ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

nさんへの私信。その2。

n 2013/12/07 13:07
返信ありがとうございました。


>あくまでイデアを部分的しか志向できないし思惟もできない
ノエシスノエマ的な関係だと閉じている体系同士の相互関係という感じがする
イデアは超越的な存在であるので意識や志向性程度のものでは把握できない


判断的一般者に留まる限り、そういうことになると思います。『論理の世界と数理の世界』という論文を参照すると、「無内容なる純論理的対象の意識すなわち論理的一般者の発展作用として解することができるのである」ということです。


>でもイデアを見るスコープの性能が高い人達には明らかに見えているイデア的な世界がある。でもそれはモノ的な絶対的存在なのではなく超感覚的な「なんとなく」というような抽象的なものだと思います


それが西田の言う叡知的自己、絶対無です。


>でも西田の議論を応用すると、たとえ全体像が見えなくても、それでもイデアの全体像を見るためにスコープの精度を必死に上げようとするという態度がエロスであり善なんだと思います。逆が諦めやニヒリズムですね。これが悪というわけです。


その段階も道徳的自己と呼ばれるもので、真の自己ではありません。
一般者の三段階についてもう少し議論を深めたいと思っております。


ヴィクトール・フランクルって読みますか。
『人間とは何か』おすすめです。根底的に西田の思想と繋がっており、より実践的です。エロス、ニヒリズムを超えて、深い人間洞察がなされています。

もうちょっとちゃんとした返信をいただけると期待していたのですが・・・。西田の世界というのはあくまで論理の世界ですよね?でも僕が言いたいイデアの世界というのはそういう狭い世界の話ではなくて、現在の我々には不可知な世界ということなんです。論理でイデアの世界にアクセスできるならこれほど楽なことはないでしょう。でも僕が現代数学や現代物理学の本を読んでいて思うのは、明らかに現在の人間には理解不可能なものが多く存在するということなんです。例えばビッグバン以前は何だったのか?とかブラックホールの中身とかまぁこういうのは物理で研究されているものではありますが、明らかにこういうものは高度な理論を利用しなければ理解不可能なので、西田が言うような「論理的対象」とか「叡智的世界」とは程遠いものですよね?これが僕が返信で書いたノエシス自体が相対化してしまうということなんです。


そもそも西田の言う「自己」とか「絶対無」というのは人間の認識に留まる世界で、今回本を読んでみて思ったのですが、あまり興味が持てないというか狭い世界の話だなと思います。僕が凄くある意味で哲学が大嫌いになった哲学の狭い世界の典型みたいな話なんですよね。哲学や哲学的認識論や自我論というテキストに留まったものというのは科学的ではありませんよね。僕は科学の彼方にあるものがイデアの世界だと思っているので、認識者がどうのとか人間が考える知がどうとかってのは本当にどうでもいい話なんですよ。というかそんな狭い世界の話をしてもしょうがないという気がしますね。僕が散々「部分的にしかイデアの世界を見ることが出来ない」と言っているのもそういうことです。全てを見てしまったら脳がぶっ壊れるんじゃないか?というぐらいとんでもない情報量を持ったものがイデアですよね。もしくは「情報量」などというものでは語れないような質の話なわけです。


そういう世界に科学は挑んでいるわけですよね。僕はこれこそが叡智だと思っているので、だからある意味で哲学に興味を持たなくなったのもそういうところなんですね。そういう世界に挑めるものは科学しかありえないわけです。あとはここでも散々書いているんですが、認識論なんかも現代ではその役割は脳科学とかニューロサイエンスといった分野のもので、それは「認識とは何か?」と思索するのではなく、具体的に脳や神経を調べるという科学になっているわけですよね。これと自己の段階とかって全く関係ないと思いませんか?認識そのものとかイデアそのものと自己って全く関係ないですよね?認識やイデアと自己の関係としての自己という話なら分かりますが、そういうのには興味はないし、あまりに古過ぎる話題だと思います。


ヴィクトール・フランクルは読んだことはありませんが、今、簡単に調べたところ実存主義バリバリの感じの人ですね。というか言い方は悪いですけどまさしくこういうのが「古い哲学」の典型なんです。こういう類のものは散々読んできたし、結局、何も得られないと思ったので僕は哲学に絶望を感じたわけです。そこを数学という叡智への世界が僕を救ってくれたわけです。「人生って何なんだろう?」というようなレベルでの実存的葛藤の話なんでどうでもいい話ですしとっくに卒業したつもりです。まぁ所謂、青年病としての哲学病ですよね。こんなものは20代ぐらいに克服しておかないと話にならないでしょう。


nさんは人間による人間洞察などで人間が分かると思うんでしょうか?いつもの悪い癖で色々と期待をしてしまったんですが、返信があまりにも短くて議論のレベルが低いのでとてもがっかりしています。


まぁでもこれは短さが原因であるかもしれないですよね。返信を見る限り「は?」というような感じでしたが、nさんがおっしゃる「一般者の三段階についてもう少し議論を深めたいと思っております」という返信にもあるように、色々とnさんのほうで議論が広まるなら是非展開していただきたいです。むしろそれを期待していたのに数行の返事とはあまりにも酷すぎませんか?「議論をしたい」と言っていたのだからそれ相応のものを書いていただきたいわけですね。それはnさんの西田哲学解説でもいいし、ヴィクトール・フランクル論などでもいいわけです。僕は最初の書き込みで西田のイデア論を踏まえつつも同意できないところだらけだったので、結局は普段自分が書いているようなイデア論を展開したわけですが、一応は「論」になっていたと思います。それに対するnさんの返信はツイッターレベルの返信ですよね。「なんなんだ?これ?」って思いましたよ。マジで。そんなんで議論しようと思ってたのか!って唖然としているぐらいです。


ここでやり取りをエントリーの形式で貼るって言わば他の方の考えもエントリーとして貼られるわけですよね。で、実際に僕はここで書き込みをくださる方に影響を受けたり議論の問題点の指摘などをしていただいたりして、非常に有用なやり取りをしてきたと思っています。それがエントリーとして残っているので今でもすぐ見れますし、それがまさしくログとして残すことの価値ですよね。それは誰よりもまず先にそれに価値を感じているから僕はここに書き込みをいただいた方々の意見や理論などを貼るわけです。それに比べてnさんの返信は議論になってませんよね。だからまぁ非常に残念だって思うんですね。というか前にもこういうことがありまして、僕が色々と悩んでいるみたいなことに対してnさんと同じような実存主義的アプローチの心理療法みたいなものの論文を紹介してくださった方がいるんですが、本当にレベルが低くて唖然としたんですね。


で、まぁ実際にその方に「そんなレベルの話をしてるわけじゃないんです」と返信もしましたし、まぁ今もnさんにこうやって返信をしていますよね。凄く腹が立つのが勝手に自分で低次元な解釈をしておいて、それを僕に「こういうことなんですよ。あなたが言っていることは」みたいに言われるからなんですよね。それは全く違うし勝手に低い次元で解釈したものを「それは違います」とか「誰々はこう言っています」とか平気で言う神経が信じられないということなんですよね。その実存主義的アプローチの心理療法の論文を紹介してくださった方が善意でやっているなら僕はこんなことを言うべきではありませんが、「あー君の悩みってこういうことなんだよねぇーつまりは」みたいな分かったような口を利いてくるのが最高に腹が立つんですね。


とまぁ話はそれましたが、本当にちゃんと議論するつもりなら書いていただきたいのですが、まずはこれはブログという形式で展開されているわけですから、「議論をしたい」というのならnさんの議論を書いていただかないとどうにもならないし、見ている方も「なんだこれ?」って思うでしょう。だからさっきも書いたようなnさんによる西田哲学解説でもいいし、ヴィクトール・フランクル論などでもいいわけです。今回の僕の返信に対する反論でもいいし意見でもいいんです。とりあえず一行ぐらいの一言はいらないです。ちゃんとした議論が欲しいわけです。


「西田の論文によればこうだそうです」なんてのは返事でもなんでもありませんよね?議論でもなんでもないでしょう。その上で「話にならんな」と思ったのが僕が言っているイデアをnさんは全く理解していないし恐らく理解できないだろうと判断したからなんですね。よくもまぁ「道徳的自己などという古ぼけた思想を持ち出してきたなぁーと唖然としているわけです。西田のイデア論に関してもそういう意味で期待してしまったんですよ。イデア論って現代イデア論になると数学基礎論や現代数学の深い議論にも繋がるところがあって、むしろイデア論とは非常に現代的な議論の形式であるなんて書いてある論文もあるぐらいです。そういった時代を超越したような、今の哲学や数学の哲学に対しての示唆を与えてくれるようなものなんだろうなぁーと期待したんですね。なので全集も15冊ぐらい一気に注文してしまったわけです。


でも全集の5巻を読んだ限り相変わらずの西田哲学という感じで何も感銘は受けなかったんですよね。といっても当時としては良かったと思いますし歴史的な意味合いはあると思います。でも現代から見れば明らかに古いし、西田も含めて色々と読んできた自分にとっては何の感動もありませんでした。僕はこういう哲学に時間を使うよりも科学に時間を費やそうと思ったので数学にシフトしたり、哲学にしても古臭い議論ではなくて、現代の科学や情報論と繋がっているようなものを読んでいるわけですね。そんな中で久々に古臭い哲学を読んだので懐かしい感じすらしたぐらいです。でもああいう哲学の研究は文献学者だけがすればいい話で、少なくとも僕には全く関係ない話だなと思いました。田邊元の数理哲学なんかも同じ類ですね。非常に期待して読んで凄まじい虚しさを感じたものでした。


・・・とまぁここまで色々と書きましたが、西田哲学に詳しいnさんなら何か言いたいことはあると思いますので、議論を展開する場合にのみ返信をいただければ幸いです。あと一応全集の中の15冊分ぐらいは注文してしまったので一応は読破するつもりでいます。