数学とイメージ。

まぁただのエクスキューズではあるんだけどさ、自分の理数系の理解って千原ジュニア的な「あれがパーッなってガーッなってパッカーンなったらこうなるんすよ」みたいなあやふやなもんなんですよ。で、それをあんまり良いこととはしてこなかったんだよね。やっぱり厳密に数学的に理解してないと理解とは言えないじゃないかっていうさ、でもあれなんだよね、色々とやってて思うのは数学の言語の部分の数式云々ってのは所謂言語のレベルの話なんであってどうでもいいってわけじゃないんだけどそれはトレーニングすればなんとかなるもんだってことなんだよね。そりゃそうだよな。「良い文章の書き方」みたいなものなんだから。で、自分の中ではさ、分かっていることとか多分そうなんだろうなーってことを数学的に検証していくっていうプロセスが数学書を読むってことなんだよね。まぁもちろん数学書から得られることも多いけど大抵は「やっぱあれはこうだったんだ!」っていうような、自分の中にはなんかしらのイメージがあってそれが想起されるっていう感じなんだよね。だからそういう意味で数学っつーよりかはその数式云々ってやっぱ言語と論理の話なんだよね。ようやくそれに気が付いた感じだわ(笑)


で、まぁ俺的に言うとさ、論理とか言語ってまぁさっき書いたように後天的にトレーニングすればなんとでもなる部分なんだよね。でもイメージ云々とかさ、そもそも言葉で表せないんだけど「ああいう感じ」的なおぼろげなものってまぁあれだよね、言語とか論理とかではないまぁ大雑把な言い方をするとどちらかと言えば知覚系のものじゃん?映像とか音とかっていう。で、元々俺ってやっぱ音楽の人じゃないですか?音楽ってまぁそりゃ理論的な部分とかロジカルな部分とかあるけどまぁ俺はあれなんだよね、感覚はやっぱストリート系なのよっていうかまぁようは「これヤヴァいね」っていうようなそういう感じなんだよね。だからまぁ本なんかもそうじゃん?論理的に何がこうなってこうなっている部分で数学の歴史から見ればこういう流れのこういうあたりのこういう部分から派生したものから現れたものの云々・・・っていうようなことじゃなくてさ、とりあえず「これヤヴァいよ」っていうそれなんだよね。


まぁ後知恵的に色々と本を読んだりなんかして語彙を増やしたおかげで言語的な表現ってのもまぁまぁ出来るようにはなったと思うけどやっぱイメージ先行なんだよね。で、元々そういう人なわけでさ、俺はね、だからなんつーか優等生的な全部数学っつーよりかは数式を使って云々じゃないイメージの世界っつーんでまぁいいんじゃない?ってことになったんだよね。逆にそのイメージとか雰囲気とかが掴めてればあとはさ、追いつかない論理とか言語の部分じゃん?それはもうがり勉的にやるしかないんだよね。まぁ両立してる人はいますよ。イメージ的に捉えててんで数式っつー数学の言語と論理ってのを使いこなして一瞬でそれを数学的に表現することが出来るみたいなね、でもまぁそれは無いものねだりなんですよね。俺はこの数学の論理と言語に関して相当なコンプレックスがあるんだよね。まぁ当たり前だけど元々数学は一番苦手な科目だったしやってこなかったってのもあってさ、やっぱりそこは未熟なままなんだなってのを痛感してるんだよね。そこはまぁ登校拒否になった中学2の1学期で止まってるよね。だからなんかあれなんだよな、やけに高尚なことについて理解してる風でもめちゃめちゃ稚拙にしか表現できなかったりね、あ、数学のことね、でもそれってまぁようはイメージだけで捉えてるんだよね。あとまぁ数式もだいぶ読めるようになったっていう話なだけで、それを自分で書くとか動かすって作業は一切やってないわけだから発達してなくて当たり前なんだよね。


で、ようやく整理がついたのはさ、今はとりあえずそれを数学的に表現するとか問題を解くとかっていう必要性が無いんで別にそれをやろうがやるまいがあんま関係ないってことなわけでさ、それは必要性が出来てから訓練すればいいわけだし、あくまでそれはただの言語と論理の部分なんであれば頭が若干歳をとっても全然やれることだよね。だから変な話、10年後とかに本とかに載ってる数学の問題を解くのが趣味になったとかいって解法がどうの・・・ってことにこだわりだしたとかそんなんでもいいんだよね。ようはそれは後でどうにでもなる話ってことなんだよね。じゃあ頭を最高に回すことが可能なときにやっておくべきことは?っていうとやっぱ知識を増やして色々と理解できるようになるっていうことだよね。ようは色んなフレームワークをインストールしてんであとイメージしたりして考えるってことをやるってことだよね。いや、数式いじってないならそれは数学をやってるとは言えないって言われそうだけどさ、んでもまぁずーっとそれでやってきてんで色々と理解できるようになってるわけだから数学という学問として厳密に理解することに関しては全然ダメかもしれないけど色々と理解するってことに関しては上手く言ってるってことだよね。だから次々と色々なことがさらに理解できるようになるわけじゃん?


んだからまぁあんま悲観することはないかなぁーって思えてきたね。凄く自分的にはなんつーかその学科としてのさ、仮にどっかの数学の試験受けても満点取れます!みたいな感じじゃないから常に負い目みたいなのがあったんだけどさ、試験とかでは一切点は取れなくても数学は出来るってことは確実に実感としてあるんだよね。実際に出来てるし今は物理の本とかも読んでるけど分かるんですよね。でもそれで物理の問題が解けるようになってるのか?っていうとそうではないんだけどさ、だったら出来たとは言えないってまぁ多分世間的にはそうなんだろうけどまぁ俺って別に世間を気にしなきゃいけない立場でやってるわけじゃないじゃん?(笑)いつかは学位をとろうと思ってるとかってことだったらまぁ逆に負い目として持ってないとダメだろうって思うんだけどっつーかずーっと負い目に感じてたっていう理由が多分それなんだよね。元々は学位を取るつもりでいたわけだから。


んでもまぁ別に学校行く必要はないよなぁーってことが分かったし、仮に進んだとしてもちゃんとした大学のレベルの博士論文書けないとそもそも話にならないっていうことだしさ、あ、アカデミアを基準にすればね、んでも「あれがパーンなってガーッなったところからサーッなるんすよ」ってことを数学的に記述しようとすると100ページぐらい必要になるってことがしょっちゅうあるじゃないですか?そんな千原ジュニアみたいな言い方で済むんだったら苦労しないって話だったら俺はその「苦労しない」方を選ぶよね!ってことなんだよね。問題はそれを100ページぐらい使ってちゃんと述べたときの数学的厳密さと千原ジュニアの口頭説明みたいな曖昧なレベルが同一なのか?ってことだよね。まぁようはそれさえクリアしてれば問題ないわけだ。少なくとも理解のレベルではね。


で、俺がやっぱさ、「なんとなく分かってるけど・・・」で済ませないためにわざわざ数学書を読むのってやっぱそれの確認なんだよね。そこがやっぱ俺なりの数学的な裏づけの取り方なんだよね。すげー理解が「パーンなってサーッなる」みたいなレベルの割に数学的記述に関しては凄い密度のものを求めるわけじゃん?そのギャップってのはさ、ようは自分の数学っつー言語を使う部分に関しては欠けている部分があるってのを実感しているからこそ徹底的に厳密な数学的記述と論理においてそれを補完したいってのがあるからなんだよね。だから極端なブルバキみたいなのが好きになるわけだ。なんでブルバキが好きでんでも本人は千原ジュニアなの?っていうさ、そのギャップが分かったってことなんですよねってのがまぁ今書いたことですよね。


金融とかに関しても異様に数理モデルにこだわりたがるのはやっぱこれなんだと思うよね。で、だからこそ実践においてそこそこの近似と適当な勘みたいなレベルでワークするものとしないものとモデル的には完璧だけど実践の場ではまず合う場がないみたいなさ、結局まぁこういうことでしょ?って分かってるけどそこをなんで実践では適当な意味で使えるのか?とかね、使いやすいのか?とかさ、逆にモデル的には完璧だけど実践のレベルじゃ絶対使えないのか?っていうさ、それって数学的な裏づけがあるじゃん?それを数学として読むってことなんだよね。それがつまりは理解ってことなわけだ。あとまぁ金融工学の色々な前提ってのが根本的に間違ってるってのもまぁタレブとかマンデルブロのおかげで分かってるってのはあるにせよ数学的に厳密に分かってるわけじゃないじゃん?まぁ数学的にも分かってるんだけど「例えばこれ間違いですよね」ってピンポイントで言えるほど理解してるわけじゃないんだよねっつーかまぁ別に金融工学のあら捜しをするためにやってるわけじゃないんだけどでもまぁ数学的に理解しようと思ったら絶対間違えだらけなんだよね。金融工学なんて。


これも分かってるんだけどね、でも「分かってる」ってことの裏づけが欲しいから色々と読むんだよね。これがようは分かってることの確認のプロセスってことなんだよね。まぁだからこういうのって直感とか具体的な金の流れでこうなるみたいな感じでは理解できない量子力学とかの世界だったら一切通用しない話なんだよね。んだからやっぱ肌で分かってるところはあるよね。理論物理学とかやっても計算とか苦手だしほとんどイメージでやってるから絶対無理だなって思うわけね。まぁでもああいう世界にもっていうかああいう世界にこそ多分それもイメージがあるんだろうしそれがどんだけ勉強することで養えるのか?とかって分からないけどさ、ただやっぱ適正ってあるじゃん?で、まぁ決め付ける必要は無いんだけどやっぱ俺は物理ではないよねってのはすげー思うんだよね。


まぁでもそれも多分物理の理解が浅いからそう思うんであってもっと突っ込むようになればそんな風には思わなくなるとは思うんだけどさ、いや、それをまず試したいのが金融工学なんだよね。数学は大体理解できるってことでまぁあとはやってけば全部理解できるようになるなってのが分かったけどさ、そうなるとつまらなくなるんだよね。まぁそれはそれで面白いんだけどもっと未知の分野に飛び込みたい!っていう欲求が強くなるわけですよ。で、今、金融とかやってるのはそれの真っ最中なわけでさ、んでまぁ俺的に応用数学的なものをやるってことがようは具体的に数学を動かしてみるみたいなことになってるんだよね。純粋数学が原理で応用数学は練習問題みたいなそういう感じか。だから結果的に応用数学は練習問題なわけだからそれをやればやるほど原理の部分の理解はより強くなるんだよね。だから実際に俺は金融をやることでより解析が理解できるようになったし確率論も前みたいな大雑把な感じではなくて凄く具体的に理解できるようになったわけなんだよね。だからまぁなんか数学の実践そのものなんだよね。


だからそういう意味であれなんだよね、永遠と抽象的なイメージの世界にどっぷり浸かるのか、数学を具体的に動かしてく世界に没頭するのかさ、で、今のところの感じだとちょっと後者が強くなってきたかな?っていう感じはあるんだよね。いつも書くけど抽象的な世界だとさ、やけに虚しくなったりするのはすげー数学的に複雑だったりややこしかったりするわりに実際に行ってるのはなんかを回転させてるだけとかさ、それがn次元だとかさ、なんかそういうのって虚しいんだよね。あとそういうのに永遠と浸かってられるほどの数学的感受性が無いとも言えるのかな。だからなんかもっと数学を具体的に感じたい!ってことでやっぱ俺的に金融とかまぁ言わば応用数学とか物理とかもようは力学とかってすげー具体的じゃん?興味なかったけどそれは金融をやる中で興味が出てきたって前にも書いたけどまぁそういうことなんですよね。


まぁただ「これだ!」って決めずにとりあえずその時興味があることをやってればいいって話なんだけどね、ただまぁ常に気をつけてなきゃいけないのが「なんとなく」の落とし穴は常にあるから厳密な数学的検証ありきの千原ジュニアってことなんだよね。まぁ自分なりのchecks and balancesだよね。理屈の部分は厳密であるに越したことはないんでようは数学的に検証するに越したことは無いってことになるからしつこいまでの数学的検証ってのをすることになるんだよね。逆に俺みたいな場合、それがなくなっちゃうと全部「なんとなく」で終わるよね。まぁそのなんとなくは当たってるのが大半だから問題ないっつっちゃーないんだけどんでもやっぱそれだけ理解っていうと絶対違うじゃん?やっぱそこが数学的厳密性なんだよね。いやまぁそれが成立してこその理解だよね。いや、勘違いされたらあれなんだけど、ようはこれって逆説的に数学な厳密性と論理の重要性が明らかになってるってことなんだよね。イメージだけじゃ「なんとなく」だからそれを検証するのは数学的厳密性しかないわけよ。まぁあとさ、自分の経験で言うと「なんとなく」のレベルは色々あるけど何にしてもなんらかの「なんとなく」が無いとすげー難しいよね。まぁようは取っ掛かりみたいな話なのかな。金融に関しては色々と読んだ結果、やっとこの「なんとなく感」が出てきたって感じなんだよね。全体像がおぼろげながら掴めて来た感じがあって。いや、まぁこれには語弊があるんだけどね。全体像なんて存在しないって話なんだけど。


ただでもね、いつも俺って「何をもって理解とするのか?」ってことに執拗にこだわるじゃん?で、そのこだわりってのはもちろんそりゃ考える系のことで発揮されてまぁそりゃ哲学とか数学やるには最高のこだわりなんだけどさ、んでもそれって自分の中ではあくまで哲学的な感性だと思ってたんだけど実はこのこだわりの重要性ってのは数学でも同じでっつーかむしろ数学だからこそそれでしょう!って気がしてならないんだよね。あとまぁ強迫観念的に自分はイメージとしてしか理解できないからこそ数学の言語の部分の補強をしないとすげー危ないっていう危機感だよね。まぁこれが鬱になる原因の一つだとは思うんだけど。まぁでもあんま頭を使わないことをやっててもすぐに虚無感に苛まれて鬱になるのを考えるとまぁどの道鬱になるわけだからそれだったら無駄な空虚感に苛まれるよりかは数学みたいな知的なことをやった結果鬱になったほうが全然いいってことなんですよね。まぁでもいいことですよ。数学とか哲学で言えばね。俺は一体何を理解してると言うのだろう!っていうような強迫観念が細部へのこだわりっていう形で出るわけだからさ、あ、俺は別に数式みたいな意味での細部へのこだわりじゃなくて概念的な理解の「理解する」ということに対する姿勢って意味での細部へのこだわりってことね。んだから数式っつー物理的な細部のレベルの話をしてるわけじゃないし、あとそういうレベルの細部はむしろクソ苦手で他にも手先の器用さが必要とされるようなもの全般が好きじゃないのね。


だからあれだもんね、子供の頃とかにプラモデルとか作ろうとしてすんげーフラストレーション溜まって爆発したりなんかしてね、まぁだからある意味で数学なんて一番向いてないものでもあるんだけどね。いや、金融とかにしたってクオンツとか絶対向いてないでしょう(笑)でも仕事の適正とかは別としてクオンツとかが使ってる数学のモデルに関して理解することは出来るからね。だから別にクオンツの特性=金融工学の特性ってわけじゃないってことだよね。まぁそもそも適正ってのを現実的な仕事のみで考えるのは視野が狭すぎるよね。数学にしたって数学者を論文とか書いたりする人ってのを指すんであれば俺はめちゃめちゃ向いてないからねっつーか学術全般向いてないってことになっちゃうのよ。んでもそれは違うじゃん?まぁでもあれよ、仕事とか現実に存在する何かを基準にして特性を考えるってのは一つの視野ではあるよ。それは人間ってのが現実社会で生きていくしか無い以上、必要な視野だしまぁ適正と言えば一般的にそういうことを指すって言われてもまぁーしょうがないよねぇーって気がするけどさ、まぁでもそれで判断して無駄に「自分はダメだ」とか「向いてない」って思う必要は無いってことだよね。


所謂数学者になれなくても数学をやる方法はあるわけで。で、結局それは哲学も同じだけど本質的にそれ自体をやるってことに関しては既存の仕事がどうのってことはそれ自体にとっては全然関係ないことなんだよね。別にそれ自体をやることに免許や学歴が必要なわけじゃないしまぁそういう意味で誰にでも出来るんだよねっつーかまぁそれは誰にでもこなせるって意味じゃなくて誰にでもやる資格はあるってことだよね。まぁそういう意味でオープンなんですよね。まぁそりゃそうだよね。思考自体ってそもそもオープンなものなわけでさ、考えること自体にライセンスはいらないからね。


まぁそんな感じなんでした。んじゃまた。