ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

理論と実践。

いや、早く居合いの稽古を始めたいんだけどさ、先走って色々と本を買ったりあとはまぁ色々と調べてると改めてなんつーか「使い方」っていう認識の感じがさ、いや、概念そのものなんだよね。これも。居合い抜き!なんつーとまぁ大道芸の例のアレなんだけど、ちゃんとした居合いだと右手で抜くのではなくて体を使って抜くんだよね。基本的に腕力や加速度みたいなバットを振るような力の入れ方で切るってことが無くて体で切るっつーかまぁ合気道なんかもそうじゃん?腕力で投げるんじゃないっていう。


ただその体の使い方ってのがさ、あれだ、スペツナズのコマンドなんかが典型だけど例えば後ろから抱きつかれて動けない!とかさ、そういう場合ってまぁ普通は暴れるよね。暴れて逃げようとするんだけどそうじゃなくて例えば腰の力を抜いて尻餅をつくような感じでスルッと「抜ける」とかさ、いや、数学なんかもさ、ごり押しで計算しようとしても時間がかかるだけなんだけどちょっとした考え方の違いですげー簡単にできたりするじゃん?まぁ俺は滅多に計算しないからなんとも言えないんだけどさ、いや、中学のときに代数とか習ってもさっぱり分からないんだよね。


でも集合論ありきだとそもそもの数に対する考え方とか捉え方とか形の見方が変わるからそれをベースにするとすげー分かりやすくなるっていう。かといっても別に初等教育集合論を入れるべし!ってことにはならないんだけどさ、あとはまぁあれですよね、哲学なんかでも客観なんつーのも一旦主観で規定された客観なんだよなとかさ、考えれば当たり前なんだけどっつーかまぁ色々と考えた上で色々と分かるようになるんだよね。なんかその考えるって行為が例えば武道とかの場合は稽古になるって気がしててっつーか前に体で考えるっていうのはようはより力を入れずに自然と刀を振れるようにはどうしたらいいか?ってもちろんある程度の基礎っつーかどうやったらいいのか?的なことは基礎理論で学べるんだけどんでもそれを実際にやれるか?ってことじゃん?


すげー重かった刀を簡単に触れるようになったって理屈だけじゃ無理じゃん?なんかこの理屈じゃないってところに何かを感じるんだよね。これの場合まぁ練習することによって体が覚えるってことなんだけど、概念全般がそうなんだよね。理屈で分かってるのと実際にアプライしたりそういう概念を使って実際に考えるってことがようは体を動かすみたいなことなんだよね。頭を動かすっていうのはそういうことだよね。脳トレとかいって実際はさっぱり効果がないっつーのも当たり前のことだよな。形通りのものを繰り返すとかさ、ああいうのってただの筋トレじゃん?それをそのまま脳トレに置き換えるってまぁありがちな発想だけど脳の場合、単純な処理をするようなことばかりをしてると概念的に考えるっていう部分が弱くなるらしいんだよね。弱くなるっつーか割合があって逆に概念的なものにフォーカスしてると単純処理をするような部分が相対的に弱くなるっていう。


で、やっぱり頭を使うってこれじゃん?パズルを解くってのはただのアルゴリズム的な処理ですよね。機械的な処理で実際は全然頭なんて使ってない。概念的ってのはなんだろうな?数学の極限とかさ、人生について考えるとかさ、いや、例えばなんなんだろうな?これ?ってところから始まって、はい、とりあえず生まれました。で、幼稚園なり保育園行きました・・・みたいなことを俯瞰的に見てさ、それで分析するっつーかこれ自体が一体なんなのか?っていうさ、まぁそんなの暇人しか出来ないって忙しい人が言うんだろうけど皮肉なことに忙しい人ほど脳トレ的なことを功利的な意味でやろうとするじゃん?時間を有効に使わねば!的な。実際は逆効果なんですよね。あんなもん頭に毒だよね。ああいうのが頭を使うということとされるから色々と間違いが生まれるんだよな。数学教育なんて最たるものじゃん?アルゴリズムの面だけしかなくて概念的な面がゼロだもんね。んでも俺みたいに概念的な考えにしか興味がいかないヤツの場合、学校でやる数学じゃ良さがさっぱり分からんけど概念的な数学に触れると凄く反応するわけじゃん?こういうのが好きなんだよね!っていう。


でもあれなんだよな、それを色々と考えるとさ、世の中のニーズって脳トレ的な処理が速い人が重宝されるんだよね。概念的に考える人なんて超優秀じゃない限り2流とかなら必要とされないっていう。だから極端なヒエラルキーが生まれるんだよね。一部のイノベーターと大量の奴隷っていう。んでもあれなんだよな、何もかもを脳トレ的なものに向かわせるってロボットの潤滑油みたいなもんなんだよね。ロボットが「自分って何なの?」っていうようなawarenessを配らないようにどう動くか?というのにフォーカスさせるためにまぁようは考えさせるってことをやらせないんだよな。まぁ別に意図的に誰かがそれを政策としてやってたりするわけじゃないにせよなんかまぁ勝手にそういう構造って出来上がりますよね。っつーか一般的に型好きな人が多くないですか?


現代の武道がやたら型ばかりにフォーカスしてるっつーのもようはあれって思考停止なんだよね。いや、実践的な剣術だったら「敵がこう来たときに・・・」なんつったってそんな呑気な動きはしないだろってことで動きが変わってくるじゃん?いや、武術のスポーツ化ってこれなんだよね。んでも一般に武術をやる意味なんてないじゃん?っつーか意味なくはないけど使うものじゃないじゃん?だから廃れるし形骸化してスポーツみたいになるんだよね。これってなんか考えなくなった人間みたいなのと凄い通じるものがあるんだよね。超訳されてしまうニーチェとかなんかすげー通じるものがあるんだよね。剣術なんてすげーdeadlyなもんじゃないですか?人を殺すもんなんだから。思想然りだよね。


人を殺す場合もあるし自分を殺す場合もあるしとにかくそんなもん実際にやり出したら争いごとが絶えないだろうっていう。んだからそれって時代に合ってないからサラリーマンが電車で読めるような形で思想ってのがコモディティ化するっつーのかな?ニーチェの思想なんて実践したら今の世の中じゃ反社会的になるから実践できるニーチェの思想ってのはもう社会的環境によって決まって来ちゃうわけだ。だからそんな中で「使える」ニーチェの思想ってのが流行ったりするんだけどまぁそんなもんもうニーチェでもなんでもないし哲学でもなんでもないですよね。これって本当に武道のスポーツ化と似てるのよ。


いや、現代でガチの剣術ってキミは馬鹿か?ってまぁ思想とかも同じなんですよね。思想って元々相当ヤバいものなのにヤバさとか無くなるもんね。で、頭の良い学生とかが評論とか自分の論文を飾るために使うようなアクセサリーに成り下がるんだよね。結局なんかそんなことやってもしょうがない的なさ、だったら論文に箔が付くような使える思想をコピーしろとかさ、武術にしても運動不足解消でなおかつ精神修養みたいなことも出来るみたいなユーティリティになるんだよね。実際は体を壊す危険性があるような動きとか手を切っちゃうような技とかさ、いや、そんなもんばっかなはずなんだよね。


検定とかの居合いとかって危険度ゼロのやつばっかだもんね。本当に別物なんだよな。危険度ゼロのニーチェと同じですよ。ちなみに数学でも同じだよね。くだらない論文を書けるような小手先のテクニックを身につけるってのが実際には世の中をやっていく中で効率がいいんだけどガチの数学って哲学となんら変わりないじゃないですか?あまりにファンダメンタル過ぎてそんなにポンポン何かが書けるわけじゃないっていう。まぁそんな中でポンポン書く人がいるんだけどね。サハロン・シェラハっつー数学者に最近すげー興味があってやってる内容もそうなんだけどこの人の数学の取り組み方とか数学観ってのがもうまさにこれ!といったような感じなんだよね。局所的にみればカオスだらけだったり不安定だったりするんだけど全体の調和というのを考えたときにその調和をもたらすファクターだったりもするっていうむしろ全体像としては調和ありきっていうさ、なんかこれってやっぱり根幹の一つですよねっていう。美ありきなんだよね。


http://shelah.logic.at/E16/E16.html


結局なんつーか凄く概念的なところでなおかつそれを実践的にやれるって数学ぐらいしかないような気がするんだよな。武術もまぁ実践は無理じゃないですか?真剣勝負なんて無理なんだから。格闘技とかはどうなんだろうな?でも普段実践しちゃったら犯罪だもんね。いや、本当にこれって思想と似てるんだよな。空手を普段実践したら有段者とかの場合は特に凶器扱いされるらしいじゃん?思想もそうだよね。会社を辞めることになったり暴力事件に発展したりするわけだ。んだからまぁ実践が凄い難しいんだよね。だからさっき書いたような脳トレ的なものばかりが何にしても横行することになるんだよな。なんか凄く本質からは遠いような飼いならされたものっつーのかな?これって大きく見ちゃえばイデオロギーだよね。イデオロギーだって気がつかせないイデオロギーだよね。だからもう思い切って逆を行っちゃうぐらいがいいわけよ。


多分そういう時代が来るんじゃないかな?って思ってるんだけどね。逆を行ってるように見える人がメインストリームになっていくような気がしていて。あとガチガチのメインストリーム自体が崩壊してるじゃん?で、しかもニヒリズムが横行してるってニーチェ的に言えば何かがひっくり返るフラグがビンビンに立ってるんだよね。どうしよう?と思ったらとりあえず逆を行けって思考停止的でもあるけどアリな考え方だよね。俺の場合、逆だったものが実はすげー正道に繋がってるってもんばっかだったからこれはもう感性的なものかもしれないんだけどね。


なんか全体的に何が言いたいのか分からない感じになってきたけど(笑)なんつーかまぁ俺の中ではやっぱりあれなのよ、理論と実践ってことなのよね。理論ばっかじゃん?本を読んでばかりいるとかってようはそういうことだよね。ただの読書好きで終わっちゃうわけだ。それがすげー嫌だから実践の道ってのをもっと具体的に考えていかんとダメだなと思っとるわけですよ。武道ってすげーそういう意味でインスピレーションの源だと思うんだよね。凄くそれが直感的に分かってだからまぁ夢で日本刀のイメージが何回も出てきたんだと思う。もう潜在的には分かってたんだよね。今はもう頭で分かってるっていうレベルだけど。


なんかまぁとりあえず今日はこれでいいや。んじゃまた。


で、追加というか補足。


いや、計算と概念の割合みたいな話なんだけど、この論文がベースなんだけどさ、


http://www.jneurosci.org/content/33/10/4482.full?sid=d9628147-a25c-4439-8156-d994dc62e7b2


↓この論文を知ったのが糞みたいなミスリーディングをしてる最低の記事なんだけど


http://irorio.jp/yuukashimoda/20130312/49672/


まぁ本当のところはあれですよ、流れ作業的な記号処理的なことと数量や大小の関係なんかの意味論的な処理をするものってのの両方が増減みたいな関係にあって、記号処理的なことばかりしていると意味論的なところの活動が弱まって、逆に意味論的なところばっかやってると記号処理的なところの活動が弱まるってことなんだよね。まぁ微妙に違うかもしれんけどまぁ大体合ってると思う。ようはどっちのタスクに集中するか?みたいなことだと思うんよ。ずーっと記号処理的なことばかりやってるとそっちをやるもんなんだなと思って意味論的なところの活動が相対的に弱まって記号処理的なところがエンハンスされるっつーのかな?あくまで「相対的」に弱まるって話だよな。だから記号処理ばっかしてるから頭で考えるということが出来なくなるということではないんだけど、んでもそれが長期化したらある程度これって慢性化して安定性が出てきちゃうんじゃないの?って勝手に思ってるわけね。


まぁそれにしても上のIROIROってサイトのこの記事は酷いよ。結果的に「数学の能力が向上すると、脳の他の分野の活動が弱まると判明!」なんつって結構話題になったらしくて、まぁそれが狙いだったのか分からないけどまぁ凄まじいミスリードですよね。まだ原文が日本語ならソースを読め!ってことになるけど英語のものをこうやってミスリードするのはどうかと思うんですよ。微妙に違うぐらいだったらまだあれだけど酷いよね。これって。ましてやなんかセンセーショナルな感じじゃん?全然実際の内容は違うんだけど。


で、俺が本文で言いたかったのは本当に考えるってことはこの意味論的な処理やろ?ってことなんすよ。逆に脳トレ的なことばっかやってたらそりゃ記号処理的なものなので意味論的なところの活動が弱まるじゃん?ってことになるのね。んでもまぁ別に社会的にそんなに考える人なんて必要とされてないから記号処理みたいなことをする人が奴隷として重宝されるからそっちのほうが労働力としてのニーズはありますよねってことなんだよね。


なんかこれってさ、absent minded professorみたいな存在の原理の証明みたいになってない?って思ったんだけどね。まぁそんな原理の証明というほどではないんだけど、概念的なところではすげー仕事をするんだけど日常生活では普通のことすらも出来ないぐらい偏ってたりする人いるじゃん?これってなんか単純にこの使ってるところの比率と時間の長さって気がするんだよね。結果的に意味論的なことばっかやってるんで日常生活すら営めなくなるっていう。いや、なんかあざといとかさ、自分のプロデュースが上手かったり世渡りが上手いやつが数学とか哲学に向いてるわけない!ってこれは持論なわけなんだけどこの話に通じますよね。哲学とか数学に没入してたら廃人でしょう。自分のプロデュースが上手いってそれってプランナー的な能力じゃん?実際に哲学をやってるように見えてコピーライターみたいな仕事しかしてないって連中多いもんね。凄く居心地の悪さを覚えるものですよね。まぁそんなもんそもそも読まないんだけどまぁ不可避的に出会っちゃうこともあるじゃないですか?で、まぁ凄く嫌悪感があるんよね。


まぁそういうもんが全部記号処理的だとは言わないけど概念的ではないよね。手法的だからまぁ結局は情報処理ですよね。まぁだから矛盾するのよ。世渡り上手な哲学者って。欧米も含めてだけど糞なんだよね。アカデミックな世界って。こういう世渡り上手ばかりが蔓延ってるんだよね。アカデミックに有利に振る舞える能力と哲学の能力って矛盾するんだよね。ようは世渡りと哲学が矛盾するわけだ。どっちも出来るってことになるとかなりうさんくさくなるんだよね。いや、多分自己プロデュースなりメディアでの攻め方とかが上手いだけだろうって思っちゃうんだよね。先入観だけどまぁ今のところ100パーセント合ってるから間違いないと思ってるんだけど。


あ、んでさ、さっきの論文のRoi Cohen Kadoshって人なんだけど、こういう分野の仕事ってすげー興味あるんだよねっつーのはようは概念的なものってのを考えるときに認識的に何が起こってるのか?とかさ、結果的に理解するとか分かるっていうのはどういうことなのか?とかさ、まぁこれって昔からの俺の関心じゃないですか?で、これってもう認知科学の分野なんだよね。哲学の分野でそういったものがどう言われてきたか?とかそういうんじゃなくて科学的に検証されたものってのがすげー重要なんだよね。いや、それが普段から言うもう哲学がやる仕事じゃなくなった諸問題の一つなんだよね。脳の作用を調べることがベストな研究になっちゃったことって多いじゃん?認識なんて最たるものなわけで。まぁあくまで科学による研究がベースでそれを説明するために哲学の概念とかが使われたりアナロジーとして説明されたりするっていうのならいいんだけど逆だと糞なんですよね。自分が説明してるものを無理矢理「科学ではこうなってるんだ」っつってそれを論拠にして自分の書いていることの正当性を証明したかのようにしてるっていうさ、まぁ人文系ってそんなのばっかですよね。ようは似非学問ですよね。あ、それは人文系がダメなんじゃなくてダメなことをして人文系の地位を貶めるようなことを平気でする輩が大勢いる分野だってことね。