ブルバキ。その4。

また抽象の話なんだけどさ、数学を構造として見渡すために抽象的な公理的方法によって数学を記述するっていうこととはようは前にも書いたように全体像というか、とりあえず記述する内容のものに関して言えば全体像が見えているってことだよね。そういう全体像ありきの中からその概念を精密化するためにパーツ化するというのがようは公理的方法論なんだと思うわけ。


一般的にそれがどうなのかは知らんけどね。前に俺が「わかるということ」について書いた時に一応辿り着いたさ、それ自体を理解するというよりかはそれを取りまく諸概念の定義によりそれが理解されるっていうさ、それ自体が単独で理解されるのではなくて、他との相関によってそれが理解されるっていうさ、まぁ例えるなら順番としての数で言えば1,(?),3ってのがあってその括弧の中は2ですよっていうさ、ようは1の次で3の一個前の数が2ですっていうね、でも2自体として理解するってことはありえないじゃん?まぁ幼少期には卑近なものから数として例えば「二つあるもの」として大雑把に理解するのかもしれないけど、でも2とは何か?ということはありえないじゃん?


まぁそれを対ということであるとか3であれば宗教的なトリニティとかさ、そういうことは可能だろうけど数そのものとしての概念って無いと思うんだよね。2って何ですか?って聞かれたら結構困るんだけど、でもそれは幾何学的な感じでアプリオリに直感的に理解できるものじゃん?根本から定義しようとすると大変で難しくなるけど直感的な理解なら「2つあるもの」からその数という性質だけ抽象してくればいいわけだから。


結局、そういった概念的なものを周りの概念的なものによって理解する・・・ということを繰り返していくとそれはそれこそ積み重ねになるわけだよね。まぁ理解はそれだけじゃなくてさ、感覚的に分かることも多いっていうか、実際、俺の場合、想像してたイメージが数式とかを理解することによってより具体的になったり、なんとなく思い描いていたものが大体正しかったりってことが分かるようになるんだよね。だからそれは記述なんだよね。数学的記述をして概念的なものを理解させるっていうさ、でもそれを記述するってことは伝えるってことが大前提だから、んだからそんな細かく書かなくても書く側は当然分かってるんだけど、でも記述に徹するために細かく書く必要があるっていうね、いや、俺がディスりまくってた公理的なものってのは演繹としての公理なんだよね。


イデアも全くないような、ただ論理にだけ頼るっていうどちらかというと数理哲学者とか論理哲学者がやってるようなどうしようもないエンプティーヘッドなやり方ね。いや、ややこしいのがさ、数学的帰納法と言われるものは帰納とは違って演繹じゃん?でも公理的記述というのは演繹ではないんだよね。演繹のように見える帰納なんだよね。それは一般性を得るための帰納とかではなくて、もう一般性が見えているって中で一般性を強くしようとするために帰納的な立場から演繹みたいなやり方で記述していくんだよね。


それがようは全体像ありきの概念の精密化のためのパーツ化なんだよね。なるべくそれを細かくするっていうさ、ようはすべてに意味を与えるとも言えるよね。んでももちろん構造的ではない数学ってのもいっぱいあるから数学=構造とは言えないんだけど、でも構造的に記述出来るものは構造的に理解しているほうがいい場合もあるっていうか、それが結局俺は抽象化ってことだと思うんだよね。一般から特殊へってのがブルバキのスローガンだったらしいけど、それは一般が最初から明白なブルバキにとってはその一般を細かく記述することで思わぬ特殊なものが見えてくるってことだと思うんだよね。でもそれは特殊を得るための一般化ではなくてやっぱり記述なんだとは思うけどね。色々な要素を一般化することで特殊なものが見えてくるっていうさ、でも分かってる側から見たらその特殊はもう明白なのかもしれないし。


直感的に分かることでもその直感性とか、さっきの2の話じゃないけど、自明性を取り払って徹底的に形式化することで見えてくる論理的自明性っつーかようはここがintuition of the abstractってことなんだと思うのよ。形式化するとあたかもそれは機械化というか脱人間化というかね、いや、幾何学的角度がどうのだとか2って数がどうのってことなんて人間の感性で分かるじゃん?っていうさ、そこをなんで人間性を取り払うの?っていうのがようは抽象的直感を養うためっていうかさ、何かの角度が90度なのとか数が2であることの直感性なんてまぁ自明でしょ?でもそういうものではなく概念的な直感性だよね。実際はそっちで理解していたほうが他と有機的に繋がる可能性が高いから、だから抽象化には凄く価値があると思うわけ。別にそれはブルバキが記述した抽象的な方法ということではなくて一般的な抽象化の有用性についての話ね。ブルバキに価値があるかはまた別問題だし、なにより読んでないからまだ分からないんだけど。


最近はなんつーかこういう数学的な構造とか認識されるものとしての数学っつー意味からカントが凄くなんつーかrelevanceがあるなーと思って読みなおしてるんだよね。やっぱり哲学は知りたいこととの関連性が無いとさっぱりダメだねっていうかまぁようはお勉強的にはやれないよねってまぁ俺の性質だとは思うんだけどさ、まぁそれはともかくだな、カント的な認識論で言うと悟性概念っつーかようは知覚されるものはカテゴライズされるっていうかさ、ちょっとディティールに行き過ぎるとややこしくなるし正確性に欠けるようになると思うからもっと大雑把に言うけどさ、何かが知覚された時点でそれはカテゴリーに入ってるんだよね。もしくは入れられるっていう。


逆に理解できないものっつーのはカテゴリーに入らないことじゃん?でも結局、それは理性だの悟性だのが磨かれて理解に繋がるとかさ、結局はなんつーかまぁ俺が言いたいのは知覚された時点でなんつーか概念に刻まれるんだよね。それが。もしくはストックしてるものと対応するとか。そういったカテゴリー的な考え方っつーかさ、カテゴリーだけではないんだけど、例えば何らかの数学が現実世界にも対応しているって感じることは現象そのものの同一性じゃん?現象を数式で表した場合と数学そのものから出てきた数式が対応するということはようはそれが現象を観察する観点から言っても数式を理解する観点から言っても客観的にそれが対応しているってことじゃん?モノの見方とかではなくて客観的な事実が実験なり数学をやっている結果分かってくるっていう。まぁ偶然とかが多いとは思うんだけどそこになんか驚きとか驚異の調和があるわけじゃん?で、面白いな!と感じたり。


なんつーかその対応ということそのものを対応だと感じさせるのは概念でしょ?その現象そのものを理解するという意味での概念でも数学を理解するという意味での概念でもまぁ概念は概念じゃん?それが物理現象だろうが数学研究によるものだろうが概念レベルでは同一で対応していると感じさせるのはそれに当てはまるからってことだよね。じゃあなんでそれが当てはまると感じるのか?っていうとそこがようは認識じゃん?言わば統覚ってやつだ。まさしく抽象の話で言っている一般性ってことなんだけどさ、それは個別の現象なり数学的コンテキストに依存しない独立したものでしょ?


出所は違っても一般化するというのはそういうことで、それが成されるから応用されるわけだ。いや、その一般化ってのが学問らしい数学というコンテキストから抽象されたものと考えるとなかなかのものだと思うんだよね。そのために公理的に厳密に記述していくというのも数学や物理といったコンテキストに依存したり天下り的なものから証明が成されるのではなくて、それが独立したものとして少ない公理から導きだされるっていうさ、ようはそういうグランドデザインをブルバキはやろうとしていたわけだよね。なんかそれが主観とか認識の構造ということと凄く似ているような気がしてさ、だからカントは構造主義の走りなんじゃね?とかって思ったんだよね。


厳密な意味ではないけどもんでも概念レベルで言えばそうだし、んでもそれは当然、構造主義とかポストモダン系みたいな現代思想系をある程度知ってないと分からないっていうさ、いや、カントだけで理解することは可能なんだけど構造主義の走りだね!って思うのは対比でしか分からないじゃん?まぁすげーカントを理解してる人は構造主義自体がカントの延長上なんだって理解するのかもしれないけど。


ようはブルバキはカントで言う超越論的立場からメタ的に数学を再定義しようとしたんだよね。それが言わば基礎づけとしての数学原論だったっていう。カントのメタ認識の構図と同じだよね。認識の基礎づけをするためのメタ認識っていう。カントって凄くない?認識というコンテキストだけで見ると「ああそうだよね」って簡単に理解出来るけど数学を経由した「基礎づけ」という意味でのメタ認識の概念とか方法論を考えるとその深さに感服するというか、メタの範囲が広いんだよね。んでももちろんメタ的に見るってことはある程度の全体像を理解してないと無理でさ、んでも認識についてってのは分かってないことが多いじゃん?ましてや認識論みたいなのは脳科学みたいな科学の分野になってるでしょ?ようは科学的な脳研究ってことになるわけね。まぁ当然なんだけど。


だからまぁ分かってないことが多い中でメタ的に認識を定義するということは無理になるよね。まぁその時点でのメタ視点からある程度の認識の範囲の基礎づけをするというのは意味があることだと思うし、何よりそういう意味でカントは偉大過ぎると思ったんだよね。同じことがブルバキにも言えるわけだ。扱ってない範囲が多いっつっても数学をメタ的に基礎づけするという方法論は凄いっつーかいや、今気がついたけどこれってヒルベルトじゃん!いやーそうか。ヒルベルトなんだなぁー。確かヒルベルトはかなり哲学にも明るかった気がするな。カントには相当コミットしてたはずだったけどってうろ覚えなので後でチェックしてみよう。で、それを継承したのがブルバキってことか。直感にせよ形式にせよそれが認識であるという点でほぼ全部カントだよなっていう。だからカントから見れば直感 vs 形式という図式はナンセンスなんだろうな。両方あっての認識だからね。


いやーすげー。さすが観念王国ドイツだ。細かい病的とも言える細かい概念的な仕事はドイツ系に多いもんなぁー。まぁヒルベルトは野望があったんだと思うんだよね。公理なんだ!的な世界観があったんだけどブルバキはそうじゃなくてヒルベルト的なメソッドだけ取り入れたって感じがするんだよね。んでもそれは全ての数学を公理化するというよりかは概念をギリギリまで細かくして一個一個定義するという厳密さからのclarityっつーのかな?まぁ結果、すげー難解になっているっていう批判があるんだけど、でもそのブルバキスピリッツに俺は凄まじく感嘆しているわけだね。


そうか!そのためなのか!っていうさ、だから付き合えるよね。むしろ抽象的直感を鍛えるためにもドップリブルバキの世界に浸かりたいと思うんだよね。デュドネ然りだけど。あとなんかさ、流れ的にドイツ→フランスって哲学と同じじゃんね。ニーチェとかハイデガーからフランス近代思想への繋がりみたいなものを数学にも感じるね。で、現代思想と同じでなぜかおフランスが入るとお洒落になるっていう(笑)


なんかまだ書ききれてない感じがするからまた今度色々書くかもしれないわ。とりあえず今日はこれで。