テロについて。

剣術について色々と調べてるうちに日本の歴史関係の本を色々と読むようになったって書いたけどさ、幕末の暗殺の本とか読んでても思うんだけど、まぁこれは前にも書いたことだしいつも書いてることの繰り返しなんだけどやっぱり暗殺とテロリズムって違いますよね。っつーかテロリズムって方便だよね。ネガティブなラベリングをするための言葉じゃん?勝てば官軍的にどっかの侵略を食い止めるために必死で国を守ろうとする人たちってのもまぁあれじゃないですか?テロリストとかって呼ばれますよね。視点を守る側にするとレジスタンスになるんだけど侵略してる側だとテロリストだよね。あ、んでもイスラム過激派とかはややこしいんだよね。単純に愛国的な理由でレジスタンスをやってる人たちと世界はイスラム教によって支配されるべきだみたいに考えているキチガイもいるわけで、んでもとりあえず目の前の行動ということだと侵略しているアメリカ軍を攻撃するってことで一致するじゃないですか?だから一緒に活動をしてるように見えるんだけど動機付けはバラバラですよね。それを言い出すとテロもレジスタンスも動機付けなんて個々によって違うから何を持ってテロというのか?とかレジスタンスとするのか?ってことになるよね。まぁようはこれって言葉とか視点の問題だから相対的なもんなんだよねってことなんだけど。


んでもまぁ政治的メッセージと共に公共の施設を爆発するとかってこれってもう政治的メッセージをなくしてると思うんだよね。そんなのただの無差別殺人じゃん?暗殺においてはピンポイントってことが重要視されるよね。それがシンボリックな意味で暗殺するのか利害で暗殺するのかは色々とあるんだけど、とりあえずあれじゃん?政治的な殺人ってピンポイントじゃないと成立しないじゃん?まぁでもあれですね、旧共産国がやってたような粛清とかもまぁ白色テロとかって呼ばれるらしいけど大量殺人とか権力による暴力によって支配するのもテロだったらさ、もう何もかもテロじゃんね?っていう。それを思ったのがこないだ「それでも僕はやってない」っていう痴漢冤罪の映画を見て思ったんだけどさ、いや、何気に見てなかったんだよね。これ。


ただまぁ痴漢冤罪がこういうものであるってのはなんかのドキュメンタリーとか色々と見てたりして知ってたんだけど相変わらず恐ろしいなっていうかまさしくこれがテロですよね。疑われて拘留されたら権力側が無罪という結果を出すのに都合が悪いんで強引に有罪にしようとするってテロですよね?あれってプロセスそのものがテロじゃないですか?裁判なんてやったって勝てませんよ?とかって示唆するとか示談のほうが安く済むって示唆したりとかさ、それが弁護士によるものであれ検察によるものであれ「システムがこうなんだからしょうがない」って明言するのは完全なるテロリズムですよね。お金もかかるし有罪か無罪かはともかくとして社会的地位も地に落ちるよっていう脅しをかけて「僕がやりました」って言わせるってことじゃん?権力による恐怖の支配ですよね。これは社会問題とかっていうレベルじゃなくてただの権力のテロなんですよ。中国政府が人権無視してすぐに死刑をやるのと同じような人権無視のテロですよね。


いや、恐怖による支配っつーのが定義なのであればさ、「君なんていつでもやめてもらってかまわないんだよ。代わりはいくらでもいるんだから」っていうハラスメントも権力によるテロですよね。「お前食えなくなるぞ」って普段から脅して定時になんて間違っても帰れると思うな!的な圧力をかけて平気で色々と無理なことをやらせるとかさ、こんなのいたるところで平気でやられてるじゃないですか?こないだの言葉の暴力と物理的な暴力の扱いの差って話になるんだけどさ、暴力による支配であることは変わりないじゃない?いや、物理的な暴力の場合、立証しやすくなるから法に訴えやすくなるけど、立証できなかったり国のレベルで改善しようと思ってないような労働基準法とかね、どうせ何をやろうが国は何もしないからやりたい放題だってのを利用して「いつでも首にするからな!」っていう脅しで人を支配するってさ、暴力よりたちが悪いですよね。武道の本とか読んでても暴力は絶対いけないことなんだ!的な教えってすげー昔からあるのね。


暴力を使わずに制するのが武道だ的なきれいごとが平気でかかれてたりする。いや、暴力を使わずに済むに越したことはないですよ。ただ現実は済んでないわけですよね。そもそも暴力を物理的な暴力にのみ定義の適用をするということ自体が誤りなんだよな。手出しが出来ないようなアドバンテージを利用して恐怖で支配するってのがテロなんだし、ようは暴力を振るうのと同じような効果を結果的に生み出しているって意味だったら方法が物理的なものだろうがそうじゃなかろうが関係ないですよね。方法ではなく暴力の定義によって暴力を決めなきゃ。そういう意味での本当の暴力反対には僕は大賛成なんですよね。でも痴漢冤罪って泣き寝入りじゃないですか?「そういうものだから」って済ませちゃったら暴力とかテロを認めることになりますよね。それが結果的に容認されてしまってるから逆説的にじゃあ何でもありじゃないか!ってことで物理的な暴力のテロなんかも解禁になっちゃいますよね。何でもありにしちゃいけない理由ってのがこれなんだよ。俺は本質的な意味での平和主義者だから厳密な意味での暴力というのは無くすべきだと思ってるわけね。でも物理性が無い暴力に関しては放任しすぎじゃないですか?で、何でんじゃあ直接行動とか武力的なことのみが暴力とされるのか?ってことでしょ?


痴漢冤罪なんてさ、社会的に抹殺されるようなもんなんだから言葉無き者の言葉としての暴力というのは発露しやすくなりますよね。何を言っても「あー痴漢の人ね」って思われるってことはもうロゴスを持たないってことじゃん?だったらもう全身を使って言葉を表現するしかないってことで自殺かテロかみたいなことになりますよねっつってもこの場合、テロじゃないんだよね。恐怖によって支配するんではなくて言葉では伝わらない抗議を命を使ってやるってことじゃない?だからテロでもなんでもないわけだ。むしろ論理的に正当なことしかやってないわけじゃない?あと権力の暴力に対しては市民ってのは抵抗できるっていう権利を持ってるじゃん?抵抗権ですよね。だから社会的に抹殺に追いやった公権力に対しては抵抗権を使えるわけだから暴力の発動も全く関係ない人を巻き添えにして何かをするみたいなとんでもないことを除けば認められるってことだよね?


だってこれが自然権なんだったらそうなるでしょ。国に支配されてるんじゃなくて暴力の委託をしてるわけじゃん?で、委託されてる側が明らかな違反をして市民を社会的抹殺に追いやったってことでしょ?この場合、立場としては抵抗権を持つ市民のほうが強いわけでしょ?だったら普段から考え付かないような大胆な抗議運動も権利で考えれば可能になる。それを行使するかどうかは別だけどね。でもまぁ行使したほうがいいと思いますよ。何のための権利か?ってことなんだから。これを建前上の形骸化された自然権にさせないためにも普段からそれは利用しなきゃいけないですよね。


まぁこういう場合でもあれですよ、仮に抵抗権を発動させて何かをやってもテロ扱いされますよね。それだけテロっつーラベル貼りは便利なんですよ。日本の歴史でもあれじゃん?「罪人」としてwantedされたら終わりじゃん?実際は抵抗をしただけだったり正当なことをやっただけなのに幕府は暴力を発動して個人を抹殺することが出来たわけでしょ?んーでもこれってよく考えると今もあんまり変わらないじゃんね?って思ったんだよね。安政の大獄って白色テロですよね。で、桜田門外の変というのは抵抗権の発動ともいえるわけじゃん?まぁ実際は抵抗権なんてこの頃は無かっただろうしそんな概念すら日本には無かったと思うけど論理的に考えれば整合性がありますよね。誰も桜田門外の変テロリズムとは言わないだろう。ね?そういうことなんですよ。井伊直弼から見たらテロリストに殺害されたってことになるけど、市民から見たら殺されて当然のやつだったわけだ。全体的に見ても幕府が衰退する原因みたいなのを作ったのもこれだったっつーわけでようは倫理規範っていう最低限のルールってのを守らないで何かをやっちゃうとバランスが取れなくなって何かが崩壊することになりますよってことなんだよね。


今はバランス取れてませんよね。物理的暴力がイデオロギー的にNGで権力的暴力はオッケーとか容認なんだもん。もしくは労働基準法なんてまじめに適用してたら色んな会社が破産しまくるなんつー実情もあって容認するしかないみたいなのもまぁようは痛みを市民に押し付けているっていうテロですよね。違法行為を取り締まらないってのも暴力じゃないですか?だって災難が市民に降りかかってるわけだから。それでも絶対に暴力は駄目!っていう風にされてるから支配しやすいですよね。諸外国から言われるように「こんなことされてなんで暴動が起こらないんだ?」とかって言われるけどさ、もっと中東とかギリシャとか見習ったほうがいいよね。我慢してみんなで痛み分けをして封建的な体制のまま駄目になるのを放っておくのか、もうどの道駄目なんだから正当な自然権を行使するときだ!って思うのかさ、っつってもクーデターを起こしてもどうにもならないけど、でもあれなんだよね、考えなきゃいけないのは市民ってのはその国の市民であるってだけで凄まじい権利を保証されてるってことなのよ。なんでそこまで保証されてるのか?ってそれを保証しないと権力側がやりたい放題で支配できちゃうじゃん?それじゃあ話が逆だってことで市民に権利が与えられてるんだよね。


認めてほしいのに国が権力を乱用して認めないってケースに抵抗権は適用されるって考えたら適用されることだらけですよね。それだけ市民というのは本来強いんだ。それこそ命を差し出す覚悟があれば何だってできるでしょう。暴動が起きるってのの根底には恐らくね、西洋だとこういう抵抗権が当たり前のものとされてるからってのはあると思うんだよね。そもそも革命権というのはロックですからね。それこそアメリカを独立に導いた思想の源流とも言うべきものですよ。っつーかアメリカ独立宣言って好きな人多いと思うんだけどまぁ俺もその一人なんですよ。いや、憲法とか国の立国のベースに「これだ!」って帰依できるようなものがあるって凄いことだよね。俺がアメリカ好きなのはこういうところだよね。個人主義だと言われるけど個人の権利というのはそもそも当たり前のことなんだから個人主義になるのは当たり前なんだよね。でも日本ってのは不気味なぐらい封建的なシステムと支配される側のメンタリティってのが変わってないよね。


そこはアメリカ様が民主主義を置いてくださったわけだから良いところは使わないと!んでも個人がやりたい放題するんではなく公共善のために権利を行使するってことなわけで結果的に個人の権利の担保とそれを健全に主張するということは結果的にそれは利他的にもなりうるんだよね。俺が普段から言う一人が嫌な思いをして我慢したらそれは伝達して結果的にみんな我慢しなきゃいけなくなるってことなわけでまぁ日本ってズバリこれじゃないですか?それが嫌だったらもっと個人がちゃんとして強くなきゃ駄目だよね。これって全然武士道の論理と矛盾しないんですよね。これって社会全体で個人が果たすべき義務じゃないですか?でもこれって曲解されてるよね。結果的に前にも書いたように「我慢する」ってことが武士道なんだみたいなことになってるじゃん?違いますよね。志を貫くってのが武士道じゃないですか?みんな我慢した結果こんなどうしようもない社会と国も最低なものに成り下がったわけだから、あとはもう個人個人の矜持しかないでしょう。「駄目かもしれないけど諦めない」っつー意思ですよね。諦めたら終わりだから諦めないっていう志を貫くのだって立派な公共善へのコミットですよ。


日本の暗殺とかって近世に至るまで貫徹されてるのがこの公共善へのコミットだよね。だから桜田門外の変から226事件まで断絶が無く一貫した倫理規範とか価値規範ってのがあるんだよね。これは凄いことだと思うんだよ。まぁ極端に美化することはアレだけどなんつーかこんな理不尽なことを放っておいたら全部駄目になってしまう!っていう凄まじい危機感ってのはどれにも共通してあるよね。だから命をかけてでも守らなきゃいけないものがあるって思って行動をしていたわけだ。今の場合、全部容認だもんね。捕まりたくないとか自分だけよければいいやっつー最悪の個人主義だよね。これはアメリカ的な個人主義ではなく日本的な事なかれ主義をそのまま受けついた日本の悪しき個人主義だよね。争わないとか闘争しないってことがなぜが美徳とされるっていう。でも歴史を見るとそんなことは無かったんだよね。全体のために自分を殺していた人たちが必死に行動していたわけだ。


その倫理規範とか価値規範に俺は感嘆せざるを得ないんだよね。アメリカみたいに憲法とか独立宣言みたいな形としてのものは残っていなくても歴史的事実っていう帰依できる日本の歴史とか伝統とか流れってのがあるわけだ。それがもう見事に戦後から断絶してるんだよね。恐らく歴史が始まって以来なんじゃないか?と思うぐらい極端に歴史的なものが断絶してる。結果今の体たらくだもんね。でもそれは国が駄目なんじゃなくて国の中にいる連中が駄目なんだよね。国自体の歴史とか文化とか伝統的な倫理規範みたいなのはすばらしいものがあるのに中の人達が駄目になりすぎていて結果的に国が崩壊してるよね。


なんつーかあれなんだよなー、日本ってしょっちゅう暴動とかクーデターとか起こってたっていう最高の歴史を持ってる国なのよ。だからもっとそこは歴史に学ぶべきでは?って思うんだよね。祖先は素晴らしかったわけで。そういう歴史があるのと無いのとでは凄まじい違いがあるわけよ。俺はそういう日本的な思想に完全に日本人として帰依できるなって最近は本当に確信してるんだよね。滅多にないような確固たる確信だよね。


そんな感じで今日はこの辺で。