ブルバキ。その3。

でも恐らく仮にブルバキ通読したら多分大抵の本は読まなくてよくなるだろうから結局マスターへの近道って気がするんだよね。まぁどうしても分からないところを他のもっと分かりやすい現代的な本で補うっていう風にすればよくてさ、ブルバキだけで理解しようとしないで、言わばコースだと思えばいいんだよね。メインはブルバキでそれはもう日常的にやるって感じでさ、んで面白そうだって思ったトピックとかもっと別の角度から知りたい!とかって思ったやつに関しては他の本をまた読んだりするっていうね。別にそういう意味でブルバキにこだわる必要はないんだけど、ただ俺は現代数学ってのを鳥瞰したいんだよね。


マックレーンの本とか他のも色々と読んだから大体分かってるけど数学原論の場合、かなりのディティールまでも知ることができそうじゃん?で、そこからまた発展していくって感じだよね。あとはやっぱりそのイデオロギーっつーかさ、さんざん書いてきたさ、いや、実は抽象的な直感を鍛えるための抽象と公理的思考なんだっていうさ、だからこそビジュアル的なものには頼らないっていうね、それは一つとしてあるよねっつっても図があるやつもあるんだけどね。後期に入ってきたメンバーが図が無いことを凄く不備に思ってたらしくて図が入るようになったらしいけど。


結局、抽象的に公理的に記述していくってのは感覚を育むためってことでさ、で、だからようはビジュアル的なものは読者が抽象的に頭の中に作り出さないといけないんだよね。ビジュアル的理解を否定しているのではなくて、公理的記述からビジュアル的な理解を自分でやるって感じなんだと思うよね。それに慣れるということも必要ってことだ。だから二刀流っつーかさ、基本はビジュアル的に理解してるんだけど、でも抽象的で公理的な記述も読めるようになるっていうか、それは高次化した数学という意味での抽象だよね。そういう感覚も養っておくってことだよね。そういう意味だとブルバキは修行としては凄く有用なんだと思う。リファレンスとして有用なのは方々でも言われていることだけど抽象的な感覚に慣れて養うっていうことを考えれば凄い訓練になりそうだよね。


恐らく俺が思うに数学書的な通読は不可能だけど概念を流れで理解して全体で理解するって意味でスラスラ読んでいくってことをすれば結果的に凄くconceptionalな理解に繋がると思うんだよね。ハンダゴテの作業みたいなことをやっていると絶対無理でさ、流れを感じるっていうのかな?少なくともデュドネFMAはそういう流れがあるよね。飛躍が無いからちゃんと読んでいればついていけるし。一番難しい本ってのは適当に書かれた本なんだよね。


たいしたことない数学者が書いた本がトピック云々は別として一番難しい。だって説明がちゃんとしてないんだから。まぁ二流ではないと思うけど書き方が適当過ぎて凄く嫌だったのがラングの解析入門だよね。まぁ肌に合わないっていうかさ、名著とされているらしいけどデュドネと比べるともう月とスッポンぐらいの差があると思う。まぁあんな感じだからラングの本は他は一切興味無いよね。もう記述のスタイルが俺に合わないわけで。


そういう合う合わないってすげー大事なんだよね。んでもそれは結構色々と読まないと分からんのよ。だからやっぱ乱読がいいんだろうなと思うね。で、「ここだ!」と思った点を重点的にやるなりあとはやっぱ色んな本を買うのが一番いいと思うね。それこそ初心者用の本から中級からアドバンスドまで別に自分の実力がどうのってことではなくて同じ概念の色んな人による色んな記述を読むってことだね。そのほうが多角的に概念を検討できるっつーか逆に1冊で済まそうとしたらそのカラーに染まるからね。


全体的には良い本だけどこの章は冴えないとか証明が全然ダメとかさ、そういうのってあるわけだし、まぁそれもさっき書いたように色々と読まないと分からないわけで。だからまぁーあれだよね、プロパーの人の本によく書いてある「鉛筆と紙を」ってのは別に鵜呑みにする必要はないわけだ。「鉛筆を紙を」が面倒な人がいるわけだし別にそれが面倒だからといって数学に向いてないわけじゃないわけで。だからまぁ自慢してもしょうがないけど俺が考えるときは読書の合間とかあとは外に出た時とかさ、書くんじゃないんだよね。というか書くのも効果的なのかもしれないけど考えなきゃ何にも意味がないんだよね。この辺は本当に哲学と一緒。俺の学習が自己流でしかも順調なのはいつも書くようだけどやっぱ哲学を読んできたからなんだよね。その下地があるってーのが凄くデカイ。「哲学ノート」なんて書いたことないもんな。まぁこうやってウォール伝には書いてるけどそれはアウトプットだよね。メモではない。


あとはあれだ、これは自分への言い聞かせだけどもさ、数学書に向かっている時間=勉強時間とは絶対考えないってことね。それについて書いてたり考えてたりすることのほうが読んだりすることよりも大事なわけだ。それなしにやたら本ばっか買っててもしょうがないんだよねってまぁ本当に自分だけどね。読むってことがもう癖になっちゃってるから意図的に考える時間とかボーっとする時間を作ったほうがいいんだよね。そういう時こそ脳は処理していたりするかもしれないわけで。あとある程度やるとやる気が無くなるっつーか疲れた感じがするのはとりあえず脳が「とりあえずここまで」って指令出してると思うんだよね。そういう時はやらないのが一番で動画見てたりエロサイト見てたりするのが一番いいわけね。こういう時こそ趣味が効いてくるんだけど俺には趣味が無いんだよな。数学のためにゲームなんかやろうかな?って思うんだけどやりたいと思うものがないんだよね。本当に。


んでまぁ睡眠時間を長くとってっつーか可能な限り取るんだよね。もうひたすらその繰り返しをしてると脳が鍛えられるって気がする。脳がある程度の情報を処理するとまた餓え始めるからね。今の俺はそういう感じでだからブルバキまとめ買いとかしたくなっちゃったわけで。ただなんか哲学が寂しいんだよな。本当に読みたいのが無くてさ、かといっても読むとすれば相変わらず途中のハイデガーニーチェとかショーペンハウエルの表象のやつとかだから片手間に読める感じじゃなくて、だからなんか哲学から遠ざかってる気がするっつってもまぁ学問としての哲学だけどね。そもそも俺がこんだけブルバキに反応してるのって元々構造主義的な考え方を俺がするってのもあるし、構造主義的なものに影響を受けてきたから必然的っていうかさ、そこになんか興奮するわけね。ツボっつーかなんつーかさ、相変わらず理系の数学って嫌いなのよ。


理系っぽい人種の人達が書いたものとか言うこととかが本当に嫌いでさ、やっぱそこはあれなんだよね、ブルバキのメンバー然りだけど、あとはゲーデルとかアインシュタインとかさ、シュレーディンガーとかハイゼンベルグもそうだけど、ああいう人達って哲学者と言えば哲学者じゃん?diciplineが科学なだけで人種的には哲学者って気がするんだよな。あとはやっぱヴェイユだよね。凄い人はやっぱり思想を持ってるなと。で、俺が嫌いな理系ってやたらサイエンスってところに自分を置いてさ、思想がないやつらね。そういうのが一番嫌いなんだよな。ワイルなんかも数学者/哲学者だもんね。


そういう人達が記述している数学とか物理ってやっぱ違うんだよね。凄くconceptionalなんだよね。conceptualのほうが正しいかな?ただの理系はcomputationalだったり結果が出ればいいやっつー美意識ゼロな感じだったりするんだよね。そういうやつらが書いた本はすぐ分かるようになってきた。最近は特に。だから逆に下手にアマゾンとかで買えなくなってきてるんだよね。ちょっと中身を見ないと分からないっつってももう読むのっつったら専門の洋書ばっかになるけどね。和書も読んでみよう!ってことで色々読んでみたけどやっぱ見劣りするんだよな。一流の洋書に比べると。


なんつーか日本語で読めるっつーありがたみぐらいしかないからだから英語が読めれば別にあんま関係無いっていう。でもまぁコスパから良いやつはあるし実際まぁ良い本は結構あるんだよねっつってもクラシックなのばっかだけど。別に和書批判じゃないんだけどっつーか俺が主に批判してる和書って80年代以降ぐらいからのやる気が無い数学書だよね。戦後すぐとか戦前のやつとかってすんげー気合い入ってるのよ。それが故に敷居が高かったりするんだけどんでも内容豊富ってことでコスパがいいじゃん?大変かどうかなんて慣れちゃえばいいんだし最初からああいうの読めなくていいわけだから。


導入なんてそれこそ漫画とか2日で読めるような社会人のための入門とかさ、俺もそういうのすんげー読んだけどそういうのでいいんだよね。んでだんだん慣らしていくと難解とされている本とかが結構読めたりするようになるから面白いよね。で、結局、内容と値段からいって高度なやつのほうがいい!ってことになるんだけどまぁそりゃー当たり前だわな。分厚い哲学書読んでるやつがかつて読んでた新書とかに価値を感じなくなるのと一緒だよね。やっぱまぁ入門系はハシゴだよね。っつっても本当の使い捨ての入門系はね。で、なんたら入門っつータイトルでも全然初学者向けじゃないやつばっかだからさ、そこからまぁある程度読めますっつー前提で高度なintroduction系を読むっつーかなんつーか。


で、ちょっと話がまた抽象化に戻るんだけど政治哲学とかの場合、抽象化されると現実に対応しなくなるって問題があるよね。俺が行き着いた問題は言わばこれだよ。で、俺の足りない言葉で言うと下品な感じで独裁だのエリートの養成だのってことになるわけだ。まぁ多くの人が勘違いするよね。それって神様が政治家になるみたいな話なの?的なツッコミが恐らく後を経たないと思う。んでもここのシンプルな言葉に込められた意味って違うじゃん?バカみたいに独裁って言うのと色々考えてきて独裁って言うのって違うじゃん?でもそれは言葉には表れないんだよね。


まぁそりゃそうだ。言葉自体が持っている意味が先行するのは当然だよね。数学の場合、この乖離が無いんだよね。だから抽象からまた具体へ戻ってきて色々と発展が出来て、んでまた抽象で・・・っていう行き来が出来るんだよね。でも政治哲学とかだと行き来が出来ないんだよね。所謂、抽象化され過ぎた議論って学者の話だとか書生論だとかってことになっちゃうんだよね。で、橋下徹じゃないけど本当の政治なんて現場にいないと分からないんですってことになるんだけど、まぁ言え過ぎていてもう何も言えんわな。そんな何も現場を知らない輩が文献だけ読んで政治がどうのっていうことの滑稽さと言ったらないよね。


んでもあれだよね、危なさってやっぱ思想にあるよね。ジャーナリズムとか時事問題とかをやりだすとそういう危険性が無くなるって気がするからやっぱ俺は危険人物であり続けたいなって思うよね。危ないこと言う人本当に少ないもんね。地位がある人は地位を気にしてそんなこと言えなくなるしっていうかテニュアってそのために設けられたらしいんだよね。元々は。あまりにラディカル過ぎて干されることがないようにそういう言論もちゃんと認めるって意味でテニュアっていうものがあるとようは食べるに困らないじゃん?食うために危険なことが言えなくなるってことがなくなるわけだから。んでもネットとかってブログとかですらそのブログの価値とかを気にしてなかなか言わない人多いよねってあんまり他を見てないからアレなんだけどさ、俺のイメージ的にはもっとネットって危険な思想が蔓延するかと思ったら全然違うのね。いかにみんな飼い馴らされてるかってことだよね。


かと思えばネット言論の世界とかはカルト化してるなんていう先生方もいるから驚いたもんだ!アカデミックな言論とかバランスのとれたPCバッチリの言論があくまでメインストリームって考え方だよね。だからネット言論みたいなオルタナティブはちょっとでも盛り上がればカルトみたいな扱いを受けたりするわけだ。古いよねぇー!考え方が。そんなんじゃ若者も興味持たないって。逆なんだよね。メインストリームと思わされているほうの考え方のほうが実はカルト的なのよ。オウム的な枠組みを想像してもらえれば簡単だよね。オウム信者が考えている正しい世界観がいかに異様で危険か?ってのを普通の人が見ると分かるんだけどオウム信者から見たら普通の世界じゃ異常なわけじゃん?こういうコペ転的な感じだよね。人々の意見は違うわけでメインストリームみたいな流れが出来ていること自体がもうカルトなのよ。そう思わされてる人達が多いからメインストリームになるわけじゃん?それこそが洗脳ってやつだしカルトでしょ。


んでも絶望してる人が増えたってことは洗脳が解けたってことだよね。まぁあまりに社会がダメになってるんで洗脳の力が弱くなってるんだと思うよね。それでも洗脳されてる人はいるけど古い構図で言うと前時代的な人達ってのが古い価値観の人達っつーかあとは洗脳されてる人達っつーか。で、そうじゃない人は凄くいいんだけどリアリストにならざるをえなくてしかもすがるものが何も無いからすんげー辛くなるわけだよね。んでも洗脳されてないとか洗脳が解けているっていうだけでもまぁ自己評価しないとね。


まぁそんな感じでもうそろそろいいかな。んじゃまた。