幸福の追求について。

うちの家業でさ、妹が近所のキチガイに目をつけられて目の敵みたいにされてるんだよね。具体的にどんなやつか?ってのを書くと特定できるかもしれないんで書かないけど、まぁここからはそいつらの性質を抽象化して書こうと思うんだけどさ、その夫婦ってのがこの辺一帯で有名なキチガイで、例えば近所の人は自分の敷地内でタバコを吸ってても「そんなところでタバコ吸ってんじゃねーぞ!この野郎!」とかって怒鳴られたりしてるんだよね。完全なるキチガイですね。で、うちは家業が家業だけに「こんなとこで商売やるんじゃねーぞ!馬鹿野郎!」なんてこの辺一帯に響き渡るような怒鳴り声で文句を言われたんだそうだ。


俺は幸いなことにその場に居合わせてないんだけど、父も妹も「そんなの意に介さない」っつーか「そんなの気にしてたら仕事できない」って言うんだけど、まぁそりゃ言われたこと自体はいやなんだろうけどさ、やっぱなんかこういうところに凄まじい社会性を感じるんだよね。父もなんだかんだで世の中でやってきただけあって慣れてるっつーとあれだけど、「意に介さない」という受け流しが出来るんだよね。妹なんかはそのキチガイ夫婦の夫人のほうに会うたびに「臭い!」だの「煩い!」だのわざわざ自転車で近くに来てまで言うらしいんだよね。で、それを笑い事のように言うもんだから俺は唖然としたんだよね。いや、言われること自体は知ってたんだよ。有名なキチガイ夫婦だから。でもそういうことを言われて笑い話に出来ているというその精神構造が凄い!と思ってさ、いや、俺なんてあれですよ、仏教だなんだっつって普段は平常心だなんつって0を保ってるように見えてもあからさまな理不尽な攻撃とかに関しては意思が介在する前に反射的に「なんだとこの野郎!」って思っちゃうっつーか思うというよりかは反応ですよね。短気と言えばそれまでですね。


ネットの場合、何かを言われても「意に介する」というプロセスを意図的に取り込むことができるじゃん?そのまま脊髄反射的に返信したり罵詈雑言に対して言葉で何を書いてもしょうがないから意図的に受け流しというのが出来るんだけど、俺はリアルじゃ絶対無理ですよ。家族にも暴力沙汰だけは絶対に辞めてほしいって言われてるぐらい短気なんですよね。まぁでも普段生活してればそんな状況には陥らないから大丈夫なんだけど、仮にそんなことを言われたら駄目だね。俺は。あれなんだよね、「あー言われたらどうしよう・・・怖いよう」じゃなくて言われたときにすぐキレる自分が怖いからなるべく会わないようにしないと問題になっちゃうってことなんだよね。


それはなんつーんだろうな?何でこんなにすぐ怒りを感じやすいのかな?ってことなんだよね。まぁでも全てはADHDとかOE的な話で説明がつくんだけどね。激情型なので暴力事件を起こしやすいっつーのは確かにそうなんだよね。昔に心理テストをやったときにももろに激情型と診断されていたり。でもこれと実際に自分が強いということは関係ないですよ。強い弱いんじゃなくてもう怒ったら自分がコントロールできなくなるってことなんだよね。いや、これには色々あってさ・・・いや、語るよ。今日は(笑)


いや、元々まぁ凄く暴力的なのは子供の頃からそうなんだよね。すぐ手を出す子だったから本当にどうしようもなかった。で、あまりに調子に乗りすぎてるっつーんでクラスの男子全員から仕返しみたいな感じで総攻撃を受けたってのが二回ほどあるんだよね。いや、一回で懲りない俺も俺なんだけど。で、そういうときに父だったと思うんだけど父がその状況を理解していたかともかくとして人に気を使わなきゃいけないっていうことを凄く言われたんだよね。で、自分がこんなに村八分になってしまったというのは全部自分が悪かったんだ!っつって猛烈に反省して内面を変えていったんだよね。その結果、凄く我慢する子になったんだよねっつってもまぁ比較的なんだけど。嫌なことを言われても怒らないで我慢するみたいなのが良いことなんだって思うようになって、まぁ結局、後になって分かったんだけどこの我慢をするということが自分の元々の気質にとって凄くメンタル的にヘビーなことだったんだってのが分かってさ、だからまぁ心が壊れて中学ぐらいに完全に駄目になったんだよね。


自律神経失調症みたいになって毎日下痢してたし頭から変な油が出てふけが止まらなくなったり「またふけが出てたらどうしよう・・・」とかって思うじゃん?もうすでにパニック発作はあったんだけど無理に中学に通っててんで学生服のときなんかはふけが目立つと思い込んでいて凄く視線が気になったりして。で、まぁ統合失調症気味になって鬱になってパニック発作にもなって大変だったんですよね。今思うと全ての原因は元々の気質に合わない我慢し続けるということを自分に強いてたっていうことだったんだよね。学校とかが狂ってたっつーのは今思えばどこも一緒なんだよね。変な教師がいたとか狂ったルールみたいなのがあるとか今はネットがあるから「あーみんなそうだったんだー」って分かるじゃないですか?だから自分が格別変な状況に居たとは思えないんだよね。


で、まぁあれなんだよね、我慢が全部の原因だったんだって分かった後はまた極端で一気に戻したんですよね。元に。で、まぁ気性が荒い感じに戻ったんだけどでもこれだと社会生活が凄く困難なものになるんだよねっつってもまぁその社会にもよるんだけどさ、いや、いちいちキレてたらキリがないじゃないですか?でもまぁーあれだなーバイトとかはよく我慢してやってたなぁーとは思うんだけど、でも完全に鬱とかが酷くなるんだよね。我慢しなきゃいけないことが多いから。んじゃあバイトやめて休んでまたバイトなんつっても我慢があるとまたどうせ中学の頃のサイクルに戻るわけよ。なんかだからジレンマなんですよ。今は人と接さないで家業の手伝いをして話が済んでるからいいけども、そんな恵まれた環境にあるからこそ色々なことに打ち込めるわけで、それで人間性がどうのみたいな話も出来るんだけど、それが許されないような環境にいる人たちが大半じゃないですか?で、俺なんてのは仮にその近所のキチガイに父や妹が言われたようなことを言われたら絶対無理だなっていうレベルなわけですよ。俺の個人の問題だったらいいけど家族経営の中でその従業員の一人がいざこざを起こすとか家族に迷惑がかかるじゃん?まぁでもそういうのばっかですよね。怒るときは怒ればいいっつっても怒れない理由ってのが多すぎるんだよな。で、トラブルを起こすまいとする我慢がデフォになるんだよね。日本は特にそうだよね。病んでいる人が多いのも明らかに異常な我慢を強いられすぎているってのがあるわけだ。


俺の例は極端だけど俺が我慢しなかったらまぁ何か言われたらキレるじゃないですか?普通逆でさ、若い頃にしょっちゅうキレてたやつが大人になってちゃんとした振る舞いをするようになるってことだと思うんだけど、俺の場合、幼少期に我慢し続けて壊れてその後に我慢が駄目だったんだ!と気がついて元々の自然体に戻らないとメンタルが駄目になる!ってことで戻したわけじゃん?んでも結果的にキレやすい人の典型みたいになっちゃってるっていう。っつってもあれですよ、よほどなことがない限りキレないですよ。それは。でも理不尽なことがあると本当に駄目なんだよね。そりゃそうだ。普通に歩いてて「臭い!」とか「煩い!」とかって言われたらそりゃ我慢なんて無理だよね。んでもなんかいじめられっ子の心理ってこれなんだよね。怒っちゃ駄目だ!と思うから凄く我慢するようになって自殺とかしちゃうわけだ。まぁいじめの場合の「臭い!」とか「死ね!」というのと今のうちの家業に対する因縁ってのは別なんだけどさ、まぁでもそこを俺の個人の問題にするとさ、結局まぁ怒るってことがトラブルの元だから怒ったら駄目ってことになるじゃん?いじめの場合、怒っていいんだけど暴力とかは絶対駄目!っていう風になってると反撃するっていう選択肢が残されないんだよね。


だから言葉の暴力が猛威を振るうようになる。俺は昔からこの構造が問題なんだって言い続けてきたけど、かといっても別に暴力肯定ではないんだけど、ただやっぱり必要な暴力ってあるじゃないですか?罵詈雑言浴びせられても何もできないどころかちょっと突き飛ばしたりでもすればお縄ってそりゃ嫌がらせが物理的な威力を持つようになるよね。何を言ってもいいわけだ。んでもそれに対して暴力で反応したら暴力ということで国家権力が介入してきて罵詈雑言を発してたやつを守るというか、まぁ暴力を振るったほうを一方的に裁くんだよね。んでもだったら言葉の暴力というのはどういう風に対処すればいいのか?ってことになるじゃん?あとあれなんだよな、その近所のキチガイは「あそこ煩いから今度警察に言おうと思ってるのよー」なんてわざと大きな声で喋ってたりするらしいんだよね。これまた俺はそれを見たこともないし会ったこともないのであれなんだけどさ、ただでもあれなんだよね、家族は「商売をさせてもらってるんだから我慢しなきゃいけない」みたいな感じにならざるを得ない感じになってるんだよねってまぁ普通みんなそうだと思うんだけど。んでも状況はどうあれハラスメントの威力ってこういうところじゃないですか?ゲームで言えば相手のリーチが届かないところからチビチビ撃ってくるみたいなもんだよね。そんなもん外道のやることだ!って言ったところで世の中は外道だらけなんで人としてどうあるべきか?なんつー道徳を説いてもしょうがないわけだ。


だからまぁ外道の嫌がらせってどこでも横行するんだよね。それは凄く構造的なものだと思うんだよね。んでもさ、警察は民事介入しないなんつーけどさ、例えばあれだ、小錦の奥さんが散歩中に誰かに怒鳴られてたから「おい!何をしてるんだ!やめろ!」って突き飛ばしたら傷害事件になったとかさ、まぁ理由としてはマンションの敷地内で犬のうんこをさせるな!ってことだったらしいんだけど、うんこを放置してたんだったらともかくしちゃったものを処理してる最中にそんなに怒鳴られたんじゃあたまったもんじゃないよな。「おい!やめろ!」って守りに入るぐらいの怒鳴りっぷりって尋常じゃないでしょ?んでも手を出したら負けなんだよね。人道的に小錦は奥さんを守ろうとしただけなのにまぁ元力士というのもあるんだけど突き飛ばしが暴力になっちゃうっていう。


で、仮にそのマンションの管理人だかがサイコパスだったとしてもサイコパスは守られるわけじゃないですか?この場合、サイコパスが被害者なんだから。でもさ、あまりにやり過ぎたら殴られるってこれって最低限のものだと思うんだよね。俺は。なんかでもさ、俺のイメージだと昭和ってまだそういうのが残ってた気がするんだよね。必ずしも正義の暴力だけではなかったにせよ今ほど極端に暴力に過剰反応して何でも逮捕!ってことにはなってなかった気がするんだよな。俺はこれと今の世の中の閉塞感とか病理って絶対リンクしてるって確信してるんだよね。最低限の暴力すらも振るえないっていう状況だよね。いや、これがまぁ俺の実存で言うところの我慢して自分が病むのか、我慢せずにそのままの自分を発露させるのか?ってことじゃん?でも俺の場合、極端な話だと後者をやるとそれこそお縄になるわけだ。だから必然的にトラブルがあった場合は絶対我慢しなきゃいけないってことになる。なんでもかんでも謝ってね。


結局さ、いや、例としての近所なんだけどさ、近所中で有名でもみんな我慢するしかないってこれも結局はそのキチガイ夫婦が永遠とキチガイのままいられるっていうことじゃないですか?反撃されるということがありえないので彼らは永遠と自然体のまま他人に嫌がらせをしながら何のお咎めもなく生きていられるわけだ。いや、その人の敷地内でタバコを吸ってたんだったらともかく自分ちの庭でタバコを吸ってたら怒鳴られたってありえないっすよね。その人はどうその状況を切り抜けたんだろうか?って思うんだよね。「はい。すみません」っていう我慢だったに違いないんだけど。結局、そういうトラブルを避けるっていう原理があるからハラスメントが相対的に強くなるじゃないですか?あとは言葉の暴力ね。「関わらないようにする」といっても出会うたびに言われたんじゃどうしようもないでしょ。でもどこに何を言えるわけでもなくひたすら我慢し続けるしかない。


で、これで解決!とは言わないまでもそこでさ、あまりに酷いから殴られたっつっても「そんな嫌がらせしてたんだったらしょうがないでしょ」的な自業自得っつー解釈があるとさ、一気に構造が変わるよね。やり過ぎたら然るべき方法でやり返されるっていうまぁ動物とかのレベルだったら普通の摂理として存在するものですよね。でも人間界の場合、何がなんでも暴力はどんなものでも悪になるのでどうそれに至ったか?なんてのは省みられることもなく即物的に暴力ということのみにフォーカスして裁かれるんだよね。で、まぁ執拗な嫌がらせをするやつらって大抵サイコパスなんで「迷惑なのでやめてください」なんつって聞くような人たちじゃないじゃん?ちゃんと営業許可を得て営業している店の人にいきなり怒鳴りつけるなんて尋常じゃないですよね。でもなんでうちは「営業しているから」という理由で負い目を感じなきゃいけないのか?ってことだよね。


「営業させていただいてる」ってのはうちを利用してくださっているお客さんに対してなんであって近所のサイコパス夫婦に対してじゃないじゃん?でもなんでそのサイコパス夫婦に対してあたかも負い目があるように振舞わなきゃいけないのか?まぁだから結局、方法としては「意に介さない」ということしか無くなるんだけど、俺はこういう不条理に耐えられないんで本当に駄目なんだよね。でも一般的に言われる社会性とか「大人であること」ってこういう理不尽にも耐えるってことだったりするじゃん?んでもそれが「そういうものなんだよ」という暗黙知になっているからこそその束縛感が尋常ではなくて結果的に多くの人が異常な我慢を強いられていたり息苦しさを感じてたりするんだよね。


でも必要な我慢と無理な我慢ってあると思うんですよ。社長がワンマンで困ってるってこれはまぁでもその会社でやっていくなら必要な我慢ですよね。困ってるっつーかそれがいやなんだったら職場を変えるしかない。いや、ブラック企業は別ですよ。これは暴力と同じで法律違反なんだから我慢することはないんだけど、んでもなぜか捕まらなかったり裁かれないよね。やたらすぐ捕まるのが「ただ押しただけ」の傷害事件だったりするわけじゃん?権力を使ったような構造的な暴力とか相手に反撃の余地がないような状況で執拗に嫌がらせをするみたいなことは全然裁かれないもんね。まぁでもあれか、そういうものを暴力で解決するのがまぁやくざ屋さんだったのかな?昔は。お金を払う代わりに変な客が来たり異常なクレーマーが来たら用心棒的に来てもらうっていうさ、これって日本のやくざ独特のもんなのかな?って思ってたら世界中に同じようなのがあるんですよね。


暴力は暴力のプロに任せろってことなのか。でもこれってブラックマーケットと一緒でさ、やくざの存在を許さないんだったら暴力のプロに依頼なんかしなくても個人同士で解決できるようにしたほうがいいじゃんね?個人が暴力を振るいたくても振るえないからやくざに頼むしかないって今はどうなのか分からないけどさ、結局、暴力を合法的といえるかはともかくプロのやり方で捕まらない程度の暴力の振り方ってやくざって手練手管として持ってるじゃん?それが特権的な商売道具になってるっつーのがもうアウトだよね。だったらそんなの出来る人は個人で大切な人とか家族を守るために行使できるべきでしょ?奥さんを守ろうとして何が悪いんだ?って話なわけで。


うちの場合、県の許可を得て営業しているっていう正当な権利の侵害ですよね。まぁ嫌がらせの時点でそもそも人権侵害みたいなもんなんだけど。あと「いつか警察に行ってやろうと思ってる」みたいな脅しみたいなのもあるわけじゃん?いや、逆なんだけどな(笑)あ、同じような話があってねっていうか民家も近くにあるようなところでのあるあるなんだろうけどさ、ギャラリーをやってる人がいてさ、今はもうやってないんだけど、隣が民家だったりしたんだよね。で、その家の無職っぽいポン中みたいなアッパー系の息子がずーっと怒鳴り込んできてたらしいんだよね。まぁようはギャラリーなんでギャラリーの前とかで見に来た人たちが喋ってるとかそういうのが気に食わなかったんだろう。でも騒音というのは規定があってそれをクリアしてたらそれは法に触れないわけだ。んでもそのギャラリーの主の人は「うちは法的なレベルの範囲内でやってるからいいんだ」的なことは言ってなくてギャラリーの外では喋らないでくださいとかとにかくまぁそのキチガイポン中に文句を言われまいと気を使ってたんだよね。それでも文句を言って来るからもうなんかあれなんだって、ギャラリーをやってるってこと自体が気に食わなくて因縁をつけてきてるとしか思えないようなレベルだったんだってよ。


で、言い合いになって「んじゃあ警察を呼びますか?」ってことになったらしいんだよね。いや、うちは騒音規定内で営業してますからっていうさ、それでも文句を言うなら逆に警察を呼びますか?って話になったらしいんだよね。それでまぁその場はあれなんだよな、どう収まったのかは分からないけどさ、基本的にあれなんだよね、何で「無職っぽい」って書いたか?っつーとずーっと家にいるらしいんだよね。で、四六時中文句を言ってくるとかで。逆に普通のサラリーマンみたいな生活をしてたら日中家にいないしそんなにしょっちゅう文句は言いにこれないだろうとかで。


まぁこれってハラスメントですよね。ある程度人が集まるんで話し声がするというのはあるにせよ生活騒音の範囲内に入るようなものだったら「静かにしてもらえませんか?」ぐらいの注意は出来ても「てめー!この野郎!どういうつもりだコラ!」なんて面と向かって言えるなんつー話じゃないわけですよね?面白いのがさ、うちにしてもそのギャラリーにしても似たような環境というのがあると似たような問題というのが生まれてくるってことね。で、なんで必ず営業している店の周りにキチガイがいるのか?って話になるんだけど、なんかそういう話多いんだよね。もしくは潜在的キチガイは多くて、こういう場合にそういう連中が顕在化してくるっていう話だけかもしれないけどね。なんかさ、極論だけど騒音トラブルって一気に殺人事件になったりするじゃん?まぁこの場合、深夜にピアノの演奏を永遠とするとかでノイローゼになるレベルで気が滅入って殺しちゃったとかそういう話なんだけど、なんにしても一気に殺人事件になる極端さって暴力の過度な抑圧ってのがあるんだよね。やるかやらないか?みたいな次元の話になっちゃって中間がないんだよね。ちょっと小競り合いとかあったっていいわけじゃん?


でも手を出したらすぐ警察が来るから小競り合いは起こらないんだよね。で、そういうことになるともう一気に殺すしかないってことになっちゃう。凄く病んでますよね。あとはあれね、ある種の当たり屋みたいなのもいるよね。タクシードライバーなんかに多いらしいけど無駄に走行距離を伸ばすために変な道を行ったり来たりして乗客が文句を言うとドライバーが挑発するような相手を怒らせるようなことを言う。で、胸倉を掴もうものならすぐ警察に電話で警察には「胸倉を掴まれてドキドキして仕事が出来なくなった」とかそんなに強くやってないのに「首がムチウチっぽくなった」とか金を巻き上げる方便ってのを使いまくるんだよね。で、明らかに距離の水増しのために変な道を行ったり来たりしてたドライバーに非があるのに客がドライバーの胸倉を掴んだだけで暴行罪になるんだよね。で、示談だなんつって客がドライバーに多額の金を払うことになる。こんなもんただの強請りですよね。だからまぁタクシードライバーに手は絶対出すな!なんつーのが常識として言われるわけだけど、こんなのってどうなんですかね?それでも手を出すほうが悪いなんて言えるかね?


暴力=悪っつー考え方が生み出す弊害だよね。極端に規制し過ぎると良くないこともあるってことは暴力が絶対悪として認識されているから考えられもしないもんね。そんなことを言おうものなら「あなたは暴力を肯定するんですか!」なんて言われる。いや、だったらハラスメントとかも精神的なダメージを与えるものなんだからそれもちゃんと罪として認められない限りは物理的暴力とのバランスが取れないからそういう意味である意味では肯定しますねってことになっちゃう。捕まるのが怖いから正当な理由があっても絶対に手は出しちゃいけない!ってことになってるわけじゃないですか?だったらあれですよ、同じように捕まるからハラスメントまがいのことは絶対しちゃいけない!ってことにもならなきゃいけませんよね。いや、ハラスメントも罪になるんだったらいいんですよ。


暴力なんて要りません。でも言葉の暴力がグレーゾーンだったりやりたい放題だったとすれば逆説的に物理的暴力の有効性というのが生まれてしまうってことなんですよね。そんなのは駄目だから精神的ダメージに対しても同じようなレベルの規制をかけろって思うわけですね。ハラスメントなんかは証拠が無いから訴えることがほぼできないっつーけどそんな実証性の話をしたら暴力然りじゃないですか?殴られたっつって自分の鼻を殴って出頭すれば暴力になりますよね。所謂、狂言というやつか。でもさっきのタクシードライバーの強請りなんてほぼ自作自演の狂言じゃないですか?それでも胸倉を掴んだということだけで客が悪いってことになっちゃう。でも胸倉掴まれてムチウチになったとかさ、いや、ナニワ金融道でも当たり屋が出てくるけど、あの構造って凄いよね。本当に。


まぁ俺が言う例は極端なものばかりかもしれないけど拳同士のやりあいとかがないから一気に刃物になるって結構一般論でも言われることじゃないですか?それってそうだと思うんですよね。あとは全く暴力が不可なんで一気に刃物にいくぐらいまで色々なもんが溜まっちゃうっていう不健全さがあるよね。これは明らかに不健全でしょう。暴力の絶対的否定って病理ですよ。本当に。実際に多くの人が病んでるしサイコパスがやりたい放題だし世の中まともな人が泣き寝入りみたいなケースばっかだし本当にどうしようもないですよね。いや、俺が言うのはあれなんだよね、そこまで物理的な暴力を規制するなら間接的な暴力も同様に規制しないと駄目だってことなんですよ。本当にこれに尽きる。これのバランスが取れてないから一気に刃物になっちゃうわけよ。抑圧っていい事ばかりじゃないですよね?人間が秘めているアグレッションというのは認めないと駄目だよね。それの発露は絶対いけませんってそりゃメンタル壊れますよ。いや、これってまぁ俺の実存っつーか気性の話と同じでしょ?


我慢をすれば病むし、かといっても発露をすると社会性がゼロになったりお縄になったりするっつっても普通にしてる分には攻撃性が発露することなんて無いわけだ。でも世の中理不尽なことをしてきたりあえて殴られようと思ってるとしか思えないような行動をする人たちが大勢いるじゃん?で、嫌がらせは法律的に規制されないからやりたい放題なわけじゃん?だから腕っ節が強い人たちってのは使う場が無いかあとは刑務所にいるかで世の中の強いやつらってのは精神的な攻撃が得意なやつらばっかってことになるんだよね。ましてや金とかがあったら余計に強いじゃないですか?もう本当に俺はこういう仕組みが許せないんだよね。このやるせない気持ちになっているっていう、俺は当事者じゃないにしても間接的に話を聞いたりしてそんな気になるのに、我慢してる人たちのことを考えたら気が狂うぐらいだよね。俺が普通に時間を過ごしているって最中にも世の中には理不尽なことにひたすら耐えて精神を病んでいくって人たちが大勢居るわけだ。


まぁこれが原因とまでは言わないけど自殺率やら精神的に病みやすい社会構造の原因の一つではあるよね。だったらんじゃあ解決策としては暴力なのか?ってそれは違うんですよ。胸倉を掴んだだけみたいなトリビアルなことでも暴行罪になるんだったら嫌がらせも同じく精神的な暴行罪にならないと駄目ってことですよね。だってそういうのに我慢するっていうこととか法的に裁かれないからやりたい放題ってのがいじめを生み出してるわけでしょ?学校に限らず会社とかでも多いっつーんだから呆れるよな。本当に。んじゃあ嫌がらせをするやつを殴ったらっつったらそんなもん仕事を失うことにもなるし家族がいたら家族にも迷惑がかかるからひたすら自分はただ耐えるしかないってことになるよね。この両ばさみな地獄みたいな状況ね。考えただけで気が狂う。


俺がなんで前からこういう暴力の話にこだわるか?ってそれがまぁ冒頭に書いたような俺の実存なんですよ。自分がこういう性格なので耐えられない人の気持ちが死ぬほど分かるってことで憤りを感じるのね。「気にしなきゃいい」って受け流せる人はいいけどそういう人だけじゃない。で、結果的に受け流せない人は何らかの事件を起こしちゃって社会的に抹殺されたりするんでしょう。理由はどうあれ暴力が絶対的に悪だったら傷害事件を起こしたってだけでもう犯罪者のレッテル貼りされるもんね。暴力にだってコンテキストはあるわけだけどそんなものを読む人はいないわけだ。それが非常にマズいわけね。俺はこういう性格で読める人だからこそ色々と言いたくもなるわけだ。話し合いで済めばこれほど楽なことはないよね。


「やめてください」「はい。分かりました」で済んでないわけでしょ?なんつーかまぁようは「傷」の定義ですよね。かすり傷でもそれが暴力なら傷害罪になるんでしょ?でもちょっとした悪口みたいなものに関しては心のかすり傷でも罪にはならないんだもんね。なんつーか暴力の定義だよね。あと人によってはちょっとした悪口でも凄まじく傷つく人もいるわけで、「いや・・・何もそのぐらいのことで傷つかなくても・・・」みたいに普通の人は思うようなのでもようは心の痛みってのは主観的で物理的な痛みとは違うじゃん?感度も人それぞれだよね。だから変な話、外傷なんかよりよっぽど酷いもんだよね。だからまぁあれでしょ、繊細すぎる人って社会でやっていけないんでしょ。でも繊細すぎるということがイコール弱さになって弱肉強食の世界ではやっていけないみたいに淘汰されるのってどうかと思うんですよ。弱肉強食っつってもライオンみたいな強さを持った人が上に君臨してるならともかく現実はめちゃめちゃ病んでるわけじゃん?社長とか会長みたいなクラスのやつらのサイコパス率ってめちゃめちゃ高いんだよね。


そういうやつらを強者とするのか?ってことだよね。昔だったらとっくに殺されてるみたいなやつが平気で今は生きられるわけじゃん?暴力を完全否定した結果これだもんね。悪が蔓延りすぎでしょう。あとさ、よく言うじゃない?自分の正しさの立証のためには他人を傷つけてもかまわないみたいな人は駄目だみたいなさ、ようは絶対の正しさに立ってるようなやつは駄目だっつーけどそれってケースバイケースじゃないですか?人に嫌がらせをすることの是非なんて議論の余地ないですよね?俺はそういうレベルでのみの最低限の正しさにしか立脚しませんよ。それすらも相対化して「絶対的な正義なんて無い」なんて言えるのかね?例えば人を嫌がらせで追い詰めて自殺に追い込んだってことはどう考えても良くないことでしょう。それを「良くないことだ」って言えないっておかしいでしょ?


いや、でも本当に考えてみてほしいのよ。「暴力はいけない」の根拠とは?ってことなんですよ。しつこいように精神的な暴力も同じように「いけない」とされるなら全くそれに異論はないんですよ。価値観はともかく法的には裁くのは難しいって理由だけで精神的な暴力は見過ごされて物理的な暴力のみ異常に規制されるってバランスおかしいでしょ?アンバランスって絶対問題が起きるじゃないですか?なんかそれこそ摂理みたいなのに反するような。暴力だなんつって医者に無理やり診断書書かせて警察に届けて訴えるとかさ、それで傷害罪になりうるとかって何なの?って話でしょ。これが成立するなら言葉の暴力だっつって精神科医に診断書書かせて警察に届けて訴えることが成立してないと駄目だよね。こういう狂言まがいのことが平気で行われているならなおさら物理的暴力と精神的な暴力の区別なんてつけなくていいわけだ。まぁもしくは区別をつけても精神的な暴力ってのもそれこそ物理的な暴力ぐらい大きなことなんだっつー認識が必要だよね。なんかあとはあれだよな、心的外傷っつって立証が難しいんでほとんど泣き寝入りっていうこれが駄目だよな。暴力並みにインスタントに立証が可能であーいえばこういうが可能なんであれば相当な理由が無い限り他人を攻撃なんてできないだろう。


それは他人を簡単に殴ることが不可能なように他人に平気で言葉の暴力を振るうということの敷居ってのを上げないといけないよね。それをやるからには相当なコミットメントをしてますよってぐらいの敷居じゃないと。言葉の暴力で言うとジャブぐらいなら全部無罪ってのが世の中ですよね。で、心が弱い人にとってはそれはボディーブロー並のダメージを受けてるんだけど、「そんぐらい我慢しろ」みたいな通念によって「そんなもんジャブ程度だろ。大人なんだから我慢しろ」みたいなことになるんだよね。それで言うと所謂「社会人」の人たちが言う「大人」とか「社会人」の定義って何なんですか?ってことだよね。自分を犠牲にして食べるために何もかもを我慢するってのが大人なんだったらそれは生ける屍ですよね。青二才だといわれようがなんだろうが俺は絶対そんなもんには迎合しないよ。迎合する必要があるんだったらいつも書くように絶対自殺するよ。


んでも不思議なことに俺みたいなある種の当たり前の主張が「いやなもの」に見える人もいるんだよね。「迎合するぐらいなら自殺する」っつーと「あなたの自殺を楽しみにしてます」っていう人がいる。これはもう闇に犯されているというよりかは闇に生まれたというもう生まれつきのものなのかな?って思いますよね。「こんな化石みたいな人がまだいたのか」的なこともよく言われるよね。闇だらけ病みだらけが普通なので健全な人なんてもうほとんどいないだろうってことになっちゃうんだろう。そんな中でネットのおかげでなんか知らんけど一人でそういうものに抗い続けてるやつがいるってことが伝わるんだよね。っつーかそういうやつがいなくなったら世の中終わりですよ。自分たちの子孫にとっても何のメリットも無いただ生き辛い闇の時代が永遠と続くだけになっちゃうわけじゃん?その闇をなんであえて担う必要があるのか?ってことじゃん?


現状の生きづらい変な世の中がいいっていうのかね?まぁこれで言うと文化全般そうなんだけど一般人の意識の低さですよね。それが結果的に全体的な不幸を呼び寄せてるっていう。もっと共通善にコミットできるような幸福の追求ってのを個人がやらないといけないんじゃないの?あ、んで武道とかの話に繋げると武士道とかってくだらないビジネス書とかで変な解釈が横行してて「家族のために我慢するのが侍」みたいなさ、家を守るために自分を犠牲にするのが美徳なんつって不公平なことにも耐えるというのが武士なんだ!みたいな腐ったことを言ってたりするよね。いや、逆ですよね。我慢しなきゃいけないんだけど限度を超えた不正がある場合、命に変えてでもそういうことをする不逞の輩を屠るのが武士じゃないですか?ビジネス書で言われている我慢の武士道って完全なる武士道の曲解ですよね。全く歴史的な考察が無くただそのものだけを現代的に解釈するからどうしようもなくなるんだよね。


まぁそれで言うと哲学とか文献全般そうなんだけどね。あとはまぁ個人を屠るだけじゃどうにもならない場合は抗議の割腹自殺ですよね。んでもこれも曲解されてて日本には腹切りという文化があるからサラリーマンが自殺するんだみたいなさ、それは全然違いますよね。変に解釈された武士道のように無駄な我慢を強いられて耐えられなくなって死んでるだけなんですよ。そこに抗議の意思も義憤も何もないですよ。ただあるのは想像もつかないような心の苦しみのみだよね。家族や子供のことなんかが考えられなくなるぐらいの心の苦しみだよね。そんなんで年間何万人も自殺してるわけですよ。そんなの明らかに駄目でしょ。もっとあれだよね、必要な我慢と無駄な我慢っつーのを分けて考えないと駄目だよね。ブラック企業で言えばブラックだって分かってるのに我慢してるってことは労働基準法の違反という雇用主の罪と同じ罪を犯しているんだってことを考えなきゃいけない。そういう我慢は自分は良くても連鎖して他人を不幸にするので今すぐやめてください。お願いだからやめてほしい。そういう個人の我慢って何も生まないんですよ。その人は究極的に不幸じゃどうしようもないですよ。


不幸ってのは連鎖しますからね、だから個人個人が幸福の追求をしていかないとみんなが幸せになれるわけがない。別にハッピー!なんて境地じゃなくてもまぁとりあえず不幸じゃないぐらいのもんでいいわけよ。それすらももはや追求できないって人が多すぎるもんね。諦めがデフォで不幸がデフォでそのうち不幸も不幸だと思わなくなってこれが普通なんだからお前も楽しそうにしてないでゾンビのように振舞えっていう負の連鎖が始まるんですよね。んだからもう俺は絶対そういうのに抗いますよ。もう徹底的に幸福を追求して色々な極めたいことを極めつくしてやるね。で、「どーだ?楽しそうだろう?数学に哲学に武道に居合いだぜ!」なんつってとにっかく幸福の追求をする。で、それを連鎖させるってことだよね。「いやーあの人めっちゃ楽しそうやんか。俺も何かハマれること探してみよう」ってことになるわけじゃん?これが幸福の追求の第一歩ですよ。


今は武道の関係で日本の歴史を調べることが多いんだけど、昔の人はいつ死ぬか分からないような時代だったからこそ幸福に生きるということに関して少なくとも今の日本人よりかはそういったスキルが卓越してたと思うね。ちょっとの幸福とかちょっとの楽しいことを最大限まで楽しみつくすかのような、幸福の追求のテクネーが卓越してたよね。まぁそれはいつ死ぬか分からないっていう環境があるからこそとも言えるんだけど、んでもなんか昔の日本人には学ぶことが多いよね。数寄者なんつー概念もあるけどなんつーか楽しみ方が上手いんだよね。娯楽を消費するというよりかは楽しいことを愛でるという感じかな。凄い感性だと思うんだよね。これ。社会の体制としては封建制で相当生きづらそうに見えるんだけど個人で見ると個人主義者的な人たちが多いんだよね。今は逆だよね。


社会の体制は民主主義で何もかもが自由なのに個人個人のメンタリティとかマインドセットが封建的過ぎるんだよね。ある意味、昔の人よりも自分を殺して自分を犠牲にしてるんじゃないか?ってぐらい。自分の志を貫徹するために自殺するって個人主義的じゃないとできないことですよね。しかもそれは美しい散り方とされて美的とされたわけだ。今やったら「ただの自分勝手な人」だもんね。「妻子を残して勝手に自殺するなんて!」ってことになる。嫌でも志を曲げてでも社会に迎合して食える道でやっていくしかないじゃないか!ってのが今のメンタリティですよね。昔の武士とは正反対の生き方ですよね。生きていくしかないし合計で70年とか80年ぐらい生きなきゃいけないっつーのが当たり前じゃん?色々と世の中は変わるわけで死ぬときは死ぬしかないだろうなっていう潔さが必要なんじゃないの?って思うよね。なんでそこまでして生きるということにこだわるのか?ってことじゃん?こだわるほどの何かがあればいいけど無かったら生きててどうなるの?って話だもんね。


病んでる社会を横目で見つつ自殺者の数を見て「明日はわが身・・・」なんて染み入る思いをひしひしと感じながら生きていく・・・なんてもうその時点ですでにお前はもう死んでいる!って話ですよ。まさしく亡者ですよね。なんかそれ自体も間違いだしデフォで80歳ぐらいまで生きないといけないから自ずと今の生き方とか振舞い方が決まってくるみたいな考え方が駄目だよね。もしかしたら明日死ぬかもしれないし食い詰めて10年後ぐらいには死んでるかもしれないけど何もかもを曲げて生きるよりかは生きたいように生きたほうがいいからそんな先のことなんて知らねーよ!でいいのよ。結果的にこういう生き方は先が見えないけど今を生きるという生き方になって形而上学的な先のことよりも今のことに必死なって取り組むってことになるじゃん?まぁ言わば微分的な生き方ですよ。で、そういう瞬間瞬間の強度という点が連続体となって鳥瞰すると人生っつーものになるわけじゃん?そういう強度の点の積分というのが人生という結果ということで「点はどの道続くだろう」ということではないんだよね。点を作っていって結果的にそれが連続体になって何年も続いてるってのが人生ってことなわけだから。確かジョブズも似たようなことを言ってたはず。まぁあとはドゥルーズも端的に言えば同じようなことを言ってたよね。まさしくニーチェ主義的な生き方なわけだけど俺の中では自然と武士道という日本の思想にもつながりを見出せるよね。


そんな感じで今日はこの辺で。