ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

体で考える。

いや、色々と考えてたけどさ、あ、数学についてね。で、なんで数学をやるのか?っていう理由が分かった気がするね。極めるみたいなのは目標としてあるけど動機付けは何なのか?っつーとやっぱりなんつーかエロスだよね。概念について言語以上の精度を持ってるのが数学じゃないですか?乱暴に言えば人文系よりもより真の知識に近いものであると言えるよね。で、俺にとってはそれってなんかやっぱり仏教と数学なんだよね。西洋哲学ってのはやっぱりなんか違うよな。そもそも西洋的な概念っつーコンテキストに依存している言葉って何なの?って気がしてくるじゃん?考えれば考えるほどバカバカしくなってくるんだよね。で、哲学というよりかは真に哲学なものって結局なんなの?っていうとそれはもうジャンル関係なくarticulationの精度が高いものってことになるんだよな。「数学のあけぼの」っつー本の中の終わりのほうからの引用になるんだけどさ、

「ある時まで全く芸術のための芸術のようなものと思われていた数学的抽象が、いつになると、もっと実際的「practical」な目的にも適用できるようなことになるのか、われわれはあらかじめこれを知る事は全くできない。たしかに数学の最も基礎的な概念が実際的・経験的なところに源を発している事は、誰もこれを否定しない。しかしこの学問が持っている本当の強みは、時としていかなる経験的源泉からも可能なかぎり離れてしまうその大胆な抽象性にあるのであると。


結局これなんですよ。結局、俺は数学とか哲学とかが好きなんじゃなくてこの「大胆な抽象性」というメソッドが好きなんだよね。まぁ別に数学も哲学も好きなんだけどさ、やっぱり根本はこの大胆な抽象性だよね。結局、この大胆さによって思考してるわけだから。ようはまさしく「それそのもの」だよね。元は自然に哲学でやっていたことがなんつーかメタ的に認識できるようになって、むしろそういう認識で数学に取り組めばいいんじゃね?って思ったらブルバキとかグロタンティークとかそういう連中がモロにそういうメソッドで現代数学をやっていたっていうさ、哲学以上に哲学的なんだよな。数学ってのが。だからそういう意味で俺はあれなんだよな、練習問題とか計算とかに全く興味がないのね。あとテクニックとか。むしろ嫌いだよね。やる意味が分からんし。


考えるための数学なんであって問題を解くための数学じゃないじゃん?問題を解く数学って古いと思うんだよね。やり方が。もっとなんかパラダイムそのものを大胆な抽象性で考えるっていうさ、その結果、細かい定理みたいなのが見つかる場合もあるっていうそういうことですよね。問題ありきで取り組む数学というのにいつも疑問を感じてたんだけど結局、自分で言うのもなんだけど俺はずば抜けてこの大胆な抽象性で何かをやることに向いているのかなんなのか、とりあえず合ってるんですよね。俺のやり方って。教えられたわけじゃなくて自分が「こうだ!」って思うものを頼りにやってきたら実はめちゃめちゃ正しい正道みたいなのを歩んでいたっていうさ、まぁ哲学も同じなんですけどね。


なんかまだなかなか言葉にできないんだけど凄く自分のステージが上がったって気がすんのよ。最近。去年ぐらいは絶望的なぐらい頭打ちでどうにもならなかった感じがあったけどオワコンシリーズを機になんかそっから良い流れみたいなのがあってその流れに乗った結果、ステージが上がったっつーか、まぁ全てはオワコンシリーズからってことではないんだけどさ、なんか恐らく認識のレベルでも無意識のレベルでももうどうにもならないっつー頭打ちな感じってのを分かっちゃってるんだよね。かといっても地に足がつかないような突拍子も無い発想をしてもしょうがなくて、やっぱり今までの流れの中でどうその壁を越えるのか?ってのに永遠に悩んだ結果、ブレイクスルーみたいなのがあってそこから流れが溢れ出てるっていう感じだよね。


あとまぁあれなんだよな、凄くね、身体性って凄く重要だなって改めて思っててさ、体なんてどうでもいいってよく考えてたけど、身体の感覚から考えるって仏教でよくある方法じゃん?結局、頭ばっかで考えてるって凄く考える範囲が狭いんだよね。体で考えるってことも出来るんだってことに気がついて。そんなことを気がつき始めてからあるときにひたすら日本刀を素振りしてるのかとにかく日本刀を振っているっていう夢を見てさ、そこから「日本刀」っつー考えに取り憑かれちゃってさ、なんかキテるんだよね。元々まぁ好きなんだけどなんかそのビジョンとして見えるっつーのがなんか新しい感覚でさ、それがなんなのか分からないんだけど、なんかイメージとしてそれがあるんだよね。


で、ここ数日で思い立って居合いをやり直そうかなと思ったんだよね。ようは全く本とか文字とか数学ではない身体感覚そのものに徹底的にフォーカスするっていう時間を設ける必要があるなと思っててさ、まぁんで一時期は合気道をやろうとかって真剣に思ってたりもしたんだよね。まぁベタに言えば心技体ですわ。んでも俺は人と会うのが嫌だし稽古みたいなのにコンスタントに通うのが苦痛だから自分で勝手にできるものは無いか?ってもうそりゃ居合いでしょうっていう。


っつっても昔やってたような形骸化された太極拳みたいな居合いじゃなくてちゃんとした居合いね。モロに実践向けっつーかまぁ元々の居合いだよね。昔も書いた気がするけど俺がやりたかった居合いってのを勝手に自分でやっちゃうのね。っつってもまぁ一応はやっぱりあれじゃないですか?基本の型ってのがあるからそれはまぁ昔やってた感覚を頼りに、あとはまぁ教本を見て思い出してまずは基礎をみっちりって感じだよね。っつっても例のすんげーゆっくりな動作とかファック過ぎるからそこは別に段を取るわけでもなんでもないんでフォームがしっかりしていてなおかつめちゃめちゃ速いっつーか実践的な動きってのを自分でやっちゃえばいいんだよね。あんなすり足とかいらないじゃないですか?あと抜刀と納刀をゆっくり音を立てずにやるっつーのもようは鞘が痛むからみたいな現代的なただの都合の話じゃん?武道に対する侮辱ですよね。現代人の都合で形を変えるなんて!


で、なんかその形ってのにさ、フォームじゃないですか?それって。身体のフォームってまた世界があるじゃん?元々身体表現とかパフォーマンスアートなんかをやってる人にとっては日常茶飯事なんだろうけど、俺はそういう経験無いからそういう世界を感じたいなと思っててさ、もう徹底的に体で考えるっていうことをしたくて。で、まぁそれで日本刀のイメージとあと俺がやりたかった勝手に思い描いている居合いっつーのを勝手にやるっていうさ、そこがバッチリなんですよね。瞑想とかではなくて激しく動かしたりなんかもする体の使い方から感じる何か?っつーのかな?でも下手に数理的に分析するとかではなくて、それそのものとしての身体性としてそれを体で考えるってことだよね。その体そのものが考えるフォームってのは何なのか?っていうのは結局、頭で考える朧げなフォームっていうのと形式は同じだと思うんですよね。ただ媒体が違うだけで。


これって直接性じゃないですか?数学そのものを考えるっつーのと体の動きそのものでフォームを工夫するっていうさ、まぁ両者ともにそりゃ基礎ありきですよ。でもそれのトレーニングも含めて思考なんじゃないか?という気がしてきたのね。あとまぁ普段から暴力だの暗殺だのっていう物騒なことを言ってる張本人がもやしっ子でめちゃめちゃ弱いっつーのも凄く歯がゆいところだなとは思っててさ、なんか三島由紀夫みたいなベクトルになってきたかもしれないけど(笑)でも基本的に観念って突き詰めていけば身体性とクロスするんだなってのを今はもう感覚で感じてるんですよね。なんか身体的な感覚を磨く事で結局はそれも感覚だから感覚全般が鋭くなったり使いやすくなったりするような気がするんだよね。これって考えるってことをするならむしろ身体性は必須でしょ!みたいな話でもあるわけで。


まぁでもあれですよ、家で稽古できるようなブルジョワな家に住んでいるわけではないんで、まぁそこはなんとかするしかないですよね。とりあえずもうやる!って決めたので。そこでまぁ居合い刀をどこで買えばいいのか?っつーのを今は色々と調べてる最中なんすよ。んでも結構ネットって危ないね。おもちゃみたいなのを居合い練習刀として平気で売ってたりするようなところが結構あって唖然としますよね。いや、居合い刀って美術刀と違うわけですからね、めちゃめちゃ消耗品でしかもめちゃめちゃ消費が激しいものですよね。それこそ真剣との違いと言えば刃が入っているかいないか?ぐらいのものじゃないと話にならんでしょう。そりゃ高いけど当たり前だよね。職人が手間かけて作ったものなんだから。大量生産のおもちゃじゃないんだからさ。しかも真剣とほぼ同じような感覚じゃないと居合いの練習にならないじゃん?まぁおもちゃ刀批判はいいか。


ただまぁ楽しいっすよ。居合い刀をマジで買おうと思って検索なんてしたことないから色んなサイトを巡るだけで楽しいね。あれは完全にハマったら抜け出せない世界だな。金があったら何千万もする刀を平気で買う自信があるわ。俺(笑)まぁ基本的にあとまぁ俺は鉄フェチなんだよね。銃も大好きなんだけど西部開拓時代の頃のライフルとかリボルバーが好きなんだよね。これもなぜか分からんけど昔からなんですよね。で、マシンガンみたいな近代的なものになるともう全く興味が無いっていう。まぁ興味がないわけじゃないんだけどフェティシズムは感じないよね。もっぱら感じるのはリボルバーですよね。


まぁなんかこのね、「なんか分からないけど好き」っていう人間のillogicalな部分ってすげー重要なんだと思ってて凄くあれなのね、大事にするようになったのね。こういう感覚を。なぜか居合いをやり直すっつーのもさっきは普通に説明したけど実際はかなりillogicalな部分もあってさ、まぁそりゃ意味分からないよね。まぁでもあれだ、身体性への没入を経験したいっつーのはまぁ今年の始めぐらいに兵士にならなくても軍隊養成所に入ってみたいなんてことを言ってたけど基本的にこれですよね。まぁそう考えると今いきなりってわけじゃなくて一応理由はあるんだよね。っつっても完全にロジカルな理由じゃないっていうむしろそこが凄く重要なんであって。


あと自分の性欲ですよね。こないだ若い子に欲情するようになったって書いたけどまぁあれも理由はこうなんじゃないか?ってのはまぁこないだ老化だって書いたけど(笑)まぁとりあえず分からないよね。とにかく興奮するわけだから。まぁ俺ってド変態ですからフェチの部分とかも極め尽くしたいなって思ってるんだよね。これも身体性なんだよな。むしろこれも求道の一つだよね。やたら禁欲するということがイデオロギー化してる仏教なんかでは全く無い発想でしょうっつってもまぁでもタントラってありますからね。


結局あれなんだよな、色々と分かった事があってまぁ大体こんなもんだって分かっちゃってつまらないわけだよね。だからもう自分の感覚を広げて自分の世界を広げるしか無い。それをとにかく貪欲にやるってことだよね。これ自体がディオニュソス的でなおかつエロス的というかさ、方法論に埋没するわけでもなく、かといっても目的にのみ日々が費やされるわけでもなく・・・っていう一種の理想の生活なんだよね。それを俺は自分で作り出さなきゃいけないわけだ。だからまぁ仮に失敗とかワークしなかったりしても基本的にアプローチは間違ってないからこんな感じで行くってことだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。




上の「数学のあけぼの」はこの本で知ったんだけど、この人の本は新書のやつを持ってて知ってたんだけど、なんかね、本当にこれなんですよねっていうさ、数学の本なんだけど、ようは数学について数学で考えると結局、その考えるという事自体がフィロソフィーになるっていう言わばプロセスとしてのエロスになるっつーのかな?数学を哲学で語ろうとするとダメになるけど数学を数学で考えるとようはそれはフィロソファイズしなくてもフィロソフィーになるんだよね。っつーような感じをもろに感じさせてくれる好著ですね。あと日本の場合、数学者が数学について語ってたりするのってなんかあんま良いのないじゃん?数学ばっかやってて学がねぇーなぁーみたいなのが多い中でこの著者の学の広さといったらもう凄いね。それもペダンティックなわけじゃなくてあくまで中心に数学ってのものがあって、その中で蓄えられてきた知識っていうなんか凄く生きた知識で考えてるっていう感じがするんだよね。こういう感じは洋書でも滅多にないんだよ。数学の本ってここ数年ブームで和書洋書かまわず色々と出版されてるけど死んだ知識で書かれたようなやつばっかじゃん?実際は良書は少ないんだよね。そんな中での数学者によるガチな感じってのが見事に出てるっていうなんか読んでて嬉しくなっちゃったんだよね。まぁ最近読んでて非常に不快になった本があったので余計にそう感じたのかもしれないけど(笑)



啓蒙書かと思ったらすげー良書なんすよ。ブルバキで構造が語られている!!一時期そういうの探してたんだよね。ブルバキ的なもので数学が語られてるのは無いのかな?って。で、まぁある程度時が経って意外なところで「あーあんとき探してたのこういうのだった!」っていうのに出会ったって感じですかね。数学嫌いだった頃の俺もこれを読んだら数学に開眼しただろうなっていうような感じの本ですねっていうか、構造主義ってこの本でも書かれてるようにメソッドじゃないですか?それ自体がワン&オンリーな構造なのだって言うのではなくて構造として捉えるっていう方法論の一つなんですよね。まぁようは抽象ですよ。俺的に言うとこれってすげー「文系」な感覚なんだよね。哲学でやるようなメソッドとか考え方なんだよね。どちらかと言うと。でも実際は数学の根幹ってめちゃめちゃ哲学なんだよね。だからまぁこんなに数学が好きになったわけだっつーか哲学以上に好きになったわけで。