創作について。

いや、例の現代音楽のやつなんだがもう当初の面影がほとんどなくなったね。最初は真面目な現代音楽っぽかったんだけど面白コラージュみたいになった部分が多いわっていうか人間性が出るってことですね。ようは真面目な現代音楽なんて作れないんだっていう(笑)まぁでも真面目な部分も残ってるけどね。あとこれまた俺の性格っぽいっつーか度が増すんだよね。ノイジーだった部分とかがもうノイズになってたり(笑)まぁでもホントマジでこれは自分のですよ。ホントにっつーか自分の音になっていくんだね。やっぱ。っつーかそれが無いと意味ないよね。ホントにただのコピペになっちゃうもん。そこが大きな違いだからね。既存の音素材を使って俺の音を作るんであって既存の音楽の切り貼りをするわけじゃないわけで。そこがまぁ俺と佐村河内との大きな違いですよ(笑)


っつってもまぁあれだよね、方法論とかそもそもの大きな意味での自分が何かを作る上での影響ってのはあってまぁそれがこないだ書いたJohn Wallだよね。電子音楽とか現代音楽に手を出し始めてた15ぐらいの頃に聞いてまぁこりゃすげーな!って思ったわけですよね。コラージュ的なのはもうすでに自分で作ってたからあれなんだけどさ、John Wallって現代音楽を切り貼りして楽曲になってるから凄いんだよね。音楽性が高いコラージュっていうかなんていうか。こないだ書いたAlterstillってのが超名盤でこれ以降、音そのものにフォーカスするスタイルになるんだよね。メロディとか現代音楽の楽器とかじゃなくてバイオリンの「キー」って音そのものとかそういう感じになるんだよねってまぁこれはこれでいいんだけどこないだも書いたように俺はやっぱAlterstill的な大胆なやつが好きなんで今回のはマジでそれよ。だからまぁジャケもオマージュを捧げたつもりなんだけど。


んでもまぁあれなんだよね、気合入れすぎててさ、何をもって完成とするのかが分からなくなっちゃって。結局まぁ「素材数=アーカイヴ化された現代音楽」なんで組み合わせで言えば無数にあり過ぎるんだよね。だからまぁ模索しようとすればいくらでもあるっつってもまぁあれかな、マッシュアップにハマったときもそんな感じでまぁ実際今飽きてるからいつまで続くか分からないけどね。でもまぁミックスはとりあえず一区切りとして、んでまぁ他のモチーフみたいなのができてきたらまたそれは別で作ればいいんじゃないかとかって思ったんだけどね。


んでもまぁーあれだよね、昔と違ってサンプリング素材とか音のアーカイヴって意味でも分量が違うしさ、手に入りやすいしすでに持ってるものも多いし、あと機材とかも金かからないじゃん?いや、昔は「いや、機材が無いから」なんて言えたんだけどさ、で、まぁたいしたの作らないくせにやたら機材凄いやつとかいたんだけど今って関係ないもんね。本当のヴィンテージシンセとかにこだわれば別だけどヴィンテージシンセ的な音なんて余裕で手に入るもんね。何より使いやすくてソフトウェアベースのやつってのは本当に経済的だよねっていうかソフト自体もまた昔と比べて安くなってるしね。んだからまぁ何の言い訳もできないっつーかなんつーか「いや、もっと機材があれば」的なことが無いじゃん?自ずと限界が見えてくるよね(笑)今の俺なんかまさにそうよ。


何かによって劇的に自分のものが作りやすくなるなんてまぁそれこそゴースト雇うぐらいしないとできないわけじゃん?で、サンプルは使いたい放題で尺も関係ないとなればまぁなんつーかもう本当にセンスだけだよね。で、それで出来上がったものってもうそれ以上のことがありえないもんね。これ以上良いものが作れない!っていう良さじゃなくて自分にはこれしかできないっていう限界を見せ付けられるっつーかなんつーか。一応シェーンベルクの作曲理論の本とか買ったけど音楽理論を身につけたところでどうにかなるもんじゃないよねっていう感じだよね。完全にやりたいことができちゃってるってのはまぁ本当にそれ自体で限界を見せ付けられるってことなんだなって思いましたよね。


いや、自分でも驚いたのがさ、なんでもありのサンプリングっつーか曲丸ごと使ってるコラージュなのに型みたいなのが出来上がるんだよね。まぁめちゃくちゃにしか聞こえないかもしれないけどまぁ俺にしたらすげー調和だなぁ!って関心しちゃうぐらいなんだよね(笑)もっとめちゃめちゃでいいはずなのに型っぽくなるんだよね。まぁ元々音楽作品として成立させようとしている時点で自由性なんて限られてるんだよね。そこをまぁめちゃめちゃに突き破るとうさんくさいフルクサスとかの作曲法になるわけだ。なんかでもさ、この辺の堅気とそうじゃない間ってすげー差があるんだよね。チュードアとかケージはやっぱ堅気でオノヨーコとか小杉武久とか堅気じゃないんだよね。


ライリーとかラモンテヤングとかは微妙な感じだけど。あと刀根なんかも堅気じゃないよね。いや、何が言いたいのか?っていうと無調の音楽とか音楽の限界とか言い出すと素人と玄人の差が分かりづらくなるってことなんだよね。新垣隆の作品の演奏動画が人気みたいだけど結局あれもさ、分からない人がみたらめちゃめちゃなのかちゃんとしてるのか分からないもんね。でもまぁやっぱ堅気ですよねぇ。それはコンテキストに依存してるわけじゃなくてやっぱちゃんとしためちゃめちゃなんだよね。そこが本当のめちゃめちゃとは違う。まぁだからどうなんだ?って話なんだけどまぁでも元々変な音楽聴いてるやつらから見るとめちゃめちゃまともだからね。ああいうの。「あー本当にアカデミックな感じだわー」っていうね。


だからなんつーのかな?あそこまでちゃんとしちゃうとまぁすげーつまらないわけだ。かといってもまぁ俺も素人に毛が生えたようなもんだけどフルクサス的なめちゃめちゃは嫌なんだよね。なんつーかそこは音楽的でありたいのね。いや、俺さ、小杉武久とかああいう年代の適当に安い機材持ってきてサイケなドローン作って評価されちゃいましたみたいなのがすげー嫌いなんだよね。マイクにワウかけて変な声出してればオッケーみたいな世界観が凄く嫌。ああいうアマチュアリズムは嫌なんだよねぇ。あとなんでも増幅すりゃいいと思ってる世界観とかもすげー嫌っつーかこれは変な声よりもっと嫌いな世界だわ。だからまぁそういう意味でアカデミック寄りのちゃんとしたのを作りたいとか思いつつも性格的に無理じゃん?だからまぁその気持ちっつーのかな?素人っぽいテープコラージュって昔から大嫌いでさ、んでも俺が作ってるもの自体がアマチュア臭いものだからなんかそこがアンビバレントなところなんですよね。そういう意味で今回みたいな現代音楽そのまま使えちゃうってのはすげー良いんだよね。アカデミックなフレーバーをそのまま使いながら自分の好きなように作れるわけだから理想的なんですよ。いや、本当に理想的な作り方してんなぁー俺って関心しちゃってるんだよね。何で今までやらなかったんだろう?ってぐらい。


なんかでもこういうのを書けば書くほどアップロードの敷居が上がるっつーか引っ張ってるみたいになっちゃうのもあれだよね。まぁ誰も気にして無いだろうけどさ、当初は自信作だったんだけどずーっとやってると何が良いのかが分からなくなってくるんだよね(笑)まぁでもなるべく第三者が聞いたらどう思うだろうか?的な雑念を無くしながら自分がやりたいようにやるっつーのをやり続けてるんだけどね、そしたらまぁ素材が現代音楽であれ曲そのままであれなんか結局俺っぽい音になってきたなって話なんだよね。これが面白くて。まぁ逆にアイデア無しのただの切り貼りだけじゃあんな長いのは作れないからまぁ素材は現代音楽でも発想が自分のだからまぁようはさ、今まではそれを実際に録音した音とかコンクレート系の音源をサンプリングしたのを加工して使ったりだとかしてたんだけどまぁようはただのその素材の違いだよね。やりたいことがあって音源が何なのか?っていうそれだけの話って気がしてきたんだよね。逆にやりたいことってのが無いと無限に使える音があっても何も作れないっていう。


いや、もうほとんど作り終えてるんだけどさ、軽い燃え尽き症候群みたいになっちゃってるんだよね。今。いや、ここ二週間ぐらいずーっとやってたもんな。次何をやったらいいのか分からなくてなんかそれが怖くて作業を終えられない!みたいな感じになってるんだよね。いや、こんな毎日何かを作るなんてことはマッシュアップにハマってた時以外はやってなかっただろう!とかって思うと「普段どんな生活してたっけ?」とかってのを思い出して「そういえばゲーム三昧だったのか」っていうさ、今は何でゲーム三昧じゃないのか?っていうとまぁ言わずもがなだけど作ってるのが楽しいからだよね。それで生活とか実存のバランスが成り立っちゃってるっていう。んでもまぁそれを完成させるってことはそれを終えちゃうってことだから怖いんだろうなぁ。いや、できればずーっと何か作っていたいわ。マジで。楽だもんね。悩みとか関係なくなるもんね。ずーっと何かに集中してるわけだから。


いや、思えばこれだったんだよなぁー。ノイズとか作りまくってたのもようは実存的にキツくて何かに没頭してれば楽だからっつーのはすげーあったよねぇ。だからまぁあんなずーっと何か作ってたんだろうなと。なんかこの感覚が懐かしくて。そう思うと全然衰えてないんだよね。作りたいのがあれば狂ったように何かを作ってた頃みたいな感じで今も作れるんだよね。だったら何か模索したほうがいいなーって思うようになって。まぁこれだけでやっていくかはともかく一つにはなるじゃないですか?大きいですよね。これは。あとマッシュアップも飽きちゃったしミックスなんかも作るの飽きちゃったから作れるのが無いってときに今回みたいなのがきたからなんか絶妙なタイミングだよねっていうかまぁ潜在的に何かを作りたい!って常に思ってたのかもね。でもまぁあえて自分が作る必要があるほど良いのが作れるわけじゃないって分かりきってるから作っても意味無いって思ってたけど、いや、そういう結果がどうのじゃなくてこの作ること自体の楽しさに没頭するって意味だったら何やっちゃったっていいんだよねってのが今だよね。二次創作なんつー言葉もメジャーになってきてフリーカルチャーなんてのもそこまでアングラじゃない今にはちょうど良い作り方だなって思ってるんだよねっていうかようやく時代が俺に追いついたね(笑)


っつってもまぁそこで本当に作曲がしたい!って思う反面、基本的に考え方がカットアップ的だったりミキサー的なんであればまぁいつも書くように概念のレベルでのコピペとか概念の作り変えとか組み換えとかそういうことじゃないですか?それを音楽理論を駆使して実際に打ち込んで作るのかどっかから取ってくるのか?なんて手法の違いなんであって概念レベルでの違いなんて無いもんね。あ、そうそう、例の新垣隆の話題になってる動画の作品ってまぁコラージュですよね。んでも堅気じゃない人が作ったコラージュとかを聴きまくってきた人にとってはなんとも思えないよね。まぁ生でやるとああなりますよねってことだよね。暴力温泉芸者の諸作品を生でやればああなるだろうってことでまぁだからそういう意味でさ、暴力温泉芸者っつーか今はhair stylisticsだけど音源がモンドとかスカムなのかどうか?って話なんであってやってること一緒だもんね。一方はアカデミックな手法を使ってアカデミックな人たちによる堅気の演奏になってるけどhair stylisticsの場合、やくざなスカム音源であったりノイズであったりするだけでやってることは一緒だもんね。そこがまぁさっき書いた「やりたいこと」を「どんな音源と手法を使って表現するのか?」っていうそれだけなんですよねってことなんだよね。


新垣隆みたいな感じだとまぁアカデミックに評価されることもあるんだろうけどhair stylisticsが現代音楽として評価されることはまずないんだよね。そこがもうすでに文脈依存なのよ。新垣隆中原昌也って全然違う人に見えてやってることは一緒だからね。っつってもまぁ中原昌也は評価されてるアウトローなんでそこまで違う人って話でもないのかもしれないけど。だからまぁこれって不思議だよね。手法とか作り方が違えば偉そうな賞とか取れるような作品になって荒っぽいやり方だと「ノイズ」とか「アングラ音楽」とかって言われるんだもんね。いや、さっきのフルクサスの話なんだよね。堅気が行き着くところまで行って無形の音楽みたいなフリーフォームの音楽になってもフルクサスみたいな変わった素人集団みたいなやつらがやってる音楽とかにしても「何をやるか」が問題なんであって「どうやるか」は問題ではないってことなんだよね。そういう意味で行き着く先だとめちゃめちゃアカデミックなものとアウトローの極北みたいなのが繋がったりするわけよ。だから小杉武久とチュードアがコラボしてたりしたわけよ。叫んだり喚くだけなら誰でもできるから(笑)


あーその辺で凄いのがジムオルークだよね。若い頃は堅気なコンクレート作品とかを作ってて閉鎖的な前衛の世界に嫌気が指してアメリカのフォークとかに向かったっていう。で、両方で成功してるから凄いんだよね。まぁ本当に凄い人ってのはああいう人のことを言うんですよ。だから中原昌也とジムがノイズユニット組んでること自体は不思議なことでもなんでもないんですよね。ジムの才能のおかげでフットワークが凄いわけじゃん?アカデミックなものも作れるしノイズもやれるし即興演奏もやれる。一方でフルクサスの連中とかは例えば絶対映画のサントラとか作れないじゃん?変な音楽しかできないよね。んでもまぁ逆に新垣隆みたいなのはスカム音楽並にぶっ飛んだのは一生作れない。まぁさっきアカデミックになりすぎてもつまらないってのはこういうことなんだよね。だからまぁこの辺の絶妙なバランス感覚って凄い大事なんだよね。ただめちゃめちゃやればいいわけじゃないわけで。だからまぁジムオルークって本当に凄いよなぁーって思うんですよね。滅多にいない本当に才能がある人だよね。


あとあれ、オノヨーコみたいに才能ゼロでも文脈と金の力を使えば誰でも音楽アルバムが作れるっていうさ(笑)まぁ音楽って元々そういうもんだから佐村河内とかも元々そもそもオノヨーコだとか一部のただのセンセーショナリズムだけの現代アートだとかさ、スカムと堅気の美術との差が色んな外的要因で分からなくなってるんだよね。実際に型っつーか枠だけ見れば明確でまぁそういう意味で何も大事ではないってことだよね。アートだとか音楽だとかなんてそういう錯覚でできてるようなもんなんだから。だからまぁ音楽って錯覚を生み出すために利用されるからね。プロパガンダとかそうじゃん?あと泣ける音楽とか感動的な音楽とか。だからそういうのは陳腐になるんだよね。んでも外的要因が介在しない音楽なんてありうるのか?って話じゃん?まぁそんな感じで突き詰めていくとまぁへんてこな現代音楽とか現代美術っぽいうさんくさい分かりづらいものになるってのは構造的な帰結なんですよね。そいつがアカデミックだろうがパンクスだろうが突き詰めれば一緒なわけよ。


そこでまぁはったりとかも含めてやりきっちゃう人ってのはやっぱ凄いんだよね。そういう意味で灰野さんってやっぱ凄いわけよ。はったりとかも含めてなんだけどね。あとまぁかなり天然で滑稽なところもあるんだけどそれも含めて全部やりきってるからああいう表現になるんだよね。良いか悪いかは別として突き詰めた表現ってやっぱそれだけで立派ですよね。そういう意味で新垣隆の作品を見てもああいうフィールドですげー突き詰めてるなってのは本当に分かるよね。あれが本流で過去のクラシックのコピペが俗っぽい誰でもできる仕事ってのは全然当たり前のことだよね。ただまぁ世間の考え方とかロジックと違うから違和感とか「大衆音楽舐めてんのか!」みたいな意見とかが出てくるんだよね。いや、ちゃんとした音楽とゲームのサントラって全然違うじゃないですか?まぁ変な話あれだよね、堅気な世界で作曲家としてやっている反面、小遣い稼ぎでAVとかエロゲーのBGMを匿名で作ってるみたいなもんじゃん?文豪が変名で金のために官能小説を書いてたなんて話はいくらでもあるわけで。まぁ別に新垣隆を擁護するわけではないけどまぁ真面目に突き詰めて音楽やってる側から見たらマジでああいう仕事なんてゴシップ雑誌のくだらない記事とかエロゲーとかAVのBGMとかと一緒なんだよね。だから金のためにやっていたっつーのはまぁむしろ当たり前っつーかなんつーかどこにでもある話なんだけどまぁ佐村河内がとんでもない詐欺師であったために話が大事になっちゃったってだけだよね。まぁ一番悪いのはあんなコピペ音楽を大げさに取り上げるメディアとか専門家だよ。なんであんな明らかにやりつくされたすぎやまこういち的な音楽を専門家が絶賛していたのかそれが理解できないよね。それは前にも書いたように何でコピペ論文で博士号取れちゃったのか?って話と同じなんですよ。


まぁでもメディアとかに出てくるような類の連中は大体まぁそんなレベルのやつらだって言っちゃえばそれまでだよね。美術界とかでもそういうのは本当に酷いからね。あまりの腐敗に気を病んで業界を去る人とかも多いらしいからね。まぁそういうのも含めて「全部でたらめだ!」でいいわけよ。いや、それが現実なんだからしょうがない。マルクス的な意味で疎外されているから個人がどうにかしてどうにかなる問題ではない。だからまぁそういうでたらめの中で何をやっていけばいいのか?って話じゃないですか?だからまぁそんなんで俺がやってるのは作曲だ!ってあたかもネタみたいな感じで俺は言ってるけど本気ですからね。それは相当適当な世の中を認めるっていう中で自分の中で論理的に成立している概念なわけだから。あとまぁプロセスがどうであれなんであれ作られたものって独立してるからね。それ自体がジョンレノンの妻だとか全盲のピアニストだとかそういう外的なことに影響されないじゃん?それによって音は変わったりはしないからね。だからその「音は変わらない」という性質を利用してとりあえず音作っちゃえばいいんだよって話だよね。そうなりゃ面白いもんを作ったもん勝ちなんすよ。


俺みたいに技は無いけど作りたいものはある!ってやつはそういう意味で絶対何かを作るとか表現するってことはやったほうがいいよ。ホント、今は技術不足なんて色んな手段で補えるわけだから。俺の方法はその一つですよね。「でもそれはあなたのものではない」と言われても便利な「二次創作」とか「クリエイティブコモンズ」とか「フリーカルチャー」みたいな思想があるじゃないですか?そんなもん考え方次第ってことだからね。あとまぁ著作権自体のあり方が揺らいでるっていう現状はあるわけだからまぁ著作権無視してやりたい放題やっちゃったほうがそっちのほうが音楽とか表現物自体が向かってる方向だから自然な流れに乗るってことで利点しかないと思うんだよね。楽じゃん?それって。一人で何かに抗うんじゃなくて未来への流れに乗るだけなんだから。で、もうその流れができてるんだもんね。こんな楽なことは無いっしょっていう。ただまぁそりゃ当然アイデアとか作りたいもの自体がなけりゃどうにもならないんだけどね。それがまぁさっきも書いた手段や素材は無限にあってしかもそれが金銭的なことや技術的なことに依存しないという便利さがあっても作りたいもの自体がなけりゃどうにもならないってことなんだよね。だからまぁそういう意味で限界もすぐ分かるってことだからね。「あの機材を導入すれば・・・」とかなんとかって無いってのはいいことですよ。何の言い訳もできないしごまかせないからね。


だからまぁ誰でも何でも作れるって時代になっても良いのが増えるわけじゃないってことなんだよね。その「作りたい」とか「表現したい」っつー元を持ってる人なんてのはそんなに多くないわけだから手段が増えて便利になったところで無いものは増えないからね。あとこういうやつ多いんだよね。時間があれば小説を書きたいとか絵を描きたいとか音楽を作りたいとかさ、全部時間のせいにするやつ。いや、「何か」があったらそれは勝手に出てきちゃうからね。ましてや今は便利だからそういうのを表出させやすくなってるわけでくだらないエクスキューズが成立しなくなってるのが良いよね。だからこそ何も作れないやつは作れないでいいわけじゃん?やりたいやつだけが好き勝手やればいいっていうそれだけなんだよね。だからこそやれるやつは絶対やったほうがいい!って話なのよ。そもそもそういう何かを持ってるやつなんて相当少ないからそれ自体がもう宝ですよね。それをどう評価されるか?なんてのは二次的な話でどうでもいいわけよ。それを表出させるということ自体に意味があるわけだし、それに没頭しているときってのが言わばデュオニソス的陶酔なわけじゃん?ニーチェ的な意味での善の実践だし、俺はそれを絶対善だと思ってるからね。それに勝るものは無いぐらいに思ってるわけで。だからもうそれ自体はお金とかじゃ変えない宝なんですよ。そんなのを持ってるってだけで相当恵まれてるわけよ。だからそれをやらない手は無いって話なんだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。


4/10追記。俺のやつの完成品です。


https://soundcloud.com/mimisemi/assemblage



あ、ちなみに現代音楽がよく「こんなの音楽じゃない」とか「誰が聴くんだ?」とかって批判をされるけどさ、今回書いたことで言うと「なにをやるのか」ってのが行き過ぎるとまぁこんな感じになるって話だよね。それが必然的なぐらい音楽には自由度が無い。「なにをやるのか」ってのを突き詰めても理詰めの前衛みたいになって結局はつまらなくなる。っつっても「良い音楽を作りたい」と思ってもそんなものは出尽くしているので何をやったところでコピペにしかならない。これがまぁこないだ書いたポストモダン地獄なんですよ。現代音楽はそういうものとの格闘の歴史だったんだよね。娯楽じゃなく純粋な芸術としての音楽を突き詰めればそりゃ理論的にならざるを得ないじゃないですか?でも間抜けなことに理詰めになると滑稽な作品になったり、理論的には突き詰めていても全く音楽的価値が無いようなものであったり、あとは複雑性を突き詰めた結果、どれも似たような音になるみたいなことであったり、逆に新しい単純性みたいなのでもようは結局はどれも似たような音になるっていうことでまぁやり場が無いんですよね。だからそういう意味で驚きってのは無知からしか来ないわけなんだよね。だから色々知っちゃうとつまらないんだよね。まぁこれは何にでも言えるかな。


上の新垣隆の動画が話題になってるのも普段じゃ絶対話題に上がらないようなコンテキストのものが佐村河内事件によってスキャンダル的に捉えられた結果、全くそんなものを見ない人が奇妙なものを見て「これ逆に凄い!」って思ってるっつーような感じだよね。まぁこれがダダ的なのかは分からないけど結果的にダダとモロ被りだし、まぁ典型的な凡庸さだよね。「意味の無さ」というのも同じ人間がやれば似てしまうっていう。だからダダってすぐに廃れたからね。突き詰めてやってるのはいいけど結局は何かの組み合わせの所産なのでありふれたものとかもうあるものと被っちゃうっていう。クラシック的なコンテキストでの凡庸さで言うと商業的なところで言うと上野耕治とかだよね。永遠の音大生的な。ヲノサトルとかも似た感じだよね。なんつーかそういう意味でつまらなさって別に作り手のせいなだけじゃないと思うんだよ。色々と作られすぎてるんで「おもしろい!」と感じることができづらくなっているっていうそれだと思うんだよね。だから真面目に作ろうとすればするほど苦しむことになるんで安易な音楽で金稼ぎしたほうがいってことになったりする場合が多いのはまぁしょうがないよね。そういうのをselloutするとかって言うけどまぁこれは構造的なダイナミズムがそうさせてしまうことなんで一概にその人のせいにできないっていうことがあるんだよね。これはつまらなさとか凡庸さも一緒なのよ。まぁ結果、そういうつまらない安易な音楽に金を出してたのは事実なわけだし、まぁ世の中そういうもんじゃないですか?


あと別に新垣隆がゴーストで書いた曲自体を良い!と思う分には全然いいんだよねっつーかそりゃー凄い技術力がある人が過去のものをコピペして作ったものだからそりゃ良く聞こえるのは当然だろうって言うことだよね。まぁようはなんつーのかな?新垣隆はハイコンテキストな世界の人でんでも世の中は低俗なものであふれかえってるので低俗な世界の仕事をハイコンテキストな手法を使ってこなしていたってことだよね。結局やってることは同じコラージュなので差は無いんだよね。本当の絶望は本流の仕事でもそれが凡庸になってるってことだよね。だからまぁ精神を病む人がいたり辞める人が多いんだよねっていうかまぁ普通はそうだと思うんだよね。やり続けられるのは無知であったりあとはナイーヴさとかなんだよね。んでもそういうのとか全部関係ない!っていう衝動こそが原理なんだよね。俺はやりたいからやるんだ!っていうそれね。だからそういう衝動があるものってのはそもそもの動機づけが内発的なので続きやすいし合理性だけで計れるような代物ではないのでそこに面白さを感じたりする場合もあるってことじゃん?まぁようはミメーシスだよね。やっぱ俺はこれしかないと思うんだよな。んでも素人的過ぎるのは嫌だからそこはバランスが欲しいなっていうところなんだよね。