知行合一。

数学をロジックから派生する必然的なものって書いたけど、イメージ的には前に書いた阿頼耶識への熏習なんだよね。言わば基礎固めというのは畑を耕すようなもんで、そこに種を植えるんだよね。それが基礎中の基礎を理解するということなわけだ。そうやって種子されたものから色々な数学的現象が顕在するという感じだよね。公理主義のイメージっつーのはこれに近いんだけど、でも別にそれは公理的である必要はないんだよね。まぁ大体が公理的になるけど、つまりはその種そのものじゃん?それってのはもうさ、それこそ微積分の基礎の定理の数々とか代数の基礎定理の数々とかなんだよね。


結局、それらをベースとしない数学というのは無いわけじゃん?あるかもしれないけど現在はとりあえずそういう基礎ってのがベースになって派生した数学ってのがいろんなジャンルなわけだけど、思うに圏論みたいなのはもう基礎から構造が規定されるぐらいの強さがあって、言わばむき出しの基礎なんだよね。で、そこからもう色々なものが派生するようになってる。で、圏論的な枠組みで代数を理解したりすると少なくとも俺にとっては凄く分かりやすいんだよね。凄まじくvividな数学的構造という気がするっつーかマックレーン先生が書いた代数の本がまさしくそんな感じらしいので買ってみる予定。


だから高校数学再入門!的な本とかで書かれてるような初歩的な微積分なり代数の定義って簡単なようで俺にとっては分かりづらかったよね。それは上から見てないからなんだよね。メタ的な理論から下部構造というか、基礎的なものを定義したほうが分かりやすいわけだ。言い方が正しいかどうか分からんけどアップダウン的な。ブルバキがそうじゃん?集合論というものから現代数学を見渡して定義し直すっていう。


で、熏習の話に戻るけど、結局、数学的現象を顕在させるというのが言わば数学的に思考している時なんだよね。言わばダイレクトに数学そのものをやってる時ということになる。でもそれでもそこから何も生まれなかったりインスピレーション的なものがこない場合、いくら種をまいても何も生まれないという不毛な大地ってことになるわけで、俺が気にしている本質的な数学的素質というのはその熏習される大地が肥沃なものかどうか?ということなんだよね。もちろん後天的に良い肥料を撒いたり耕したりすれば大地自体が良くなる可能性はあるけどまぁすげー大変なわけだ。それこそ全然向いてない人の頭を例えるなら砂漠だよね。砂漠に畑を作ろう!というぐらいなかなか先の長い話になる。


怖いのはやっぱりあれじゃん?そもそも数学って超肥沃な大地の上に種が蒔かれてるっていうことから生まれてるわけじゃん?ようは地頭が良くてなおかつ数学的な大地が凄く肥沃だという。砂漠を耕したところでたかが知れているけど肥沃な大地からはいろいろ生まれるわけだ。で、そこは耕すとか熏習するということは思考するということであったり学習するということであって、後天的なまぁ言わば努力とかでなんとかなる部分だけど、でもやっぱり大地そのものの質というのは変わらないよね。


これが言わば才能とか素質ってもんだと思うわけ。大学院ぐらいまで進んで自分の大地の不毛加減に気がついて詰むっていうのもようはそんぐらいやらないとわからないってことなんだよね。5年以上やってようやく自分が向いてるか向いてないか分かるっていうか。で、まぁその向いてるか向いてないかの差ってのが著しいんだよね。向いている人を見ると「俺もがんばるぞ!」という風にはとてもなれないぐらいの猿と人間ぐらいの知能の差があって、それが圧倒的に過ぎてもうやる気が削がれるわけだ。


無駄な大地で数学をやることの恐ろしさって常にこれを隣り合わせなんだよね。馬鹿の考え休むに似たりという言葉がこれほど当てはまるものもなかなかないだろうってぐらい。何かを作りたい!って人間の根源的欲求だと思うわけよ。それは名誉とか自己顕示というわけではなく単純なcreationだよね。これはなんていうか子孫を残すという感覚に近いんじゃないかと思うわけねっつーのはさ、表現物でも音楽でも学問でもなんでもいいんだけどそれってやっぱ子供だもんね。まぁ子供っつーか種か。


さっき書いたところで言えば熏習される種そのものを作り上げたいっていうさ、それってまぁ散種というかなんというか、基本的に人間がなんかの記録を残したいとかさ、備忘録的なもんであってもなんでそれをウェブにあげる必要があるのか?ってやっぱり記録を残しておきたいっつー欲求だよね。もっとプリミティブなレベルだと「生きてました!」ってことの証明というかなんというか。


んでまぁ才能云々の話なんだけど、結局、自己啓発系の本に書いてあるようなことみたいになっちゃうんだけど、目標を設定すると可能か不可能かは別として脳がそれがゴールだって思い込むから必然的にゴール達成に必要なものを吸収しようとするじゃん?言わばプラクティカルな意味でのゴール設定だよね。でも俺は客観的に詰んでいるから、だからこそすべてを挽回するような無理な目標設定をするわけだ。そうするとそれが凄い臨場感になるんで凄いハングリーになるんだけど、でもその反面、かなり精神的な負荷がかかるんだけど、でもそれは必要なことだよね。


凄くマゾキスティックに「理解しなければ死ぬ!」と思うわけだから理解できないときのヤヴァさ加減が半端じゃない。それは死を意味するからね。自分の存在価値もゼロになるわけで。だから脳が必死になるんだけど、その極限的なプロセスが楽しいと言えば楽しいわけだ。このぐらいじゃないと毎日生きている気がしないから鬱になっても俺は自分にプレッシャーをかけるね。


「まぁほどほどにやればいいんだよ」的な考え方が凄く嫌なんだよね。そういう人はそれでいいけど俺は凄くそれが嫌。何をやるにも極めないと気が済まないし、極めなくても生きていけるなら極める意味が無いっていうか趣味的になるじゃん?そうじゃなくてやっぱ生死に関わることじゃないといけないっつーかなんつーか。そういうレベルまで自分を持っていけるかは自分次第なんだけどね。


んでそうなるとなんつーかさ、脳は生きるためにどん欲になるというのもあるけど、それプラス本来の知的刺激っつーのもあるじゃん?快楽としての学問だよね。そういうinstinctiveなものを回路に介在させるようにするとdriveの強さが凄くなるわけだよね。まぁそれだけやれるって環境に無いと無理だけどね。自分を追い込むことができるってまぁある意味で余裕が無いとできないことだから。意味ないことで追い込まれてる人が大半な訳で。


俺が言いたいニートの良さってのはここなのよ。ようはリアルニートではなく、ニート並みに何でもできる環境なら自分を追い込みまくって何かを極めろ!ってことだよね。そういう意味での潜在的パワーを持った予備軍としてのフリーターなりニートはいいんだけど、それをやろうとしないのはやっぱりまぁダメだわな。俺もそういうニートまでは肯定できんよね。個人の自由だから否定はしないけど。


んでも言うは易く行うは難しってことだからやっぱりダメだったら自殺するぐらいの覚悟が無いとダメだと思うね。アメリカに居た頃はそういうマインドセットだったわけで。で、今はすげーそれが弛緩してるわけ。だから意図的にハングリーな状況を作り出すしかない。でもどのみち、俺って将来どうにもならなくなったら精神病関連でナマポになるしかない感じじゃん?


で、ナマポで生きていくぐらいなら死んだ方がマシ!っつーかさ、いや、普段と言ってることが違うけど、一般的にはそうじゃなくても俺はなんかそうじゃなきゃダメって思うわけだし、そこがなんつーか真剣に身を立てるって話なんだよね。理想論で言えば学問で身を立てる!という感じだよね。それがなくなったらなんか本当に終わりだなって気がする。まぁ孔子的な世界観だけどね。イデオロギーと言われればそうですよとしか言いようが無い。ただまぁこれが個人的なvirtueなんだってことなわけで。


あとナマポっつってもまぁご覧の通り通るほど色々と酷くないんでとにかく詰むわけよ。障害年金は前に書いた通りで不可能だしね。別にそれに頼るというつもりで生きているわけではないんだけど、それしかない!ってなったときにリアルに通らないじゃん?だからやっぱどうしましょ!ってことになるわけで、だから結果的にダメになったらしょうがないんだけど、ただダメになったときに「あのときああしておけばなぁー・・・」的な後悔をしないように生きたいと思ってるわけ。


で、それにはやっぱり普段から生死を意識する緊迫感っつーのかな?弛緩しきった泥沼の日常を引き締めるものっていうかさ、それがやっぱ自分にとっての学問なんだよね。だからもう実存丸出しなわけ。最悪予備校の先生でやっていけるとかなんかそういう道っていろいろあるじゃん?死ななくてもええやん的な。そういう逃げ道を作るのが凄く嫌なんだよね。B級だったら生きる価値無し!って人にはそんなことは言わないけど自分にはそれを言うわけよ。だからB級なら生きてても意味ないから死ぬわけね。で、それを凄くリアルに考えるわけ。


むしろそうしたほうが生きやすいんだよね。ある意味凄くシンプルで将来のことを悩む必要がないんだもんね。どうやって食っていこう?とか関係ないじゃん?やりきって何も道がないならしょうがない!っていう往生際の良さだよね。でも環境的にやり続けられるならそれはもう限界までやりきる!って話ね。だから早々に諦めて死ぬということではないわけ。やれるうちはやりまくるのね。そうじゃないと生きていけないし、仮に資産とかでなんとかなって生きていけても俺はその泥沼の日常に耐えられないわけね。それこそ学問を趣味にして生きていけるような温さね。それが凄く嫌なのね。


こういう思考をできるってのは恵まれてる証拠だっていうのはそうだと思うよね。それこそ生きるために必死!!みたいな環境で小さい頃から育ってきたら絶対こうはならないよね。これはまぁ凄くある意味でブルジョワ的なメンタリティなんだと思う。すげー贅沢を言ってるなと。でもまぁそれが贅沢であれ俺はそれがいいわけだし、そうじゃないと生きていける気がしないんだよね。


食えてても予備校の先生とかやってる姿とか想像しただけでもう凄まじく気持ち悪くなってくる。予備校の先生に失礼だけどね(笑)あとはFラン大学の先生とかね(笑)


食うために必死!ってのがみっともないって考え方だよね。これもまぁvirtueじゃん?ブルジョワ的な価値観だと思う。でも俺はやっぱ嫌なんだよね。「なんでもやります!」っつってFラン大学で中学校の基礎数学を教えるバイトがありますなんつって「やりますやります!」みたいに食らいつく感じね。そういう感じが凄く嫌なのね。粗野な生き方というかなんというか。それが嫌なわけよ。


1流じゃなきゃ嫌だし死ぬ!ってすげーわがままだよね。でもそうじゃないと嫌な自分がいるわけで、それはもうしょうがないでしょ。あ、ちなみに1流っつっても社会的評価とかじゃないよ。食えてる食えてないも関係ない。1流の数学なり思索なりができているということが1流ということね。逆にそれができていてバイトで食いつなぐ分には全然いいわけ。だってやれてることは金になってなくても1流なわけじゃん?そこが2流ででも諦めがつかなくて、んで悶々としている中でバイトで食いつなぐ・・・みたいなのが嫌だってことなのね。1流になれないというのが分かりきっている中でも夢を抱いている自分というのが凄まじくみっともないので。


今もまぁそうかもしれないじゃん?でも今は食いつなぐというほど生活が困窮してなくて色々とやれる余裕があるからだからもうとにっかくやるわけよ。体調とか崩すけどでもやるんだよね。そう思うと数学で鬱になれるというのは自分にとっては良いことだなって思うのね。そんぐらいマジなわけじゃん?だからもう脳が疲弊しちゃうわけだ。


まぁでも数学やってるときはとにかく腹が減るし、あと色々とやった後だととにっかく眠くなるね。で、こういう時は回路ができているときだからとにかく寝なきゃダメだ!と思ってて寝るようにしてるんだよね。これを繰り返していくと勝手に頭の中で数学の回路ができてきて、ようはそれがインフラみたいになるわけだ。そういうインフラをまず作らなきゃいけないじゃん?でもそれはできるに決まってるわけだ。そんなの毎日やってりゃできるに決まってるし、実際、どんどん先に進んでいる自分がいるわけで。


でもいつも書くように何かを作り出すレベルになれるかどうかは今じゃ全く分からないじゃん?で、それに関して凄く不安があるって不安になっててもしょうがないんだけどさ、とりあえずでも今はやるしかないし、不可能って決まったわけじゃないじゃん?だからやるんだよね。


かといってもそれは死にもの狂いの努力とかではなくて、あくまで数学を楽しみながらやらなきゃいけないわけだ。嫌々やってたらもうそれは向いてないってことだし、そんなんだったらやらなきゃいいに決まってるわけで。今はそうじゃないじゃん?ダメだったら死んでもいいぐらい好きなわけでさ、ただでもマジで死ぬぐらい悩むっていう両極性はあるんだよね。楽しい反面、それに実存をつぎ込みすぎているから凄く脆弱になるわけだ。それこそ目の前で天才が俺の分からないことを一瞬で理解していろいろとやっているみたいなことを実演されたらもう絶望的だよね。それが凄く怖い反面、そういう天才に会ってみたいというのもあるわけ。矛盾してるけどね。


まぁいいや。そんな感じで。結局まぁコミットメントの深さなんだよね。「何背負っちゃってんの?」ってばかばかしく思えるぐらい勝手な私的な物語の中でいろんなものを背負ってやるっていう。でも主観的には背負ってるとは思ってないんだよ。ただ客観的にみれば「ご苦労なことだねー」って感じに見えるぐらいの滑稽さがある。その滑稽さが無いとダメだね。超ダサいぐらいじゃないとダメだわ。やってる姿がかっこよかったらアウトだな。そこはやっぱ俺が生まれつき持ってるドンキホーテ性っつーのかな?風車に体当たりする感じね。でもその滑稽な自分に酔うとかではないんだけどね。もちろん。


なんかニーチェっぽくなってくるよねぇー。やっぱ。俺の考えとの親和性があり過ぎるのよ。ニーチェは。基本的に考えてること一緒だよね。別に俺はニーチェの思想を実践してるつもりじゃなくて自分の生き方を貫いてるだけなんだけど、既存の概念で言うとモロにニーチェっぽくなるっていう。まぁ哲学ってのはそうだよね。勝手ににじみ出てくるものじゃん?だから哲学って学問足り得ないんだよね。もう実践するしかないし、動詞としてしか哲学は機能しない。staticじゃないんだよね。


まさしく知行合一なわけですよ。そういう意味では仏教とか禅と同じだよね。哲学というよりかは日々それを実践して学んでまた実践して・・・の繰り返しっていう、まぁ修行と言えば修行になるのかな。ただそれでしか数学も哲学も存在し得ないんだよね。それが俺の言いたいstaticではないということね。数学は本当にそれが顕著なのよ。数学を理解して実際にやるってことはもうまさしく数学を行うってことなわけだから。でもそれをやれる人って本当に限られてるんだよね。ただの計算とか記号操作とか受験数学とか数学オリンピック的なパズルはできる人はいっぱいいるし、訓練すれば誰でもやれるようになるけど、数学の知識を自家薬籠中のものとして、直接数学をやるというのができるというのはもうイメージ的にウィザードじゃん?


でもそういうウィザードレベルでしか、数学は実行できないっていう。それぐらい数学自体をやるということは敷居が高いんだよね。物理然りだね。物理そのものを考えるということでしか物理ってできないでしょ?っつってもまぁ実験物理学とかもあるからそれは別なのかな。


っつーか色々と書きたいんだけど時間がないのよねっていうか妹のパソコンを使える時間が限られてて。だから今日はこの辺で終わろうかな。知行合一というのはなんつーかやろうと思って明日からできるようなもんじゃないってことなんだよね。それこそ禅の実践とかが実際の日常生活では非常に難しいように、哲学とか数学の実践も凄く難しいわけねっつーか普通に「社会人」として生きていこうとしたらほぼ無理ですな。


こういうのをマージナルな人たちかアウトローか変人しか実行できなくなってるっていう文化の行き詰まりにいらだちを感じるけどね。なんか俺が書いてることって結局、なんか変人の特権みたいなさ、なんかそういう系になっちゃうじゃん?もっとエッセンシャルなことなんだけど、見え方がそうなっちゃうみたいな。


あ、もうそろそろアレなんでまた書きます。んじゃまた。