今後はDJ路線?。その28。

まぁでもこの辺はまぁドラッグ系の研究をもうちょっとしたほうがいいとは思うんだけどね。一時期すげー色々と読んでだけど最近のこのレイヴカルチャーっつーのを軸に色々と自分の中で再燃してるのがあるんだよね。で、その一つが音楽とドラッグね。いや、多分2000年以降なんだと思うんだよね。90年代って場所関わらずそういう音楽嗜んでるなら少なからずやってんだろうっていう感じがあったけどまぁ世界的な啓蒙キャンペーンが功を奏したのかドラッグやるやつ=非人みたいな認識ってあるよね。なんつーかイメージ的にまだドラッグ的なものを引きずってた感がある時代ってどっぷりにはならないぐらいに嗜むみたいな付き合い方の上手さがあった気がするんだよね。


で、今の場合、やるか一切やらないかって感じだよね。そもそもドラッグなんてありえないっつー感じの人たちが多いし。で、これとデジタル化ってやっぱ大いに関係してると思うんだよね。なんつーかその身体的なドラッグを使ってトリップして踊るみたいな感じがなくなってきててデジタルでみんな一人で音楽を楽しむみたいなさ、まぁウォークマンが出たときにこういう議論ってあったらしいけどそういう意味ではなくて単純にデータという意味ではネットで色々と得ることができるようになっちゃったからドラッグ的なものが介在しなくなったっつーのかな?で、結果的になんかすげーつるんとしてるっつーかさ、いや、レイヴ期の音楽とかもそうだしジャズとかにしてもドラッグとかって必ず介在してたわけじゃん?で、その後はっつーとサイケとかがあってまぁやっぱドラッグだしさ、ディスコもまぁコカインとかだよね。曲がいっぱいあるからね。


で、90年代でそれが終わったって感じがするんだよね。何気に昔からずーっと続いてたドラッグと音楽の関係性ってのがすげー薄れてきたのが2000年以降って感じがするんだよね。で、それが相関するかの如く色々と自分で作ったりっつーかテクノロジー全般の発展のおかげで色々と一人でできるようになったり情報を得ることが容易になったから凄くドメスティックになってるっつーのかな?いや、ジャズとかファンクとかにしてもさ、曲なんつってもとりあえずリズムとベースと大体の雰囲気ぐらいであとはセッションして何かが起こるのを待つみたいなのがデフォだったりもしたんだよねっていうかそういうのも多かったんだよね。まぁジャズはマイルスなんかがそういう方法を取ってたりして分かるんだけどっつーかまぁそれ言い出すとチャーリーパーカーなんてまさにドラッグとインプロの産物って感じなんだけど、70年代のセッション系の音楽ってとりあえずセッションして決めるみたいな感じがあってさ、それがなんとも言えないファンクネスを生んだっつーのかな?で、90年代とかになるとポストモダン的になってまぁそういう過去の音源を参照したりサンプルして音楽を再構築したり「ジャズ」なり「ファンク」みたいな概念を脱構築したりして色々作ってたりしたんだけど2000年以降は完全に行き詰っててあるのは焼き増しかありがちなものの繰り返しばっかになってるんだよね。


今の俺の観点だとこのデジタル化っつーか音楽自体の引きこもり化と身体性とか場とかドラッグみたいな泥臭い身体性の介在ってのが以前に比べて少なくなり始めてるっていうのと音楽の行き詰まりが同時なんだよねっつってもまぁ色々とやり尽くされすぎたってのは当然時代の流れとしてあるし、別に今セッションとか始めたところで何かが生まれるってわけではないんだけどさ、なんかでもつまらなさって音楽のドメスティック化とアーカイヴ化ってのと同時に起こってるんだよね。それは何かが引き金になってるとかじゃなくて歴史的な流れとしてそうなってるってだけなんだけどね。まぁでもあれだな、葉っぱなら合法の国もあるし世界的に合法化は進んでるから別に脱ドラッグってわけではないんだけどねっつーかまぁ俺は葉っぱはドラッグだとは思ってないんだけど。でもまぁやっぱ露骨にトリップっつーかドラッギーなものってなくなったよね。


思えばっつーか俺はリアルタイム世代じゃないからまぁ今こうやって人類学っぽく歴史的に見てみると90年代初期とかってセカンドサマーオブラブとかって呼ばれてただけあってサイケカルチャーが甦ったんだよね。一時的に。でもやっぱ強いのをやりすぎて死んだやつとか廃人みたいになった人ってのは多かったわけで良かったわけじゃないんだよね。でもこの辺も凄く学術的な意味で気になるところではあるんだよね。ヒッピーカルチャーとかサイケカルチャーのときのドラッグと上手く共存してた感じっつーかまぁそりゃ廃人も多かったんだけどでも明らかにレイヴとかのほうが自己破滅的なんだよね。やっぱりそれはレイヴは底辺の人たちのカルチャーだったからなのかな?とは思うんだけどね。


なんかでもEDMのお祭りとか見ると情けないよね。別にEDM限らず商業的なもの全般そうなんだけどやっぱオリジンはレイヴなわけじゃん?なのに肝心のレイヴの思想とかアングラ的本質の面ってのが捨てられてただ人を集めて金を稼ぐっつーそういう都合の良いところだけが使われてるっつーのがね、それはだいぶ前にも書いたけどやっぱレイヴって人々の包摂っていうのがあるわけじゃん?普段は負け犬呼ばわれされてたり人間扱いされないようなやつでもその場ではみんなイコールでなりふり構わずとにかく踊りまくるっていうさ、でも日本はやっぱりそういう意味だとそこまで没入するみたいなカルチャーが無いのと特にクラブカルチャーみたいなのが入ってきたときって別にそんなに詰んでるやつが多かったわけでもないからやっぱり所詮はファッションだったんだと思うんだよね。でもやっぱドラッグやって踊るって本質的に根底には苦しみがあると思うのよ。そんぐらい踊らないとやってらんないぐらいどうしようもない現実ってのがあるわけでさ、でもまぁ日本の場合、バブル全盛期みたいな感じだったから追い詰められてる感じが無かったんだよね。だからまぁカジュアルだったっつーかなんつーか。


あとまぁ基本高かったしね。バブリーな高級クラブとかもあったしそもそもアングラ感なんて皆無だったんだと思うし。で、今の日本って色んな意味でアンダーグラウンドですよね。それはコアって意味じゃなくて絶望的って意味で。だからこそ時代的に一番合ってるのは初期のレイヴなはずなんだよね。お洒落なクラブとかに金を出せるほどの余裕もないわけだし、そもそも洒落たクラブなんて洒落てるって時点で服装とかに金かかるわけでさ、やっぱ金無いならレイヴだよね。すげーそのパラダイスガラージとかクラブ創成期みたいなのと今の日本って重なるんだよね。絶望という意味において。まぁでもデトロイトほどの絶望は無いにしてもでもまぁ精神的に似たようなもんでしょ。物質的にあそこまで追い詰められてなくても社会的に窮屈って意味でまぁやっぱ発散が必要だよねって思うんだよね。


っつーかまだ書くことがあるんだけどストックが無いっつーかもう追いついてきたんですよね。だから書いたら更新って感じになるんだわ。まぁ余談だけどアンチ・オイディプス読破しちゃったよ。分厚い本ばっか読んでるとやっぱ読めるようになるもんだね。ただやっぱガタリの不毛なフロイトの理論とかがすげー邪魔してる感じがあるよね。ドゥルーズのソロの本ってかなり読めるよねっていうかrigorがあるのよね。なんだかめちゃめちゃでわけがわからないってのがドゥルーズガタリの作品でドゥルーズ単体の本であれば凄く真面目な哲学研究者が自分の哲学を展開しているっていう感じがあるんだよね。かなりそういう意味でドゥルーズの評価が高まってますわ。俺の中で。やっぱすげーニーチェ主義者だよね。ドゥルーズ。あとなんでも相対化してるのか?って思ってたけどそんなことないんだよね。相対化されているからこそ価値という概念が重要になってくるっていうある意味でシュトラウスとかと同じことを言ってたりもするんだよね。なんつーか凄くニヒリズムに抗える思想だと思うんだよね。ドゥルーズのって。まぁ何かにアプライした場合だけどね。表現活動の原理とか理論とかさ、全てのものに生成されうる潜在性があるとかってのもすげー示唆的なんだよねっていうかすげー役に立つ哲学なんですよね。いや、なんか良かったなって思って。DJの流れからドゥルーズを読むことになったけどなんかまぁ本当に良かったなと。まだまだ分厚いやつが4冊ぐらいあるんで時間かかりそうなんだけどまぁ結構楽しいかな。


ってことで一応まだ続きますので。んじゃまた。