ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

foobarhogeさんへの返信。

foobarhoge 2013/12/11 17:38


自分なりに要約すると対象の認識は認識する主体と認識される客体みたいなものが存在して数学的構造や概念は主体に依存しないは客体そのものを表しているのではないか?ってことですよね。


ただ構造的に客体そのものをそのまま認識することは不可能でどうしても、主体(というか自分というメガネ)を通してか認識はできないのです。そのため本当のところでは、客体が変化しているのか、自分の認識のレベルが向上しているのか絶対に分からない。


ただ mimisemi さんのここでの主張の重要なポイントは、上のような主張を理解した上でやっぱりそういうものを含めても認識のレベルに依存しない "客体" というものが存在する(つまり客体が変化しているのではく、自分の認識レベルが向上がしているだけ)、とおっしゃっていることですよね?一応自分なりの言葉で言うと、例えば掛け算や割り算みたいな非常に基本的なものにも、ここでいう構造がありますよね。


"数" の掛け算と割り算って誰でも理解できると思うのですが、それが演算の本質を表しているのか?っていうと多分違うと感じています。"集合 + 代数的構造" の構造の中で考えると、掛け算は自己同型写像、割り算は集合の中に同値類という構造を入れてその商集合を取ることに対応すると思います。それで、ようはここでいう "代数演算" って数の掛け算と割り算の高次元的な理解じゃないですか?


でも別に高次の理解が出来たからといって、数学自身は何も変化していないですね。つまり数の演算規則が何ら変化するわけではないですね。すなわち、客体自身は変化していない。


一方で、こういう高次の理解みたいなものがすることで、自己の認識レベルを上げることができる。これこそまさに、客体が変化しているのではく、自分の認識レベルが向上がしているだけっていうことですね。


さらに言うと集合上に代数的構造を入れた自己同型写像や商集合自体も、もっと高次のレベルで認識することが語ることが可能だと思っています。高次理解の連鎖に終わりがあるのか、つまり数学を全て語り得ることができるのか?って部分は mimisemi さんの上記の議論でいう、"超越的な神みたいな存在にしかイデアの世界を完全に見ることは出来ないんじゃないか?"っていう結論に対応していますね。


あと、情報の位相の変化についてですが、これはやっぱり物理的な制約を受けずに情報を手に入れることが出来るって部分が一番大きいですね。つまり、物理的な制約がある世界では離散位相みたいな自分の周りに近傍系がいっぱいある構造だったのが、密着位相みたいに急激に近傍系の数が減って簡単に情報を手に入れられるようになった。まさしくこれがなければ僕が、このようにしてウォール伝にコメントすることも出来なかったと思います(笑)


哲学についての話ですけど、やっぱり哲学って "知識への探求" と "自分で考えること" って部分の両輪が揃っていないとダメですね。それで言うと文献がどうのこうの、とかは全然意味ないですね。”自分なりの納得感が得られるか?”、ってところと根源的な知的欲求(概念や構造や世界の理解)が必要で、それで言うと哲学って static ではなくて dynamic だと考えています。つまり、何かよく分からないものブラックボックスな対象、に対してどのように理解すればよいか考える、っていう趣向性や方向性のことだと思います。例として挙げられているエリック・ホッファーなんかは哲学だけでなく自然科学一般の勉強や考察も含めて行なっていたので、まさしく哲学者の模範みたいな存在ですね。


foobarhogeさん、要約ありがとうございました。まさしく何も言うことがないぐらい完璧な要約で、僕が書きたかったこととの寸分のズレもありませんでした。本当に感謝しています。素晴らしい要約になっているためにここに貼らせていただきました。


で、それを踏まえて言うと、やはり自己が介在するイデアなどありえないと言い切ることができますよね。例えば数字の1にしても自己が認識することで1という存在が生まれるなんてことを言い出したらまさしく独我論そのものですよね。環世界的な意味では方法論的な独我論は有効なんですが、でもそれは対象の違いですよね。「世界は自分の主観により形成される」という命題における対象というのは「主観」なので「客観」ではない。でも客観的に世界は存在しているではないか!と言っても主観はその完璧に客観的な世界を認識するということなどありえないわけで、だから世界を認識するのは主観でしかありえないということになりますよね。


でもイデア的な存在の場合、あくまで対象はイデアですよね。ここは客観的な存在とはまた違うってのがポイントなんですが。ウィトゲンシュタインとかあとはブラウワーなどの直感主義みたいなのもあくまで人間があっての数学だっていう風な言い方をしてるんですよね。だから数学は人間の発明なのであって発見ではないというような意見が出てくるわけです。ちなみに今回色々と変な意味で話題になった西田もこういう立場なんですよね。といっても一括りにできるわけじゃなくて、こういう言説でもまた色々な違いがあるんですが、大まかに言えばそういうことになるんですよね。でも僕が思うに、まぁこれは散々書いたことなんですが、ウィトゲンシュタインとか西田とかブラウワーの時代ではこういう考え方があっても無理は無いと思うんですよね。


というのは今ほど科学や理論が発達していたわけではないし、当の数学ですらも未発達で現代数学的なものが出てくるより前の話なので、数学が「ただの演算」とか「ただの公理」みたいに扱われてしまったりするのも無理はないなーって気がするんですよね。直感主義的な立場にしても、今みたいなダイナミックな数学像というのが当時は無かったと思うので、ああいう立場が出てくるのも頷けるという感じがします。といってもやはり当時の最前線に居た一部の物理学者とか数学者の意見は哲学者か哲学寄りの数学者が述べる数学観とは異なっていたと思うんですけどね。まぁこれが世界が見えているか見えていないか?の話なんですよね。


今の知識で言えば数学は人間の発明っていうスタンスを取ることが非常に難しいですよね。単純に数学の研究をしていたのにそれが金融工学へ応用されるだとか、物理の重要な演算に関わっていたものだったとか、これってライトというものを発明したからその応用で電気スタンドやペンライトなんかも作れるようになったみたいな話とは全然違いますよね。その数学の構造や演算というのが当の数学者では理解できないような別の分野で応用されるようになったとかいうのはイデア的とまでは言いませんが、やはり人知を超えた客観の世界のことだと思うんですよね。


もちろん応用でもライトから電気スタンド的なものもあるんですが、そういうものではない、それこそ科学者達を科学に魅了し続けるような「不思議」な一致というのがイデア的なものなんだと思うんですよね。でもその一致ですらもイデアの一面か、もしくは実際はイデアじゃなかったりもしたりして、それがイデアの一面だったのか実際のイデアだったのか?というのはもっと広い数学的視野が必要になるわけで、それは今は「不思議」としか感じられない現代の人間の限界なんですよね。でも仮に理論的な進化は青天井なのだと考えると今は不思議に思えていたことも常識化するわけですよね。これがfoobarhogeさんが要約してくださったことで、ようはこれは自己の認識レベルが向上しているだけで客体自体は自己の認識レベルなどには依存していないということなんですよね。まぁそんなに難しい話でもないですよね。


僕が理論の進化は青天井と言うのはfoobarhogeさんがおっしゃる「高次理解の連鎖」ということなんですが、1000年後の数学とかってなるとそれこそガチでSFみたいな世界になっていると思うので、数学にしても今考えられるような数学とはだいぶ違ったようなものになっている気がするんですよね。過去から現在までの地続きでの数学の高次理解の連鎖だとなんとなくいつかは限界が来るような気がするんですが、例えば物理学のような他の分野の数学のみの研究ではない実験によって発見された数学とかルールとかっていうのが我々が使っている数学というのに影響を及ぼしてきて方向性が変わるような気がするんですよね。ややこし過ぎてあまり手は出していませんが量子力学系の数学ってなかなか凄いんですよね。最悪のごちゃごちゃしたものもありますが、凄く綺麗なものもあったりして。数学は数学という対象を研究していますが、物理学のように現象を研究している上で見つかる数学というのもあるわけで、まぁそれも全部ひっくるめて数学なんですよね。


こうなるとペアノ公理から始めました的な数学ではなくて、量子力学における事実というのが公理になったりもしますよね。なんでそれが公理を言えるのか?ってそれは実験で証明されているからである的な。まぁそれで言えば確率論なんかでもそうですし統計学なんかでもそうですよね。全部が全部数学から来ているというよりかは確率や物理や統計といったものを数学の目で見たときに見えてくる数学もあるわけで、それも含めて数学なんですよね。で、そうなると数学自体の発展というよりかは人間がどこまで事象そのものを解析できるのか?っていうことになるんですよね。素の人間だと限界がありますが、それこそサイボーグ化した人間とか、今では見えないものが技術的な進歩によって見えるようになった人間が見ている世界から見えてくる数学なんてのはもうなんていうかテクノロジーと人間の認知というハイブリッドなものですよね。山篭りをしたところでサイボーグ人間のようなハイパーな知覚は得られないわけで、まさしくこれは自己とイデアに何の関係も無いことを表していると思います。むしろこっちの知覚を色々な方法で拡張することでしかより大きなイデアは見ることはできないですよね。

あと、情報の位相の変化についてですが、これはやっぱり物理的な制約を受けずに情報を手に入れることが出来るって部分が一番大きいですね。つまり、物理的な制約がある世界では離散位相みたいな自分の周りに近傍系がいっぱいある構造だったのが、密着位相みたいに急激に近傍系の数が減って簡単に情報を手に入れられるようになった。まさしくこれがなければ僕が、このようにしてウォール伝にコメントすることも出来なかったと思います(笑)


いつも思うんですがこれって極めつくせば最低限のインフラさえあればめちゃめちゃ田舎でもハイテクな生活が出来るってことですよね。僕はリアルにこの田舎でハイテク生活を考えていたりもしますよね。まぁようは主に経済的な理由なだけで、別に今のままでオッケーならそれはそれでいいんですが。僕が言う「外の世界はどうでもいい」っていうのはあれなんですよね、自分の生活圏における自分のプライベートなことなんてどうでもいいってことなんですよね。もちろん仕事とか家業は別なんですが、例えば自分が外に出ることにおける意味合いが全くないってことなんですよね。実際に外に出ても何も無いしつまらない。というか家で色々とリサーチしてたほうが世界情勢から芸能ニュースまで(笑)色々と情報が入りますからね。


最近思うのは情報空間における情報のやり取りと物理世界での営みの違いってまぁ強いて言えば物理世界での営みってお金とかインフラとか食事みたいな体に対することですよね。で、メンタル面においては情報空間でのやり取りをメインに行っていれば実質的に主な人間の活動ってそこで行われるわけで、そういう世界にシフトしていけばまた世界感ってかなり変わるよなぁーとは思うんですよね。それこそ「リア充」なんて言葉が死語になるぐらいだと思うんですよ(笑)ただやはりそれは自分が情報の一次発信者にならなきゃいけないわけで楽な話ではないんですけどね。でもまぁ別に発信だけがやり取りではないし、そこは多様性があっていいと思うんですけどね。

哲学についての話ですけど、やっぱり哲学って ”知識への探求” と ”自分で考えること” って部分の両輪が揃っていないとダメですね。それで言うと文献がどうのこうの、とかは全然意味ないですね。”自分なりの納得感が得られるか?”、ってところと根源的な知的欲求(概念や構造や世界の理解)が必要で、それで言うと哲学って static ではなくdynamic だと考えています。つまり、何かよく分からないものブラックボックスな対象、に対してどのように理解すればよいか考える、っていう趣向性や方向性のことだと思います。例として挙げられているエリック・ホッファーなんかは哲学だけでなく自然科学一般の勉強や考察も含めて行なっていたので、まさしく哲学者の模範みたいな存在ですね。


いや、ホントにその通りです!知識の探求だけだとただの物知りになるだけですからね。ショーペンハウエルも言っていますが思索がない読書など時間の無駄なんですよね。文献学で言うと「何年何月何日のライプニッツの誰々に対する手紙」みたいなのって哲学っていうよりかは歴史ですよね。だからそういう意味で哲学研究ってのは歴史研究なんじゃないか?って思いますよね。自分で考えてればそれ自体が哲学ですからね。まさしく文献学はstaticで哲学はdynamicですね。で、知のあり方って本質的にdynamicだと思います。テクノロジーが人間の認識に影響を与えるというのも知がdynamicだからですよね。知は知として存在していてそれとは別に道具としてのテクノロジーがあるということではなくて、テクノロジーというものが知に影響して常にまたそれは変化し続けるってことですよね。


あとは別に量でなんとかなるという話ではないんですが、昔の人が生涯で知りうる情報量の合計ぐらいを今の人たちは数週間か1ヶ月ぐらいで得ているわけですよね。まぁそれは情報の質にもよるんですが単純な量の話をすればそういうことになりますよね。でも僕らは全然情報量が多すぎる!なんて思ってないわけですよね。いや、色々とやってて思うんですが、本が専門書ですらもそこまで凄まじい大金を払わなければ買えないわけでもなくて、なおかつ分からないところがあればピンポイントで調べられるとかまぁ凄い話ですよね。もちろん調べるにしても良いソースを情報源にしなければいけないわけですが、そういった良質な情報源へのアクセスを持っているとかやり方を知っているというだけで、全く知らない人とは情報量の差が桁違いになりますよね。エリック・ホッファーで言えば良い情報に接するために図書館の近くにアパートを借りていたわけですが、今はこういう物理的制約を受けないので、先ほども書いたようなド田舎でハイテク生活が可能になってるってことですよね。


あと物理的制約って時間や労力を割かれるというのも大きいですよね。昔はアメリカに留学しなければ分からなかったことが今は簡単に分かるようになってるっていう。そうなると大学に通う時間とか満員電車で無駄に体力を削られるみたいなことが情報を得るという目的から考えればめちゃめちゃ無駄なことになるんですよね。物理的制約に体力や労力を削がれないというのは本当に大きいですよね。それだけ情報を得ることに対して体力を温存できるわけですからね。情報を得ることに時間がかからないとなると暇も出来ますよね。偉大な哲学者は大体言ってますが哲学って暇が大事なんですよね。むしろこの暇の確保こそが哲学のコアなんではないか?というぐらい。まぁでも実際そうですよね。忙しかったら集中して考える時間なんて作れませんからね。そういう意味でエリック・ホッファーのほどほど生活のために労働をして他は活動に費やすってエリック・ホッファーの哲学者としてのメンタリティもさることながら、生活の方法も哲学者の模範だったと思いますね。


というわけでfoobarhogeさん、丁寧な要約ありがとうございました。