現実はオワコンという認識からはじめませう。その21。

大森荘蔵は想起とは夢みたいなもんで、もっと言っちゃえば過去なんつーのもそれが想起される記憶である限り現実に対応するような実在ではないわけで言わば主観を通してそれが記憶化というか概念化されると全部夢みたいなもんだみたいなことを言ってたんだけどさ、これはマジですよね。ええ、相変わらず世界の話の続きをするわけですけどっつーか書きかけの最近読んでる本についてのやつがあるんだけど途中でやめちゃってさ、まぁそれは今度貼るとしてだな、で、世界の話の続きなんだけどもね、本当にあれだ、俺の今日の出来事からの話をするとさ、最近はゲームっつってももっぱらハマってるのがArma2でさ、なんつ−かやっぱりああいうリアル性を追求してるやつって俺の言うバーチャルなんだよね。所謂ベタなゲームってのはバーチャルな世界だけど現実感がないからさ、まぁ臨場感はあるんだけど、そういうのってまぁ世界観によるんだけどさ、ハマれるやつを見つけるのが大変なんだよね。たいていは俺みたいに無駄に年を取って色々とゲームもやってきた身としては色々と飽きるわけだ。あとそんなに昔ほどファンタジックな世界にのめりこむみたいなことができなくなるんだよね。でも逆転というとあれだけどさ、Arma2って即物的じゃん?まぁほかの大げさなFPSと比べるととんでもなくあっさりしてるよね。それがいいんだけど。かといっても現実味があるか?っつーと本当の戦場なんて知らないからなんとも言えないけどさ、んでもね、Arma2ならではの経験ってのがあって、俺のバーチャルな感覚と今の考え方と凄くシンクロしてるんだよね。


っつーのがさ、いやね、ブリティッシュなんたらっつーDLCのキャンペーンモードの第三話なんだけどさ、まぁ細かい話は端折るけどまぁとりあえず基地を守ってね、んで敵の拠点になってるキャンプとか乗り物の類も見つけて破壊するっていうミッションがあるんだけど普通のFPSみたいに破壊する戦車はこれとかっていう表示が出なくてさ、不親切なんだけそ良いところでもあるんだけど、ようは何が言いたいのか?っていうとArma2自体がとにかく面積が広いマップでミッションが展開されてて、それこそ隅から隅まで行きたかったらそれこそスカイリムのマップぐらいの広さになるようなさ、そんな広さなのよ。まぁ別に何があるわけでもなくて広大な大地なんだけどね、で、この第三話で言うと山に囲まれてるところなんだけどそこを探すわけよ。で、まぁ探すべき場所ってのの大体の位置ぐらいは示されてるんだけど、大体このあたりだからあとは自分で探して的な感じなのが多くてね、で、それを探すのにえらい時間がかかったりするわけ。それこそ戦車なんつっても一キロ先とかにある場合、すんげー小さいから余裕で見逃すしさ、いや、それは現実世界でのことを考えればわかるんだけど、ましてや残った敵なんて最悪なのよ。隠れたまま出てこないとか。そういうのを仲間に指示したりしてそれこそそれだけのために大捜索したりするわけ。最後の一人とかの場合、敵は殲滅してるから戦闘は起きないんだよね。その残りのやつを見つけてクリアっていうさ、それが変に見逃すとすげー大変で・・・。戦闘の中で自然にまとめて倒せた場合はいいけど倒せなくてんで一時撤退とかした場合、そのまま放置になったりするんだよね、で、忘れちゃったり。そういうのが残ってたりするんだけどさ、それを捜索するわけよ。


で、山の上に上って双眼鏡で360度見渡すんだけどさ、これってゲーム的に言えば糞な作業なんだよね。そんなもんどこにいるかっていうインジケーターみたいなのが表示されればいいじゃん!ってことになるんだけどArma2の場合、リアリティがあるんで山を上ったり下ったりして、んで上から双眼鏡を見たりして、んでその場の音を聴いたりとか、つまりはそれ自体が純粋な「経験」になってるんだよね。ゲーム内の作業ではなくて自分で自主的に探すしかないから山の上から見渡すのが一番いいだろうっつって見渡すんだよね。山の上に上って見渡すべし!なんていう指令はなくて自主的にそれはやることになっちゃったんだよね。で、あまりにも見つからないからっつーか基地に色々武器があって、んで赤外線のスコープがついてるアンチマテリアルのスナイパーライフルがあってさ、なんだ!これがあったのか!っつって捜索用にそれを武器にして、んでまた山の上に上ってスコープを覗きながらね、ようは赤外線なんで人とか車とか動物とかの場合、白く見えるわけねってよく空爆の映像とかであるじゃん?ああいうやつね。


で、まぁそれで見つけ出してようやく片づけたんだけど、この一連のね、ミッション自体よりも捜索のほうに時間がかかって午後の大半をこれで過ごしたんだよね。そんぐらいマップが広くてどうしようもないわけ。でもこれが無駄か?っていうとまぁゲームは全部無駄だけど経験として見たときに凄く楽しかったわけよ。捜索してて見つけた!っつってやっと倒した・・・っつー達成感とかさ、それってゲームだろうが現実だろうがそれ自体を感じてたらもうそれはそれ自体なんだよね。ようは主体がそれをどういう風に感じているか?ってことなわけよ。で、今の俺のマインドセットで言うとあれも俺の現実だから午後は仮想空間で山で残りの敵の捜索をしてましたってことになるんだよね。自分が臨場感を感じていればいるほどそれがあたかも現実のように感じられるぐらい没入するわけじゃん?ゲームってこの没入度だよね。映画もそうじゃん?だから暗くして見るんだよね。周りの家具だのなんだのってのが見えないようにさ、まぁ映画館は言わずもがなだけど、家にしたって没入するために部屋を暗くするわけじゃん?それは現実ではないただの映画だから没入するなんてことはナンセンスだなんて言えないじゃん?そんなもん映画の否定でしょう。ようはその時間の強度を求めるために良いオーディオだの3D音響システムだのっていうそういうのに凝るわけでしょ?ってことはこれってもう知覚に依存してるってことだよね。


一回でも葉っぱやれば分かるけどいかに音楽ってのが音楽そのものなのか?ってのがわかるんだよね。ようは音の解像度みたいなのはこっちの知覚がエンハンスされれば1万しないヘッドフォンでも聞いたこともないミラクルサウンドに大変化!なわけだよね。スクエアプッシャーとかエイフェックスツインとかさ、あとはサイケロックとかもそうだけど、あーこういうときの感じで音を作ってるんだなぁーって思うわけだよね。リミックスってこうやるのか!って気が付いたりなんかして(笑)脳内リミックスですよね。直でのリミックス。つまり現実もまたリミックスが可能だってことだよね。そりゃそうだ。LSDでもやれば現実が現実じゃなくなるわけだ。でも経験から言えばぐちゃぐちゃになっている現実もまた知覚されているわけで、だからこそそれが経験であるからこそ人はそれが怖くなるんだよね。俺もトリップ系のは絶対やりたくない!って思うのはその臨場感が怖いからなんだよね。まぁドラッグ系って知識があればケミカル系なんてどれも手を出そうと思わないわけだけど、まぁその知覚のエンハンスメントなんつーのは昔のヒッピー思想とかのさ、違い世界を見ろ!っていうそれそのものだよね。


でも日本人はマジメな子が多すぎてドラッグカルチャーなんて根づかなかったわけだよね。まぁ戦後のヒロポンの話とかは別にしても。元々ハレとケのバランスを神がかり的にとっていた日本っていう素晴らしい文化を持った国がね、なぜかそういうのを捨てちゃったわけよ。おかげであるのは永遠の素面の地獄っていう。それがいい人はいいけど嫌な人はどうするんだ?って居場所がなくなるよね。で、まぁそういうドラッグ系の話は言うまでもないんだけど、別に素面の延長上でもようは臨場感とか自分がそれに臨場感を感じるか?っていうようは問題はそこだけだからさ、ようはすんげー小説とかを読む人とかだって読んでる時間は違う世界に行ってるわけじゃん?俺はあんまり小説を読まないから分からないけど絶対そうだよね。いや、音楽だってようは経験じゃん?何回も言うようだけどクラブカルチャーってのはそういう経験をシェアする場なんだよね。いわば日常生活の中での超越的な経験というかなんというか。そのモードでバランスを取っていたから昔はいろいろあってもやっていけたっつー面はあるよね。でも今は永遠に素面だからね。


で、まぁトリップしなくてもさ、まぁトリップっつーか旅って意味でのトリップだよね。この揺るぎない今日の俺の午後の経験ね。やたら時間がかかるからやたら捜索した感というのが残ってる。それをやってるときにまぁ「これって本当に仮想世界での経験そのものだよなー」なんて思いながらやってたら余計に楽しくなっちゃってさ、探すっていうこと自体の楽しさってのが見えてくるんだよね。これってもうまさしくハイデガー的な現前性じゃない?まさにいまここにある経験だよね。その体験というかそれ自体が言わば存在というものに直に関わるものなんですよっていう。だからArma2で捜索をしていた俺ってのは紛れもない俺なんだよね。ゲームをしている俺ではなくて自分の中の経験としては明らかに捜索をしていた俺なんだよね。もちろんそれを誰かに説明してもそりゃ駄目だよね。ゲームしてましたって言うしかない。でも俺としては別の世界での経験をしてましたってことになるわけよね。だから別にこの確固たる経験上の強度においては別に他人と感覚がシェアできなくてもまったく問題ないわけだ。主観上で経験だって感じている自分がいるならそれは経験なわけで。そこでさ、「所詮はゲームだからなー」って前の俺は言ってたと思うけどさ、これがまぁ今回何回も書いてることだけど、それで言うと現実もまたゲームじゃん?別に現実だからといってそこに優位性があるわけでもなんでもなくて、ただ衣食住っていう重要な要素が規定される場所だからみんなが無批判にそれを最優先にしているだけで、実際はランクなんてないんだよね。でもそれはそうしなさいっつーかそういうもんなんですって言われてくるじゃん?あと経験なら何でも経験なんだなんていう人があんまりいないってのもあるかもね。でも芸術とか文学とかが好きでっつーか感性が鋭い人なんかは感覚でそれを分かってたりするよね。そういう違うものを経験させてくれるものが芸術であったり文学であったりするわけじゃん?ニーチェ的な強度ですよね。


でもそれってやっぱり感受性が強い人じゃないと持てない感覚でなかなか一般化しづらいっつーか分からない人には永遠に分からない感覚だよね。でもさ、そこで俺のArma2の話をするとさ、あれは戦場シミュレーターだって言われてるけどまぁ力学系とかね、光の加減とか自然とかまぁどこまで再現されてるかは分からないけどようはシミュレーターなわけじゃん?で、使われている力学のルールとかは現実と同じものを使ってるわけで、だからこの現実を生きる人間である俺がArma2の世界に臨場感を感じても不思議ではないんだよね。別にゲーム好きじゃなくてもArma2みたいなグラフィックの表現力はモノによっちゃーまるで実写みたいな感じなわけでさ、そのリアルさってのを経験できるわけよね。だからたとえば撃たれたりして「Medic!」とか叫びながら戦場で取り残されて出血死するとかね、ドラマティックな死じゃなくて戦場のまさに犬死的なあっけない死ってのがたまたま当たった銃弾なんかで急に訪れたりするんだよね。


ようは死のシミュレーターになってるってことなんだよね。万事快調でミッションもほぼ成功に思われてたのになぜか俺だけ流れ弾に当たって即死とかArma2の世界ではアタリマエにあることなわけだ。まぁそりゃArma2の世界であることじゃなくて現実の戦場であるってことだよね。たまたまた生き残りの敵兵がいてたまたま俺が狙われて死んだとかそんなことよくある話だろうから。なんかだから死の惨さみたいなのも凄く臨場感があるんだよね。普通のFPSみたいにドラマチックじゃないからなんか凄く即物的な死があるんだよね。「パパパン!」「オオウ!」っつって死亡みたいな。これがすんげーシビアだから難易度を下げないとなかなか進めないんだよね。難易度下げても銃弾ですぐ死ぬことには変わりないから死ぬときは死ぬ。今まで上手くいってたとかヘルスが余ってるとかFirst Aidを多めに持ってるとか全然関係ないわけ。とにかく「ピューン・・・ピューン・・・コピューン!」みたいな感じで匍匐してても「あー頭に当たったんだなー」っつって即死するわけよ。そりゃ数撃たれたら終わりだわな。確率論的に物理世界ってのはそういうもんでしょ。そういうのに抗ってるのが大半のFPSだったりランボー系の戦争映画だったりするんだよね。まぁFPSFPSでいいんだけどArma2のすぐ死ぬ感じは良いすぐ死ぬ感じなんだよね。理不尽というよりかは現実の理不尽さそのものみたいな感じなのね。まぁほかのFPSでも難易度ハードなら大抵即死なんだけど。


ハードモードってようはそういう臨場感だよね。実際はすぐ死ぬからそれを再現!っつーとほとんど無理ゲーみたいになるっていう。あ、んで話を戻すとさ、Arma2での嫌な経験ってそのままなのよ。撃たれたのに誰も助けに来ないでそのまま死ぬとかあんなのが現実だったら過酷だな!って当たり前なんだけどそこがやけにArma2のリアルなところで死ぬときは一瞬で死ぬっつーよりかはもがいて仲間も一緒にもがきながら死ぬとかそんなのもよくあるんだよね。で、もがいてる最中に横で敵の戦車が通るとか現実で考えたらもう気が狂うレベルのことが起こるわけだ。まぁ俺は没入しやすい人なんでもうたまらなく怖い経験なわけよ。今は慣れたけどね(笑)でもやり始めの頃はほかのFPSにないようなシビアなところでこういう経験をして妙な生々しさを感じてたわけだよね。で、まぁ今日の生々しさは良い生々しさだよね。あたかも自分が山登りしてたかのようなさ、でも実際にそこの音は再現された音であれ鳥の声とか風の音を聞いてたわけだし、そんなもんはもはやディティールの問題なんじゃないか?って思えてきたんだよね。ようはシミュレーターの精度がめちゃめちゃ上がってもう箱庭的にそこで独立した力学系が勝手に自然の流れを作ってますみたいな世界ができたらさ、実際に現実と同じように雨が降ったりその影響で土砂災害が出たりだとかなんだとかっつーのが起こるわけじゃん?全部仮にまったく劣化がなくシミュレートできてたら音とかも同じなわけでそこに違いなんてないでしょう。それでもまぁ俺は現実のアウラを否定するつもりはないどころかバリバリのアウラ派なわけだが、でもそれはむしろ知覚によって得るものだっていう風に最近は思ってるんだよね。ようはアウラってことを言いすぎると原理主義的になりかねないわけだ。やはりコピーではそこは違うんだ的なことしか言えない。でも精度が同じならコピーも何もないだろうっていう。


で、Arma2のサウンドスケープもそりゃ現実のと比べたら劣るんだろうけどそこを自分が山に行ったりなんかしたときの記憶と合成して自然に補正をしてると思うんだよね。だからシミュレーション上のものに臨場感を感じるようになるっていう。類似のものを自分の精度に補正する的なことって人間の諸機能でいろいろあるじゃん?だから仮に補正されててあたかも自然の中にいるような感覚になったらもうそりゃすげー経験なんだよ。家の中でパソコンに向かってるだけなのにこの経験なんて一昔前じゃありえないことだったでしょ?今はあんぐらいのソフトが普通に買えて重いけどまぁまぁ動くんだもんね。スカイリムをやっててやたら気持ちいいのもそれじゃん?やたら自然の描写が綺麗なんで歩き回ってるだけで楽しいわけじゃん?去年の俺はこれに救われてたんだよ。この「経験そのもの」の偉大さに気が付いたわけだ。なんでその確固たる経験があるのに「所詮はゲームの世界でのことだ」なんて思わなきゃいけないのか?むしろこれは逆じゃない?ってことなんだよね。ノモスをパラハッテインしちゃって「所詮は現実世界でのことだ」でも経験上別にそんなもん主体の考え方次第でしょ?ってことになったわけだよね。もちろんそれによって現実世界のことがどうでもよくなるんじゃなくてそういう認識のアプローチで現実世界の知覚の作法を変えるってことだよね。


それがmetarunaさんに類似点を指摘してもらったユクスキュルという人の環世界っていう話につながるわけだ。まぁ俺は俺自体で考えるけどユクスキュルのこの概念との類似点は驚くべきものだったよね。やっぱ所詮は人間が考えることだから昔の人が思いついてるだろうってことなんだけど、まぁここまで鮮やかだと凄いよね。しかもユクスキュルは生物学者で動物の観察なんかによって得た概念なんだよね。でも科学的に言うと機械論的な帰結になりがちだけど、そこをユクスキュルは哲学者として思索して環世界という概念にたどり着いたわけだ。それそのもので科学だといって即物的にばかり考えていては創造性が限られてしまうというのはヘルマンワイルも言ってたことだよね。そこは数学者としては凄くチャレンジなことだけど哲学的に考えてみるというのはむしろファンダメンタルなことなんだっていうさ、まぁ俺に言わせれば哲学的な感覚とか視野がない数学なんてただのドライな計算の科学で何の面白味もないんだよね。ようは学校で無理やりやらされるような数学ってのがこれなのよ。実際は数学者の思想的な部分って数学自体に内在されてるのにいったんそれを解剖してんでまた切り分けて分かりやすく並べなおすってことで数学自体のダイナミズムが無くなっちゃうんだよね。まぁこれは教科書的なもの全般に言える問題ではあるんだけど。


あ、まぁその話はいいか。いやさ、数学にしてもさ、実在しなくても現実世界にモロに影響を与えているものだってことならそれはもう機能としての数学の実在というのは認めざるを得ないよね。マクレーンが言う「機能としての数学」ってのはこういう面もあるよね。絶対。だからむしろ物理数学に言及しないなんてことがありえなくなるわけだよね。まぁどこまでが俺の解釈なのか分からんけどなんか哲学とかだとそういうのはどうでもいいんだけど数学だとなんか「これがマクレーンが言ってた機能としての数学みたいなことなんです」ってサラッと言えないのはやっぱりまだ引け目があるんだろうな。数学に関しては初心者だっつー感覚がまだあるんだよね。まぁその話はいいか。いや、機能っていろんな意味があるけど単純な作用として考えればバーチャルな世界が実在しているのは間違いない事実だよねっつーのは多くの人がそれにアクセスしていてあたかもそれが実在のもののようにお金が行きかってたりコミュニケーションがあったりあとはネットで知り合って結婚とかそんなのもあるわけで、もはやこれはバーチャルでもなんでもないだろうってことなんだよね。余裕で現実に存在する要素の一つなのにも関わらず相変わらず古い観点でネット的なものと現実のものを分けたがるんだよね。でももうこれらは相関関係の中にあるわけで二項対立として考えること自体が間違いだよね。だってもう使いようじゃん?ネットは便所の落書きをするような場所なのか?ってでもまぁアマゾンってまぁようはネット通販じゃん?ネットで買ってもそりゃ実体は届きますよ。そりゃアマゾンっつー本当の会社があって倉庫とかもあってちゃんとした商品が届くようになってるからだよね。ようはそれはただの注文の伝達の行き来だけじゃん?昔は電話でやってたことを今はネットですぐできるってことなわけで実際はバーチャルでもなんでもないわけだ。いや、誰もアマゾンをバーチャルだなんて言わないでしょう。いや、それと同じで人とのやり取りだって別にバーチャルコミュニケーションでもなんでもないでしょ。別に一つの方法としてメールとかツイッターっつーやり方があってその背後には人間がいるわけだ。いや、人間がいるからこそ情報が発信されるわけでしょ?その情報が行きかう場所の一つにネットっつー場所ができたってことなだけだよね。ぜんっぜんバーチャルじゃない(笑)


背後に人間がいるからそれはユーザー次第なわけでネットそのものをバーチャルだって言うことなんて馬鹿げてるってことだよね。それはそいつのネットの考え方とかとらえ方じゃん?今の俺にとってはネットが現実だからね。ましてや地上波のニュースなんて信用できないからネットのほうがリテラシーがあればちゃんとした情報が手に入るわけで。だからまぁ本人次第ってことなんだよね。あとさ、色々と人と接して来たり見て思ったんだけどさ、そうは言っても社会に出る必要があるだなんつってさ、社会人どうのとかって言う人たちがいるけどさ、社会人として勤めてきた人とか定年を迎えてきた人とかまぁ個人的なことだからね、どういう場でどういう関わり合いがあったか?なんて言い出したら個人情報になっちゃうからあくまで俺が接してきた人たちっていう枠組みで言うとね、いや、社会人だからちゃんと社会のルールが守れてるとか人間的にやっぱり社会に出てるからちゃんとしてるとかそんなの全然関係ないってことなんだよね。むしろ見かけとか見せ方とか振る舞い上で優位に立つための行動に終始してるような俺に言わせればエゴの塊の屑みたいなやつらが多いわけで「社会人」なんて言われるともうなんかイコールバカって構図ができてるぐらいなぜか俺の経験上ではそうなんだよね。社会でやっていくのは簡単じゃないから自己保身に終始するような振る舞いを身につけないと社会に出たときに大変だぞ!っていう旧人類的な老婆心で言ってるならもうそんなもんは今の若い人たちにとっては大きなお世話なんですよってことだよね。そんなもんがいかに虚構で糞の役にも立たないどころかむしろ生きづらい社会を作り出してきたのか?ってもうわかってる人は相当いるわけよ。ネットのおかげだと思ってるんだけど。


だからまぁさ、これを読んでる人でもいいんだけど親でも周りのやつらでも必ずそういうことを言うやつがいるけど有用なものはともかくとして糞みたいなことばっかしか言ってないなと思ってたらスルーしたほうがいいですよってことなのね。もう俺的に言えば「彼らが間違ってます。その結果が今の社会です」ってもう数学の証明並に確固たるものとして言い切れるね。俺の認識のほうがよっぽど社会的に有用でなおかつ困った古い世代のやつらを殲滅できるものなわけよ。で、それは武器とか場所とかいらなくて考え方だもんね。そういうやつらがいても確固たる「とりあえずあいつらは古い世界観で間違ってる」っていう確信があれば揺るがないからね。なんかそういうことばっか言われたらウォール伝でも読んで正気を取り戻してもらうしかないね(笑)本当にそういうやつらのほうが狂ってるからね。でも世間的にはそういう風に言われない。そういうやつを一休は風狂と呼んでたわけだ。まぁ元は禅宗の言葉なんだけど一休の風狂の言葉に関しては独自の解釈があってさ、まぁようはさっき書いたノモスをパラハッテインだよね。ディオゲネスもそういう意味で風狂なわけだ。ディオゲネスも一休が言っていることもそれだけ見るととんでもないことばかり言ってるように見えるけどよく色々と考えてみてもっとファンダメンタルにラディカルにルーツを考えてみると全然おかしなことを言ってないんだよね。


むしろそこで浮かび上がってくるのはノモスが勝手な自己生成をしてそれが人間を支配するようになったっていう結果的に人間とはかけ離れたルールばかりが横行する社会ってことだよね。人間が主体でその上でルールがあって社会があるのにそれが逆なんだもんね。だから俺はそれを元に戻せって言ってるだけなんだよね。全然狂ってないよね。まぁただしつこいようだけどノモスがすべてを支配するみたいな人間疎外を生む構造って昔から変わってないからだからまぁそれ自体を変えるんじゃなくて自分が作るってことだよね。それがまぁ今回書いてることだわ。で、今から実践できるから実用性があるよね。まぁそりゃそうだ。俺が現実の中でもがき苦しみながら考えてることなんだから実用性がないわけない。そこはアームチェアーフィロソフィーじゃないわけで。まぁでも結果まぁあれだよね、孤立はするだろうね。少なくとも親とかは説得できないだろう。まぁだからそれももう棲み分けで違うリアルを生きているって割り切るしかないんだよね。学校の先生とか上司とか同僚とかまぁその辺のレベルで言えば絶望的に変わらないレベルだからわかってもらおうなんて思わないように。


いや、俺の話って突き詰めるといろんな産業を潰しかねない話なんだよね。やたらアウラにこだわってそこに付加価値をつけて商品にしたりしてそれを産業にしてるっていうどうしようもないものが多いわけだ。で、俺に言わせればそういう産業のほうがむしろバーチャル化してるんだよね。ありもしない価値があたかもあるように見せかけて売るっていうさ、でも経験っつープレゼンスから見ればそれは売る側とか提供する側が決めるものじゃなくて経験した側が感じるものだよね。で、その強度ってのは純粋経験的に判断するっつーよりかはもう経験そのものとして知覚されるわけなんだよね。理性とか分析的な思考とかが介在しないからこそ経験的なことってのは強いわけだ。そのぐらい言わば実在性があるわけだよね。で、どれもこれも過去の事になるからどのみち概念化されるんで結果的にどれもこれも夢なわけで何がバーチャルの世界の話で何が現実の話で・・・なんてのがどうでも良くなるわけだ。最初に書いた大森荘蔵の話で言えばこうなるけど、まぁ俺的に言えばこれは無分別智ってことになるんだよね。言葉だけで言うと語弊ばかりが目立つけどそういう認識に至った人だとむしろ当たり前のことになってるっていう。そこがなかなか言葉で表しづらくて困ってたっていう部分なんだけどさすが毎日色々と考えてるだけあって色々と説明の方法が出てきてるよね。


あ、んで俺は何でもバーチャルっつーかさ、何もかもが夢なんだから・・・っていうね、ディオゲネスとかって出してくるとなんか厭世的な感じになるけど全然そうではなくて、むしろ性愛みたいなもんについてはアウラしかないと思ってるんだよね。それこそ凄まじく身体的なものをバーチャルなもので代用するとか凄まじく身体的なもので得られる経験がほかでも得られるということにはならないと思ってるのね。それはもうだいぶ先の話でしょうってことなんだよね。セックスとかってようはそれに至るまでのプロセスとかさ、で、この女を犯してるんだ!とかこんな子とヤレるなんて!とかさ、即物的に見ればただの快楽だし子供を産む目的じゃないんだから意味ないんだけど経験の強度で言えば凄まじいと思うんだよね。経験したことないからなんとも言えないけどさ(笑)そこは酸っぱいブドウじゃダメなんだよね。経験したうえでセックスもそんなに面白くないっていうならいいんだけど、俺って身体にまつわるものに関しては極めてないしあまりコミットしてないからむしろ身体性に関してはそれは極度の疲労とかランナーズハイ的なものも含めて究極的なものだと思ってるからさ、むしろ俺の中の最上にあるものって身体性なのよ。電脳人間になりたいとか言ってるやつが言うような言葉じゃないと思われるかもしれないけどむしろ逆で強度や経験というところで見ると身体性が極度に介在するもののほうがそれはもう自分が人間である限り強くならざるを得ないんだよね。だから俺は本当はすげーかわいい子とセックスしたいって去年ぐらいから思うようになったんだよね。結局、一旦すべてエポケーした上で何が残るか?って自分が人間であるってことなんだよね。で、あとはほかに何もない。だからやることもない。


まぁ実際にやることがないかは別として、俺はなんか自分の存在の構築っつーかそれはアリストテレスみたいになるけどポエーシスとしての経験とか身体性ってのを考えてるんだよね。だからとにかくセックスしないなんて手はないし手ばかりでやっているというのも良くないと思うわけ。あとは変態を極めるとかそれも一つの世界で環世界で考えるとむしろセックスがなきゃダメだろうってことになるんだよね。変態を極めるっつっても田代まさしみたいになったらダメだけどさ、性に貪欲になるってのは俺の中ではヴァーチューの一つなんだよね。そこは仏教とかと全然折り合いがつかないし折り合いなんてどうでもいいんだけど、そういう意味でクンニに行き着いた一休はやっぱり凄いと思うんだよね。そういう意味で仏教の世界観ってのも有用な部分もあるけどやっぱり現実とはバランスが取れないものが多いよね。なんつーか俺は仏教的に貪欲に生きろ!って思うんだよね。どうせ死ぬし何も残らないし何もかもが夢ならかわいい子とセックスしたほうがいいに決まってるし欲しいものは買った方がいいに決まってるわけだ。それに踊らされるんではなくてそれなしじゃ現世で何もやることがないからやりたいことをやりつくせ!ってことになるわけね。だからもう俺はセックスしたくてたまらないんだよね。セックスしてないってだけでもう本当に人生の半分ぐらいを損してると思うんだよね。セックスで何かが変わるとは思わないけど、自分の世界には組み込まなきゃいけない重要な身体性を含んだ経験っていうさ、それはもう必須なんだよね。まぁもっと言えばスポーツとかジムとかに行ってもいいってことにもなるけど、そういう意味で急にあれなのよ、軍隊とかもいいなって思うようになったっつーのはこういう流れからなんだよね。FPSのやり過ぎで狂ったわけではなくて(笑)身体性の重要さだよね。ましてや肉体がアクティブな時期に経験しておいたほうがいいことっていっぱいあるわけだからそういうのを経験しないままおっさんになったらそれこそこないだ書いた仲正昌樹みたいなああいう枯れた感じになるだろうなって思ってて。ああいうのって身体性の無さによる何かしらの欠乏だよね。それが凄く嫌に見えたり気持ち悪く思えてくる。俺は嫌なんだよね。やっぱり。いろいろと趣味があってコミュニケーションもあっていろんな活動があって・・・っていうそういう中じゃないとむしろ哲学なんてできないと思うし、それこそ書斎に籠ってやる哲学なんて哲学研究で哲学ではないだろう。まぁあとは単純に哲学もいいけどスポーツも恋愛も同じぐらい重要ってことなんですよ。今は毎日腕立てやってるけどね。凄いよね。思想って人の生活をこういう風に変えるわけで。


一旦エポケーするとバーチャルも現実もそんなの経験って観点からみると変わりないだろってことにもなるんだけど、見ればわかるようにこういう観点になるとむしろ現実からじゃないと経験できないものってのが凄まじく存在するってことになるわけだ。やっぱりそういう意味で旅行だとかスポーツだとかやっぱり身体が介在するもんだよね。観念的に経験するのではなくて体が経験するようなものに関しては逆に重要性しか見えてこないよね。その最たるものがセックスだと思うのね。これはとにかく間違いないね。だから結果的にオワコンだと思っていた現実とは違う現実が表れてくるんだよね。相変わらず現実はオワコンだけど環世界的に自分の知覚に含めようと思うもので有用なものは現実にいっぱいあるってことなわけだ。んでももちろん「だから現実は素晴らしい!」みたいな、こないだColorfulっつーアニメ映画見たけど悪夢だったね(笑)あれこそ救いがないオワコンの現実の象徴みたいなもんだよね。そうじゃなくて違うパースペクティブで自分が生成する世界の中にある現実の要素だよね。だからまぁそこでセックスなんつっても恋愛なんかに期待するようなナイーブなことはないわけよ。そりゃ絶望から始まってるわけでそういうレベルじゃないじゃん?もう単純なセックスだよね。うわー!こんな子とやってるなんて!!っていうその瞬間の絶頂感!エクスタシーですよね。で、別にその子と上手く付き合っていこうなんつーのはまた全然関係ない話なのね。俺が言いたいのはそのピークポイントとしての絶頂感ね。ドラッグだと容易だけどセックスでの絶頂感ってのはまた違うじゃん?とにかく100人ぐらいとヤッてからまた考えるって感じだよね(笑)これも求道の一つの形であることには違いないわけで。


そんな感じで今日はこの辺で。