ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

naoさんへの返信。その3。

nao 2015/05/03 17:43


返信遅れました。まとまらないのもあって、遅れました。というかもう今更感もありますし、コメントしなくてもいいかなーって感じなんですが、またイデアについて聞きたいので(数学寄りですが)でも迷惑だったら無視でも削除でもかまいません。前回も迷惑でした、動画のコメントだけ書いて終わってればいいものをダラダラ書いてしまいました。なんたら論云々とかホントに無駄でしたね。disjointかなんかでもない限り分類にこだわるのって大抵ナンセンスですし、でもあれはスキーム論が僕の中で孤立してて、まあそれでも数学全体との繋がりは分かってましたけど、でもそれを今回具体的に感じたというか。具体的というか抽象的なんですけど。書き方が紛らわしかったです。


それでイデアなんですけど、本当に「あえて存在すると仮定して思考を進める」ってことだと思います。逆にいえばその存在を仮定しなくても思考できるっていいますか、というか、存在を仮定していたところでおそらくその他思考には影響ってないと思うんですね。イデアを信仰しているからといってなんかて思索する上で影響ないと思うんですね。日常生活を送る上で、これが夢なのか現実なのか?っていう問いがナンセンスなのと一緒のことだと思います。これが夢だろうと「現実」として日常生活送るので、夢だと思っていようとなんだろうと日常生活に影響ないのと一緒で。


・・・と言いつつも影響するケースもあるんですよね・・・。これってでも、たとえばこれを夢だって信じ過ぎて車に突っ込むのが危険なのと同じことなんでしょう。で僕の場合だとデデキント切断の有理数無理数っていう構成に違和感感じてて、これは一旦イデアの信仰を中断するしかないと思うんですね。イデア側というか数学側からしたら有理数無理数っていう順序とかって多分ないんですね。人間側からのアプローチでは、有理数無理数っていう優位性があるっていう。そうしないと理解できないっていうか。


でも数直線とかに慣れてしまって「実数」と一つのものとして捉えることを知っていると、有理数無理数っていう優位性に違和感を感じるんだと思うんですね。だから回り回ってイデアを信仰していても別に影響ないというか、実数として一つで捉えて有理数無理数を平等に考えるっていうんですかね、これってでも直接的な理解だと思うんですね。ちなみにコーシー列は大丈夫でした。あれも各項が有理数っていう意味で不自然ですが、でもあの有理数無理数っていうプロセスって数学側にもあると思うんですね。それは数列の動的プロセスなので。だからこっちは違和感なかったです。


他にもイデアの信仰を一旦中断したほうがいい場面ってあると思うんですね。リーマン以降の空間についての捉え方にしたって、まず入れ物があって、そこに量概念を導入するっていう、それまでとは逆のような考えなわけで、だからリーマンは空間について考えたっていうか革命とまで言われてるっていうことなんですが、これもイデア信仰し過ぎると分からなかったんですね。これをでも分かっておくのは重要だと思って、集合に構造を入れるっていうブルバキ構造主義なんてモロこのリーマンの空間の考えそのものですし。


いや、その公理主義とかも有用な場合があって、まあ卑近な例から、たとえば数とか簡単な図形から、性質とか抽出して公理的にそれらを拡張するっていう、このプロセスだってそうなんですよね。これもまあ数学側からすればこのプロセスってなくて人間の思考のプロセスにすぎないんだと思うんです。でもなぜかこのイメージに関しては僕も持ってたんですけど、うーん、こういう公理主義は有用だと前々から思ってたからですかね・・。


よく考えればこの辺もまあ僕は全部ゴッチャにしてたんですよね。でもなんでしょう、イデアの信仰を中断して、公理主義とかの方法論とかで考えつつ、でもその一方でイデアを信仰するっていうんでしょうかね。それは全然可能だと思います。


でもなんというか、直接性っていうのは人間側にしかないプロセスを経由するんじゃなくて、イデアを直接知覚するっていうんですかね、その一つがまあ想起というか、まあこれがどういう風に起こるのかわかりませんが、あとは夢で見たとかもそうですし、あとは急なひらめきとかで、直接的に数学を捉えられるっていうんですかね。そういう人らにとって証明って概念がないとかってそういうことなんだと思います。証明もなにも直接捉えることができるんだからっていうか。証明はあくまでも後付けとか。証明で美しさがなくなるっていう人もいましたね。もうそういう数学者の脳自体がイデア界にあるんじゃないかって思いますね(笑)。


まあ「物凄く色々と猛勉強したりした結果、分かるようになったというよりかは直感的に「それなんだよね!」っていう知識よりも直感や感覚が「そうなんだ」って思わせるものってのが数学的な知だと思うんですよね。もちろん結局それが正しかったのか!って分かるためには知識が必要なので勉強する必要が無いということにはならないんですけどね。でもこれは常識とかとは違って直感的に分かる人には分かるとか当たり前のように分かっているみたいな感覚の世界だと思うんですよね。」ですね。あえて僕が書く必要もなかった気がしてきました。


うーん要するに僕はこれを目指してたんですね。ずっと。でも敷居が高過ぎるっていう。そこで現実的になって、証明なり、人間側からの思考のプロセスで、たとえばデデキント切断とか公理主義とか、イデアに暫定的に近づくっていうか、それしかないんだと思うんですね。でもそこで、イデアの存在を仮定することはできるわけす。これをまあこのプロセスをまた道にたとえて旧道とすると、イデア側から直接知覚するのってバイパスですよね。僕はバイパスを走りたいなーって思うんです。


やり始めの頃はすべての道を走りたいって思ってましたけど、でも古い証明とかの、強引なつなぎ合わせみたいな証明とかはもう興味なくて、だから、難しいですけど、バイパスを走りたいですよね。バイパスじゃなくてもいい道を走るとか。なんというか、証明とかどうでもいいのもこういうことなんだって思いました。数学やるってことにおいてのいい道と悪い道みたいのを見分けることができるようになってきたわけですね。まあ本当はそういう道路建設ができればいいんですけどね。しかもできればバイパスを。


ちなみに、なんか新しい理論とかできたときに、前の証明法と比較して、より証明しづらくなる定理もあるっていう意見とかがあったりしますが、それって新しい道ができたんで旧道一切使わないみたいなナンセンスさだと思うんですね。目的地によっては旧道使うほうがいい場合もあると思うんですね。全部の目的地にバイパスで行かないといけないってことはないので。そういう意味で人間側からの思考のプロセスを見下してるわけじゃないんです。だから別にデデキント切断が悪い道とは思わないですし、構造主義とか公理主義も有用な場合もあると思ってるので。


うーん、それがまあプラトニズムに埋没しきれないっていう、普段はプラトニズムで実際は形式主義者ってそういうことなんでしょう。


うーん、人工ということがダメかというとそうじゃなくて、人工的だからこそ真理に近づくみたいなこともあると思うんですよね。ただ現象を「観る」だけじゃなくて、それを抽象化してモデル化してっていうか、それがまあ真理と乖離するか真理に近づくかはケースバイケースなんでしょうけど、だから、イデアに知覚にバイパスだけが有効なんじゃなくて、人間側からのの思考も必要な場合もあるっていうか、でもそれでもイデアを信仰はできるっていうんでしょうか。


その意味で、数学は人間が作ったというのは分からなくもないですね。数学というか数学的モデルでしょうけど。まあでもどのみちその辺ゴッチャにしてる人も多いんでそれはアウトだと思います。


それにしても「イデアにこだわるのもそれが無いとニヒリズムになってしまうからなんですよね。」「エロスというのは真理への憧れという面もあるけど実際は到達できなかったり語りえないものへの飢餓感と苦しみということでもあるのかな」は妙に納得してしまいました。


イデアと数学理論全般は完全に分けて考えないとダメなんですよね。なんていう言うんでしょうね、数学ってのは概念ででもそれを表すには言葉が必要で、で、その言葉というのが数学という言語であるっていうことなだけで言語や言語自体の構造にイデア的なものが内在していたりするということではないんですよね。フーコーが19世紀ぐらいだかに言葉はもはや記号になったみたいなことを言ってたと思うんですが、これって人文的な見地だとそれ以前は言葉自体に概念が内在していたり「それ自体」を表す絶対的なものと考えられる傾向にあったっていうことだと思うんですよねってちょっと大雑把なんですが。でも言葉が記号化するとそれはあくまで相対的に諸概念を記号として表す体系になるわけで言葉自体の絶対性みたいなのは薄れるんですよね。


でもこれは数学についても同じで、数学自体を神の言語とか自然の言語として解釈してしまうと概念エラーが起こりますよね。数学とか数式というのも記号化された言葉と本質的に同じなのであって、概念自体はそういった記号とは独立して存在し続けますよね。その諸概念というのが言わばイデアという話なんですよね。で、これに関してはだいぶ前に色々と書いたんですが、naoさんがおっしゃるように人間の都合的な順番とか便宜的に挿入される方便みたいな数式が介在してごちゃごちゃになったりイデアから遠ざかったりしてしまうみたいなことが多々あるみたいなことってまさにそうなんですよねっていうかそれって言葉でも同じですよね。概念は「あれだよねあれ」とか「これなんだよね」って分かってても言葉として説明しようとすると汚くなったり表しづらくなったり概念の純度が下がってしまったりしますよね。でもそういった言葉に比べれば数学は言葉より概念に近いものであるので記号を介したことによる概念の劣化というのは割と起こりづらかったりはしますよね。まぁ本当に純度の話なんですが。


で、ごくたまにイデアそのものを表しているような数式とか数学の理論があったりなんかして、で、そういうのは数学者は口をそろえてエレガントだ!って言いますよね。まぁ応用数学者とかではそんなエレガンスのような主観的なものなんて信じられないとかって言う人もいますけども。ここで類似点があるのが美ですよね。何かを美しいと感じるのはまぁぶっちゃけそりゃ主観で好みにもよるんですが、でも特にコンセンサスもなくなぜそれが美しいと感じられるのか?という理由に関しては美のイデアというものがあるとしか考えられないみたいなことはありますよね。この辺は最近美学も色々とやってるので凄く興味がわいていることなんですが。美というのは文化によって形成されるものなのかアプリオリのものなのか?っていうのは凄く面白いことなんですよね。


イデアの信仰の中断」という話が出てきていますが、これはイデアそのものと記号を同じレベルで考えてしまうから起こってしまう誤謬だと思います。リーマンもさることながらロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学なんかが出てきたときもイデアを信仰していた人たちにどよめきが起こったらしいんですよね。ユークリッド幾何学というのがイデアだと思ってたのにそれは絶対的なものではなかったじゃないか!っていうような。でもこの場合、この時代の数学的知のレベルが当然今と比べれば遅れていたからこそユークリッド幾何学が絶対的なイデアだと言ってしまうような誤謬が生まれるだけで、あ、んでそれを言うとピタゴラスってこれですよね。無理数の存在を認めたくなかったのは原始的な意味でのプラトニズムへの信仰があったからなんだと思うんですよね。でも当然、現代の数学の観点から見れば無理数や非ユークリッド幾何学というような扱いづらいものにこそよりイデアに近いものを感じたりするわけで、扱いやすいものだけを集めてそれを数学とするのはそもそもの間違いですよね。でもそれは当然、数学が発展してそういった知的リソースを享受できるから言えることなんであって、昔の人が馬鹿だったなんてことではないのは言うまでもありませんね。それはまぁ科学が発展したから言えることみたいなのと同じことですね。昔は科学がそこまで発達してなかったからこういった考えが流布していたんだって言っても別にそれは今の観点から見てそう言えるということなだけなんですが、でも困ったことに文献主義みたいな人たちは大昔に書かれたようなことを鵜呑みにしてそのまま展開してたりしますよね。おいおい。今は認知科学やら生物学やら遺伝子工学やら色々あるだろうに・・・っていうような。なんでそれで中世の認識論とか20世紀初頭の時間論みたいなのをやるの?ってことなんですよね。


まぁそれはともかくとして、僕はフラクタルとかカオスなんかにイデアを感じるんですよね。公理とは縁が無いような世界なんですが、むしろこれで分かるのはイデアと公理は全然概念のレベルが違うってことですよね。繰り返しになりますが公理というのはあくまで人間側の設計図みたいなもんなんですよね。でも公理化というのは当然、有用な手段ではありますよね。なにしろ扱いやすくなりますからね。でも手法が概念自体に影響を及ぼすことが無いように、実際は公理主義とプラトニズムは全然違う次元になるものなので対比すること自体がナンセンスなんですよね。


だからnaoさんがおっしゃるように公理主義にしても数学の理論についてもイデアを知覚するための道みたいなもんなんですよね。確かにそれは必要だけども、でもそれはやっぱり勉強的な意味での数学の研究っていうかまぁ否定はしないんですけど数学において重要なのは概念そのもの自体を熟考することだと思うので数学理論を勉強することとはまた違う次元にあるんだなって思うんですよね。もちろん勉強しなければ分からないこともあるので勉強自体はいいんですが、でもその勉強自体がイコール研究しているみたいなことになってしまうと違うかなって気がしますね。数式をこねくりまわすのってルービックキューブをグルグル回してるような
ものですからね。所詮はパズルだと思います。でも本当の数学はパズルではないですよね。学校とかで教えられたりやらされるのってこのパズルだけなんですよね。数式を展開したりどうのこうのしてっていうこと自体が研究みたいな印象を与えてしまうわけですが、これは違うと思いますね。まぁ前から僕が言っている「とりあえず紙とペンを用意する」みたいなことへの批判なんですけどね。まぁもちろん分野によるので例えば応用数学なんかは数式をこねくりまわすのが重要ですよね。金融工学とか経済学にしてもそれは同じですよね。でもこういうのはイデアとは関係ない工学的な数学の話なので、だからまぁ全く別物ですよね。数学という言語を使った工学というジャンルっていうか。


で、やっぱり個人の好みってあっていいと思うんですよね。よくこの方法使われてるけど強引で汚くて嫌いだなって思えばそれにこだわらなくてもいいわけですよね。なんていうか自分の中でイデアへの直接性が高そうなものをピックアップしてそれを血肉化していくっていうんですかね。あとまぁ今好みって書きましたけど有名だけど野暮ったくてダサいみたいなものもありますよね。それがいかに数学において重要だと呼ばれるものでもそこは自分の感覚を信じて違和感があるならやっぱそれはそのままでいいと思うんですよね。その「なんか好きになれない」という感覚自体がイデア的な美から来ている可能性があるわけですから。僕が最近書いている理屈ではない感覚の涵養ってまさにこれなんですよね。質感的なこととか言葉では表せないような感覚の分野の感受性ですよね。


あ、んで数学的概念って証明とかで一歩一歩やっていくのが説明することだみたいに言われますけど千原ジュニアみたいな説明の「あれがガーッとなってあそこに入った後に丸まってバーッと広がる」みたいな理解もあるわけですよね。学術的には一切否定されますけどね(笑)「それでは証明したということにならない」ということと実際に理解しているということは別ですからね。ここが数学の面白いところで例えばごちゃごちゃな偏微分方程式で色々と計算できる人がいてもそこで具体的に何が起こっているのかは全く分からないみたいな人とかケースもあったりするわけなんですよね。数式をいじったり展開できるということがそれを理解するということには必ずしもならないっていう良い例だと思います。


なんていうか結局、証明とかにこだわっちゃうとつまらなくなっちゃいますよね。あと個人的にそういうのが凄く嫌いなんですよね。まぁ凄く綺麗なやつは好きなんですが煩雑なやつは嫌いでまぁ読むのはいいけど書くなんて絶対やりたくないですよね。で、別に証明を書けなくても数学の概念の理解はできるわけですよね。まさにイデアへの直接性とかによるものなんですが。naoさんはこの辺のバランスが凄く取れているんだなって今回のやり取りで思いましたね。つまらない理数系の人だと数式とか証明が全てとかって言ってたりするんですが、naoさんは感覚寄りだし、でも人間による泥臭い手作業も良い場合もあるというようなことを経験的に分かっているしそういう意味で理想的だと思うんですよね。


あ、んで最後になりますが、イデアへのアクセスという意味での思考や概念を記号化したり表現するということっていうのは数学も哲学も同じなんですよね。いかにそのイデアの純度を落とさずにハイレゾな状態で知覚して理解するかっていうことですよね。それを表現できれば最高なんですが表現できなくてもとりあえずはまずは理解ってことでいいんだと思います。まぁそういったものを簡単に表現できたら芸術家の苦労って無くなりますよね。そのぐらい大変なことだと思うんです。