これまた居合いについてなんだけど。

最近は昼過ぎぐらいの起床後に一旦帰宅してから飯食ってカフェインある程度摂って頭が冴えてきたら居合いの稽古して、んでまぁ夜にまた出勤みたいな生活パターンになってるんだけど、ようは毎日体を動かしてるじゃん?体を動かすということが脳に良いっつーかセロトニンがどうのとかってなんか分かる気がするなぁ。まぁ単純に打ち込めることが新しく出来て楽しいってのはあるんだろうけど、でもなんか読書だけの生活に戻れそうにないな。運動って合ったものがあれば生活に取り入れるべきだね。っつーか体を動かさずに永遠と小難しい本を読んでたらそりゃ気が滅入るわな。で、別にこういうサイクルが出来たんだから無理に数学とかやらなくてもいいじゃん!って結論に達したんだよね。


自然な気分に任せればいいと。で、今は居合いがやりたくて研究したいんだからそれでいいじゃないかと。・・・とそう思ってもやっぱり自然と数学もやっぱりやりたいんだよねっていうか頭から離れることがないな。だからまぁようは「俺にはこれしかないんだ!」って追い込んでたっつーのはあるけどでもやっぱり自然に好きなんだよね。いや、いつの間にかwant toがhave toになってないか?と思ってさ、have toベースって効率悪いし精神的に荒むんだよね。だからなるべくそういうのはやらないようにしてるんだけど、んでもやっぱあれですな、やるやらないじゃないね。数学は当たり前のように生活の中にある。ただちょっと今は居合いに打ち込みすぎていて時間が無くなったってことなだけでやっぱり好きなんだよな。いや、だから執着する必要は無いんだよね。興味がなくなっちゃったらもうそれまでですよ。今回はマジでそう思った。んでも自然でいてやりたいし好きだと思うんだったらやっぱそれは自分に合ってるものなんだよね。


んでも数学もスポーツとか武道と同じようなところがあって片手までちょっとやるってことじゃないじゃん?ガッツリ湯水のように時間を使ってやるものだからさ、他に何か打ち込んでたりするとちょっとの時間で出来るもんじゃないんだよね。で、今は基本的にさっきも書いたけど昼過ぎから夜まで稽古をやってて、んでその後は色々と剣術とか居合い関係の本を読んだりネットで調べたりしてるんだよね。あと居合いが題材の時代小説とかさ、昔、読んでた野晒唐十郎シリーズっつーかいや、ちょうど居合いとかやってた頃なんだよね。野晒唐十郎の第一弾が出たときぐらいだよね。やってたの。なんか妙に剣術に凝ってた時期があってっつーか元々好きだったからさ、時代小説は結構読んでたんだよね。全部売っちゃったけど。で、十年以上越しに野晒唐十郎シリーズみたらすげー定期的に出てるのね。10作以上出てるのかな?


いや、なんかね、その一作目の鬼哭の剣を買いなおして読んでるんだけどやっぱ面白いね。時代小説。っつーかやっぱ基本的に俺は居合いマニアなんだよね。なんか知らんけど昔から好きで。で、なんか知識欲としてさ、まぁモノにもよるんだけど極端な時代小説とかの描写にあるような電光石火の居合いなんてありえたのか?とかさ、そこまで早くなくても抜き打ちで致命傷を与えるとかどんなもんなのか?って知りたいじゃん?いや、思えば当時やり始めたころはそういう知識欲だったよね。でもまぁ求めてるのと全然違う超スローなものだったんで幻滅してやめたんだけど、まぁ色々と紆余曲折あって身体性というところから戻ってきたって感じなんだよね。哲学でもメルロ・ポンティ読んでるのよ。あとまぁ数学の哲学とかもようはピュアな概念ってことじゃん?ようは現象学的なんだよね。そういうところから身体性というのに凄く興味が出てきて、それって武道じゃん?ってことになって居合いになったんだろうね。日本刀とか居合いのイメージが頭の中にあったってさすがだと思うんだよな。脳が分かってたんだよね。で、まぁやり直してみろと。そしたら色々とまた分かるし広がるんじゃないかと。いや、実際そうでしたよね。


なんか生活変わるもんね。体を動かすということの健全性もあるけど右手が鍔に当たって内出血起こすとか全く体を動かさない人にはありえないもんね。スポーツはやってた時期もあったけど武道ってそうでもなかったからね。なんか良い世界だなぁーと。ただまぁ現代人の習い事としての武道は嫌なんだよねってそれはいつも書いてるけどね。居合い道虎の巻っつー剣道日本が出してる居合いのムック本とかあるんだけど一応全部買ったんだけどまぁ本当に大半がクソみたいな内容なんだよね。内容が検定居合い関係ばっかで検定の解説とか動きを暗記しろとかって言ってたりするんだよね。もうこれ武道じゃねぇーだろうっていう(笑)まぁあれね、居合い刀を作る現場とか職人さんのインタビューとか居合いの流派の歴史とか良い内容もあるんだけどまぁその良い内容が全体の2割ぐらいなのよ。まぁしょうがないのかな。そんな中で中村泰三郎の「日本刀精神と抜刀道」という本ではちゃんとした斬る剣術の話が書いてあって、俺が言ってるようなことが随所に書いてあって「やっぱそうだよね!」ってなんか達人にお墨付きをもらった感じでしたよね。


で、守破離が必要なんではないか?って書いてあって絶対そうだよねぇーっていう。なんかこれも宗教と似ててさ、居合いも型の話になると原理主義者みたいなのが横行してるんだよね。で、先人が作った型というのは先人が命をかけて作ったものだから厳守しなければいけない!みたいな掟みたいになっちゃってるんだよね。で、結局形骸化しちゃってるっていう。でも今ってさ、何しろ情報量が違うじゃないですか?他の剣術とか武術とか世界の武術とかもいくらでも見れるじゃん?色んな体の動きってのが分かるんだよね。んでもそれすらも一昔前だったら高いビデオとかを買わなきゃ見れなかったんだけど今は動画でいくらでも見れるじゃん?だったらそりゃ改善の余地あるでしょうっていう。っつーかやっぱり体の使い方で言うとロシアのコマンド(間違いの訂正。システマのことね)だよね。俺が思う居合いってロシアのコマンド(システマです。はい。)を日本刀でやるみたいなイメージなんだよね。んでもあれってよく言われるように合気道とかと動きが似てるじゃん?基本的にやっぱり武道の動きなんだよね。動きというのを最小限に留めつつ一切無駄にしないっていう経済的な合理性というかなんというか、でもそこはやっぱり合気道よりコマンドに美しさを感じるよね。あれも1フレームで相手を倒してるとかナイフで首を掻っ切ってるとかじゃん?あの速さだよね。あの意外性というかなんというか。


あと日本刀の話に戻るとさ、あれなんだよね、やっぱり一番効果的なのは突きか袈裟斬りなんだってよ。ようは人間が一番切れやすいところを斬るっていうことだよね。あとは合戦なんかでは兜とか着けてるからむしろ袈裟斬りぐらいしか方法がないって話じゃん?だから古武道の剣術だとどれも袈裟斬りというのが必ずある。でも居合いって全然無いもんね。あの馬鹿みたいな振りかぶりの全然力が入らないようなやつしかないじゃん?あんなの力も無駄だし致命的なダメージなんて与えられるわけがないんだよね。強いて言うなら振りかぶりの場合、据物斬りっていう足を横に開いて体重をかけてぶった切るってやつだよね。んでもまぁあれですよ、ダークソウルで言うところの強攻撃みたいなもんだよね。でも袈裟斬りって弱ぐらいでも致命的なダメージを与えられるんだよね。いや、だから居合いの型で言うところの「前」なんてのは抜き打ちの水平斬りをした後は振りかぶる動作のまま刀を回す感じで右上に刀を持ってきてその遠心力でそのまま袈裟斬りってのがいいはずなんだよね。実際に今はそれでやってるんだけど。どの時に右手を添えるのか?ってのは研究のやりがいがあるよね。んでもあれよ、水平きりの後の振りかぶる動作が一切無駄にならないじゃん?振りかぶりの場合、一旦上で止まってまた力を入れて振り下ろすから遅いし力も二回入れなきゃいけないじゃん?無駄な動きが多すぎるんだよね。


あとどっかの流派の達人が言ってたっつーかその流派の教えらしいんだけど、刀ってのは止まらずに流れるように振るもんだって言うんだよね。ようはくだらない検定の居合いの型みたいにあんな馬鹿みたいに大げさに止まることはなくて常にフレキシブルで川が流れるように刀の動きが連鎖するんだよね。前の動きをまた利用してさらにまた刀が振られるっていう。いや、これが一番いいに決まってるよね。刀の重さを利用した振り方で体を使って振るわけだから力まずに力が入るし腕に極端な力を入れないから体力の消費も少ない。体の動きとか力の入れ方が上手ければずーっと刀は振っていられるよね。ただ止める動作を入れるとすげー体力使うよね。なにしろ止めなきゃいけないんだから。でも止めるなんてことは実践じゃありえないはずだよね。剣舞の如く隙を見せずに振り続けるしかないでしょう。


だから大げさな動きとか溜めたような動きとかありえないじゃん?実際に新撰組斉藤一なんかも実戦の場合、竹刀とかでやってたような型とか歩数とかなんとか、そんなもんはほとんど通用しないか、そもそもそんなもんを意識してる暇が無いからひたすら夢中になって剣を振り続けるしかないって言ってたもんね。いや、だからこそ普段からの体の使い方ってのが生きてくるわけじゃん?刀を振り続けないと自分が死ぬ!って中でいかに効果的な動きをするのか?っていうのとあとはスタミナの温存というのもあるし、斬りやすい場所を切るってのも致命傷を与える上では当たり前じゃん?居合いの型の振りかぶりの真っ直ぐな斬りつけなんて使わないと思うんだよね。無駄すぎるしそもそも頭を狙うって発想が馬鹿げてる。天然理心流なんかでは顔を狙うんだそうだよ。ようは顔を切りつけられると人間ってのは本能的に「ヤバい!」って思うらしくて戦意喪失に繋がるんだって。


いや、実際そうだよね。額とか切られて血が出てたら前見えなくなるしさ、血がだらだら垂れるわけだから焦るじゃん?それで動きを鈍らせておいて止めを刺すとか攻めるとかそういうことらしいんだけど、これが実践的って言うことでしょ。やっぱり。だからやっぱ実際に使われてた剣術って凄いシンプルで合理的なんだよね。数学の合理性とか美しさに通じるものがあるよね。それは見た目の美しさじゃなくて流れとか合理性とか無駄がないっていうシンプルさの美しさだよね。スポーツ剣道とかああいう類のもんには反吐が出るけど、やっぱり古流の剣術ってのには畏敬の念を抱くよね。生き延びるための剣術で実際の合戦とか戦いでの中で死にそうになりながらも生き延びた人の経験とかが剣術にどんどん取り入れられて作られたものなんだなっていうようは机上の空論じゃないじゃん?実践ありきなんだよねってまぁそりゃ昔で言えば当たり前なんだけどね。


だからなんかこういう実践性がないものってリアリティが無いよね。まぁ習い事としてはいいんだろうけど前にも書いたようにそれを武道と呼ぶのは如何なものか?ってところだよね。別にスポーツを馬鹿にするわけじゃないけどスポーツと武道って違うじゃん?まぁ武道の使い道が無いからどんどんスポーツ的になるのは分かるけどそれこそ改悪なんじゃないの?って思うよね。先人が命を掛けて血で作ってきたようなものに泥を塗るような感じがしてならないんだよね。


まぁそんなわけでそう思うなら自分でやるしかないですよねっていうことなんですよね。そういう武道を実際に教えてる場所はあるんだろうけどその辺の体育館とかで習えるものなんて大抵習い事のもんばっかじゃん?だからもう自分で色々と調べてみたりして研究するしかないよね。ただ独りよがりにならないようにしないといけないんだけど、そこはまぁ数学然りですよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。