルベルト的な公理主義というか一般的な公理主義は嫌いなんだけどブルバキの場合、公理主義というよりかは一般化という名の抽象化ってのが目的にあって、まぁaimlessだとは言われるんだけど、構造的に一般性があるように記述していくってことにすげーこだわったんだよね。


で、そこが凄く俺の数学観と繋がるところがあって、ようは俺ってパズル的なものが嫌いじゃん?あとは細かい計算だとか近似値を出す計算とか言わばcomputationalなものが凄く嫌いなんだよね。で、位相だとか群だとか環といったような構造的な数学が好きというかそれに美を感じるというか言わば数学的な美ってのは言わばこういう構造なんだよね。パズル的にハマるものではなくて記述して行くと現れてくる構造ね。その現れ方というか顕在化のプロセスがまた凄く知的刺激を受けるものなんだよね。ブルバキの思想=メンバーの思想ではないんだけど、所謂、ブルバキとしては値を計算するようなものとか、あとは統計だとか確率論みたいなのはオミットしていたらしいんだよね。


それが好みだったらしいけどまぁ好みが俺にピッタリなんだよね。かといってもまぁそれは数学の学習という意味では問題なんだけど好みってのは絶対あるわけで、そういう意味でブルバキが「純粋数学」としていたものってーのが俺の好きな「これなんだよね!」っていう数学に一番近いんだよねっつってもブルバキの数学の本は一冊も読んだ事ないんだけど(笑)いや、なんでブルバキに興味を持ったのか?ってデュドネなんだよね。ヨストの「ポストモダン解析学」って本の冒頭にブルバキや特にデュドネが到達したような解析学の記述のスタイルってのを「モダン」としていて、んでまぁそういったモダンなスタイルに立脚したさらにモダンな解析学の本が言わばその「ポストモダン解析学」なんだっていうね、別にポストモダン哲学と関係あるわけじゃなくて。


で、ヨストがデュドネのFoundations of Modern Analysisっていう解析の本を非のつけようが無い論理的な美しい記述のスタイルだとかなんだとかってすげー評価しててさ、いや、その美しさって何なの?って思ったわけよ。いや、俺も知識はあったからいや、ブルバキと言えば公理的な無味乾燥な記述でしょうがっていうさ、それの何が美しいんだ?って思ってね、で、あまりにも気になったからそのFMAを買ったわけよ。


で、読んでみるとまず集合論から始まっていてっていうかまぁ集合論的な観点から実数だのなんだのって定義をし始めて・・・っていうまぁその辺はおそらくブルバキと同じなんだろうねっていうかブルバキも最初に書いたのが集合論の本だったらしいから。んでもまぁ基礎論的な議論を置き去りにしたりだとかまぁすげーお粗末なものだったらしいけどね。んでもまぁようはっつーかデュドネのを見る限りで言うとあくまで解析を記述するために集合論的な記述からスタートしてるって感じなんだよね。んだからようはテキストとしては使えないわけだ。ようは冒頭にも書かれてるようにある程度一通りやった大学院ぐらいのレベルの人ってのが対象になってるんだけどまぁ印象としては導入の感じとかはコロモゴロフの解析の本に似てるよね。あっちはダイアグラムがいっぱいあって凄く直感的で分かりやすいんだけど。


んでもいや、なんつーか色々読んでて思うのはやっぱり天下り的なやつとかね、いきなり周知の事実のように定理が出てきて、それが公理的に扱われて話が進んで行くってやつがかなり多くて、いや、その流れが分からないとさ、あといきなり物理の定理とか出されても分からない場合もあるじゃん?「分かるだろ?」といわんばかりの高圧的態度で定理とかを出してくるんだよね。それを知ってる場合とかまぁ上手くそれが書かれてる場合はいいけど便宜的に面倒が省けるからっつーんで読者のことを考えてないっつーのが結構あるんだよねっつってもまぁ大抵が日本語の中途半端なテキストなんだけどね。名著と言われるやつはそういう違和感が無いやつなんだろうね。


で、例えばね、別に物理をディスるわけじゃないんだけどさ、物理ありきで定義されても困る場合もあるよね。で、そこが徹底的に数学的ということが言わば公理的ということなんだよねっつってもそれが数学的であるって言い切る形じゃなくて一つの形としてってことね。例えば熱がどうのとかさ、弦がどうのとかって出てくると俺は凄く嫌なんだよね。それが分かりやすい形で記述として数学を記述する上でのアナロジーというかイメージとして適切だから物理とか現象的なものを記述している定理とかが出てくるならいいんだけど、いきなり「ボン!」と出てくると凄く違和感を感じるよね。


そこがようはヨストが書いているような解析学の本というと色々なところからの恣意的な寄せ集めで説明されたものが多いってことになるわけね。ようは部分的に公理的であったり天下り的であったり物理的であったりして。で、やっぱり俺は心底物理数学に向いてないんだなと思ったね。あんま無理すると精神的にやられるからもうあんまりやらないようにしてるんだけど。いや、でもデュドネの記述っつってもまぁそれを公理的と言っていいかは分からないけど、それはもちろんペアノ算術的にやってるわけではなくて、まぁ見た目はペアノなんだけども、ただそれはもう記述する全体像ありきの言わば構造的記述なんだよね。そりゃそうだよね。構造的というからにはその構造を理解してないと構造的記述なんてできないわけだから。


だからまぁ凄くメタ的な観点から一個一個演繹しているように見せてるっつーのかな?でもそれはただの演繹じゃなくて絶対数学者としての美意識が働いてるんでだから結果的にある人からは凄く美しいとかって評価されるようになるわけだ。いや、んでも別になんつーかブルバキが計算嫌いとか物理嫌いってことじゃないんだよね。まぁブルバキイデオロギーとメンバーの考え方は違うし、別に苦手ってことでもないんだけど、ただまぁ俺の印象で言うとそのcomputationalなものが大嫌いな側から見ると数学の凄くうざいところが省かれていて、ようは全ては構造なり概念と概念との関係性なりで成り立っていると定義されるんで物凄く俺の思考に合ってるっつーのかな?数にしても所謂計算ではなくて数と数との関係性という風に見るんだよね。


だから実際の計算じゃなくて一般化されたAだとか2kだとかってことになるわけだ。数学が高度になると記号ばっかになるっつーのはこういうことだよね。抽象的な一般化が進むから記号だらけになるんだけどcomputationalなものが嫌いな人間としてはそっちのほうが分かりやすいわけだ。いつも書くようだけど俺は集合論と群の概念に感動して数学好きになったわけだよね。言わば感動が凄くモダンだったわけだ。高校でやるような1900年ぐらいまでの数学ってのに全然興味ないんだけど、現代数学になると構造的な捉え方とか枠組みのものが増えるでしょ?それが好きなんだよね。俺は。数学者は計算が嫌いだから楽な計算法を考えるみたいな決まり文句があるけどさ、これはつまりはわずらわしいcomputationalなものを排して極力記号的な一般化をするってことだよね。もちろんそれには計算が必要なんだけど、でもその一般化したい!という衝動に関して言えばなんていうか構造的な建設的な美っていうのかな?


それが言わば抽象化でもあるわけだけど、ようはなんつーかまぁ個人的な好みなんだけどね。俺は相変わらずそういう意味で数学嫌いは変わってないんだよね。みんなが嫌うようにみんなが思い描くような数学は大嫌いであれほど嫌いなものも滅多に無いってぐらい嫌いなわけだ。そういう拷問的で醜い大嫌いな悪いイメージに毒された数学を現代数学という観点から洗浄するっつーのかな?馬鹿なガイドラインの教科書とか教師が毒したような数学を抽象によって解毒するって感じだよね。そのスッキリした感じが集合論とか群みたいなシンプルな構造の数学にあるよね。まぁ位相とかもそうだけどあれはややこしくなっても基本は構造なんで概念が分かってれば大体分かるんだよね。逆に言えば概念が分からなければどうにもならないというのが現代数学で、まぁこれがようは高校数学が得意だったって人が大学で詰む感じと一緒だよね。


なんかね、計算好きとか計算得意な人が書いた数学の本ってすぐ分かるんだよね。もう本当に肌に合わないわけ。それを無理に読もうとするから数学が嫌いになるわけで、それはもう「自分には合わない」と割り切って合うものだけ読んでればいいと思うんだよねっていうかようは自分が楽しい!と思えるようなものだけ読んでればいいと思うわけ。で、そういう中で自分には合わないと思っていた数学も楽しい!と思える数学を理解する為に必要になるってことになればその楽しさのためにやるっていう動機付けができるから苦痛にはならないんだよね。


なんていうかさ、だから俺はブルバキスタイルというよりかはブルバキっていう思想性が強く出たものを見て自分の好みが分かったんだよね。ようは好みとか考え方がブルバキが考えている純粋数学に近いわけよ。いや、時代遅れなんだけどね。で、あーなるほどなと。そういう思想で徹底的にやってたのがブルバキなんだなってまぁ俺の解釈が大きすぎるかもしれないけど計算嫌いの構造主義的数学とでも言うのかな?で、俺が思うに本質的な数学の計算というのはその構造と構造との関係性とか振る舞いを考えるということなんであって数値がどうみたいな、一般的に思われたり言われたりする計算とは違うってことだよね。だから物理における計算と数学における計算は違うわけだ。だから応用数学純粋数学ではもう計算の考え方が全然違う。最近ではもうそんな分け方なんてナンセンスだってよく言われるらしいっていうかだいぶ前からそうなんだけど、でもこれは好みとか志向性ってことだと思うんだよね。


で、俺は根っこから純粋数学的なんだなと思ったんだよね。まぁそりゃー集合とか群で数学に興味を持ったわけだから当たり前と言えば当たり前だけど。ちなみにほぼ構造しか語ってないという感じで言うとHalmosの「Finite-Dimentional Vector Spaces」だよねっていうか今読んでる本なんだけどズバリ「美しい!」と感じる数学の本だよね。ようは空間論なんだよね。だからおのずと構造論になるわけで。扱っているものが数ではなく空間における点だとか距離だとかそれらの関係性だとか独立性だとか線形性だとかってことになるんで、ようは俺がさっき言った純粋数学的な計算ばっかりなんだよね。そういうのを考えるのが得意というか好きならそれはある意味で計算好きかもしれないよね。でもそれは計算というよりかは概念だからね。なんつーか一般的に言われる計算が全てって思われてるのが本当に弊害だよね。俺みたいにすんげー数学が苦手!って人でもアプローチを変えればめちゃめちゃ得意って人が潜在的に結構いると思うんだよね。


数で考えるとか計算で考えるとかってのは嫌いだけど構造で考えるってのは好きとかさ、まぁあとは幾何的なものとかにしたってそうだよね。計算は苦手でも図形は得意ならもうそりゃ才能なんだから。でも結局くだらない大量の計算問題みたいなので成績とか入試とかが決まるからバランス良く出来るやつじゃないと残れないんだよね。でもああいうやり方は一番数学に向いてないよね。いや、物理とかならいいんだけど数学でやたら数がどうのっていう計算ばっかやらせるってのはどうかと思うよね。「1900年までの数学」という縛りでなんでやらなきゃならんのか?っていう。


っつーか長いから分けますね。