例のいじめ事件について。

前にブラック企業の酷いランキングみたいなのを載せるサイトはどうか?なんて話してたことがあったけどさ、余裕で実現しててウケたね(笑)


http://blackcorpaward.blogspot.jp/2012/07/10.html


Which is the deadliest corporation?的な。こういうのをやる人がいるから望みがあるよね。これはみんな全力で応援しないと!っつってもワタミが無双過ぎると思うんだが(笑)殺人企業だからなぁー。「無理と言わなければ無理じゃない」なんつーそのふぃろそふぃ〜は凄いよね。恐らくこういうマインドの人達が昔の日本の軍部なんかを牛耳っててんでまぁ無茶して大勢の人が死んだりしたんだろうなぁーっつーのは容易に想像がつくよね。精神主義と心理操作をかけてメンタリズムとかどうかね。なんでも気合いでなんとかしろ!っつー無茶なことを言うおっさん達のことをメンタリストと呼ぶとか。まぁ蔑称だけどね。で、俺はワタミに投票したんだが圧倒的過ぎて超ウケた。東電以外数字が500いかない三桁でワタミだけ6000越え(笑)三国志で言えば確実に呂布レベルだな。まぁワタミは象徴的な初代チャンプとして君臨してもらって、毎年やってほしいね。これは。


ところでいつも思うんだけどさ、名誉毀損的なことって何でも言えるわけだよね?名誉毀損っていわれの無いことを元に名誉を傷つけられたってことで発生するもんだよね?例えばマーダーインクって会社があったとして、実際殺人の請け合いをしてましたと。メイヤー・ランスキーっつマフィアが実際やってたんだけどさ、で、そこが殺人をしてる!ってディスられても名誉毀損じゃないじゃん?だって実際やってるわけだから。過労死がすんげー出てる会社とかがブラックって言われたって名誉毀損でもなんでもないよね。あとは鬼のようなサービス残業とかね、実際やってたらそれは毀損にはならないだろうっていう。


俺が言いたいのはこういう法的なことの濫用なんだよね。こういう防御系の濫用ね。それでまぁ今、巷を騒がせている例のいじめ事件だけどさ、ああいうのこそまさしく人権概念の濫用なのよ。よくある意見が理性的に考えれば学校側の対応は悪くないだとか、まぁそこまでいかなくても加害者側の人権も考えなきゃいけないってさ、いや、そりゃないでしょ!っていう。みんな感情的になっているっつーけどさ、そんなの当たり前じゃん。


これまた河本/梶原並に怒りを煽るような対応をしててさ、そこで理性で考えるとか無理でしょっつーか、政治ってのはさ、そういう感情の吹き上がりとかも含めたことじゃん?感情的になっているから理性的に考えなきゃいけないなんつーのは無理でしょう。実質。もちろんそれがイラク戦争とかの引き金にもなるんだけど、酷いことがあったら報復とかさ、それを例外状態と看做して特別の対応をしろとかね、そういう風に思うのは人間として自然じゃない?それが危険といってもそれが人間だから、そういった感情的なことと凄まじく乖離するような法なりシステムってのはどの道健全じゃないわけよ。


洗練されてるかもしれないけど凄く居心地の悪さを感じるっつーかなんつーかさ、それが常に「問題」を作り出してしまうのならシステム的に妥当でも人間はそう感じないわけだからそれはやっぱダメだろうっていう。加害者の権利っていうのはそりゃー普通に考えれば当然だけど色々あれど例えば今回みたいな件とかって無理じゃん?みんな怒ったから警察が動き出したようなもんだしさ、やっぱり怒りなのよね。理屈では分かるけど納得がいかないって人が多いのは当然だよね。そういうのを考えずに香山リカみたいな左翼思想ベッタリのやつとかは平気で言うじゃん?それがダメなんだよな。怒りも含めてどう政治なり法なりが対処できるのか?って話をしなきゃいけないわけで人権思想をドヤ顔で展開してもみんな怒るだけじゃん?なんでああいうこと言っちゃうのかなー?って思うよね。


人権思想が問題なのはさ、それがドグマで定言的に正しいとされる命題だからじゃん?だから加害者がサイコパスであれ大量殺人者であれ人権は認めなきゃいけないわけだけど、サイコパスの人権なんてのを認めたら世の中上手くいかなくなるのは目に見えてるじゃん?みんなもう即ぶっ殺せ!って思うレベルのサイコパスにも人権を認めるっつーのは、そもそも社会が人間によって成り立っている限り無理だよね。そういうロジックに馴染めないというか納得出来ない人達ってのが絶対多いわけだし、まぁ俺もある意味でその一人だよね。んだけど俺はまぁ根が左翼というのもあって左翼側の意見は死ぬほど分かるんだけど、そこをもっと一歩上にいって実際人権という概念の濫用にによって他の人権が踏みにじられてるとかね、凄まじい立ち直れなくなるような精神的苦痛を受ける人がいたりするってことなわけで、そんなものを認めていいのか?ってことじゃん?


それを認めないと国家が暴走するだのなんだのって言う人がいるけど、こういう人達って余裕で俺より衆愚観が深い人達なんだよね。普段は民意に問うとか民主主義とか言ってるくせに人一倍市民ってのを信用してないから国家権力から守る手だてを失ってしまえば国家が暴走するだとかさ、それってようは国民の監視機能がワークしないままグダグダになっちゃうってことでしょ?でもそこまでダメじゃないじゃん?これは行き過ぎだとかこれは範囲内だとかそういうのはさすがに判断出来るよね。所謂コモンセンスというかなんというか。


そこを信じられないから権利とか法でガチガチにするのは分かるけど、そういったものの被害者がいるっていうのはどうするのか?ってことだよね。そういう人権思想を振り回されることで被害者達はより深い悲しみと絶望に落ちることになるっていうさ、個で考えてはいけないっつってもやっぱ個でしょ。自分の立場になって考えたらもうやるせないじゃん?どんな気持ちか?ってもう考えただけで失神しそうになるぐらいのレベルだよね。そんなものを国家が法の名の下に放置しておいていいのか?ってことなわけで。


こうこうこうだからこうなりますよねーっていうロジックは分かるんだよ。むしろあんなもんリニアな単純構造なわけでバカでも分かる。でも人間には感情ってもんがあるわけで、ましてや当事者達なんてロジックがそうであってもやっぱり納得がいかないし、なんでみんな怒るのか?ってあまりにも酷いからじゃん?こんだけ国民が怒ってるっていうレベルにまでいっちゃうってのが問題でもうそれはダメなのよ。こんな風になるならシステムとして上手くワークしてないってことだから全然ダメね。あとは被害者の会とか遺族の会とかさ、そういうのが発足しちゃうっつーのももうダメね。そんなのが発足するぐらい精神的ダメージを受けているわけだしさ、加害者の人権だのってことで遺族も二次被害みたいな凄まじい精神的苦痛を受けるわけじゃん?それこそ損害賠償とかが成立するレベルの精神的苦痛だよね。そんなものを「権利」の名の下に許していいのか?ってことでしょ?


人権って本当にただのイデオロギーなのよ。そこにそれこそ数学みたいな揺るがない地盤があるのか?というと無いわけで。あんなもんただの思想だから宗教と同じなんだよね。それは別に個人個人が考えることだから思想の自由はあるとして、でもそれを押し付けるっつーかルールにするってのは如何なものか?ってことじゃん?人権思想って行き過ぎの思想なのよ。有名な安田弁護士ってのがいるけどさ、どんな悪人でも更生出来るってまぁそりゃー思想としていいですけどね、被害者のこと考えたら?ってことなんだよね。


例えばネクロフィリアでさ、幼女をレイプして殺した後、屍姦してバラバラにして全部食べたとかさ、もう無理じゃん?更生させるにしてもその幼女の遺族の感情はどうなるんだ?ってことでしょ?それこそ思ったような判決が下されないってことで鬱になって自殺しちゃうとか、そういう二次的な被害ってすげーありえるじゃん?それこそそんなただの人権思想がある一家の一生を永遠と蝕むようなさ、そんな思想ってないでしょ。そんなのダメな思想だよね。俺は暗殺は肯定するけどよくある関係無い人を巻き添えにするテロに関しては当然反対なわけでさ、それはテロ一つにしたって肯定出来るところとそうじゃないレベルの差ってのがあるわけじゃん?


人権思想然りなのよ。全部が悪じゃないけど行き過ぎると過激派みたいなもんなのよ。あれは。なんでそこまで貫徹できるのか?って言えば法的な根拠があるからだよね。だから弁護士とかに人権派とかが多いわけよ。でも法なんてのは人が書いたもんなんであって客観的な真実とか完璧に正しいことじゃないからね。そんなもんはそもそも存在しないから。人がよかれと思って作ったものに束縛されるなんてまさしく桎梏という言葉がピッタリだよね。行き過ぎた人権思想ってのは桎梏でなおかつ法的根拠があるからその拘束力が半端じゃないわけだ。


それをやたら振りかざして加害者の権利だのなんだのっていうのは言論テロリズムみたいなもんだよね。受動的テロリズムというかなんというか。民主主義ならそれこそすんげー多くの人がこういうのに疑問を持っているってことを政治側が解決しなきゃいけないわけじゃん?人権の思想を行使し続けるだけじゃ被害者が増えるだけだよね。凄まじい弊害だと思うんだよ。これは。思想に法的な根拠があるからというだけで被害者や遺族の心的苦痛なんて考えずに思想を展開できるわけだからね。いや、それを考えてないことはないし凄くジレンマがあるといったところでそれは説得力無いよね。そう思うんだったら人権派的な活動をするのをとりあえずやめろ!ってことになるわけで。


なのにも関わらず生存権っつー基本的人権が守られてないとかそういうのがあるから余計にみんな怒るわけよ。人権っつって全部がシステマティックに完全に守られてるならまだ分かるけど全然そうじゃないじゃん?なんかだからもうご都合主義なのよ。面倒な所はやらないでっつーか色々と動きが必要になるものはやらないでなるべく手を加えないで現状維持するっていうことだよね。そんなんだから永遠と貧困層が増え続けるわけだ。なのに犯罪者の人権はガッチリ守られる。怒りの理由の一つとしてそういうところの矛盾って絶対あるよね。みんながみんなそうじゃないにしても、少なくとも俺はこの人権の恣意性が大嫌いなんだよね。全部ルールなんで完全に守ってればまだ説得力あるんだけどすんげー根幹の生存権とかにさっぱり配慮が無いっつー中でこういうことがあるからだからもう人権っつー概念そのものが嫌になっちゃうわけよ。


あとは人権人権煩い人達はんじゃあその人権が守られなかった時の社会はどうなるのか?ってのを想定して人権嫌いの人達を説得するとかさ、でもまぁ無理だと思うんだけどね。それはさっき書いた国家が暴走するっつってもそんなもん節度ってもんがあるわけで、例えば今回の件とか他の殺人事件なんかでもそうだけど加害者の人権ってのがすげーネックになって色々と話が進みにくかったりプロセスに時間がかかったり被害者に多大な心的ダメージを与えたり、それは平等の思想も分かるけど、そこはなんつーかケースバイケースで対応していかないと人権ってのがかなり残酷なものに成り下がるよってことなんだよね。人を国家権力から守るもののはずが濫用されてるように見えちゃって、しかも人間の全うな感覚から凄くかけ離れたものになっちゃってるっていう。


この違和感を払拭出来ないとダメだね。怒りどころか人権のおかげで脱力感があってもうどうしようもないとかさ、あ、遺族の話ね、それってまぁ俺は余裕で人権侵害だと思うわけね。加害者を守るってことで被害者なり遺族が多大な心的ダメージを受けてるならそれは原理がどうあれファクターとして捉えなきゃいけない。で、倫理的にそれはオッケーなのか?ってのを考えなきゃいけないよね。教科書的なルールだと人にそもそも備わっている人権ってことで加害者だろうがサイコパスだろうが人権はあるってことになるし、そこに加害者であるということで差を与えてプロセスを適当にするのは人の命にたいしての尊厳が無いとかってことになるじゃん?ようは加害者の命はどうなるんだ?っていう話ね。いやいや、でもさ、ちょっと待てよと。被害者や遺族はどうなるの?って話じゃん?そこが無視されちゃってるようにしか見えないからこそ反感しか買わないわけよ。で、そんな常に反感を買うようなシステムはそれが法であれ見直さなきゃいけない。とりあえずは民主的な例外状態っつーのを認めるってところからはじめていいと思うんだけどね。


そうなれば私刑も恐らく発生するだろうっつってもそれが民意なら俺はいいと思うね。例外状態での私刑ならいいんじゃないの?っていう。その私刑自体を許すことで色々な問題が出てきたらやっぱダメだーってことになるけどさ、そういう例外状態って認められてないじゃん?やたら概念だけが発展して人権っつー概念になってるけど明らかに機能不全なんだよね。人々の感覚から極めて乖離してなおかつ凄まじい不快感や心的ダメージを与えるものになっているっていう事実を認めて、そこからんじゃあどうするべきか?ってのを考えないといけないよね。人権を振りかざすやつらはもうそれが原理だからまずそこを見直すって発想が無いから何考えても一緒なんだよね。あと凄く一元論的なのが民衆の怒りの吹き上がりは危ないっていう発想ね。いや、でもその吹き上がりを抑止するでもなく、それが起きないようにするとかさ、あとはそれを解消させるようなシステムとかね、とりあえずそういうのが蓄積して爆発しそうになっているっていうのが危ないのよ。


感情に任せて私刑だなんてとんでもない!っつーのは分かるけど、その感情的に私刑/死刑にしたいというわき上がる感情をどう処理すればいいのか?ってことじゃん?で、啓蒙はまず無理だよね。今回のいじめに関してはまだ確定はしてないけど十中八九隠蔽でしょ?それプラス加害者の人権っつーロジックじゃん?っつーかあれか、加害者側の人権ってのを盾にした隠蔽か。そんなものが人権概念の濫用によって成立するわけだから驚きだよね。でも問題はこのロジックは法的に言えば間違いないってことなんだよね。実際加害者側の人権はあるからああいう言い方をされれば何も言い返せないんだよね。


で、この言い返せないこのもどかしさというか、厳密には濫用ではないんだけど濫用にしか見えなくてなおかつ凄まじく怒りを煽るようなものであるっていうさ、こういう感情の面をどうするのか?って話じゃん?で、こういう感情は啓蒙じゃ無理だからね。麻原を死刑にするべきか?っつって「でも加害者側にも生きる権利がありますし」なんて答えるやつがどれだけいるのか?って話だよね。そんなやつ大抵が左翼がかった人権思想の持ち主じゃん?コモンセンスから言えば犯罪の抑止になるならないとかは関係無く「死刑だ!」って思うわけじゃん?ならないのがおかしいと思うわけで、それがどれだけ法的に間違っていようが学問的に間違っていようがコモンセンスはそう感じるという事実はとにかく揺るぎないわけだ。そこを国民の無知と言い捨てていいものか?って話なんだよね。


言わばアプリオリに動物的に大量虐殺を喜んでするような輩を社会にのさばらせておく道理は無いからどっかに監禁するかdeserveということで殺すかさ、そいつの人権を考えようってのは凄く人為的で不自然なんだよね。でもそれは当然なんだけど、でもそこを当然と受け止められないという感情と実際の法とのギャップがあるわけじゃん?しつこいようだけどここなんだよね。問題は。で、俺はなんとなくだけどあまりにも人間的な感覚から乖離し過ぎたようなものがシステムとして組み込まれて人々は違和感を感じながらもそれを受け止めなきゃいけないなんていうさ、そういうのはどうかな?って思うわけね。ここを客観的に分析してどうの・・・ってなればそりゃー人権のロジックに行き着くのは分かるけど、人間の感情との両立性は無いわけじゃん?凄まじく相反するという事実をどうするのか?ってことだよね。


なんか繰り返しになってきたからもういいや。とりあえずあれだよね、人権における評判が良くないってことは上手く機能してなかったり感覚との乖離があるってことだよね。それはもう事実なわけですよ。それでも学者さんが言うような意見が正しいならやっぱり国民は政治に口を出すべきではないってことになるよね。だって啓蒙は無理なんだから。そこまで感情と相反するものは受け入れられないって。やっぱ。そう思わない?


なんつーかその醜悪さという意味において今回の事件はウクライナ21を彷彿とさせるよね。更生させようとかっていう発想が出来ないぐらい残虐なことを子供達がやって、んでなおかつ加害者達の親は子供を弁護するっていうなんともやるせない構造ね。