頭の中にゲーデルを構築。

最近は気分の流れが激しすぎてもう自分で自分についていけない感じだわ。俺って哲学やら仏教やら色々と本を読んでるくせに全然感情のコントロールができないのね。まぁ逆にあれかな、不安定だからこそ何かを求めるっていうかアタラクシア的なものとかさ、欠如があるからこそそれを埋めるために必死・・・みたいなのがもう俺が生きるってこと自体なのかもしれないとか思いつつ、ずーっとこういうのがあると疲れるんだよね。マジで。そんなわけで現実逃避のゲーム没頭とかクラシックとか数学とか哲学とかがまぁあれなんですよね、人生の中心になるわけですよね。ゲームに熱中できてなんで数学はそこまで無理なんだろう?とかこないだ書いたけどあれだよね、共通事項は現実逃避でしょう。もうあまりにやってられないわけだ。仮に世界が平和でもダメだもんね。絶望的なのは今のところは治りようがないというのと、あとはお金があればいいとか毎日何らかの義務に縛られないでいるとか、そういうのさえクリアできればオッケーってことじゃないってことだよね。前にも書いたけど銀行口座に何億の金があっても何も変わらないんだよね。この絶望感ってなかなか理解してもらえないみたいで。


まぁー金があれば解決できることはあるけど根本の解決にはならないんだよね。まぁでも人によっては旅行が好き!とか金をかけることでやりたいことはいっぱいある!とかさ、そういう場合、お金って楽しさを得るきっかけになると思うけど無い人って逆につらいよね。何をすればいいのか?ってショーペンハウエル的な苦痛から逃れることっていう否定的な意味でしかないんだよね。だから生きてること自体が辛いからゲームやら映画やら数学やら没頭できることを探してなるべく時間をそれに使うことで正気を保つってことだよね。でもまぁ正直マジで疲れるわ。去年あたりは数学自体をやるってことが楽しかったし、全然使ってないホワイトボードとかもさ、書いたままになってるんだけど数式がすげー稚拙なのねっつーかめちゃめちゃ初等的なことが書かれてて「あーこんなことも分からなくて考えてたんだぁー」って笑えるんだよね。初等的なトポロジーと幾何の数式なんだけど。そんなに前ではないんだけどもうすげー昔のような気がする。


で、今はまさしく自分にとっての哲学のごとく数学も自然になりきってしまったんで逆に「やらなきゃ!」なんて思わなくなったよね。去年は凄いやる気だったと思うけど今はもう当たり前になってて当たり前になってるからこそ現実的なことを考えるようになって、なんつーか学者生活!みたいな荒唐無稽なことは一切考えられなくなったよね。数学者になりたい!とかいって実際になってみるとなったって感じがしないみたいなそんな感じかもしれん。だからもう数学者になる!なんて夢はないんだよね。それは哲学者になる!という夢がないのと一緒で。そういう意味で業績とかそういうのにも本当に興味がなくなっちゃったんだよね。だからもう自分で勝手にやろうって感じだよね。でもそれって数学と認識とか数学と哲学とか直感と公理とかそういう話が多いよね。


でもやっぱり数学の枠組みともいえるような圏論とかさ、ようは集合論がもっと抽象的になって包括的になったって感じのさ、ああいうフレームワークそのものに関しては凄い興味があるんだよね。悪く言えば細かいなんたら問題の補題のaが2以上の場合についてとかそういうのには全く興味がないんだって見切りをつけたよね。もうあまりにどうでもよすぎて全く興味ないんだよね。それが大枠に関する凄く重要なものだったりすると別なんだけどさ、そういう意味で米田のレンマとか凄いんだよね。まぁレンマみたいな地味な名前がついてるけどその辺のどうでもいい公式とか定理なんかよりよっぽど凄いっていうさ、あとはまぁ好きなので言うとフビニの定理とか、自分が好きになるのって一貫性があるよね。もうそれは大抵構造的なもので大局的なものなんだよね。細かいことはどうでもいいっつー普段の性格と共通してるかも。


ヴェイユが数学はガウスのように考えることから始めろみたいなことを言ってたって話があるけど最近ようやく意味が理解できた気がするな。まず自分の中にガウスシミュレーターみたいなのを構築するんだよね。自分の頭で考えて全部自分でやるっつーのもいいけど偉人の頭を借りるってのはすげー便利なわけでさ、まずは模倣から始めるっていう芸術なんかと一緒で数学もそうなんだよね。ホームズが推理するときに完全に犯人の頭になって考えるっていうそれの数学バージョンみたいな。そういう意味でその偉人の頭を借りるって発想でさ、なんかやっぱり自分の頭に限界を感じるんだよね。頭は良いけどガウスオイラーほど凄くないのは明白なんだけど、でも凄くないってのが凄く嫌っつーかバカの頭で考えたくないんだよね。時間が無駄だから。だからまずは誰かの頭を借りようと。まぁある意味での敗北宣言でもあるけどね。でもまぁかなり健闘したとは思うけど。でもそれは完全に何かをそのシミュレーターに任せるんではなくて、あくまで借りるんだよね。自分の数学のために。


でも構築できるのって限られてると思うし、それはなんつーかRPGのキャラ設定みたいな感じで職業ってそんな何個も同時になれるもんではないから絞らなきゃいけないんだよね。そんな中で俺の場合は「ゲーデルのように考える」ってことになったよね。俺がやりたい数学とか数学のあるべき姿とか数学への向かい方とかのまさしくそれそのものといってもいいぐらい理想的な形をしてるのがゲーデルの思考なんだよね。とにかく数学的センスが半端じゃなくて直感や思考力なんかも尋常じゃない。で、なおかつ哲学的な数学しかやらないっていうさ、まぁゲーデルが哲学的な数学のみに興味を持っていたか?というと違うわけでまぁ数論とか物理とかも詳しかったらしいんだけど、ずーっと考えてたこととかさ、やってることがとにかくドープなんだよね。本人が完璧主義者だったから滅多に論文を発表することがなかったりしたんだけど走り書きとかメモなんかも含む膨大な文献が80年代だか90年代ぐらいに出版されるようになって全貌がつかめてきてるんだよね。で、実際はめちゃめちゃ普段から色々と考えてたってのが手に取るようにわかるようになってるっていう。


そこでやっぱりゲーデルの独特のプラトニズムとか形骸化された形式的な分析哲学みたいなものへの批判的な態度とかさ、まぁ批判的かはともかくでもまぁ明らかにああいう類のものを嫌ってた感はあるよね。で、頑なに数学の意味ってのを探し続けてたっていうさ、それがかっこいい!ではなくてそれはまだ未完のプロジェクトとして誰かがまたゲーデルを復元してそれを続けるべきなんではないか?と思っててさ、それを俺が勝手にやろう!って思ったのね。でもまぁ無理そうだったらやめるけど、でもヴェイユガウスのように考えることから始めよ的なさ、それは数学を本格的に始めるやり方として有用なんだよね。だから俺は自分でも考えつつゲーデルならこう考えるかな・・・みたいなのを妄想するっていうさ、そこで少なくとも俺のゲーデルと自分自身っていう二つのマインドを持てるわけじゃん?まぁ俺のゲーデルが完全なゲーデルかはともかくとして。


ただでも哲学においてはこれって何気に自然にやるものだよね。ニーチェならこういったであろう的なことって割と普通だもんね。で、各哲学者のニーチェってのが生成される。哲学では常套手段だし生産的な行為だけど数学においてはまぁ俺の無知かもしれないけどそんなにまぁ数学のメソッドって聞かないじゃん?あとはみんなハーディーの数学者が数学について語るなんてダサい的な考え方に囚われてるのか、まぁとにかくハーディーの数学者の弁明ってありゃ良くない本だね。いや、良い本だけど影響力があり過ぎて、数学は若いやつらのゲームだとかよく引用されるけどそういう明らかに誤った考え方があたかも常識のように通念になっちゃってるっていうさ、まぁあとはやっぱりああいう本が影響力を持ち続けるって数学者たちの数学の能力はともかく思考力ってやっぱり劣ってるよなって思うんだよね。一流の数学者でも数学観みたいなのを語りだしたときに割とショボかったり、あとはシンポジウムなんかでも「自分の仕事は哲学ではない。数学だ」みたいな言い訳をして哲学的に洗練されてないことを数学者であるからということでエクスキューズしようとしたり、なんか数学者には致命的な何かが欠けてる気がするんだよね。そんな中で思考力も抜群だったのがヴェイユとかヘルマン・ワイルとかゲーデルとかノイマンとかチューリングなんだよね。俺は彼らのようになるのは無理でも彼らのように考えたいんだよね。思考力がいまいちな数学者にはどうも参るよね。


なんかさ、結局は数学は哲学に比べて厳密な学だから別に数学で一流の仕事をしてれば哲学的に稚拙だったりいまいちでもいいだろうみたいなさ、なんかああいう態度がすげー嫌なんだよね。そういえば岡潔も思考力は抜群じゃん。ああいう感じだよね。思索的というか思考的な数学ね。やたら条件がなんだとかってああいうのって所詮はパズルだと思うんだよね。高度なパズルに過ぎないと思う。まぁ勝手にやればいいけど本当に興味がないよね。意味が無いとは言わないし、むしろ思考的な数学なんてのは一般的には抽象的過ぎて意味ないだろう。でも俺の中ではよっぽどそっちのほうが価値があるのね。あとはマックレーンとかもそうだけどさ、なんかわかるでしょ?思考的にも一流な数学者と数学だけ一流な数学者の違いって。まぁ数学においてはどうでもいい話なんだけど俺にとっては全然違うのね。無味乾燥な数学ってたいていそういう人間的な思考が介在してないようなただのパズルみたいなのが多いわけよ。そういう数学をやってるやつがテキストとか書くとえらい数学がつまらなくなるわけ。実際はそういうテキストって多いんだよね。良いテキストってのは大抵思考力が優れた数学者が書いてるやつだと思うんだよね。あとはまぁハルモスなんかも思考力があるっつーかあの人はもともと哲学やってた人だからね。ただまぁ数学のほうが向いてたってことなんだけど。


なんかどうもさ、抽象的な人間の思考力みたいなのを感じないドライな数学って嫌なんだよね。数学に個性がないなんてのは大間違いだよね。まぁそりゃ結果だけ見ればそうだけど中身を見ればむしろ個性しかないよね。でもそれがわかってる人とか伝えられる人とかって全然いないと思うんだよね。むしろ脱個性で無味乾燥な数学をやるのがむしろ数学だ!みたいな感じがあるもんね。んでもあんな人間味がないものは人間が本能的に嫌うのは普通なんだよね。あーでもまぁブルバキをどう正当化するのか?ってこれはちょっと難しいけど、あれもまぁようは徹底的に集合論の言葉で公理的に数学を記述しようという思想の表れで、あの異様なまでの徹底感にむしろ人間味を感じるんだよね。無味乾燥なのは7割ぐらいのショボいテキストだよ。まぁただブルバキが与えた悪影響ってポストモダン思想並みに酷いもんで全然褒められるものではないんだけどね。でもそれはフォロワーが悪いんであって言いだしっぺっつーかやり始めたブルバキに関して言えば価値がないってことはないと思うよね。あんな偏ったエクストリームなことをするのは人間しかいないわけで。集合論から代数への流れがとにかくすごいんだよね。いや、何回も繰り返すけど頭の中に数学をインストールできたのってブルバキのおかげだからねっつってもまだ全部読んでないけどね。topological vector spaceとかリー代数のやつとか可換代数のやつとか読んでないんだけどまぁなんつーかあれだよね、テキストを買わずに済むよね。あんな無茶なまとめ買いしたもんで買う必要がなくなったテキストが大量にあるよね。少なくともブルバキがカバーしてるやつに関してはいらないわけで。


でもまぁちょっと自分を過信し過ぎかもしれないけど色々と読んでるとブルバキを頭からケツまで読み通すみたいな必要はなくなるんだよね。そもそも色々と読んだり考えることで自明なことが増えるわけで、そうなるとブルバキって数学辞典みたいなもんなんだよね。ホリエモンじゃあるまいし百科事典を頭から読むとか知的に下品でそれは嫌だよね。なんだろうね?この知識とか博学であるってこととかさ、あとは見せびらかしのための知識とかさ、まぁいわばソフィスト的なものって本当に知的に下劣だよね。百科事典の知識自体は下劣もなにもないんだけど頭からケツまで読もうとするその魂胆が下劣なんだよな。コンソメスープをズルズルとラーメンのスープを飲むかのようにズルズルすするのが下品みたいなそういうことなんだよね。でも別にラーメンの汁をすすること自体は下劣じゃないんだよね。


うん。まぁこんな感じでいいかな。まぁ数学的なディレクションって「こうやりなさい」的なものが今の俺にはないわけじゃん?でもそれが良い方向に進んでるってのは実感してるよね。俺の場合、大抵型どおりにやったり堅苦しくなるとダメになって自由に好き勝手にやると大抵良くなるんだよね。俺の哲学なんて勝手を極めてるわけで、アカデミックなんか知るか!って感じはありつつもでも連帯さんとのやりとりにもあったように押さえるところは押さえるんだよね。ギターをちゃんと弾けるけどめちゃめちゃにやるインプロやっちゃうみたいなベイリーみたいな感じだよね。やっぱり技術あっての自由なんであって、それは学問然りっつーかむしろ学問がそれでしょう。音楽の場合、自由にやり過ぎてうまくいくこともあるからね。


まぁそんな感じで今日は書く気が湧いたんでなんとなく書いてみた。んじゃまた。