就活狂想曲について。

http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20090507#c


のエントリーにこんな書き込みがあったので返信をしてたんだけど色々と書いてたら長くなったからエントリーにするです。

J 2013/03/27 07:53


読んで思ったこと・・・実績がないのに批判するのは言い訳に過ぎないってとこですね。東大、オックスフォード・・・ちょっと貴方と世界がかけ離れている気がする。現実を受け入れないといけないと思いますよ。


「現実を受け入れろ」と言う人は、それを言う人にとって都合が悪い態度をとられているのでそういう言葉を発するんですね。夢を諦めた人が夢を熱く語っている人に「現実を受け入れろ」と言うような言い方をするのは夢を語る人が妬ましいからなんですね。自分が出来なかったことや諦めたことをやろうとしているわけですから僻が生まれるわけですね。言わばルサンチマンです。僕もウォール伝をこんな調子で続けてますから似たようなことは散々言われてきたんですが、「現実を受け入れろ」的なことを言う大半の人が自分の人生に満足していなさそうな感じでした。(現実でもネットでも)そういう言葉を他人に吐くことで自分自身に止めをさすことになってしまうのに気がついてないので凄く哀れだといつも思います。


このエントリーで言うと僕はまだこの頃はアメリカの学校に通っていて、優秀な人が集まる研究所に行こうと思ってたわけですね。で、Jさんはそれを見て「お前はそんなんじゃないから現実を受け入れなさい」って言うわけですよね。これって凄くおかしいと思いませんか?「お前はそんなんじゃないよ」って思う人は「馬鹿のブログだ」と思って文章を読みませんね。こんなものを最後まで読んでコメントするということは何かしらの自分が失ったものや欠けている部分を僕が持っているから、それに対して僻が生まれているんじゃないでしょうか?特に日本はそういう傾向が強いですよね。ここでもいつも批判しているルサンチマンとか村社会的な凄まじくダメな日本の一面です。丸山眞男の「「現実」主義の弊害」からの引用になりますが


(1)日本では現実とは既成事実のことであるとされ、過去に選択された「仕方のない過去」が現実だとされる。現実を自ら創造していこうとする姿勢に欠け、「現実」とは外から与えられる所与のものとされる。


(2)現実の多義性が捨象され、現実の特定の側面だけが強調され「現実を直視せよ」「現実的地盤に立て」と叱咤される。


(3)その際強調される現実とは、その時々の支配権力が選択する方向であり、それに反対・抵抗する考え方は「観念的」「非現実的」とレッテルを貼られる。


ということなんですが、これを個人で考えたときにようは「強調される現実」とは「現実を受け入れろよ」という言葉を発する人にとっての現実なんですよね。で、僕はそういうのに抗って生きていますから「観念的」「非現実的」「夢追い人」とかって言われるわけですね。僕は現実を自分で作っていこうという姿勢を昔から崩していないので、こういった「現実を受け入れる」的なロジックは虫酸が走るぐらいに大嫌いです。


人間は現状に満足をしないというところから活力が生まれるわけですよね。現状を受け入れてしまったらあとは何もすることがありませんね。なので現在の自分がどうであるかというのは僕にとっては全然関係ないことです。「どうなりたいのか?」が問題なんであって「どうであったか?」は全く問題ではないということです。


でも一流のアカデミックな場と僕の世界が違い過ぎるのは確かにそうでしょうね。これを書いた頃は自分はまだ普通にどこかでやっていけると思っていたのでこれに関しては本当に勘違いだったと思いますね。ただ仮に「東大」や「オックスフォード」といったものを知的レベルとするならば大きなお世話ということですね。東大はともかくオックスフォードなどを最高峰として考えたときに今の自分はそういう水準ではないかもしれないが、そういう水準でありたいと思っているということですよね。これが「現実を自ら創造していこうという姿勢」ですね。一流のアカデミシャンにはなれないかもしれないが、一流のアカデミシャン並の知識量や思考力を持つということは別に時間をかければ可能ですよね。学者も色々あって、天才的なインスピレーションによって一流である人もいれば、膨大な知識によって一流である人もいるわけです。この場合、若い人の場合は前者しかありえませんよね。後者は時間をかけなければいけないので、若くして後者になるというのは無理でしょう。だから今の自分には到底無理なのは分かりきっていることです。だからこそやり続けるわけですね。


とまぁここまでが返信ね。


というわけで色々と書こうと思ってたことに関連するような書き込みがちょうどあったんでナイスタイミングなんでエントリーを書くわけだけどさ、就活狂想曲っつーアニメが話題になってるじゃん?



いや、これを見て書こうと思ったことなんだけどね、いや、あとJさんの書き込みなんかも関連するんだけど、Jさんの書き込みって典型的な日本人なんだよね。何かをやりたいとか何かを成したい!みたいな大志に対して凄まじくドライなんだよね。じゃあ今のキミに何が出来ているんだ?って何も出来ていないからやろうとするわけじゃん?でも丸山眞男の引用にもあるように「いまそこにある」現実のみがフォーカスされて、行動や努力や継続といったようなものから得られるかもしれない違う現実という蓋然性に全くフォーカスがいかないんだよね。グラフで言えばずーっと横ばいだから今後もそれがずーっと続くでしょうって先を予想するようなもんだ。それは今までのグラフの動きしか見てないわけじゃん?そこには生きる主体が介在しているわけだから変化は起こせるでしょう。まぁそれは主体次第なんだが、別にやろうと思っているということに対して口を挟む必要はないよね。それをなんで執拗に口を挟んでくるのか?っていうとやっぱりそれはルサンチマンとか不幸な自分とか失った自分にあるとしか思えないんだよね。


ようはそれが気に入らないから口を出すわけで、気に入らない対象が夢だったり邁進していくっていう前向きさだとか自分には無いものとか諦めたものをやり続けているっていう姿がまぶし過ぎて自分が惨めになるんだよね。だからあえて言うんだよね。言う対象が俺個人なんではなくて「夢」とか「前向きさ」なんだよね。Jさんへの返信にも書いたように本当に「お前には無理だよ」って思っている人はまず言わないわけよ。心で思って笑って後は無視でしょう。環世界的に言ってもまさしくそうだよね。そんなもん馬鹿げたものなわけだから。でもあえて何かを言いたくなるってことはやっぱりそれは自分自身の投影なんだよね。諦めた自分やあんまりハッピーではない自分への慰めの言葉として正反対の人間に対して「無理だよ」と言うんだと思う。別にこれは日本に限らずドリームキラー全般に言えることだけどね。面白いことにこの構造が凄く一貫してるんだよね。これは何なのか?って思ったときにやっぱり俺は自我としか思えないんだよなぁー。いや、ようは「夢を追えない自分」とか「現実を受け入れて立ち止まってしまった自分」とかそういうところから発生してるからだから別に人種とか国に関わらず似たようなことが起こるんだと思うんだよね。ようは僻の構造は多かれ少なかれ普遍性があるってことだよね。


そうじゃないとあえて口を挟む必然性が全く見えてこないんだよね。わざわざ書くって凄いことだと思うんだよ。全部読んでるわけだし、その上でわざわざコメントするって普段熱心に読んでる人でも滅多にやらないことでしょ?(笑)それを通りすがりがやるというのはやはりその文章によって自尊心を傷つけられたとしか言いようが無いと思うんだよね。だから言葉を残したくなっちゃうわけだ。それが自分への慰みになるからね。最高に寂しいことだと思うんだけど。自分へのぼやきだからね。俺に対してではないんだよね。しつこいようだけど俺に対してだったら普通は無視するはずだから。いや、すんげーブサメンでデブな自称ネットアイドルが「AKBみたいになりたいです!」ってブログで文章書いてたって読んだやつは何も書かないじゃん?「現実を受け入れた方がいいと思いますよ」なんてわざわざ書かないでしょう。だってそれは分かりきっていることなぐらい読み手にとっては自明なことなわけだからあえて書くことでもないはずだよね。


いや、んでスピノザの話に繋げるとさ、コナトゥスって概念があるんだけど、まぁこれはようは精進ってことですよね。より高みを目指そうとするみたいなことか。


http://ja.wikipedia.org/wiki/コナトゥス


まぁ別にスピノザ用語ではないんだけどさ、ようはこれって幸福の追求といってもいいぐらいなんだよね。何を良くするのか?ってのは人次第だけども、基本的にこのコナトゥスが現実に対する作用因になって現実が作り出されるって感じだよね。受動的だと「現実を受け入れろ」的な感じでさ、そもそも作り出すという発想が無いので、「今の自分はこうだし今までもこうだった」というところから先まで決めちゃうんだよね。でもそれって「これじゃ嫌だな」とかって思った時点で変わっていくはずじゃん?いや、嫌だったらそれって回避するべきものになるからさ、だから変えようとしたり自分が見たい現実とか、自分がなりたい自分になるんだよね。それ自体がようはスピノザで言うところのパワーなのよ。活動力だね。で、これが人間があるべき姿だとして、これが倫理になってるわけだ。で、世の中は倫理的なほうが良いに決まってるから、個々がこの倫理に従ってより良い現実を作っていったり活動力を増大させたりするんだよね。


そこがやっぱり能動性だと思うんだよ。フーコーはこれを生政治の中のアクションだって言ってるよね。これがようは例の就活狂想曲に繋がるんだよね。場に身を任せていると主体性なんて無くなるようなロボット化を強いられるわけじゃん?スピノザが「自動機械」って言うようなロボットですよね。まずそれに対してどう思うか?だよね。まぁどうとも思わずに流れに身を任せてやっている人も多いんだろうけど、仮におかしいとかやりたくないって思ってたらそのわき上がってきた感情を現実にぶつけないとダメだよね。ロボットになりたいのか?ってなりたくないならロボットにならないような生活ってのを考えるしか無いじゃん?まぁそりゃ自分の人生なんだから自分がやりたいようにやるのが一番なのは明白だわな。そこからまぁ主体性の奪還っつーのかな?


「こんなのは嫌だ!」って思う気持ちが作用因としてのコナトゥスを生むわけよ。環境に作用されて自動的に動いていた自分が逆に環境に対して自分がやりたいようにやるために作用するってことだよね。ロボットになったほうが楽だからいいや・・・と思っててもようはそれって地獄より地獄なんだよね。それで病んでいる人がいっぱいいるわけで、まずそれは選択肢から除外しないとダメだよね。でもそうなるとまぁレールに乗れるような道は無くなるから自分でなんとかしていくしかないけど、それをなんとかしていこうとするのがようは生きるってことなんじゃないの?って思うんだよね。で、そのなんとかしようとすることによってだんだんと自分にとっての現実が変わっていったり自分自身が変わっていくっていうそれを実感するのが喜びだし幸福なのよ。


俺で言えばさっきの話で言うと一流になるとか正直今ではどうでもいいんだけど、ただやっぱりなんつーか色々やる上での知識の基盤ってあるじゃん?それはやっぱり絶対持っておきたいんだよね。だから色々と読むわけだ。で、結果どうなるか分からないけど、まぁそんなもんむしろ「どうなるか」なんてのは自分に託されてるわけじゃん?自分がやれる範囲でやれそうなことをやっていって自分の現実を構築していくんだよね。この能動性なんだよ。ニーチェで言えばそのまま力へ意志ってことだし、禅で言えば三昧とか禅定ってことだよね。


そのリアリティの構築ということに邁進して雑念が無いという状態だよね。そのぐらい必死になれると自ずとその人はそのプロセスの中で幸福感を得られてるはずなんだよね。そもそも幸福感なんてのは刹那的なものじゃん?明日朝起きたらすげー気分が悪いかもしれないし、そりゃ感情なわけで常に変わるわけじゃん?だから幸福を目指すんじゃなくて、幸福を長く感じられるような状態に自分の身と精神を置くってことだよね。瞑想って気持ちいいから仏教とかの場合、まぁ瞑想してるのが一番ってことになるんだけど、現実的に言えば何かにハマっているという状態に身を置くってことだよね。英語だとFlowなんて言うけども。で、その状態自体を自分の現実の構築っていう生成の中で感じられればある意味、現実の構築は毎日やるわけだから毎日幸せってことになるよね。まぁそんな簡単なものじゃないけど、少なくとも能動的に生きていればその能動性から幸福ってのは生まれてくるもんなんだよね。


逆に受動的に生きてたら常にニヒリズムと隣り合わせだし、なんで生きてるのか分からないような精神的ゾンビ状態が永遠と続くわけで、そんな生活続けてたら脳もやられるし、何かをやろうと思っても脳がダメになってもうどうしようもないとか受動的な生活に慣れちゃって何もできなくなってるとかさ、そんなことにもなりかねないよね。こういうゾンビ状態なんてのは人工的にゾンビを作るのが非倫理的なように言うまでもなく非倫理的だよね。自分の人権の侵害っつーか自分の虐待じゃん?まぁでもあれよ、何か目標があってそれのために手段として一時的にロボットになるとか、就活をするとかそれならいいんだよ。でも何も無くて右にならえで就活ってそりゃないでしょっていう。自分で不幸になる道を選んでるようなもんだよね。そんな状況をなんで放っておくのかさっぱり分からないんだけど。


まぁでもそんなオワコンの現実が大好きな人たちは「現実を見たらキミは就職活動するしかないでしょう」っていうことになって創造の道ではなくて受動の道を選ばせるんだよね。あとは「俺もこうやって自分を殺してきたんだから」っていうまぁ俺もゾンビになったんだからお前もゾンビになれよっていう自分が救われないからみんなをゾンビにしようとするっていうまぁ地縛霊みたいなメンタリティですよね。自分はこうやって自分を殺してきて糞みたいな生活を送っているから君たちにはそんな生活を送ってほしくないっていう風になんでならないのかね?そこで「お前もゾンビになれ!」ということになるのか。なんかやっぱりこういうところには日本特有のメンタリティがあるよね。基本的に日本の原理ってそれだもんね。脚の引っ張り合いとか出る杭を打つということとか異質なものを排除しようとするとかみんなと同じということを良しとするような価値観とか、基本的にこういう日本の原理が「ゾンビになれ」っていうようなメンタリティを生み出してると思うんだよね。だからこんなやつらにとっては「自分にはやりたいことがあるんです!」なんて言うやつらは邪魔でしょうがないわけだ。


だからこういう夢を語るやつとか何かに邁進している人の邪魔をしたりするんだよね。とにっかく腐りきってるんですよ。惨めな自分と他も同じじゃないと現在の惨めな自分の正当化ができないからそれをやらないやつが凄く憎くなるんだよね。だから「頑張れ!」じゃなくて「失敗しろ!」って思うんでしょ。


オワコンシリーズでも散々書いてきたように現実ってのは与えられるもんじゃなくて作っていくもんなんだよね。それは自己啓発的な意味合いではなくて当たり前に現実を見るということは主観でしかありえないから何を見ていくのか?とか何が見たいのか?っていうのを自分でやっていくしかないじゃん?まぁ大抵の人はそれをやらないで文句ばっか言ってるんだけどね。そういう意味で俺は永遠に悪あがきをしているとも言えるよね(笑)でもそんなのも続ければそれが現実なわけだ。悪あがきも何もそれ自体が俺の生になるわけだ。あとまぁさっきも書いた知識という意味ではそれこそ日々の積み重ねだから出来ないわけがないし、そもそももう何年もやってきてるからあとは続けるだけじゃん?プロ野球選手になる!なら無理だろうけど一流並の知識や思考力を身につける!ってそんなもん努力次第じゃないですか?まぁこの一流って言葉に語弊があるし、別にアカデミシャンになるわけじゃないし、そもそも俺は学者肌でもなければアカデミックの世界なんて絶対無理だと思うからそれは絶対無理としてもまぁ尺度としての知的水準とかって意味での世界でもトップレベルぐらいのものを基準としてそれを目指し続けるってそれはいいじゃんね?そういう意味で東大ってのは問題外なんだよな。トップでもなんでもないから(笑)東大レベルなんて逆に目指しちゃダメだよ。マジで。


こういうことを言うと実績が無いからただの言い訳になるってことになるんだろうけど、でも東大のレベルの低さは見るからに明らかじゃん?いや、ハーバードとかMITとかオックスフォードでもプリンストンでもなんでもいいんだけど、ようは世界のトップレベルの最高学府みたいなのと比べたときに見劣りするのは当たり前でしょ?それは俺の実績とか関係ないよね。キムタクとブラット・ピットを比較してもしょうがないでしょということですよ。単純に。本だってメインストリームのは全部海外のやつじゃん?まぁ俺の本棚で言えば「高学歴」ですよね(笑)ケンブリッジ、MIT、ハーバード、イェール、プリンストンシカゴ大学・・・みたいな感じだから。まぁそういう意味で良い本ってまぁ大抵出すところが決まってるよね。だから同じような出版社の本が増えるっていうただそれだけのことです。だからまぁそういう最高学府みたいなところにいる変な研究者達に会ってみたいな!っていうのは別にそりゃ憧れとしてある分には全然かまわないじゃないですか?そういう意味で憧れてるわけよ。


別に俺がオックスフォードの研究所で研究員になるとかってことじゃないのよ。それは研究員になれるような素質を持ち合わせていないという意味でね。ただそういうレベルの人間と喋れるぐらいになりたいってことを俺は言ってるわけで、そんなもんは時間をかければ可能なんだよ。その時間をかけられるか?ってことじゃん?で、俺は幸いなことにかけられるような状況にいるので、可能な限りそれをやり続けますってことだよね。これはようは俺にとっての現実を作るってことなわけで、言わば生成なわけだ。自分の幸福や快楽のためにやるんだよね。別に最高レベルの人間と喋れるようになるためにやってるわけじゃないわけで。


これって大きいことを言っているようで実は何も言ってないでしょ?(笑)結局は自分の快楽と幸福のためなのよ。俺がスピノザの思想に急にハマりだしたのはこのdown on the earthな感じなんだよね。超実践的でめちゃめちゃ小さいことを大きい枠組みで語ってるわけだよね。結局、フレームワークが大きいので社会とか政治の話もそれでできちゃうんだよね。でも基本はまず人間としてどうあるべきか?とかどう生きるべきか?っていう哲学の根本問題っつーか必ず問題になることだよね。それがコアにあるんだよね。で、スピノザ的に言うと今の日本の就活なんてのは最高に非倫理的ってことになるでしょ?ってことなんだよね。活動力という名の人間が生きる上で絶対必要なパワーを生み出すってことと正反対のことをやってるわけじゃん個々の活動力というパワーが良い社会を作る原動力なんだとすれば、そのパワーを失わせるようなものってのは基本的に反社会的ってことになるよね。非倫理的なものは基本的に反社会的だよね。それと同じことです。で、本人たちは不幸になるためにやってるようなもんで、しかも全然主体性が無い。受験からのそのままの流れみたいな感じでやってるわけじゃん?


まぁそれはそんなのをやらせる環境が悪いのかやるやつが悪いのかって話になるけどまぁ両方ですよね。で、まぁ昔で言えばロボットになることで生活は保障されたわけじゃん?家族と生活のために滅私奉公ならまだ分かる。自分の人生よりもそっちを選んだんですねっていうよりかは幸福をそちらにお求めになったんですねっていうある程度の主体性が見える。でも今なんていつクビ切られてもおかしくないし、散々自分を殺してやりたくもないことを永遠とやらされる割に全然金はもらえないし給料が増える見込みも無いっていう、言わばなんのメリットも無いなかでなんであえてそんなロボットの道を選ぶのか?って話だよね。お金が必要だから・・・っつってもわざわざ生活費と家賃が高いところに住んでその生活を維持するためにロボット化するっておかしいでしょ?まぁそれで貯金できるぐらいもらえてればまだいいけど生活だけで大変で自分の時間もない・・・なんてそんなのやっちゃダメですよ。


それでも現実を受け入れろ!ってことになりますかね?むしろこういう現実があるからこそそんなんじゃダメだから自分の現実を作っていこう!っていうことになるでしょう?普通は?ならないの?だからまぁ俺みたいにドンキホーテみたいに見えても自分の現実を作り出す!ってことに目覚めた人間は端から見たらロバに乗って騎士気取りでかっこわるいかもしれないけど本人はすげー幸せなんですよ。っつっても超幸せなわけじゃなくて主体性がある能動的な生活を送れているっていうことから来る満足感ですよね。それは俺にとっては学問をやることでしか得られないからだからそれにハマるわけよ。そういう世界だからオックスフォードとか最高学府がどうとか関係ないわけね。まぁここまで読んだらそれがいかに関係ないことであるか?ってのが分かったと思うけど。まぁあと今の自分はこうなったってことでもあるよね。あのコメントがついたエントリー自体がもう驚いたことに4年前のものになるわけだからね。まぁ4年前の自分にコメントがついたところで俺は同じように答えていた自信はあるけどね。なんでか?って俺の根本原理は変わらないからなんだよね。want to原理で動くっつーもうそれに尽きるね。で、後悔が無いように時間を過ごすってことだわ。


まぁこれって生活と働くことみたいな話に繋がってくるんだけどさ、いくら方法が他に無い・・・とは言え奴隷になるってのはどうかと思うわけですよ。自分が納得しているところで自分の生活を壊さない程度に出来ていればそれは立派な仕事だけど、低賃金で滅私奉公を強いられるようなものってこれはもう完全にアウトね。あと就活なんつってマニュアルとか受かる方法とかさ、そんなもん使わなきゃ受からないところなんて行っても意味が無いし、そんな人は必要とされてないわけだよね。まぁ企業が従順なロボット探しをしてたらあんたは良いカモなわけで。どの道、自分の労働力を売るしか出来ない人なんて今も先もキツイわけよ。だから色んな人がニッチを探せ!とかこれだ!というものに全てを注ぎこんで将来への投資をしろ!とかって言ってるわけでしょ?くだらないやりたくもない仕事をやってる暇なんて無いと思うんだよね。


ちなみに俺も「極めればなんとかなるだろう」ってよく言ってるけどようはこれなのよ。自分の快楽のためにやってるのもあるけど「極めればなんとかなる」という原則をあえて信じきってこれをお題目のように忘れずに思い続けることでより快楽が増大するようになってるんだよね。やることで楽しいし将来のためにもなってる!ってまぁさっきも書いたように端から見れば「現実を受け入れろ」とかって言われるんだろうけど本人はディオニュソスの踊りを永遠と続けてるようなもんだからね。こういう三昧な生活を原理にして雑念を忘れてとにかく没頭するということが自分にとっての不安への対策にもなってるし将来への投資にもなってるわけだ。「は?食えるわけないでしょ?」って言われてもそれは極めて無いから食えないんであって極めれば食えると勝手に思ってるんだよね。俺は。そんぐらい誰も文句が言えないぐらいになればいいわけで、まぁ俺はそういう風になりたいし、それしか道がないからそれをやり続けてるってことですよね。現実?いや、毎日自分で作ってるんですけど?って話ですわ。


ってことでんじゃまたね。ドリームキラーにご用心・・・。


PS


書くの忘れてたけど、コナトゥス自体がヴァーチューなんだよね。価値の創造ってオワコンシリーズでよく言ってたけども、価値を作り出すとか見いだすってこと自体が自分の生の生成っていう運動体そのものになるってことなのよ。で、マキャベリ用語でのヴィルトゥで言えばこれは力ってことになる。ようは生きる力だわ。この力自体がヴァーチューで、この力を行使することが倫理なわけだ。それを行使し続けていてなおかつそれが強ければ強いほどフォルトゥナ(運命)は自在にコントロールできるようになる。まぁそれが今回書きたかったことを哲学用語を使って要約するとこんな感じになるってことです。