ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

イデアについて。

感覚からかけはなれているのに、公理はそれ自身が真であると強制している。この事実からもわかるように、私たちは集合論の対象物に対する認識のような何かをもっている。なぜ私たちは、感覚認識よりも、この種の認識、つまり数学的直感に対する自信を失わなければいけないのか私にはわからない。この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる。数学における集合論パラドックスは、物理におけるだまされるという感覚に比べ、そう難しいものではない。

このゲーデルの引用なんだけどさ、数学的直感ってホント、あれなんだよね、人によって意味合いが全然違ってくるわけよ。論理実証主義なんかだと数学的直感なんてそもそも扱わないじゃん?まぁそれ自体が数学を語る上でありえないことなので本当にありえない理論だと思うんだけども、アプリオリな数学的知識や数学的直感っつーのもまた数学的直感の一つなんであって、これだけが数学的直感ではないんだよね。アプリオリなのは1+1=2であるってことだよねっていうかまぁ色々あるんだろうけどとりあえず直感的でめちゃめちゃベタな数学的直感ってそういうもんでしょう。りんごが2個あってんでまた他のところにみかんが2個あったら両方とも1+1=2なんだよね。


一個のもんが2つあるんでそれがりんごだろうがみかんだろうがそれは変わらないっていう。これをもってアプリオリな知識って言うのはもうそうとしか言いようがないと思うんだけど、最初のゲーデルの引用が面白いのはさ、「感覚からかけはなれているのに」ってところなんだよね。ようは集合論的直感とも言うべきものを我々は持っているっていう。でもそれは集合論っつーパラダイムを理解して無いと備わらない直感っつーのかな?っつってもすげー初歩的なやつはさっき書いたりんご2個的なぐらい普通に直感的なんだけど、感覚から離れているのに公理自体が真であると強制している場合、それは公理自体が真であるからこれは正しいんだ的なことではなくて、集合論の公理っていうものが我々の感覚に介在することで身につく集合論的直感によって感覚からかけはなれているようなものにでもりんごが2個あるということに数学的証明がいらないぐらいのそれ自体が決定的に真であるという確信を持てるっていうことだよね。


公理が強制する事実というのは論理実証主義だよね。あとはヒルベルト的な発想か。でも元々人間が持っている感覚と集合論的概念ってのが組み合わさったときに出来上がるハイブリッドな直感ってのはさ、単純な公理+数学的直感とかではなくて、なんかもっとそういう足し算とかじゃないような新しい直感って気がするんだよね。ノエシスの相対化ってのはつまりはこういうことなわけ。ノエシスってまぁようは色とか音とかって言うプリミティブなものに対する志向性じゃん?っつーかまぁ意識自体の志向性だよね。で、この意識自体の志向性によって考えられる数学や数学的直感ってのはある。でもさ、あれじゃんね?比喩的に言えば悟りを開くと世界の見え方が変わる的なことってようはノエシス自体が変わるってことだよね?意識や認識が変わるんだよね。宗教戦争が絶えないのもようはこれじゃないっすか?原理主義者同士じゃ話し合いが出来るわけがないわけだ。


んでもまぁノエシスっつってもどこまでをノエシスと言えるのか?ってことになるんだよね。で、俺が考えるノエシスはやっぱ明らかにプリミティブなものなんだよね。その人の知識とか知能に依存しないような、ただ「見る」っていうことっていうのかな?で、ハイブリッドな直感とか視野ってのは簡単に言うとFPSに出てくるっつーかまぁFPSに限らないんだが、ナイトビジョンとかサーモグラフィとかっていうフィルターを通して見える世界なんだよね。普通の目だと夜目が効いても暗闇を見通す力には限界がある。でもナイトビジョンってのは暗闇でも見える視界を提供するわけじゃん?サーモグラフィ然り。外観からでは気配もしないし誰がいるかも分からないっつー建物をサーモグラフィで見れば人の形が見えるんでそこに人が居るって分かるんだよね。でもこれって直感じゃないじゃん?サーモグラフィという機能を与えられた上での自明な認識じゃん?ようは人型の白い影が見えるとかっていうまぁもちろんそれは基本的な視野ありきで、その上でサーモグラフィっつーものがあるから見えるようになるものってのがあるわけ。


で、数学とか物理の知識ってサーモグラフィと言うほど明らかに身につけるものというよりかは意識自体にダイレクトに影響してくるじゃん?ようは普通の人が見ている世界と物理学者が見ている世界は違うわけだ。どちらが正しいのか?と言えばそりゃ物理学者なんだと思うよね。そりゃだって現象自体の知識が多いわけじゃん?かといっても普通の人が見ている世界が間違っているのか?と言えばそれは違ってそれもまた世界なんですよ。だからどっちが正しいって話はナンセンスだよね。まぁ宗教の場合、どっちが正しいのか?っつーのが戦争にまで発展するわけだけど。


でね、結局あれなんですよ、サーモグラフィとかナイトビジョンとか3Dメガネとかそういうものも人間の視覚の能力の発展系と考えるならノエシスってやっぱ相対化されちゃうじゃないですか?いや、そんなもん攻殻機動隊みたいなSFの世界の話でしょ?っつっても数学者や物理学者はSFも顔負けなぐらいの世界の見え方をしているわけじゃん?っつってもまぁそりゃ数学者や物理学者によるけどさ、まぁ凄く優れた人たちってのを想定してもらえばいいんだけど。いや、あとはあれだわ、散々科学の話をしておいてあれだけど霊感なんかもそうじゃん?それが幽霊なのかどうか?ってのは分からないけどそれらしいものが見えてしまう人ってまた違う世界を見ているわけじゃん?


「いや、今、窓から覗いている顔が見えた!!」「え?マジで?」「うん!確かに見えた!」「いや、でもそれはありえないよ。だってここ5階だもん」っていうパンチラインで「ぞーっ」とするわけじゃん?ありえない状況で人の顔が窓から見えたらそりゃ怖いよね。で、それは直感的に幽霊だ!って思っちゃうんだよね。科学者の場合、そんなもんありえるはずがない!と否定するわけ。で、まぁ無理やり科学で説明しようとするんだよね。あ、最近アンビリーバボーで見たいんだけどさ、脳神経外科医が臨死体験をしてあの世の世界を認めるようになったっていうのを見たんだけどさ、これもまぁようはあれじゃん?見えてないか見たこともない世界のことなんて分からないっつーかまぁあとは霊的なことなんてありえないだろうっていうのがまぁ普通の科学的な立場に立つ人の見解だけど、本人が臨死体験をしてなおかつ脳の中にある記憶以外のもので現実に存在していた無くなった人物の顔を見たなんつーことがあったらそりゃ科学で説明できないわけであの世を信じるしかなくなっちゃうだろうっていう。


俺はこれは単純に経験の有無だけの話だと思ってるんだよね。あとは別に霊的な話じゃなくても不思議な話とかさ、まぁそこまで不思議じゃないかもしれないけど俺の話をするとさ、あ、あんま不思議じゃないんでっつー前置きをしておくとさ、すんげー昔だけど夜に起きて朝寝るみたいな生活をしていたときにさ、夜起きるっつっても夜中なんだけどね、そんなときに夜の7時頃に俺宛に実家に電話があったらしくて母親が取り付いで俺を起こして受話器を渡したんだと。で、俺は「あーへぇーそうなんだーああ。うん。あーそうねー」なんつって寝起きで話してたらしいんだよね。


で、電話が終わったときに受話器を枕元に置いてまたそのまま寝たらしいんだけどね、で、次の日だかに母親から「昨日の夜は誰と話してたの?」なんていわれてさ、で、俺は覚えてなかったわけよ。「は?電話があったの?夜の7時ぐらいに?全然覚えてねぇーよ!えー!」なんてことになってさ、いや、携帯持ってなかったからねっつーか今も持ってないんだけどまぁ持っていた時期もあったんだけどまぁその前の持つ前の時期で相当前の話なんだけどさ、いや、携帯だったらまぁ誰かから着信があったとか分かるけど実家の電話じゃ分からないじゃん?まぁそりゃデータが残ってるだろうから電話会社に問い合わせれば分かるんだろうけどさ、まぁんでその頃にあれなんだよね、わざわざ実家の電話にまで電話かけてきて母親が取り付いて話すなんて友人は限られてたのよっつーか今でも誰だったか?って言えるぐらい限られてたのね。まぁズバリ3〜4人ぐらいですよね。で、その3〜4人に「こないだ電話した?」っつーのを直に会ったときに聞いたりメールしたりしたんだけど誰も電話してないっつーわけよ。


いや、だったら誰だったのか?って余計気になるじゃん?んでも知りようがないんだよね。だって実家の電話番号知っている連中全員に聞いても誰も電話してないっつーんだからさ、んじゃ誰だったの?って話じゃん?で、不思議に思って後に母親に「どんな感じの人だった?」って聞いたら若い男の人で俺が部屋で話している時には親しげな友達と話すような口調で話してたなんつってさ、まぁんだったら友達しかありえないじゃん?でも当時の友達に聞いても誰もかけてないっつーんだもん。で、よく電話をかけてきていたある友達の可能性が濃厚だったんでメールでは電話してないって言われたけど会った時に「いや、絶対電話したでしょ?」って聞いたんだけど軽くキレ気味で「いや、してねーよ」って言われるぐらい否定されたんでマジで違うんだなってことになって結局、今でも誰と話していたのかさっぱり分からないっていうさ、なんかまぁ当時でも薄気味悪かったのをよく覚えてますねー。ええ。


で、何の話だったっけ?あ、ノエシスの話か。んでまぁあれなんだよな、その知識によって拡張していく意識とか見えてくる世界ってのもノエシスに入るのか?って話なんですよねっていう話でしたね。で、まぁ数学とか物理みたいな抽象の世界の話でも理解するとそれが直感にもなりえて、あえて数学とか物理っていう理論のフィルターを通すような大げさなことをしなくてもあたかもそれが直感のように思えるぐらいのものになるってことですよね。まぁようはこれはあれなんですよ、ナイトビジョンとかサーモグラフィなんて明らかにそれを装着するっていう動作が必要じゃないですか?でも数学とか物理の抽象の世界への直感が身についた人にとっては何かを装着するなんていうプロセスを介在させなくてもそれがそれ自体として見えるようになるってことだよね。まぁんでそれって全然世界は違うけど霊感なんてのもそんなもんじゃん!って話から俺の不思議な話になったんでしたね。


で、あれじゃないっすか?恐らく西田なんかは自己の認識の段階を上げていくと抽象の世界と自己の世界が完全に一致するみたいなことを言っているわけじゃん?まぁようは東洋思想ですよね。あとはヘーゲルか。修行をして自己を鍛えれば千里眼が手に入る的な、まぁスピリチュアルな世界ですよね。でもこれと知識って全然違うじゃん?恐らく激しい修行とかで得られる新しい体感としての自己ってのは手に入ると思うけど、山篭りをしたからビッグバン以前の世界が見えるようになったとかまぁまず絶対ありえないって言い切れますよね(笑)でも多分、1000年後ぐらいには当たり前のように普通の人間がビッグバン以前の世界を知覚してるかもしれないんだよね。それはもうあれでしょう、ようはその後天的な知識とか理論ってのが発展したから見えるようになっているっていうことでしょう。もしくはテクノロジーの進歩とかね。


で、俺が思うにテクノロジーの進歩とか科学の進歩とか理論の進歩みたいなことと知覚とか主観とかノエシスってやっぱ相互的な関係にあると思うのよ。ノエシスと言えばもっぱらプリミティブな志向性のことを言うっつってもそのプリミティブな志向性の段階が変わるわけだよね。今の世界で言えば一部の人がそういう世界の見え方をしているってことじゃん?でもそれがまぁさすがに何百年も経てばそれが常識になったり自明なことになったりするんだよね。まぁじゃあ先験性って経験のことなんですか?って話にもなるよね。そこがまた一概にそうですとも言い切れないところがあったりして。


まぁでもとりあえずノエシスが相対化するって話は分かったでしょ?それに比べてイデアの世界のものってのは普遍的なわけだ。ノエシスとか自己みたいな作用に一切影響を受けないものじゃん?でもその一方でノエシスってのは時代によって違うわけだ。まぁようは未来人のノエシスは現代人のノエシスとは全然違うものだろうってことが言えるわけ。まぁ全く違うってことじゃなくてもっと広がってたり簡単に言うと凄くなってるってことだよね。で、それによってよりイデアの世界が鮮明に分かるようになったりするわけだ。でもそれはあくまでこっち側の認識のレベルが相対的な意味で上がったことで見えるようになったイデアの世界なんであって、これと自己の段階とか内面の世界とは関係ないんだよね。ようは知識とか経験とか理論とかって外延的なものじゃないですか?まぁさっきの比喩で言うところのナイトビジョンだよね。まぁなんだろうな、ロボット人間みたいな未来のハイブリッド人間にはナイトビジョンが目にデフォで入ってるんで「暗闇」なんて概念が存在しないだとかなんだとか、まぁ存在しなくは無いと思うし、ナイトビジョンモードをオフにすればそりゃ暗闇でしょうって話なんですけどね、まぁでもあれなんですよね、外延的ですよね。


で、すげー前置きが長くなったけど最初のゲーデルの引用の「この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる」っていうこの「未来の感覚認識」とはまさしく俺が言いたい未来人のノエシスなんだよね。で、なんで未来の感覚認識じゃなければゲーデルが言う数学的直感と一致することができないのか?っていうと単純に現代の数学とか科学のレベルではまだそこまでに至っていないってことで、未来っつってもいつ頃のことを言うのかは分からないけど、「感覚からかけはなれている」という印象すら与えない、りんごが2個あるというぐらいのレベルで未来の感覚認識は今の感覚で言えば複雑な数学的理論を必要とするようなものも認識することが出来るようになるってことだよね。このぐらいのレベルになればノエシスノエマ構造で数学が語れるようになっているかもしれない。


でもこのレベルでノエシスノエマ構造で数学を語るのか、りんご2個レベルでノエシスノエマ構造を語るのかでは全然内容が違うんだよね。そもそも数学的直感の定義自体が違うじゃん?いや、でもイデアの世界を完全に見られるようになるなんてことがありえるのかな?てっていう疑問はあるよ。だからそれは未来の感覚認識ですらも無理でやっぱり超越的な神みたいな存在にしかイデアの世界を完全に見ることは出来ないんじゃないか?って思うので、だからノエシスノエマ構造は超越的なもの同士の関係性でしか成立しないということになるわけですよ。


んでも何を隠そうこの俺が言う「ノエシスノエマ構造は超越的なもの同士の関係性でしか成立しないということになるわけですよ」ということも当然、今の時代の研究とか知識によって導かれたものなわけですよ。西田の思想は古いっつっても時代から見れば妥当だし、むしろあの時代にあそこまで現象学の知識を総動員して哲学をしていた人なんて海外を見てもあんまりいないだろうってぐらいなわけで偉大さは変わらないわけですよ。ただ問題は現代でプラトニズムやイデアを語る上で西田のイデア論が参考になるのか?ってことなんだよね。いや、西田の時代の研究とか科学なんてそりゃ限られてたわけよ。だから当時の知識による論理によって帰結が導かれるのも必然的なわけだ。西田から見れば俺は未来人でしょう。西田の時代とは比べ物にならないほどの情報量によってプラトニズムやイデアを語れるわけで、それは単純な時代の差としか言いようがないですよね。


こういうことを持って「西田は間違っている!」なんて言うのは大馬鹿なんですよ。時代っつーコンテキストを見ないとしょうがないし、それで言えば厳密に言えばっつーよりかは超厳密に言えば大半の過去の哲学者が言うことなんて間違っているでしょう。でも哲学の本質ってそこじゃないじゃん?俺が哲学からは何も得られないと感じたのは純粋な知識は科学からしか得られないって思ったからなんだよね。まぁ当たり前だよね。それは単純な話、認識とは何か?っつってカントを読むよりも最新の認知科学の本を読んだほうが良いに決まってるわけだ。でもその認知科学における認識と哲学っつーコンテキストの中での認識って違うじゃん?まぁ違っちゃいけないんだけどね。それは違っちゃいけないんだ!って言ってたのがフッサールでしょ。厳密な学としての哲学ってのを追求してたわけだから。じゃあ現象学はもう古いのか?っつーとそんなことはなくて思考の枠組みを理解して、ただ内容を厳密にフッサールとかハイデガーとか西田とかが書いていたように理解しなきゃいけないのか?っていうとそりゃただの文献学ですよってことになるんだよね。当時の現象学ではこう考えられたけど今、考えるなら現象学的にはこうでしょうって言うのが現代の「論」じゃないですか?そういうのを今回は俺なりに展開してるわけよね。でも別に特に現象学ってのにこだわっているわけじゃなくて、まぁ西田の例の件があったんで、まぁ色々補足したいなと思って書いてるんだけどね。


いや、文献学って何でもあれだもんね、原典に忠実であるってことが大事だもんね。だから「俺が考えるニーチェ」ってのは哲学的にはオッケーでも学術的にはアウトになるんだよね。もちろん、大友さんが「坂本さんがやると芸術になるけど、僕がやるとレジャーになる(笑)」的な皮肉も踏まえてまぁ偉い先生とか名前がある人が理論を展開すると哲学になるんだけど、俺がやるとレジャーになるんだよね(笑)もしくは「ネットの世界の意見」とかね(笑)


あとさ、現代の科学の理論に還元させて考えるみたいなのも馬鹿の極みだよね。これを現代のオートポイエーシス理論に近づけて解釈はできないか?とかアフォーダンス理論として解釈はできないだろうか?とか、なんでそんな解釈をする必要があるの?ってことだよね。いや、それこそそれはそれとして理解すればいいじゃん。で、それとは別にアフォーダンス理論もオートポイエーシス理論も理解すればいいじゃんって話だよね。文献学者とか巷で哲学と言われるのって大抵こういう何かと何かをくっつけたりするとかさ、まぁ道元デリダ的なやつとかね(笑)こういうのがなんで成立するか?って厳密な文献学に基づいたリサーチだからだよね。完全に文献に忠実な上で論理や理論の枠組みの共通点や類似性を指摘して論文としてまとめられるもんね。いやー本当にくだらないなぁーって思うよね。前にもここで東大生の人からの書き込みだったと思うんだけど同じ学校の知り合いの哲学科のやつがハイデガーとなんたらかんたらの共通点を研究するために大学院で色々とやるんだみたいなことを言って「なんだかなぁーって思いましたよ」みたいなのがあったんだけど、まぁようは実際に現場でこういうことが起こってるってことですよね。


それが哲学研究のやり方なんだって思って哲学科の生徒が変な研究のやり方で論文を書こうとしたりしちゃったりして。でも哲学ってようはエリック・ホッファーみたいなやり方しかないと思うんだよね。読んで考えるっていうまぁそれでしょう。過去の哲学者はみんなそれをやってきたし西田なんて典型的な例でしょう。一切文献がどうのって話じゃなくて自分がどう考えるのか?ってのを永遠と書いてたわけだよね。まぁもちろん哲学史的な講義もやってたけど文献学は一切やってなかったよね。いや、前のエントリーで西田哲学をぼろくそに書いちゃったような印象を与えたかもしれないけどさ、哲学者としての西田は偉大なんですよ。そういう意味で俺は当然尊敬しているわけ。ただイデア論やプラトニズムについて現代的な意味合いで示唆的なものを与えてくれるのか?っていうとそれは違うかな?っていうことっていうそれだけですよね。


あとあれなんだよね、現代の理論とか過去より明らかに楽になった情報収集の方法とかを駆使して過去の理論の否定とか論破とか馬鹿がやることなんですよ。現代兵器で第二次世界大戦中のどっかの国の軍隊を打ち負かしてドヤ顔で居るようなもんですよ(笑)モダンウァーフェア的な武装でWW2のFPSゲーに突入したらそりゃ楽に勝てるでしょうっていう。んでもそんなもん実力でもなんでもなくてただの兵器とか火力の差じゃないですか?だからそんなことしても無駄なのよ。ホントに。いや、で、例えるなら俺が色々とイデアとかプラトニズムとかなんとかって言うことを考えるってのはモダンウァーフェア的な武装でそれを考えるってことでWW2の武装でやったりはしないですよってことなのよね。でも文献学者とか哲学学者ってのはWW2どころかWW1とか中世とかの兵器をそのまま現代で使ってたりするっていう最高の時代錯誤をしてるわけだよね。それで現代人の悩みを解決!とか哲学に答えがある!とか馬鹿じゃねーの?って思うんだよね。示唆はあると思うけどそのままそれを無理やり処方箋にしようとするなんてそれこそあれですよ、現代戦をWW2の頃の兵器でやるようなもんですよ。まぁでも「悩み解決!」みたいなのって一般書しかありえなくて単純なのしか売れないから分かりやすい昔のシンプルな哲学をそのまま転用したような本で溢れかえるのもまぁしょうがないっつーっちゃーしょうがないですよね。市場原理的な意味で。


あ、んで話が逸れたけどゲーデルが凄いのは論理実証主義みたいなのが盛んだった頃にすでに現代イデア論とか現代数学哲学に匹敵するような思考をしていたってことなんだよね。あとはLautmanだね。WW2時代に現代でも使えるぐらいの兵器を持っていたってことですねっつーかなんで比喩が兵器なのか?っていうと最近FPSにまたハマり倒してるからですね。まぁだからあれなんだよね、単純にこういうのは古いから駄目!とか新しいからオッケー!みたいなことじゃないんだよね。そういうことじゃないのが哲学じゃないですか?んだからまぁあれなのよ、西田だって現代に生きてれば全然書くものは違うはずなのよ。もしくは西田的なものが根底にあるにせよ色々とアップデートしてるでしょってことなんだよね。そういうアップデート補正みたいなのを個々がしないでやたら原著に忠実って何なの?って話なんだよね。そこであれじゃん?とりあえず「西田によれば」とか「ニーチェによれば」とかすんげー昔の思想なのに名前が通ってると「おー!」っていうまぁ印籠的な権威を発揮できるんだよね。


前にも散々書いたけどそういう意味で権威を出してきてひたすらでかい声で喋れば通る的なことですよね。多分、同じようなことをニーチェとかカントとか西田とか知らなくてもツイッターとか調べれば同じようなことを言っている人とかいっぱいいるわけよ。でもそういう人たちは無名だしただのツイートだし哲学なんてつもりで書いてるわけじゃないわけだからまぁ別に特に注目はされないし引用もされないよね。んだからまぁあれなんだよね、内容っつーよりかは誰が言ってたのか?ってのが重要になってくるんだよね。なんかまぁこういうのはブルセラと同じだと思ってるのね。これも前にも書いたと思うけど、基本的に誰のものだったのか?ってのがすげー重要でパンツにしても制服にしても靴下にしてもサンダルとか上履きにしても誰が履いてたものなのか?ってのが重要なわけじゃん?まぁそれだけでオッケーって人もいるけどさ、すげー可愛い子だった場合にまぁめちゃめちゃ価値が上がるっつーまぁ興奮するわけでしょ?だからまぁブスのパンティに価値はないってことなんですよ。同じパンティーなのにねぇーって話。


で、例の外延的なものと内面的なものの話ってひと段落したんだっけ?まぁとりあえずあれなんだよね、結局は今の段階だと恐らく一般的にも思われてるようにイデアなんてのはオカルト以外のなんでもないわけよ。一部の宗教的な数学者とか科学者が信じている世界でしかないわけ。そういう意味ではあの世とか霊界とかと同じですよね。そもそも存在が実証できないし「見えている」にしても主観に依存するから見えてない人に見させようとしてもなかなか簡単にはいかないってのがあって。でも拡大解釈になるけどっつーまぁもう俺の意見ってことで良いと思うんだけどさ、ゲーデルの言う未来の感覚認識とやらは今では想像も出来ないような世界とか事象の認識が可能になってるわけよ。まぁこういうのって人類が続いている間という条件をつければ青天井じゃないですか?


いや、だってソクラテスが生きてたのって2400年ぐらい前でしょ?で、そんな大昔の時代の概念が今でも残ってるし余裕で引用されたり語られたりしてるんだもんね。まぁペシミスティックに見ればあんま根本的に変わってないってことが言えるかもしれないけど、そこはやっぱり大昔にせよちょっと前の昔にせよまぁ大体生活様式は似てたわけですよ。でも今はいつも書くように人類史上見ても異様な進化を遂げてるわけだよね。で、やっぱ根本的に人間が考えることは変わらないかもしれないけど、現在のテクノロジーとかインフラってのは人間が考えることにまで影響をしてくるぐらいのレベルのものになってるじゃん?それこそなんらかの政治哲学のパラダイムみたいなのはちょっと一昔前ぐらいまでなら普遍的にそれで語られたものも世界が変化した意味では例えば「いや、こういう場合、ネットがありますよね」ってだけで論理が崩壊するものとかってあるわけじゃん?


引きこもりが可能になってるのもルソー的な引きこもりなんて現在ではありえなくてネットがあるから本質的には孤独じゃなくていられるわけでしょ?いや、別に能動的にコミュニケーションしなくても受動的に何らかのものに接していたりすることができるわけじゃん?で、それがネットなのか物理的なのか?なんてのはあんまり問題じゃないってことが分かってきたっつーかまぁそういうのは物理的世界でもずーっとスマホばっか見ている人たちが世界中にいるってことを考えれば明らかだよね。だから例えば三木清の「孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見詰めよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう」って言葉があったとして、まぁ三木清に限らずネットなんて無かった時代に感じる孤独ってのはマジの孤独じゃないですか?誰も連絡する人がいなくてもどっかの掲示板に何か書き込めるってのはすでに孤独じゃないわけよ。だからよく大富豪が急に何もかもを捨てて自然に帰るような意味での人工的に作るクラシックな孤独の環境ってのを作らない限り本当の孤独なんてありえないんだよねっつってもそれは物理的な孤独を意味するんじゃないって言うのがさっきの三木清言葉の神髄ですよね。


で、いやね、三木清ってそんなに大昔の人じゃないじゃん?でも三木清の時代には例えば過去の色んな哲学者が語ってきた孤独に関するアフォリズムがワークしてたっつーか普遍的に言えたと思うんだよね。でも今みたいな異様な環境だと孤独一つとっても相当人工的にそれを作らないと孤独というのはありえなくなってるわけよ。まぁ本当の孤独と真の孤独の違いは前者は物理的で後者は内面的って意味なんだけど、まぁでも哲学者のアフォリズムは大抵後者のことを言うからネットがあるから論理崩壊!なんてことにはならないんだけど、俺が言いたい「生活自体はあまり変わらない」っつーのは衣食住的なことなのよ。ベーシックなインフラのストラクチャね。で、今はそれが変わってるし今後はより変わっていくしまぁむしろそこにぐらいしか希望は無いと言っても過言ではないよね。


フェイスブックで革命が起こったってフェイスブックが革命的なんじゃなくてフェイスブックが革命の要素に入ってたってことじゃん?まぁようは情報伝達の手法ですよね。なので今の時代は見た目にはそんなに凄まじい変化は起きてないように見えても何気に一昔前と全然インフラが違うんだよね。変な話、90年代半ばぐらいまでは古代から続くベーシックな普遍的なインフラのストラクチャがあったように思うんだよね。で、情報伝達の進化によってそれが一気に変化したんだよね。だからそりゃCDが売れなくなったりするのも当たり前でしょうってことなんだよね。何でもインフラの変化のせいにするのもあれだけども、んでもやっぱ情報の伝達の方法が変わったって人類史上凄まじい変化だと思うんだよね。デリバリーってまぁ別に普遍的な概念じゃないですか?古代だろうがデリバリー的なものはあったでしょう。そのデリバリーされたものを開封して情報を見てこっちが次はデリバリーを頼むっていうさ、まぁ郵便ですけどね、今はワンクリックでなおかつ一瞬でやり取りが出来るとかって何気にヤバいよね。手紙の配達って古代からあったのよ。今もあるかもしれないけどまぁメールでいいじゃないですか?でも「メールでいいじゃないですか」っていえるようになったのはごく最近なんですよって話だよね。色々と考えれば恐らく古代から普遍的にあったようなサービスとかやり取りの形態とかが一気に変わってるみたいなのはいっぱいあると思うんだよね。


でもまぁ惰性というかなんというか一部のそういう情報系のものに敏感じゃない人はインフラがめっちゃ変わってるのにも関わらずマインド的には古代のインフラのままなんだよね。だからいつも「まぁ便利ねぇ」みたいな感覚で終わるわけ。いや、そもそも情報空間の位相が変わったってことは情報空間の構造自体が変わったってことなんだよね。んでも実感としては過去の情報空間の構造との交わりの部分としてそれを感じているんで実質的な変化みたいなのはそこまで感じなかったりするんだよね。まぁようは過去の情報空間の構造と現在の情報空間との積集合の中にいるってことだよね。ジャスラックとか他の著作権とかに異様に煩い連中ってのはこれが理解できてないんだよね。過去の情報空間の構造のままの論理でいるからああいうことになるんだよね。だから一部で変化が起こって一部で凄まじい著作権の権利の強行みたいなのがあったりして。You Tubeってそういう積集合なんだよね。で、その交わっている色合いがグレーっていう(笑)まぁそれで言うとネット全般そうなんだよね。でもまぁ今は映画配信がオンラインだったり情報量の問題ってのがなくなってるもんね。そりゃ流通が変わるし映画館も潰れるでしょう。それはもう情報空間構造の変化としかいいようがなくて、過去の情報空間構造の中でのみ生存可能だったものは淘汰されていくってことだよね。積集合の中にいるものはなんとかやっていけるけど新しい構造のほうにシフトしていかないと恐らく先に淘汰されてしまうだろうっていう。


言いたいこと分かるでしょ?情報空間構造の変化ってそういうことなのよ。で、今は主に物流の話ばっかしてたけど実際は情報全般そうなわけ。ようは情報を出した側は古い構造っつー前提で出してるでしょ?で、今の場合は新しい構造の中でそれを理解してるんでなんとなく理解してもそれは積集合の中での理解でしかないかもしれないわけよっつーかそうでしょ。逆に文献学的に厳密にそのまま理解するっつーと古い構造を持ち出してきてそれだけで理解しようとするよね。あ、んで道元デリダ的なまぁ何々で何々を理解するみたいな色んな組み合わせってのはそういう集合同士の積集合の結果を見せてるだけなんだよね。で、現在に置いて何かを理解するって新しい情報空間構造の中で理解するってことなわけで、積集合の中で理解でもいいんだけど、俺はなるべく新しい情報構造の中で理解しようと思ってるんだよね。だから昔の哲学をそのまま厳密に理解して現在の何かに当てはめる的なのが凄く馬鹿馬鹿しく思えるわけね。


で、さっき書いたゲーデルとLautmanってのは古い情報構造の中でしか論じられていなかった数学の哲学って言うのを古い情報構造とか新しい情報構造とかっていう問題ではない普遍的な立場で語ることが出来てたと思うのね。ではその普遍的な立場とか情報構造とは?っていうそれがまさしくイデアってことになるわけですよ。まぁあくまで過程でしかないけどね。でもまぁ俺はそういうもんだと思っているので。なのでイデアに関しては概念自体の新旧が一切差別されないんだよね。概念自体の新旧や個人の主観によって変わってしまうようなものはイデアじゃないわけ。だからイデア自体に自己が関わるなんてことはまずありえないわけだ。それはあくまで自己とイデアとの関係性という内面的な問題なんであってイデア自体の問題ではないよねってことです。


とまぁかなりの紙面と労力を割いて色々と書いてみました(笑)まぁでも実際、労力なんて必要としないよね。そもそも考えていることを述べるだけなんだからそんなもん喋るのと同じなんだから喋ることに労力なんて必要としないわけだから考えていることをただ述べるだけということに特別な労力が必要とされるとは到底思えないよね。仮にそれには労力が必要だとして、その伝えようとする努力をしないコミュニケーションなんてのに何の価値があるのか?って話でしょ?あとここはネットなので紙面の問題なんて無いわけだよね。だからまぁ書きたいだけ書けばいいわけじゃん?でも書くことがないってことは特に何も考えてないってことでしょ。なかなか上手く書けなくてもそんなもん俺の文章を見ても分かるように綺麗に書こうとなんてしないで思ったことを書いちゃえばいいのよ。まぁ問題が色々とあった場合、あとから訂正すればいいわけで。


一番嫌なのは色々と知っていたり考えているフリをして実際は何も考えてないっつーことね。何も考えてないってこと自体は別にそれでいいんだけど、色々と知っているフリとか考えているフリをするって最悪じゃないですか?めちゃめちゃ不細工なのにかっこつけてるみたいなもんですよ(笑)だったら別に不細工なままでいいし不細工で何が悪いのか?って話でしょ?不細工なのにかっこつけるから問題なんであって。まぁこういうのって滑稽だし馬鹿の極みだと思うんだよね。何も考えない馬鹿よりもタチ悪いのよ。だったら「何も考えない」でいいじゃないですか?それだったら別に馬鹿呼ばわりされないんだもん。考えているフリとか色々と知っているフリをするから馬鹿になるんでしょう?ソクラテスの「無知の知」のエピソードそのままじゃんっていう。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。