yuuさんへの返信。

yuu はじめまして、yuuと申します。


現実は本当にオワコンだと思います。やれることが何もありません。ろくでもない世の中に生まれてしまいました。生まれたくなかったといえばお終いですが…。


mimisemiさんのホームページで少し救われました。時間があれば前の記事も読んでいきたいと思います。


んーーーこれからどうしましょう…。大変だろうけどとりあえず生計は立てられるようにして適当に過ごしていくしかなさそうです…。


「善く生きる」ってなんでしょうね。皆何考えて生きてるのか全然分かりません。誰がゾンビなのか僕の目では判断がつきませんし…よろしければもう少し詳しくお願いできないでしょうか。あんまり考えすぎると人間不信になりそうです…。


本当にありがとうございました。


はじめまして。yuuさん。書き込みありがとうございます。


「現実はオワコンだ」ということを言うとなぜか自分が否定された気になる人たちが決して少なくないんだなぁーって最近は思いますね。そういう人たちがオワコンな現実を担っているので、だから結局変わらないという結論に至ったんですね。エントリーにも書いていることなんですが、どれだけ国家や政治が駄目でもちゃんとした市民がいれば大丈夫なんです。でも日本は本当に駄目な人たちが増えてしまったし、そういう人たちがノイジーマイノリティみたいな感じになってネットで活躍するようになったりして、余計に駄目な部分が露呈してしまって絶望的になりますよね。


だから僕が最近考えていることだとやはりそれは「オワコンの現実にフォーカスしない」ということに尽きます。駄目な人たちや嫌がらせをしてくる人たちなどを見て「駄目だ」と思ってもそれは最初から駄目なものなので変わりようがないので諦めるしかありません。で、実際に生活をしようとしても色んなところに駄目な人がいるので非常に動きづらいし何かをやるのに億劫になってしまいますよね。僕もそれにずーっと苦しんできて、その結果アメリカに逃げたみたいなもんなんですが、今は日本に帰ってきて、特に震災後は日本に対する考え方が凄く変わったんですね。ようは自分が生きていければいいのなら日本に居る必然性はありませんが、帰国して震災なども目の当たりにしてきて、それで自分が日本に居る理由とか必然性をずーっと震災後に考えていました。その結果、自分は何もやれないし何も成せないかもしれないけどやれることから始めていこうという考え方になったんですね。


で、その第一歩が「自分の世界を作る」ということだったわけですが、駄目な人たちもオワコンの現実も僕の頭の中まで侵略することはできないので、フォーカスしてもどうにもならないものに気を病むのはもうやめて、ニヒリズムに陥らないような、自分が自分の正を肯定できるような生き方をしていくしかないと思ったんですね。それが僕の言うwant toベースで生きるということなんですね。人間不信はこの世の中では必然的でそれは認めないと始まらないので認めてしまったほうがいいと思いますよ。まともな人なんて本当に少ないわけで、でもそれは事実なので変えようがありませんよね。だからそれについて気を病んでいてもしょうがないので、フォーカスする場所を自分の生き方ということに変えたほうがいいんですよね。そういう生き方を貫き通していると同じように生きている人たちと出会える可能性が高まるんですよね。「類は友を呼ぶ」です。実際にウォール伝経由で色んな人たちと知り合うことができて、同じような絶望的な悩みを共有できたりして凄く実りがあるものになっていると思うんですね。


とりあえず今、僕にできることは「善く生きる」ということを自分なりに実践してみることで、結果的にロールモデルみたいになれればベストだなって思ってるんですね。もしくは「諦めない」とか「どうしようもないものに目を向けすぎない」とか日々実践できることをやっていく中で自分の生きる知恵としてのテクネーを身につけつつ、それを他の同じように悩んでいる人たちと共有できたりできればいいなと思っているんです。駄目な人が多いのも事実ですが、そういう現実に対して嫌気が差している人たちが多いのも事実です。駄目な人が目立つのは先ほど書いたようなノイジーマイノリティの原則みたいなもので、彼らが表立った活動をするからなんですよね。まぁそれでも駄目な人のほうが多いのは明確ですが、終わってる駄目な人たちやオワコンの現実に悩んでいる人たちというのはかなり多いと僕は思っています。だからこそ色んな形であれ色々とレスポンスがついているわけですよね。僕の意見を否定する人たちがいるのもそれが正鵠を得ているからでしょう。


本当に現実が終わりというのは僕がこういうことを書いていても何もレスポンスもアクセスもコメントもないということなんですよね。でも実際は色々とコメントが来ていたりしますし、同じように悩んでいる人たちがいるというのを実感できています。で、本当のことを言われると都合が悪い人たちも大勢居るというのも予想通り実感できています。だから必要なのは健全な人たちによるライフラインなんだと思います。馬鹿が幅を利かせていて色々なところで嫌がらせやどうしようもない行動をしていても、それはただ現前化しているもので、潜在的にはそういう馬鹿達を良く思っていない人たちも大勢居るんだってことを分かっているだけでも認識的にだいぶ違いませんか?こういうことを言うと共感する人もいて、それを良く思わずに叩こうとする人もいる。つまりは僕が述べていることが存在するということの立証になってると思うんですね。ただの言葉遊びに共感も反感もありませんからね。つまり僕が述べていることのプレゼンスがあるということですよね。


僕はこの場においてそれが凄く変わったんですよね。共感してくれる人たちが予想以上に多くて色々な対話を通して彼らがどういう風に現実に対して感じているのか?というのを知れば知るほど根本は同じだなって思うんですね。それが結局「オワコンの現実」ということなんです。だから僕はそういうオワコンの現実を一種の箱庭のようにして考えるようにしてるんですね。まさにプラトンの洞窟の比喩で言うところの洞窟ですね。実際は僕は洞窟の中で生活しているわけではないので、そこで何が起ころうが知ったこっちゃないという感じなんです。洞窟内から外に向けて罵声が聞こえてもそれは囚人が叫んでいるようなものなので言葉ではありませんよね。だからそんな言葉に耳を傾けても何もならないわけです。


でもそういう獰猛な囚人達が洞窟の中に大勢居てギャアギャア騒いでいるという事実は変わりませんよね。でもそれを見て「なんとも嘆かわしい・・・」と思っていてもしょうがないんですよね。ゾンビ同士が喧嘩していたりしたらどうするか?って関わらないようにするって普通は思うはずなんですよね。洞窟内というのはそんな場所なんです。そこを変えようとしてもしょうがないし、変えようとしても絶対に変わりません。だからどうすればいいのか?というとまさしくプラトンの洞窟の比喩で言うところの「外に出る」ということになるんです。これは僕が「自分の世界を作る」と言っていることと同じことです。


外に出たら広い世界が広がっていていかに洞窟の中が馬鹿馬鹿しいものであったのか?というのが分かると思うんですね。でも実際はお金とかモノとかが主に洞窟内で出回っているわけです。だからお金やモノを手に入れるには嫌でもゾンビたちと関わらなきゃいけないということになるんですが、僕はその考えを改めて、洞窟内に戻らなくても自分でやっていける方法、言わば正の作法としてのテクネーを模索するということが自分の生において必須であると思ったので、だから今はそれのために自分なりに色々と実践しているんですね。洞窟の外に出て自分で家を作るみたいなイメージですかね。洞窟内から罵声が浴びせられますが、それは外に出たものに対する僻みなんで基本無視でオッケーです。それを真に受けてしまうと気を病むことになってしまうんです。


でも外に出たものにとってのリアリティというのは外にあるもので洞窟内にあるものではありませんよね。だから自分のリアリティを形成するということが必要になるんです。で、僕の実感ですと意外ともう外に出てる人や出掛かっている人や出たがっている人が多いんだなということなんですよね。だから外の世界に他の世界が出来上がるかもしれないという希望があります。でもそれを場に求めると歴史が証明しているように不可能になるんですよね。どこにも属さない場所となるとユートピアみたいになりますし、そういうのは成功していませんし、そんなものはどこにもないと証明されている気がします。


だからこそ現実がオワコンなわけですが、そこでさっき書いた健全な人たちのライフラインというのが凄く効いてくるんですね。ようはそれは認識の繋がりなので意識での外のフィールドを他者と共有してそこを自分の居場所にすればいいわけです。でもネットとかを使うと大抵ゾンビにやられるので、だからこそ認識的に繋がっていることが彼らの我々の世界への侵入を拒める方法だと思うんです。だからそういう意味でコミュニティとかでもないんですよね。なんというかメンタリティとかマインドセットの共有という感じでしょうかね。


実際そういう共有がないとなかなか日々の生活が苦しいものになりますよね。僕が凄く救われているのもこういったウォール伝上でのやりとりがあるからなんです。現実の世界ではほぼ犬としか接しませんが、認識の世界では接している人たちは大勢居るわけです。それが僕にとってのライフラインとなっていますし、実際にウォール伝を見て「まだこんな人が生きていたのか!」って思われることも多々あります。自分にとってのライフラインが他の人にとってのライフラインにもなっているって凄いことだと思うんですね。そういう意味で本当にウォール伝を続けていて良かったな!って思うんですが。


では今から何をすればいいのか?というそういったことへの答えにはならないかもしれませんが、自分のリアリティを作り上げるという前提に立てばやることは自ずと見えてくると思います。やりたいことや見たいリアリティみたいな具体的なビジョンがなくても、とりあえず洞窟を出るというのは大きな一歩だと思うんですね。これを続けていると本当にどうしようもない現実が箱庭化すると思います。洞窟のどうしようもなさは変わらないが、対して気に病むことでもないということがだんだんと分かると思います。


とはいっても僕もそれの実践中なので偉そうなことは言えないんですよ。この先どうなるか分からないわけですが、そんな中でとりあえず確信していることは自分の生き方や考え方が間違っていないということですね。最悪のシナリオとしてゾンビと付き合わなきゃいけないようになってしまうのは自分の力が足りないからなので、先ほど僕が書いた外の世界での自立という意味では僕の場合、それが学問に直結するんです。抽象的な言い方になりますが、ゾンビたちと付き合わなくてもやっていける力でしょうかね。それが最近ここで書いていることのコナトゥスということに直結するんですね。まぁあくまで僕の考え方ありきで、それが哲学用語に見事に合致しているのがあるのでスピノザなどを出してきて説明しているわけですが、別に何も難しいことはありません。


あとはまぁアヴァンギャルドってことですかね。前衛で死を覚悟で生きるってことですね。でもそれが成功すればそれって前例になってそこから道が切り開けるかもしれませんよね。僕はそれをここで「鉄砲玉」なんて読んでますが、何も失うものがない人間ほど怖いものはないとかって言いますよね。それの実践ですね。これが僕にとっての力への意思ということになるんですが、これも別にあえて哲学用語なんて出さなくてもいい話なんですけどね。まぁそもそも僕には生きる理由がないし、現実はオワコンで何もかもに救いがないので、あるとすればこの力への意思のみですよね。自分の生き方自体を救いにするという感じでしょうかね。僕はこれしか救いがないと思ってるんです。他に求めても何もないわけですからね。これは別にたいしたことを言っているわけではなくただの論理的な必然ですね。


仮に自分が一生食えるだけの財産があっても何もやらないで生きるなんてことは死ぬことより怖いことなので、だからどの道、僕はこういう生き方しかできないわけですね。これが自分なりの生存術なんですね。もっと極端なところで言うと狂うってことですかね。何かに没頭したり、あとはアンチからディスられても「俺が凄すぎて嫉妬してるんだ」とかって自然に思えるようにすると何もかものダメージがゼロになるんですよ(笑)日常のつまらなさは何かへの没頭によって解消され、他人からの中傷は「俺が凄すぎるんだな」って思うことでダメージがゼロになる。何気にこういうことって自己啓発の本とかに書いてある割とベタなメソッドなんですよね。実際にこれがワークしているので僕はそういう風にしていた結果、それが完全に馴染んでそういう思考形態になってしまいました。なので昔ほどくだらないことで思い悩むことが無くなりましたね。これは良い意味でのクレイジーなことだと思いますね。


だから今のところの自分の悩みは元々ある気分障害だけになったんですね。こればかりは治らないのでしょうがないんですが、悩みだらけだった自分としては凄まじい進歩なんです。逆に悩まなければこういう風にはなれなかったので苦労の甲斐があったと思っています。そういう意味で悩むということは何かのスタート足りうることだと思うんです。確か似たようなことを姜尚中が書いてた気がします。


まとめると、こんなに生き辛い社会を生み出しているのは何か?ってそれはズバリオワコンの現実を担う人々なんですよね。担い手がいるからこそ成り立っているわけです。みんなが嫌だと思っていたら維持されるわけがないわけで、維持され続けているということは担い手がいるわけです。最近ここにも頻繁に現れるようになりましたけどね。で、そんな生き辛い社会を作り出すということは倫理的にアウトだと思うんですね。「それが嫌ならこの国から出て行け!」とか「でも普通はこうだろう」なんていう人がいますが、僕に言わせればなんでお前らが国を代表したような口を叩いてるんだ?ってことになるわけですね。主流はあくまでこっちなんですよ。あんなやつらに日本を渡したつもりはないし渡すつもりもないわけです。そういう意味であえてナショナリズムという言葉を使うならこれが僕の日本に居る必然性なんですよね。結局はナショナルなものしか残らないと思うんですね。なんで不愉快なことばかりを伝達して推奨するようなやつらが気に食わないのか?ってその理由はもう「自分の国だから」ということしかありませんよね。自分の国がゾンビに支配されてたらそりゃ嫌ですよね。


で、なんでゾンビ側に「ここから出て行け!」なんて言える筋合いがあるのか?ナショナリズムの観点からすれば確実にこういうやつらは国賊なわけです。万死に値するような存在ですね。でも取り除くことはできないし大勢居るし・・・というわけで凄く困難な状況なわけですが、でもやれることはまだあると思っています。これは逆説的ですが、そういうのに抗うのではなくてそういうやつらから国を守るんだ!という下級武士のような矜持を持って国を守るということですね。そもそもあいつらに支配権を渡した覚えはないということなわけですから。だからそういう意味で棲み分けはできないので戦うしかないわけです。アンチの書き込みを見ても明らかのように合意路線は絶対に無理なんですよね。そういう意味での「国を渡した覚えはない」というのは右翼も左翼も関係なく共通していることなんですね。ようはイデオロギーでもなんでもなくただの当たり前なことなんですよね。


ゾンビみたいなやつらが平気で他の人の夢や希望を踏みにじったり嫌味ばかりを言って他人の足を引っ張るというような、そんなことが大手を振るってまかり通ってるなんておかしいですよね。逆にこっちが「出て行け!」って言わなきゃいけないのにあんまりそういう風潮がないんですよね。いつの間にやら「それが世の中だ」ということになっていますよね。それが大衆支配の怖いところでファシズムの温床になるわけです。とにかく僕はそういう状況が非常に許せないわけですね。だから自分に何ができるかとかではなく、とにかくそういう状況に対して何かやりたいわけです。その行動こそが知行合一をもたらすものだと確信しています。


相変わらず長くなりましたが、他人の不幸を願っているだけのやつとか嫌味を言うしか能がないやつらとか、そんなやつらは微塵も国のことなんて考えていないでしょう。逆に国のことを考えていたらあんな振る舞いはできないはずです。だから僕は矜持を持ってそういうものを一切認めずに排除していくやり方を模索しようと真剣に思っているわけです。共生しようとする振る舞いがこういった絶望的な環境を生み出したんだと思っています。だから戦わなければいけないんですね。とにかく争わないと駄目です。自分の土地に変なやつらが集まってきて騒ぎを起こしてるってそれを見てみぬふりできますか?ってことですよね。僕は全力でそいつらを追い出そうとするでしょうね。勝手に自分の土地に入ってきたのだから殺されても文句が言えないということなら僕は躊躇することなく自分の土地を守るためにそいつらを殺しますね。日本人のメンタリティって事なかれ主義なので、もっと本来の動物的な闘争心というのを取り戻すべきだと思っています。誰も国を背負おうとしないわけですから誰かがやらなければいけないことですよね。そういう気負いが無くなった国は必ず滅亡します。国としては続いていても国自体が完全に死んでいるという意味でもう日本は滅亡してますよね。滅亡したかもしれないけど、事実とは関係なく僕はそれはとにかく認められないというそれだけです。


だから個々が政治的であるということの大前提はまず個々が善く生きなければいけないんですね。別に政治活動をしていなくても周りとは違っても自分が善い生き方だと思える生き方なり考え方を貫けばそれは結果的に社会的な貢献になると思います。逆をやれば反社会的なのは明らかで、でも今の日本はそういう反社会的行為がやりたい放題ですからね。善い生き方とは何か?など決める権限は僕にはありませんが、少なくとも他人の足を引っ張ったり不幸を望んだりするような、人間として下劣な生き方が善いと言えないのは明らかでしょう。僕がここで言っているのは善くなくても最低限でもゾンビにだけはなるな!ってことですね。ゾンビに囲まれていてもそういった環境に絶望しているのは自分だけではない!と思うことが大事です。実際に自分だけではないわけですからね。ただまぁ周りがゾンビだらけだと凄く孤独に感じて不安になるのは分かるんですが、彼らが狂ってるわけです。孤独に感じて不安になるのは正常な証拠なんですよ。


正直、僕も実際はどう生きていけばいいのかがまだ分からないんですよね。だからそれはもうここで色々と書きながら考えていって色々と実践していくしかないなと思っています。


そういうわけで長くなりましたがこの辺で失礼します。