ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

守破離なのかな?。

数学は直接性しかないんだよな。それをやっていたり考えている時はまさに数学をやっている時で極端に言えば認識と数学の境が無くなるわけだ。また没頭とは違う意味で。でも哲学の場合どうなのかな?って考えた時にさ、やっぱりアレなんだよね、哲学って誰かしらの言説じゃん?そうじゃないのもあるけどさ、それってその書いた人の論を聞いてるのかさ、仮にそれが認識についてだった場合、認識について考えているのかさ、それって分からなくなるよね。認識と言えば定番がカントだったり哲学的な枠組みで何かを考えるということがもうすでに哲学的言説によってインストール済みだった場合、自分はそれに気がつかないまま哲学的言説の中で物事を考えるということになるよね。それが凄く嫌なんだよな。誰々研究みたいなのを一切しなくなったのもそれが明確になったからだよね。


認識やら実存について考えている時でもいつのまにかありふれた哲学的枠組みの中で考えてたりすると思うんだよね。これならヤスパースであれならドゥルーズでこれならデリダだなとかさ、哲学学者が書く本ってそういうののコピペじゃん?で、実際哲学的なのは科学者が書いた随筆だったり何らかの哲学とかやってない人の人生論だったりさ、まぁそこがあれなんだよね、ショーペンハウエルとかニーチェは学問臭くない地の哲学をやってる感じで好きなんだよね。でも近代的なのは全部誰々がこうだのああだの・・・ってことばっかだよね。


英米系の本なんてそんなのばっかで本当につまらんわけだ。まぁんでもプラトンとかマキャベリとかシュトラウスとかあの辺は相変わらず好きだからシュトラウス論とかマキャベリ論とかがあるとやっぱり面白いけどさ、でもそれを読むことがイコール政治を考えるってことでもないじゃん?考えている気になるだけで実際は違ったりさ、あとやっぱ政治哲学の弱みはここなんだよな。armchair philosopherなのがベラベラ喋っているだけで実践が伴わないって実践をやらない武道家みたいなもんじゃん?でも哲学っていつも言うように生活の中で実践していこうと思ったらもう大抵がアレですよ、社会不適応者だよね。まぁそれでいいとは思うんだけどまぁ普通の人はそうはいかないだろうってことで結局実践出来る人とかが限られてくるからなんかその存在意義が分からなくなってくるよね。


実践=価値ではないけどでもやっぱ哲学って使われないと意味無いんだよね。あとは考えるとかさ、そこはあれなんだよね、既存の哲学の枠組みの中で考えつつもなんつーか凄く思索ベースで良い意味で学問的ではない本当の哲学をやっていた人っつーとまず浮かぶのが西田幾多郎なんだよね。あのぐらいじゃないと哲学をやっているとは言えないし哲学者とは言えないだろう。まぁ哲学者って言われなくてもいいんだけどまぁとにかくあれじゃん?


コミットメントの度合いが人生そのものじゃん?思うに数学も哲学も求められるコミットメントの度合いって人生単位なんだよね。仕事しながらとかそういうんじゃなくてさ、もうそれしかやらないっつーさ、でもそれって無理じゃん?まぁ西田が仕事してなかったとかって意味じゃなくてね、没入するにはやっぱり雑事が多過ぎるってダメなわけで、だからもう研究者とか無理だよね。研究するのは。凄まじくやり辛くなってるらしいけど本当になんとかしなきゃいけないと思うよね。研究で食っていけなきゃダメだ。


いやさ、話を戻すとさ、俺が言いたい直接性とかね、それそのものとの認識の境が無いものって西田幾多郎純粋経験っつー概念と似てるんだよね。意識の統一的状態なんだけど、でもそれは受動的な意識ではなくて、俺が言いたいのは意識の志向性がその何かに向かっている時のそれそのものとの境の無さなんだよね。で、それが成せるものと言えばかなり少なくてさ、それはもう完全にピュアに概念的なものだったり、あとは芸術家で言えばインスピレーションだったりさ、表現したい何かだったりするわけじゃん?でもまぁ大抵のことにはそれについて考える時に客観性だの主観性だの物質性だのイデオロギーだのさ、あとは知らないうちに植え付けられているであろう所与の概念の介在とかね、まぁ全く無の状態から何かを考えるってのは無理かもしれないけど、なるべく色々なものを介在させずにそれそのものを考えるってことになるとやっぱその直接性ってのが重要になるんだよね。


んだからなんつーかね、さっき言いたかったのはカントが言っていた何か・・・っつってもそれはもうカント哲学じゃん?自分自身が認識についてどう思うのか?ってのをさ、まっさらな状態から考えることが出来るか?っていうか、それをむしろ色々な知識を得た後に全部捨てて出来るかどうか?だよね。それってなかなか出来ないと思うんだよね。それそのものを直接考えるということって簡単なようで凄く高度なんだよね。なんかね、そういうのに凄く近かった人って岡潔だと思うんだよね。本当に滅多にいない人なんだよ。そういう意味で。あとはグロタンディークか。いや、直感型とかそういう意味ではなく直接性が高い仕事をしていた人達ってことね。


いや、数学=直接性だとはさっき書いたけど大半は学問的なものなのよ。こういう公理があるだとかlemmaなり定理があってその中から考えるっていうさ、まぁようはプロセスとしての数学だよね。でも直接性が高い人の仕事はもちろん数学的なコンテキストがありつつもよくもまぁこんなことを思いついたもんだ!とかね、あとは色々と読むよりも自分でやってる時間が長いからすでにあることにしても独自の定義なり定式化をしていたりしてさ、なんかそういうのに憧れるんだよね。だからなんか学者とは違うんだよな。学者ってやっぱ学ぶ人なんだよね。色々と読んで博学でそういう知識の結果出てきたものを色々書くっていう。でも芸術家型みたいなのは違うんだよね。かといってもインスピレーションとかって言うと語弊があるんだけど、意識と考えるものなり概念との距離が近いんだよね。


でもそれって環境的なものも大きいわけよ。元々そういう近さを持っている人でも雑事なりストレスフルな生活をしていてはそもそも「それ自体」を考える生活というのが出来なくなるので近接性みたいなのが無くなっていくと思うんだよね。脳も生き物なんでそういう部分を使ってないと退化していくっていう。いや、そこがこないだ書いたところとも繋がるんだけど、そういう程度の差はあれ近接性を持った人達ってのが必要以上に雑事に追われたり、あとは研究なりなんなりっていう生活が出来ないとかね、そういうのはもう損失以外のなんでもないってことなわけだ。そんな人いらないと市場原理みたいなのが言ったとしても、そんなこと言ったらそもそもの文化の否定でしょ?芸術家いらない思想家いらない純粋数学者いらないみたいな。


まぁそんな感じであれなんだよね、才能とか素質だけじゃどうにもならなくて物理的な環境とか時間ってのがないと色々と発揮できないってことだよね。だからまぁなんつーか誰もが自ずと食うためだけの仕事に追われる社会ってのが良い社会なのか?ってことになるじゃん?そんなことしてたらクリエイティブな人達は絶滅するかもっと発揮出来る場に移動するかってことになっちゃうよね。まぁ日本って昔からそうなんだけどね。まぁそれはともかくだな、話を戻すとさ、そのね、概念って話なんだけど、今はマクレーン先生の圏論の本を読んでるんだけどさ、これってまさしく概念そのものじゃん?具体的な数字がどうのではなくて関数だの対応関係だの何かを示すっていうことの関係性の構造みたいになってるじゃん?フレームワークそのものっていうか、そういう意味である意味では凄く基礎論的なんだよね。でも基礎論にありがちな形而上学ではなくあくまでフォーマルな数学としてやっているっていう。


んでこの要素の無さなんだよね。要素とされるもののフレームワークの骨格は何か?というと他の対象を指すものだったり関係を作り上げるというそれによってワイアーで釣り合っていることで骨格が出来ているっていうさ、でもワイヤーとワイヤーは何で繋がっているのか?ってことになるじゃん?そこが無いんだよね。数字とかなんとかではなくワイヤーそのものっていうさ、こないだ書いた時間の話ってこういうことなんだけどね。仏教の縁起ってつまりはこういうことだよね。関係性しか無いわけで実在は無いってまぁ圏論そのものじゃん!って俺は思うんだけど。まぁ実在というかようは要素だよね。それを実在と呼ぶとしても、でも例えば関数って数字に比べれば実在感少ないじゃん?数学は凄く具体的だけど関数というのは作用なわけで、それこそ機能じゃん?そういう機能というものを実在と言えるのか?っつーのはさ、仏教の無というのは全てがその縁起という機能によって生まれたものであるから実在は無いって考えだよね。無というか空の概念ね。


存在という意味で考えると色々な概念が介在した言わば主観的な意味合いによって名指しされるある種の物語だよね。それが存在と言える。でも実際は関係性でしかないからその物語は主観的にしか生まれ得ないんだけど、でもそもそも人間ってのはそういった主観的な物語の中に生きるものだから存在の定義なんてのはその人によるってことになるんだよね。ようは考え方の違いっていうかなんていうか。まぁでも具体性ってこういうことだと思うんだよ。


でも抽象的に考えていくと存在性ってのがあやふやになっていって圏論みたいなフレームだけのものに見えてくるようになるよね。まぁでもそれが認識の深化なのかは分からないよね。何を持って深いとするか?なわけだし、まぁそれは深いことの定義っていう言葉的な意味ではなくて、抽象性の先にあるものが行き着く先なのか?っていうさ、それがゴールかどうかは分からないってことなわけで。でもアプリオリと言えるものに存在の定義が行き着くというのは深化であると思うけどね。


んでもそう思うと存在自体の属性にアプリオリなものなんてあるのか?っていうと無いよね。まぁまさに仏教の考え方になるんだろうけど、別に仏教に依拠しなくてもやっぱり存在ってのは主観的なものなんだと思うよね。一応今の所の俺の考えだとその主観/客観を無くしたものが圏論的な機能の世界ね。機能と対応関係の世界か。さっき書いたワイヤーフレームの世界だわ。こういうワイヤーフレームの世界観で物事を考えるってことだよね。最初の話で言えば。


哲学の形態がどうの哲学者どうのではなくそれそのものを考えるという。でもそれをやるためにはデータが必要じゃん?で、それを突き詰めていくとやっぱり科学になっちゃう。んでも文系な意味での哲学は最新の科学にcatch up出来てないから科学的事実も踏まえた上での考察ではないとただの放言になっちゃうんだよね。認識論で言えばサールとかがそうだと思うんだけど。そう思うとかなりの部分の哲学の問題ってもう領域としては科学なんだよね。まぁ当たり前っつっちゃー当たり前なんだけども。


んでもなんかあれなんだよね、哲学的知識って下手すると凄く自分の思考を縛るもので危ないもんなんだなってのはちょっと離れてみて分かったことだよね。哲学に没頭してるとそれがもう真理のように思えてきて哲学書ってもんがバイブルのように思えてくるけどってまぁそこまではいかないか。でもそれが中心に思えてくるのは確かだよね。でもそれは最初に書いたように哲学的言説っつー枠組みのインストールなんであってさ、そこはようは守破離なんだよな。だから今の俺の場合、「離」はprogressの結果の今なんだなってのを凄く感じるわけね。


他のことに興味がいって離れたんではないんだよね。でも守破までは多分誰でも出来ると思うけど離以降の創造については誰でもできるわけじゃないよね。で、その守破以降は守破の段階なんて一瞬だって思えるぐらい長いっつーか壮大なものだと思うんだよね。それが出来るならってことなんだけど。それは数学も哲学も同じだろうなと。で、とりあえず数学についてもとりあえずは守破の段階を終えるぐらいには割とすぐに行きたいなと思ってるんだよね。まぁそうじゃないと数学をやるってことが出来ないからね。哲学然り。なんかんでさ、ライプニッツじゃないけどこれって両方が相互的なんだよね。どっちもやって極めないと両方は極まらないって感じがするのね。


まぁ今日はそんな感じですかね。んじゃまた。