ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

foobarhogeさんへの返信。その5。

foobarhoge 2013/11/13 05:18


多分僕の勘違いとしては、言葉で全て概念を表せるとしたところですね。この点について耳蝉さんは疑問を呈しているのだと思います。


それで、それはもっともだと思うんですね。


実はあの議論自体は僕の "言葉とは何か?" という疑問からスタートして出て来た結論です。なので、"概念とは何か?" という疑問がスタート地点ではないので、齟齬が出てきたんだと思います。


多分それが端的にあらわれているのって、この部分だと思うんですね。


> 言葉では表し辛いものというのを形式的に考えたり何かに分解してしまうというのは場合によっては致命的なエラーを生み出すものだと思っています。


僕の場合は言葉を中心とした考察から出て来た結論なので、言葉で表しづらいものについては述べていないつもりでした。だから、そういった意味では僕の書いたコメントは "言葉で表現できるもので" という注釈付きですね。


もっと具体的に言うと、僕の頭にあったのは芸術とか音楽ではなく、"現実世界の風景" を描写して伝えるための手段としての "言葉" と、この "現実世界の風景" の間に成り立つ関係性みたいなものでしょうか。この "現実世界の風景" を僕は "概念" と呼んでいました。


ここで述べているのは概念そのものではなく、概念と言葉の間に成り立つ構造みたいなものです。


心とか人とかについて述べているわけではないんですね。


そういう意味で、言葉と概念の伝達の間に成り立つ、"概念の共通元という構造" 自体は違違っていないと思います。ただ先ほどもいうように、概念全てを言葉で表せるとは限らないので、そういう意味ではあの議論は概念全般に当てはまるわけではないですね。


foobarhoge 2013/11/13 05:45


あと、もう一点です。


ここでいう数学の公理の絶対性、というかアプリオリみたいな感じって物理でも言えますね。


物理って究極的には万物を統治する方程式を探す学問ですけど、仮にこの方程式が見つかったとしても、なぜこの方程式が成り立つのか?ってところまでは答えてくれないですよね。


それはアプリオリに与えられているからです、ってことしか分からないと思います。結局のところ、無からは無しか生まれないのに、なぜ有が存在するかっていうと、そういう方程式が存在したからで、じゃあなぜその方程式が存在したか?ってところまでは結局分からないんですよね。


これは、数学の公理性に通ずるところがあると思っていて、そこに答えはあるのでしょうか。ゲーデルなんかは、この公理性みたいなのを神と呼んだと思います。理論物理の学者でもいわゆる論理の神を信じている人も多いと、宇宙物理の有名な本で書いてありました。


僕なんかは、結局は神みたいな絶対的なものを置かないと説明できないのか... と落胆して理論物理学からは遠ざかった人ですが、この公理性にはなにか神秘なものを感じます。今はまだ分からないですけど、宇宙の始まりと数学公理性って根本的なところは繋がっている気がするのですが、どうなんでしょうかね。


色々と齟齬の訂正をしていただきありがとうございます。「概念の共通元という構造」は全てのものを言葉で表せないと成立しないので、まず必要条件としてこの構造が概念全般に当てはまらないといけなくなりますよね。これは「概念全てを言葉で表せる」という立場に立たないと言えないことなので、それは必然的に「概念全般に当てはまる」ということが了解されているということになってしまい、だからfoobarhogeさんはそうういった考え方をしているのかな?と思ってしまった次第です。別に責めるつもりなんではなくて、実際にそういう風に考えるような人たちがいるんですよね。Dead Poet Soceityの話などを出してきたのもそういうことなんです。ただの方法論なのにも関わらず、方法論が上手くいったりするとそれが本質だと誤解してしまう。言葉と概念の間にあるものは僕らが思っている以上に大きいのにも関わらず・・・です。あとは構造自体が強いてしまう前提ですね。foobarhogeさんはそんなつもりはないのに構造自体が「概念全てを言葉で表せる」ということを強いてしまうんですよね。これが構造化するところの怖い所で、僕がしつこく「エッセンスを削ぎ落とすものだ」と言う理由なんですよね。


あとクリアにしておきたいことがありまして、僕にとっては「現実世界の風景の描写」というのは言葉に限らず芸術や音楽も含まれているんです。むしろ「現実世界の風景の描写」ということになってしまうと手段としてそれは音楽も芸術も必然的に含まれてしまい、言葉だけによる描写というのはありえなくなります。実際に僕はそういったものが全く想像できません。でもこれは人によって違うものなので、ある意味で独特な自分の世界観として理解しておかないと誤解が生まれやすいかもしれない・・・と強く思いました。そもそも普通の感覚で言えば芸術とか音楽なんかと手段としての言葉を混同するなよ!って話にもなりかねませんからね(笑)まさしくコミュニケーションギャップというやつなんですが。


ところで「アプリオリな感じ」の話なんですが、これはペンローズによるゲーデル不完全性定理の議論と繋がるんですが、凄く簡単に言うと、非計算的なプロセスが「それはアプリオリなのだ」と分からせてくれるということなんですよね。誤解されているのはその「アプリオリなのだ」ということが論理そのものの非矛盾性を前提にしているみたいなことなんですね。僕はこういう考え方に本当に腹が立っていまして、全てを構造だと考えたり全ては論理のシステムの中によって表現されたり理解されうるものであるみたいな前提に立っているからこその誤解なんですよね。


ペンローズ不完全性定理の議論はシステムSによる論理以外のものによって人間はそれが真だとアプリオリに気がつくことが出来るということを言っているだけなんです。これはざっくり言うとようは「分からないことが多い」ということだけなんですよね(笑)ペンローズが言う非計算的なプロセスも僕が言う「概念そのもの」だとか「言葉で表現されている以外の何か」もようは同じなんです。それを全て分析し尽くして還元しようとするのが科学のやり方だと思うんですが、そもそも非計算的であるものをあたかも計算的なものとして扱うというやり方自体が間違えていますよね。心を関数だと考えるようなふざけた考え方もこういった悪しき還元主義の産物です。本質はそんなところにあるわけじゃないのは明白ですよね。


物理におけるアプリオリな感じや数学の公理の絶対性の理由が答えられないのも凄く明白で、それは人類がそれに答えられるような知的水準や科学の水準に達していないということだけだと思います。でもなぜか人々は現在が最高の科学の水準にあるとかって勘違いしますよね。だからこそ扱えないものは「分からない」とか「哲学だ」とか「形而上学だ」とかって言って相手にしないわけです。実際はそれってそういう問題に降参しているだけですよね。完全なる負けを認めてしまっているというかなんというか。


そもそも物理にしたって事象自体が全く解明されてないとか定式化できないみたいなものばかりですよね。乱暴に言ってしまえばアプリオリなものも自明性が解明されていないという意味では事象自体がそもそも解明されていないものと言えるかもしれません。で、僕はそれがアプリオリだと言われても納得できないわけです。全くそんなものは理由にならないですからね。でもそれは何でも疑うみたいなくだらない懐疑論ではなくて、単純にreasoningを解明したいという動機付けによるものです。アプリオリだということには当然感覚的に納得しているんだけど、理性の部分でクリアではないところがあってそれをなんとかして解明したいみたいな感じですね。僕の勝手な考えですが、ゲーデルはこういうことを考えていた数少ない哲学者の一人だったと思います。


ここで神のような超越的なものを持ち出すと凄く話が楽になるのですが、これもまた先ほど書いたような「降参」と同じ意味のことだと思います。それってデウス・エクス・マキナそのものですよね。そういう意味で僕は比喩的な意味ですらも科学や数学においては神的な超越的な存在は認めたくないですよね。存在を認めるとすれば三島由紀夫が理想として思い描いていた神としての天皇みたいな象徴としての神でしょうかね。つまりはこれってイデアってことだと思うんです。恐らく無理だけど神の視点を手に入れようと足掻くわけですね。カントの認識論における超越者もこのような話で、実際にゲーデルはカントを熱心に研究していたようなので、カントの影響は相当に受けていたと思います。なのでカント的な意味での超越者というのは想定していたと思います。所謂、「物自体」というやつですね。僕が言うハイパーリアリズムなんかはまさしくこれで、言わば主観に依存しない世界像なんですよね。前に荘子の蝶の話を出しましたが、でもあくまでやはりそれは理想のモデルの一つなのであって、それが実際に人間にとって可能かどうか?というのはまた別の話ですね。


宇宙の始まりについてはこれは単純に研究が進めばより色々なことが分かるようになるということだと思いますね。これはようはarticulationと理論の精度の話なので時間が解決すると思います。ただ僕らの世代で決定的な始まりについての理解が出来るぐらいになるのかどうかは分かりませんけどね。そもそも宇宙の歴史に比べると数学とか物理ってめちゃめちゃ歴史短いですよね。人類の歴史と比べるとそんなに違わないかもしれないけど、宇宙の歴史という尺度で見れば人類の歴史なんてほんの数年みたいなものですよね。たかが人間如きがほんの数年で宇宙についての完全な理解を得られるとは到底思えないし、それこそ千年後の人類から見れば僕らってようは中世の人間ですよね(笑)


もちろん歴史的な進化が過去の実際の中世から現代のような進化を辿るわけではなくて、同じ1000年でも違う1000年なんですが、人類はここ30年ぐらいの進歩が人類の歴史史上凄まじいことになってますよね。昔なんて同じようなテクノロジーと技術の時代が何百年も続いていたのに今は数年でインフラそのものが変化するみたいな異様な進化を遂げていますよね。今が過渡期で進化の勢いの限界点みたいなのはあるかもしれませんが、今は人間如きの存在でも過去と違って集合知みたいな独特の知の形成がありますよね。これは人類史上全くあり得なかったことだと思うんです。


こういった観点から見ると「たかだか人間如きが」というような人間観は払拭されますよね。集合知を形成する人間という有機体という風に考えると今まで予想できなかったような知的進歩が生まれると思いますし、現に生まれてますよね。人間とテクノロジーが相互的に作用して生まれている知の地場みたいなのがあるので知の多様性には期待できると思うんですよね。なんとなくですけど20年か30年ぐらいで色んなもののパラダイムが変わってると思います。こういうところに関しては僕は楽観的ですね。楽観性がないと知は形成できないと思いますし。


そういった意味で今は無理そうに見えてもパラダイムによって扱いが可能になるようなことって多くなると思うので神秘主義的な立場に立たなくても色々なことが分かるようになってくるという気がしています。実際に100年前の日本で微積分なんて超エリートのみが勉強して理解できるものだったわけですからね。でも現代では一応形式的にですけど高校で教えるぐらいのものになっていますし。まぁもちろんだったら100年後に量子論を高校で教えているのか?とは言い切れないんですが(笑)今、僕らの観点から見える「複雑さ」とか「難しさ」は所詮は相対的なものだと思っています。なのでそういう意味で時間が解決することは多いと思います。


そういう意味で全然形而上学でも神学でもなんでもないですよね。今まで通り知を形成し続ければいつかは分かるようになることなわけですからね。だからこそ「形式」などで考えるような思考停止こそが害悪になるわけです。それは知的退化を意味しますからね。あとはやはり事象自体の非線形性ですかね。それまでの経過を踏まえた上での進化とかではなく、いきなり特異点みたいなものが生まれてそこから一気にパラダイムが変わるみたいな、全く誰も予想できなかったようなことが起こるのが確率の世界です。例えば全く関係ないジャンルでのトリビアルだと思えるような発見が実際は宇宙の大局的な話に繋がる大きな発見に繋がったとかなんとか、もちろん予測不可能なことに期待を寄せるなんて他力本願過ぎますが、でも予測不可能なことが起こりうるのも事実ですよね。


あと最後に、数学の柔軟性って計り知れないものがあると思うんですが、その柔軟性こそが人間の進化を助けるものだと思っています。素の人間じゃ考えられないようなことを数学では扱えたり考えられたりしますからね。そこで重要なのは現象や概念を記述することなのではなく説明することなんだと思います。ようはこれが概念そのものを扱うということになるわけですね。これがエッセンスなんだと僕は思っています。