抜刀三昧。

本当に身体性というのは奥深いね。居合いに没頭してからは何もかもが変わったっつーかまず物理空間の把握の仕方が変わるよね。何かと自分との距離感とか冷蔵庫を開けて何かを取るにしても身体というのが介在することでそれが日常的に行われてるんだってのをメタ的に俯瞰できるようになるね。冷蔵庫を開けるにしても開け方とか力の入れ方とか開けた後に中を覗くときにちょっと足を動かすとか普段無意識でやってることも実はすんげー数の動きによって構成されてるんだよね。いや、何もかもそうなんですけどね。でもあれなのよ、居合いの場合、今でもまだ全然あるんだけど冷蔵庫の扉を開けるように自然に刀が抜けるわけじゃなくて抜く前に色々と考えるじゃん?鞘引きとか体捌きとか刃筋とか手の内とか一つの動きをやるだけでもう物凄い情報量なんだよね。で、脳が混乱して全く動けなくなっちゃう。普通に刀を抜くなら誰でも出来るけどちゃんとした居合いで抜こうと思うと本当に大変なんだよね。で、変な曲芸みたいにならないようにやっぱりフォームはしっかりするわけじゃん?それは型どおりというわけではなくて抜くに当たって最適な動きに最善を尽くすってことじゃん?まぁようは無駄な動きを一切しないようにするってことだよね。結局、抜刀の速度を速くするってのは無駄な動きをなくしていくってことだからやっちゃいけないことっていうのが多くなるわけ。


で、色々と調べつつ自分なりに行き着いたのは「力は意味が無い」ということね。っつっても左手の鞘引きの力は本当に握り締めるぐらい強くていいんだけど、右手は力を入れれば入れるほど抜刀は遅くなったり鞘で突っかかったりしちゃうわけ。システマのビデオなんかでも言われてることだけど手を思いっきり振るよりもしならせるほうが威力が高いっつーか伝達するんだよね。まぁ刀と拳じゃ原理が違いそうだけど、でも抜刀の速度を考えるならやっぱり体捌きと抜き際に引ききるほどの速さが必要なんだよね。ただこの速さを力でやろうとすると駄目なんだよね。実際に右手を壊しかけたのも握り方が最悪だったっつーのもあったと思うけど、やっぱり力の入れすぎってのはあっただろうね。今は相変わらず物理的に痛いから力まないでやるしかないんだけど不思議なことに抜刀は今の痛いときのほうが速いのね。力を入れて思いっきりスイングするんじゃなくて抜いて上に振り切るだけっていう感じでやってると「ヒュッ!」という良い音と共に自然に鞘から刀が出てくる感じになるんだよね。


力んでも抜けるけど「カシャン!」っつー鞘と刀がぶつかってる音がして完全に力が無駄になってるなーって感じになるんだよね。力がそこで死んでるんだよね。だから力を入れても何もならない。あとあれなんだってさ、露骨な力むような動作って実戦では見え見えな動きですぐバレるんだと。そりゃそうだよな。意識して無くても準備動作的なものが入っちゃうもんね。それじゃ駄目なんだな。あと右手を大げさに刀にやるとかゆっくりですらもそもそも右手の動きがバレてるとどうにもならないらしいんだよね。それを見られて右手を切られるんだって。怖いね。それじゃあ駄目だからもう自然に刀が鞘から出てくるようにしなきゃいけない。ってことでこの予備動作的なものとかためらい的なものを無くすとかめっちゃムズいのよ。刀抜くだけなら簡単ですよ。でもそれは居合いじゃないんだよね。


居合いってのは当然相手に悟られない動きをしなきゃそもそも成立しない話なんでさ、ようはステルスなわけよ。中二病丸出しな言い方をするとアサシンダガー的な感じね。抜く音とか動作の音とか無くて「刺した後に血が流れる音とかナイフを抜く音しかしない」っていうことだよね。また制定居合いの批判になるけどだからまぁそーっとした動きなんてありえないんですよ。序破急っつーのは元々は能とか雅楽の言葉なんだよね。で、文系の人がお家芸みたいに成り下がっていた旦那芸としての居合いに哲学的な意味合いとか華麗さとか美しさみたいなのを付け加えようとして序破急とか言い出したわけよ。居合いを追求していく中で序破急という概念が生まれたなら分かる。でも明らかにこれって元ネタが能と雅楽なのよ。で、概念の天下りってポストモダン哲学とかでよく見られるようにしょっちゅうあるじゃん?実際はメカニズムとかダイナミズムが全然違うのに数学の言葉とか物理の言葉で哲学的概念を定義しようとしたりさ、前にペギオ批判で色々と書いたことだけど、まぁようはペギオと同じですよね。


全然構造も意味合いも違うのに「同型だ」なんて言い張っちゃうわけだから。多分、居合いって本当に形骸化が酷い武道なんだと思うね。この序破急の理論の居合いへの安易な導入ってのは結構昔の話でさ、色々と流派があっても居合いになると序破急というのは結構定番なんだよね。で、どうにかそれを正当化しようとして変なロジックでそれを説明するんだけどさっぱり論理的じゃないわけ。っつーか武道ってそういうイメージ無い?それが良いところでもあるんだろうけどなんかやっぱりロジカルじゃなかったり合理的じゃないと俺は元々まぁすんげー西洋的な人間ですからね、まぁ根はアメリカ人みたいなもんだからさ、そういうのにすげーいやな感覚を覚えるのよ。


で、言葉では言い表せないものがそこにはあるんだ。それは体感するしかない!みたいな秘伝的な感じで言葉を濁すっていうさ、なんかそれってオカルトじゃないですか?ある境地に達すると神が降りる瞬間があるとか体感としてはあるんだろうけどベタに神の到来を待ってても駄目ですよね。いや、実際に武道ってそういう神秘主義とかとすげー密接だから日本の神秘主義の本とかさ、呪術の本とかあと日本史の本とかも今読んでるんだよね。ようは流れで理解するってことね。で、恐らくこんな感じで当時の人は思ってたんだろうなーってのが分かるじゃないですか?でもそれって昔の人だからしょうがないのよ。今の観点から合理的じゃない!とディスるなんてことはしちゃいけない。そりゃなんだってそうだよね。でも全然合理的で論理的じゃなかった昔の体系をそのまま先人の偉大なものとして守り続けるってそれってもう完全に安直な保守思想じゃないですか?あとそれが仮に保守であっても保守って良いところを伝統として守るっていう立場だよねっつーかやっぱりあれなんだよな、武道って右翼とか保守思想とすげー親和性があるんだよなっつーか左翼の武道家って見たこと無いもん(笑)


結局武道の宗家みたいな人たちってそういう家系で生まれて育ってきたからデフォで保守なんだよね。だから先人の型というのをパーフェクトなものだと言い切って頑なに守ろうとする。いやーそれじゃー駄目でしょー。いや、落語とかだって現代化してるわけじゃん?昔の話ってのは伝統のネタとしてあるんだけど創作落語ってのもあるじゃん?でもそれは落語の形式とか基本ありきの創作ですよね。だから基礎がしっかりしてる人が現代風の落語をやって何が悪い!ってことになる。いや、そういう意味で談志とか凄かったわけでしょ?なんか武道=保守っつーのがすげー嫌なんだよね。っつってもまぁ空手とか柔道とか進化してるのもあるけど勝ち負けとかではない型の話になるとどうしても保守的になりがちだよね。で、結果的にトドみたいな格好の爺が水族館のショーでお姉さんと何かやるような動きで演武をやってたり試し切りをしてたりするわけじゃん?居合いのトド率半端じゃないよね(笑)達人っぽい人の居合いってすげー稀で大体は大先生のアシカのショーなんだよね。これだからみんな「は?」ってなるわけ。これって逆に武道っていう観点からアウトじゃないですか?ああいう爺さん達なんて明らかに合戦とかでは最初に死ぬ足軽みたいなレベルの人たちなわけですよ。そういう人たちがただ芸歴が長いってだけで師匠扱いされてるって芸人も同じだけどそういうのって老害ですよね。


そういうのもあってもいいけどちゃんとした居合いっつーか抜刀ってのが無いと駄目でしょう。それが無いって駄目ですよね。10年以上前の俺の絶望と同じですよ。「やりたいことがやれない・・・」っていう。思い描いてたような居合いが全然できそうにない・・・ってことじゃん?今は情報化の時代ですからね、情報集めはめちゃめちゃ楽ですよ。だからまぁ自分でやれるようになったわけでっつってもまぁやっぱり昔やってた基礎ってのはすげー生きてるしあれが無いと今の俺はありえないんだけどね。もう余裕で刀を抜いてるってのもまぁ基礎があったからだよね。体が覚えてるからね。で、そっから集中的に練習したら感覚が戻ってきて一気に上手くなったわけじゃん?っつってもまぁ普通は週1とか週2ぐらいの稽古を毎日やってるんだから当たり前なんだけど(笑)


週1で通ってる人で言えばもう三か月分ぐらいの稽古をやってるってことだもんね。逆にまぁやってて思うけど週1ぐらいだと全然上達しないだろうなーって思うよね。思えば毎日居合いやってるって結構狂ってるよなぁ。まぁここまで没頭するとは思ってなかったって前にも書いたけど。もうなんか頭の中がそればっかなんだもん。あと散々制定居合いとか馬鹿にしてるけどやっぱり全部出来ないと嫌なんだよね。全部やった上で文句を言えって話なわけだからさ、そういう意味でももうディスりまくってるわけだから当然やらなきゃな!って勝手に思ってるんですよね。凄いでしょ?この環世界感。完全に自分の世界を作ることの実行をしてますよね。俺。


自分の哲学の実戦を居合いでやれるって最高ですね。まぁ数学然りなんだけど。「いやー意味無いことやってるねぇー」って言われても自分の中では世の中は戦国時代なんですよ(笑)刀の扱いを間違えれば即それは死を意味するっていう臨場感の中で練習してるんだよね。だから楽しいんだと思うんだよ。日常的な感覚から抜け出せるしある意味でずーっとやってるとハイになってくるしね。尋常じゃない量の汗をかくし。いや、俺ってこんなに向いてたんだ?って思ってるんですよね。もっと早くからやり直してれば良かったなと。こんな世界があったのか!!って感動してますね。身体感覚は変わるし世界の見え方も変わるし生活も変わるし日常が大の苦手な俺としては最高ですよね。で、なおかつ数学もやっててあと映画見たりしてようは日常に没しないように生活をデザインしてるんだよね。常に志向性を何かに向けてそれに没頭してるっていう状態を作っておかないとすぐ鬱になるしすぐ自殺とか考えちゃうから、まぁ生きるためのテクネーですよね。ある意味での自己防衛なのかもしれない。


ヒミズの住田君が夜走るのと同じだよね。走ってるときは何もかもを忘れられるしランナーズハイがあって気持ちいいっていう。あれですね。それとまぁ単純な知識欲と昔からの居合い好きと自分が思い描いていた居合いってのをやりたい!っていう夢の実現でもあるわけだよね。十数年前とは情報のインフラが違いすぎるんで格段にやりやすくなってるわけだ。あと俺が賢くなってるってのもあるし。いや、居合いってある程度の頭が無いと無理だね。馬鹿みたいに反復練習だけしてても何もならない。常に動きについて考えてあとは理想の形を思い描いて・・・っていう感じで基本的にプロセスとしては数学とか哲学の思索と同じですよね。あと重要なのが自分の動きの分析ね。理想系とは程遠い駄目な動きをしている自分の駄目なところを徹底的に分析して矯正する。ちょっとぐらい上手くいっても良い気にならずに徹底的に完璧主義でいくんだよね。自分自身がめちゃめちゃ厳しい鬼教官みたいな感じにならないと駄目ね。自分を甘やかせたらそれだけ甘い動きになるし、そういうのって見れば分かるんだよね。すげー普段から自分を甘やかした稽古をしてるんだろうなーっていうさ、ああいうのが癖になっちゃったらもう終わりじゃないですか?だからもう「駄目だ!駄目だ!全然駄目だ!」の繰り返しですよ。


まぁそんなわけで媒体が居合いというだけでプロセスは本当に一緒。考えないと全然上達しないですよね。これは。だから考えるのが好きなやつにはぴったりなものと言えるよね。ある意味なんつーか文系の武道っつーかなんつーかっつってもやっぱり文弱じゃ駄目でさ、血なまぐさい居合いをやりたいんだよね。斬られた相手の血が飛び散ってるような居合いがやりたいわけ。だからそういう意味で力は必要ないと書いたけど力を生かせるところでは遅くなったり動きが硬くなったりしないぐらいの力は必要だよね。やっぱりそこが型だけではない斬るってことを想定したものなわけだから。で、型ってのは別に斬るということを想定してなくてもいいんだよね。動きを練習するための型だったりもするわけだから、だから型的なものはやりつつも応用して実践したらどんな動きになるだろうか?ってことになるわけじゃん?型だけの練習なんてどう考えてもおかしいよ。


あとはあれだよね、力を入れる入れないという二項対立じゃなくて入れるべきところと入れないほうがいいところってのを自分の感覚で掴むしかないよね。これは動き的に反撃だから速さが必要だなとかさ、これは先制攻撃で致命傷を与えるものだから勢いよく凄まじく斬りつける必要があるなとかさ、そういうのを考えながらやるんだよね。居合いって体系化されてるように見えるけど本当に不完全で適当なのよ。散々書いてるように論理が矛盾していたり実際にはありえない想定だったりとにかくどうしようもないんだよね。あとはまぁ制定居合いの目的自体が剣道をやるためのおまけとしての居合いぐらいのものだったみたいな話もあるからさ、そもそも実戦なんつーものは想定されてないっつーこともありえるよね。で、実践的なものがやりたかったら自分で探すしかないよね。今は情報が集まりやすいから色々と考える材料を集めやすいじゃん?そういう意味では制定居合いの全否定というわけでもないんだよね。使える動きはあんまりないけど一応全部知っておいて損は無いってところだからね。


それを言い出すと居合いに関する型なんてのは知りえる限り全部知っておいたほうがいいってことになるんだよね。だからもう貪欲に調べて実際に自分で試してみるしかない。で、猿真似で終わらすんではなくて凄い再現度でやるんだよね。とにかく完成度を上げる。その上で「こりゃ使えねぇーな」っつってディスるならディスるってことだよね。使えない型でも練習自体は無駄にならないんだよね。あ、こんな動きも出来るのかって発見があるから。まぁでも峰を触るような馬鹿げたようなやつは刀に良くないからやらないけどね。中村泰三郎の本に書いてあったけど、まぁ威力を増すために効果的な方法じゃないのは明白だけどあとは理由としてそもそも塩っぽい人間の手で刀を直に触るなんてことは刀法上ありえないことなんだそうだ。あとなんかうそ臭い居合いの動画とかでよくある峰を左手で押さえてポーズを取るみたいなさ、あんなのも実際に使うことなんてないからね。映画の殺陣とか演出なら別として。あんなポーズ取ってる暇があったら斬れって話じゃないですか?もしくはそんなかっこいいポーズ取っても相手はビビることもなく斬ってくるぞってことだよね。


こうやってやってる中で自分が思う居合いってのがどんどん出来てくるから馬鹿馬鹿しいものがより馬鹿馬鹿しく見えてきて苛立たしくなってくるんだよね。なんかそれが余計にこんな風にならないでちゃんとした居合いをやろう!っていうモチベーションにもなってるんだよね。あとあれね、そういうポーズを取ろうとするような映画みたいなやつってそもそも目的がそのポーズを取ることにあるんで全然斬るっていう雰囲気が無いんだよね。抽象的に言えば殺気が一切ない。そりゃそうだ。ポーズを取ることが目的なんだから。いや、そりゃ逆でしょ。斬るためにそのポーズが必要なんだったらあれだけどさ、ポーズを取ること自体が目的化したらそりゃ駄目でしょ。


いや、普通に考えてさ、「あいつを殺そう!」って完全に決心したやつがダンボールとか集めてきて何枚も重ねてそれを殺す人間に見立てて刺す練習をするとかさ、型がどうのじゃなくてもう目的が殺すってことだから動きとか必然的にマジになってきて怖いじゃないですか?アドレナリンが出てきて相乗効果で余計に刺す強さがどんどん増してくるわけでしょ?興奮してる人が相手を滅多刺しにするってこういう原理だよね。これは別に火曜サスペンスも真っ青な滅多刺しという方法を知らなくても興奮した人間が相手を殺そうとしてれば自然に出てくる動きなんだよね。これこそが殺す動きでしょってことなんだよね。こういう殺すとか斬るとか刺すっていう前提でそれを合理化して無駄の無い動きにして正確性と殺傷能力を確かなものにしていくっていうのがようは殺傷の精度を上げるってことになるわけでしょ?ようはこれが目的じゃないとおかしいよね。まぁでもそんな殺気立ったものは現代の日本では必要とされてないから武道は心を涵養するスポーツで十分なんだってまぁそりゃそれでいいけどでもそれは武道じゃないでしょってことなんだよね。しつこいようだけど。


んでもこういう理念で武道をやれ!と言ってるわけじゃないんだよね。そもそも馬鹿が多い世の中では自分にある程度のスキルがつくと勘違いして自分は強いんだ!って思ったりさ、もう自分は達人なんだ!って思い上がったりするわけじゃないですか?だからやたらめったら色んな人に教えるもんじゃなくてちゃんとそれを使いこなせるような徳のある人がやるもんなんだよね。端的に言えばやれる人が極めて限られているものだと言えるよね。馬鹿がやったら単純に「殺人術」にも成りかねないわけで。だから全ての人に門が開かれてるわけじゃないよね。武道を通じてそういう徳を学んでいくという話がよくあるけどまぁそれが出来たら苦労しないですよね。それが出来てたらみんな武道をやるべきでしょう。でもそうはならないわけじゃん?元々ある程度の人が武道を通じて色々と発見をするわけである程度の人じゃないとそれはありえないんだよね。やたら殺気だとか殺すってことだとかそんなところばかりにフォーカスするようなダークフォースに犯されるような人が多いわけですよ。んでもまぁそれはダークフォースに犯されるというよりかは元々そういう人間が暴力に直結するようなことを学んだらそんなことになるって話だよね。そんなやつが武道をやったらそれはもう殺人術ですよね。武道じゃないですよね。それは。馬鹿に刃物みたいなもんだよね。いや、もんだよねっつーかまさしく馬鹿に刃物だろう。居合いの場合は特に。


俺がこんなご時勢に自粛もせずに物騒なことを書き続けるのは自分がそういうものを扱えるだけの基盤があるって自負してるからだよね。フォースビンビンなジェダイなので(笑)刃物の扱い方を覚えたっつーんで試し切りだ!なんつって通り魔事件とかを起こすことはまずありえないわけだからっつってもここだけ見てればキチガイにしか見えないかもしれないけど、俺が今これをやってるっつー流れで言えばただの暴力とは程遠いものだってのが分かるでしょ?そんなことはあえて書く必要もないだろうから書いてないんだけどまぁ一応ね。武道は訓練上は人殺しを想定するけど武道自体の目的は人殺しではないってことだよね。そういう意味での鞘の中なら大いに納得なんですよ。血なまぐさい実践的な動きあっての鞘の内ならね。これが論理的整合性ってものですよ。


あ、そろそろ寝るわ。んじゃまた。