ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ドゥルーズとDJ。その4。

色々と書いてきた古い音源がクラブトラックとして復活するっていうこと自体の生成的な感じってのはまぁようは別にあれだよね、まぁ色々と考えて改めて思ったけど概念とか情報自体が常にそうなんだよね。イスラム過激派にしたってコーランってのがソースでなんであんなにエクストリームな思想になっちゃうのか?ってまぁエクリチュールってのが常に生成的だからだよね。でも生成っつっても別にそこに価値的な良さってのはないよね。暴走するとか曲解とか過激化とかさ、それもまぁ生成なんであってそれ言い出すとなんでもそうでしょってことになるんだよね。まぁなんでもそうですよねってことなのよ。だから。でもこの生成的ってのがどこまで実際に生成的って言えるのか?っていうことにはなるよね。色々と生み出されるっつっても色々あるわけで、まぁ人間が介在するわけじゃないですか?で、まぁ何を正しいとするのか?っていうことを置いておくと誤読とか曲解とかも生成のプロセスなんだよね。そもそも何が正しいとかってのが分からないっつー話になると誤読ってことがありえなくなるからね。なんでも解釈次第だってことになる。


でもそう思うとやっぱ音楽のポテンシャルって凄いんだよな。まぁもちろんラテンとかをクラブトラックとしてかけるっていう作法は昔からあるにしても、でもやっぱそれってカルチャー依存みたいなところもあるわけじゃん?日本だとやっぱ生音ってそんなにクラブトラックっつー認識ないしさ、でもなんか自分の中では完全に初期のUKクラブカルチャーが現在形で存在しているっていうね、でも別にドグマティックになることもなくてあくまで勝手に自分の中でマイブームになってるもんってことでさ、で、あとまぁ自分のテイストとかも入れていくわけじゃん?そういう意味で音楽観の形成なんだよね。クリエイティブに聴くっつーのかな?プレイする場が無くても常にプレイされるっていう前提で自分の中でアーカイヴ化するし記憶するっていうさ、そういう精神的な活動だよね。そういう意味で凄く内面的な行為っつーかさっつーかなんかもう色々書いたしいいかなっつーかあんま書くことがなくなってきたっつーか色々と書いたからだろうそれはって感じになってきたわ。


まぁ別にこのトピックについて一旦区切るっていう必要も無いんだけどさ、まぁんじゃああれだね、ちょっとあれだ、最近の読書について色々と書くけどさ、まぁドゥルーズ読んでるんですよね。で、ちょっと色々感じたことなんかを書きたいんだけど思ったよりめちゃめちゃじゃないっつーか、んでも特にアンチオイディプスと千のプラトーは語弊があるかもしれないけど前衛化っつーのかね?実験性みたいなところも織り込み済みでテキストにしているっていう感じだから暗号みたいになっちゃったり解読が難しいみたいな部分が多くなるんだけど、でも基本的にドゥルーズの個人史を追ってみるとやっぱ初期の哲学論考なんかはすげーまともっつーか普通の哲学学って感じなんだよね。


で、哲学研究で色々と培ってきた独自の思想とか思想の解釈とかを「差異と反復」でまとめたって感じでさ、まぁやっぱ時代的にしょうがなかったとは言えフロイトとか出てくるのがやっぱ惜しいなーと思いつつもこれはおそらくガタリの面なんだろうなとか思ったりなんかしてさっつーか哲学的な論理で言うとまぁなんつーか常識で考えて論理が通ってるってもんがやっぱ哲学なんだけどフロイトの理論とかって異様じゃん?なんでそうなの?っつーのがフロイトが言ってたからっつードグマになっちゃってんのよね。そういうところが混ざってるのが不毛だなって思うんだけどでもまぁあくまで概念装置なんだよね。概念を述べる上で使ってるものとか依拠してる道具ってだけで話自体がフロイト的な言説に依存してるわけじゃないし、なによりドゥルーズガタリは哲学の使用っていうのに凄くフォーカスしてたってのが一見無駄に抽象的に見える理論をこねくり回しながらもあくまで実践に重きを置いてたんだなっていうさ、やっぱりなんつーのかな?そこはスピノザ的でニーチェ的だよね。


で、あとソーカルとかに批判された数学的なナンセンスっつーのもまぁあんま数学知らない人が例えば多様体とか微分みたいな数学的に厳密に定義された概念をそのまま哲学的な概念として、まぁようはフロイトの概念を使って何かを述べるみたいなのと同じ方法で数学とか科学の話とかも使ってるってだけで混乱させるのが目的とかでたらめを書いてたわけじゃないんだなっつーのは分かるね。そこはまぁ微妙だけどまぁでも言いたいこと分かるよっつーまぁある程度補正をかければっつーか大目に見てあげれば全然問題ないっつーレベルなんだよね。問題があるとすれば順序的に科学とか数学の概念ありきで、で、それ自体が完全に現実の概念や文芸に出てくる物語的な構造と一致している!みたいな還元主義だよね。還元主義であってるのかな?それってまぁ科学性ってのをベースにしてるじゃん?でもアナロジーなんじゃなくて完全に対応している!みたいな言い方にすると知的欺瞞なんだよね。


でも少なくとも俺が読んでる範囲だとドゥルーズガタリって言いたいことありきでそれを数学なんかを使って説明してるってだけだよね。あとまぁ本人たちにとってそれが一番説明しやすい方法だったんだろうなっていうさ、簡潔に書くっつーことは完全に放棄してるけど、でもあのごちゃごちゃした感じってバロウズ的な文章でのアバンギャルドとか脱構築みたいなのが常に行われてるっつーまぁ実験哲学なんだよね。逆にまぁ厳密性を前提に書いたらあんなの書けないわけで。そういう体裁みたいなのを一切気にしないで書くって意味だとまぁなんつーかでもまぁね、それ言い出したらサルトルとかハイデガーにしたって無駄に長くて晦渋になってるだろうっていうさ、まぁでもソーカルが批判してた連中って別にドゥルーズだけじゃないからまぁホントにややこしいだけで大したことを言ってないってやつは多いとは思うんだけどね、でもまぁなんつーかドゥルーズガタリにしてみるとやっぱ強固な哲学的基盤ってのがあってそれを解体しつつリアルタイムな生成を行ってるっていうまぁなんつーかフリージャズ的な感じっつーのかな?まぁベタに言えばリゾームをそのまま文章で実行してるってことだよね。だから本自体が機械になりうるんだよね。


まぁあれだよな、なんつーか面白いのはドゥルーズが言おうとしている概念とはおそらく違う感じで勝手に色々解釈したりこじつけることができるってことだよねっていうかこのレアグルーヴに対応してるっつーのはつまりは元はジャズとかファンクとかっていうようなクラブでかけられる前提じゃなかった音楽ってのがDJによって発掘されることで再現前化するわけでしょ。で、それが「発掘された」っていうことの現前性なんだけど、俺がずーっと繰り返し書いてたその「発掘された」ということももはや過去のものになって歴史としてアーカイヴ化されるっていうさ、そういう状況の中で違う意味でまた掘り出して個々のDJが勝手に自分史的な感じで音楽を再現前化させるってことだよね。で、それはリアルタイムの生成なんであって常に差異が存在するんだよね。それは曲がかけられた場での現前化なんで一回性があるんだよね。


で、また同じDJにかけられるときでも前とは違う差異ってのがあって常にそれがまた再現前化して微分的な関係性ってのを空間っていう場に写像するわけよね。その場というのがクラブなんであってこの絶妙な差異と立ち上がってくる現前性ってのはライブじゃないと成立しないよね。やっぱりその空間ありきでなおかつライブ的であるっていうさ、それがつまりは生成ってことなんだよね。で、どんなトラックにも再現前化する潜在性ってのがあるんだよね。その潜在性と差異ってのに常に敏感でそれを常にライブっていう形で現前化できるってのがつまりはDJってことだよね。まぁすげー俺の定義だけど。別にDJっても色々あってまぁEDMみたいに事前録音とかまぁそんなのもあるらしいけどまぁ俺が思ってる理想的なDJってのが今書いたことなんだよね。まぁドゥルーズ的な概念を使って説明しただけで今まで書いてたことと一緒なんだよね。まぁこれがあれよね、さっき書いた概念を道具として使ってそれで説明するってことだよね。まぁそれの実演って感じか。


あとまぁ強度の内包性とか強度の空間って意味でもそれが観念的なんではなく現実的にクラブって場が強度の場であるっていうさ、で、DJがシャーマニックに音の再現前化ってのをやるっていう臨場感ね。まぁそんだけ強度のある空間を作れるDJなんて滅多にいないと思うけどまぁでも理想像としてはこれだよね。常にそういう強度の生成とリゾーム的な音の繋がりってのを媒介するシャーマンとしてのDJだよね。で、やっぱり再現前化が起こる場ってのが極端に言えばクラブに限られるってのがまたいいんだよね。つまりは生ってことなんだよね。家で観念的にやっててもそれはただの準備なんであって常に生成ってのはやっぱり現場で起こるっていうさ、まぁもちろん生成的な音楽の消費ってのはできるけど、より強度を求めるならやっぱり現場だろうってことになるよね。


局所化されないとかシステム化されないっつーのもつまりは常にDJってのがリアルタイムに生成を行うからだよね。まぁもちろんなんかのパターン見つけてそれでずーっとやるって人もいるだろうけど。まぁでも俺が思う理想的なDJってのはそういう生成のエージェントみたいな人だよね。いろんな異なるセリーを共鳴させるっていうさ、まぁ音楽ってヴァイヴレーションだからね。まさに音の戯れなんだよね。ドゥルーズを読み込んでこういう考えに至ったんじゃなくて極めてこの一連のDJっていうプロセスが凄くドゥルーズ的だな!って思ってドゥルーズじっくり読んでみたら同じようなことが書いてあってやっぱりそれだよねってことなわけよ。だからまぁ読解力っつーよりかは最初に「おそらく対応してるでしょ」っつー元々もうある概念ってのがあってそれが予想通り読んでみると色々と対応するってことなんだよね。


まぁでも結局これって根本的にはデュオニュソス的ってことなんだよね。まぁ結局ニーチェっつーかなんつーか。でもそこにドゥルーズが入ると近未来的な何もかもがデータベース化された世界ってのとそういう世界における情報の自己生成みたいな有機性みたいなのがより鮮明になるんだよね。なんつーかだからまぁあれなんだと思うのよ、まぁポストモダン的なもん全般がまぁネット的なものと親和性が高いんだよね。まぁだからそれってまぁそもそもネット的なもの自体がポストモダンってことなんじゃん?とも思えるわけよね。今みたいな整備されたデータのインフラってのがポストモダン性を顕著にさせるものなんだってしつこく書いてきたのもまぁこういう理由だよね。


ただでもやっぱDJっつーよりかはレアグルーヴっつーさ、ようは価値の話じゃん?データベース云々ってのはポストモダン的な話であってもまぁでもドゥルーズの根本っつーか大事なところってそういう表層的なことじゃなくてディープな意味での価値って意味だもんね。つまりは生の肯定ですよ。それがまぁ色んな形で語られたりしてるんだよね。欲望の肯定ってのもまぁつまりは生きるということが自己生成的ってことなんだよね。なんかそこに凄くある種の絶望を感じるんだよねっていうか願いを感じるよね。ニーチェもそうじゃん?ニヒリズムがあるからこそそれに抗うダイナミズムってのが必要でそういう必要性から生の肯定っつー概念が出てきたり力への意志とかただ生きてるだけになりがちな人生っつーかただ生きてるだけみたいなのを「終わった人」ってことにしちゃって、常に創造的であるってことを促すみたいなある種の挑発もあるわけじゃん?ドゥルーズガタリも手法的にはそういうもんだと思うよね。色んなものを喚起するって意味でもニーチェ的だよね。まさにこういう「使用」こそが目的だったわけで。だからまぁ実践の哲学っつーかまぁある意味でプラグマティズムでもあるよね。


もっと風呂敷を広げちゃえば欲望を源泉とする資本主義化では生きているだけだとだんだん食えなくなっていって欲望する主体ってのが創造的に欲望し続けることで生き残れるようになるっていう資本主義の次のフェーズっつーのかな?何気に生存とデュオニュソス的創造ってのが自然に繋がる感じはあるよね。色々と文化資本みたいなコモンズを使いまくれるっていう環境にあるわけだから、そういう環境ってのがまた別の生存競争を促すっつーのかな?誰かに届けるとか売るみたいな中間が無くなってもうなんか作るしかないっつーさ、その生存の方法の一つがポストモダンプラグマティズムっつーのかな?でもまぁすげーある種のエリート思想だけどね。さすがに資本主義の別のフェーズっつーだけあって生存競争が過酷になっていて、それこそ電脳と自分の脳が直結してるレベルをデフォで求められるっていうさ、データ量が違うよね。


そういう環境の中での独特の価値観とか質感っつーかまぁクオリティを求められるっていうさ、そういう世界に追いつけない人はどうなるわけ?って話でもあるよね。結局まぁネット的な情報の伝達とか発信のやり方っていうことに関しても意識的に戦略的でいるとか常に考えて投稿したり振舞ったりするっつーのもネットを所与のインフラとして認識してメタレベルで考えてないとやれないもんね。なんか色々あるものの1つぐらいの認識の人だとまぁ大体失敗するよね。あとまぁちょっと失敗しただけでそれが咎められたり目立ったりするからすげー残酷な世界なんだよね。データとして残っちゃったりするし。まぁでもあれか、削除できる権利みたいな話はあったよね。グーグルだかがやってたけど。


まぁ上手く振舞うってこと自体が金になったりはしないんだけどネット社会でもやっていけるっていう生存性みたいなのがつまりはもうそれ自体がプラグマティズムなんだよね。まさに実践的な知じゃないですか?まぁでもあれか、ネット社会ってそのうち私語になるよな。だってみんな使ってるわけだしさ、昔はやる人とか発言する人が独特だったり限られてたりしたけど今はみんな何かしらつぶやいてるし書いたりしてるからね。だからまぁネットも何も社会そのものじゃんね。いつもそこで面白いなーって思うのがネットと現実は違う!って言い張る人たちの意見ね。まぁ馬鹿にしてるわけじゃなくてこれってネットとリアルの良い対比なんだよね。それがどう認識されて何をもってリアルとしているのか?っていう規定っつーかさ、それが分かるじゃん?


まぁ改めてドゥルーズガタリっつーかまぁドゥルーズのソロの本も読んでるけど、このリアルってのが改めて古くなってるなって思うよね。ドゥルーズとかの時代にもうSF的な近未来的なオントロジーってのが理念とか概念のレベルではもう存在していて、今はそれが現実になっているからポストモダン思想がプラグマティズムみたいに解釈できちゃったりしてさ、そうなってくるとこのアナログなリアルな世界ってのが本当に古いんだよね。もっと色々と電脳化されれば何かと便利っつーかそうなったときの社会の均衡ってのを見たいんだけど今が過渡期なんだよね。でもやっぱそんな中でさ、何でもデータとか何でもデジタル化みたいな、なんかそういうあんまり良くない部分でのデータ化ってあるじゃない?アウラの消失だよね。


俺が今になって改めて古い音源の生演奏のグルーヴとかに惹かれるようになったのも認識とかオントロジーのレベルではもう完全に近未来仕様になっているからこそ前時代じゃないと成立しなかったような質感とかグルーヴ感ってのにある種のヴィンテージな価値ってのを感じてるんだよね。そういう意味でまぁ音楽とテクノロジーとかホント、どうでもよくなるよね。テクノロジーっつってもインフラの部分では興味あるけどテクノロジーが音楽自体に及ぼす影響とかどうでもいいよね。やっぱ根本ってのがその俺がヴィンテージに価値を感じるものだったりするから、やっぱりそれってすげーアナログなことなんだよね。世界観がデジタルだからこそ映えてくるアナログ感ってあるじゃん?逆に色々と音楽は出てるのになんで依然として過去のものはかっこいいまま存在し続けるのかな?って思うのよね。で、それこそそういう過去のものの焼き増ししたりしてるわけじゃん?なんであんな過去のものは優れてるのか?ってのにすげー興味があるんだよね。


まぁ今日はそんな感じでっつーかもうストック無くなったから今後どうなるか分からないけどまぁまたなんかあったら書くわ。んじゃまた。


あと書き忘れたんだけどレイヴの重要性なんだけどまぁさっき書いた強度の場としてのクラブっつーまぁ生成の場ってことを書いたけど、スクワットとかって呼ばれるような意味での空き地の占拠をしてレイヴをやるってのは脱領域化と再領域化のプロセスじゃん?まぁ鬼怒川フェスの話とかこれなんだよね。あとまぁこれをやることの利点がまぁ散々書いたようにクラブでやると高いしノルマとかができちゃって簡単にできなくなるからただの場所でやったほうが色々と実験的なこともできるしより生成が促されるって意味での経済的な理由で取り込まれないっていう意味もあるわけよね。概念っつーよりかはリアルに脱領域化と再領域化をやっちゃうっつー実践でもあるわけだし。まぁでも感覚としてはミックスだよね。マッシュアップとかサンプリングにしても勝手に使っちゃいけないからやれないってだけで勝手に使えたら色々やれるわけでさ、まぁそれって何でもそうじゃん?土地なんて最たるもんなのよ。まぁようはドメイン的なものだよね。そういうのをどんどん脱領域化していくってことだよね。まぁリアルで考えていることの実践することの重要性ってのはまぁこういうことが言いたかったのね。