ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

naoさんへの返信。その4。

nao 2015/05/06 00:10


僕はバランスがいいというより実際は、哲学とか数学の形而上学的なことなら勝手に考えたりできますが、もう数学ではそれは無理なんですね。だからもう諦めて、そういう公理主義やなんや有用なもの使うってことです。諦めです、レベルダウンです。うーんでも一旦そこ経て、それから直接性で感覚で理解ってできないかなって思うんですね。別に一回分析的になったところで感覚的なものは落ちないだろうっていう。でももうあれやるためにはこの理論必要でそのためには・・・、みたいな長い道のりは嫌なんです。忍耐力ないとかじゃなくて直接性じゃないことが嫌。あと道にたとえたやつは凄い分かりにくかったですね。道ってより、直接性ってもうなんかイデア界からメールみたいな感じで、というか光みたいな感じでくるイメージで、ピっ!って来る感じですね。まあでもその勉強/研究でいえば勉強はできても研究はできないというか。


でもそのルービックキューブ回すような、頭使わなくても、気づいたらクリアーしてたみたいなのは嫌ですね。(むしろバカのほうが頭使わん分こういうの得意そう(笑))そうなったら終わりですね。だから定理について考えるとかいうやつでも、おそらく直接じゃ分からないんでじゃあまずは待遇を考えてみようとかってのもホント嫌なんですよ。フェルマー定理とかも長く、もっとフェルマー予想≒志村谷山予想くらいのダイナミズムがあればいいんですが、なんか僕の印象だとワイルズ周辺の人たちって証明できさえすればいいやっていうルービックキューブ的なものを感じてしまうんですね。超一流天才数学者の数学観みたいななんというかダイナミックな感じが感じとれないですね。わかんないですけど一流感がない。


それで証明ですけど、わりと西洋数学は歴史が浅く、そっからギリシャ依頼再び証明中心の数学になってったっていうそんな印象。計算中心の地域、時代やら論理中心の地域、時代やらいろいろありましたが、僕は江戸時代の数学観が好きですね。円周率にしても証明の概念とかなく、別の幾何数列との対応関係で円周率求めるみたいな方法だったんですが、この対応ってモロ現代数学的な方法じゃんって思ったんですね。でなんというか、ようは証明中心の数学もここ数百年のことですから、そのうちまた変わらないかなーっていう(笑)。感覚的な数学とかビジュアル化数学とか普及すればいいのになーって思います。証明も一つの表現ですが、ビジュアル化だって表現なわけですし。


でもなんというか「客観性」みたいな感じで証明のほうが採用される。でも実は卑近なものこそ客観的だったりしますし、だからこそピっ!っていう直接性のほうがイデア的なんですよね。フラクタルイデアを感じるというのはうまく書けませんが、でもなるほど!って感じです。有理数なんかもフラクタルだと思うんですけど、有理数も掴みづらい存在なんですよね。でもあの公理やら形式やらから無縁なものはあれこそイデアだなって思います。人間には分からないけど、フラクタルは存在するっていう。結局空間もカオスだったりなんだりして、離散的だったり非可算的だったりするあの感じなんですよね。至るところ微分不可能な関数とかも面白い。最近まあちょっとだけ不連続に興味はあったんで、結局空間は不連続だのなんだの面白いなっていう。「空間 不連続」で検索してたら


http://quasimoto.exblog.jp/22058408/


こんなの発見したんですが、もう僕には最後らへんとか分からないんですが、不連続とかそういう一件混沌なそういう美は興味深いですよね。ところで美は主観的なもののはずなのに、共通美みたいなのがありますよね。最近結構いろいろ笑いも見てたんですが、共通笑いみたいのってありますよね。なんかそういった人間の感覚みたいなもののイデアみたいなのがあるんでしょう。すごい不思議ですね。あと、さっき部屋折り紙見つけて思ったんですが、折り紙ってプロセスが数学ですよね。あれこそルービックキューブ的にいじくりまわすだけじゃ無理ですよ。折り紙的センスみたいなもんがないと例えば鶴とか作れないですよね。先の風景とか見えてないとムリっていう。鶴やらなんやら作った人は凄いですね。あとこの前文中にあったsynthetic philosophy of contemporary mathematicsですがちょっと読み始めてますが、凄く面白いです。'50年以降の数学も考慮して、認識論とかオントロジーやら哲学するっていうコンセプトがいいと思ったし、なんか、「おー!!!」っていう感じです。マックレーンの「数学の形式と機能」とかのもっと現代数学版みたいな感じでしょうか。でもマイナーな感じで残念です。同じ著者の連続性の本もあるみたいでまさに今興味の範疇なんでそれも楽しみです。


まためっちゃ書いちゃいました、結局。僕はなんかこういうやりとりで終われないというか。空気読めずずにもう終わったはずのにまた書いちゃうってこともあるし、なんで自分勝手かもしれないですが一応今回で一旦終わりってことにしますね。


nao 2015/05/06 12:12


あのもうとりあえず最後と言ってたのに、ゴメンなさい、なんか僕の書いたことをちょっとだけ僕とmimisemiさんが互いに勘違いしてる気がしたんでそれだけ補足です。えっと、公理主義と言いましたが実際は公理主義じゃなくて公理を抽出するってことですね。群にしたって3つくらい公理ってありますが、まああれ一個だけでもなかったり違ったりするだけで全然違いますよね。その凄さといいますか。まあ感覚とかでやっていれば公理なんて後付けなんですが。面積を長方形で考えれるのも面積を和に分割できるからっていうなんかこういう公理というか性質をもとに公理を選び出すっていうんですかね。をれをもとに思考って感じで、なんかあの論理式やらなんやら一個一個いじるっていうことじゃないんですよね。それがまさにルービックキューブで嫌なんですよ。公理により、みたいな。トポロジーの感動も、全部距離が1の離散空間の面白さとか、そういうのも然りですが、公理からトポロジー的ないろんなことを想像したっていうんでしょうかね。公理があればそれをもとにビジュアル的にいろいろ想像できると思うんですね。その想像は別に論理をいじくり回す的なことじゃないと思うんですよ。公理の抜き出し自体は公理主義じゃないんで、まあそういう意味で公理主義じゃないですね。ただ公理っていう手掛かりは利用するっていう感じですね。


僕のなかで公理主義ってだから公理から始まるんじゃなくてその公理が抜き出された理由みたいなことを考えるんですね。だから公理があるわけで。でもそれを考えた上で公理をもとに想像力はたらかせればそれもまあいいかなって思ったんですね。


ただまあ公理=原理とか本質とかってことじゃあないんでしょうけど、まあでもそういったものに結構近いし思考の足場にはなるっていうことですけど、さすがにその足場が多いのは嫌で、公理により、これこれ、これとさきほどの補題により、何々。対偶をとり・・・。


で、僕は勉強のことで勘違いしてた気がするのは、哲学とかだったら自分で思索できるんですけど、数学だとやっぱり無理なんですよね。まあなんでやっぱり公理とかをもとに考えるっていうか。でも公理だけを気にするわけで、そっからさき公理主義的にいじくり回す感じじゃないんですね。ただ哲学みたいに思索ありきの読書というか、どっちかというとまず読んで忘れた頃に、いろいろ考えてたらそれを思い出す感じですね。あたかも自分で考えてるようで、そういえば前読んだなっていう、読んだものを想起というか、無意識下で整理されてそれを想起というか、できたのかなんなのかはわかりませんけど、まあ方法論を単純化していうと、哲学が思索→読書などインプット→思索→読書→・・・みたいな感じとすると、数学は(読書→(長い時間を経て))→思索(想起)→読書→思索→読書→・・・っていう感じでしょうか。


ただまあこれの繰り返しで急にあっ!っていうアハ体験的なものってあるんですね。そのときが一番まあ数学やってるなって感じるときでまあそういうのがあるんでまだマシというか、だからまあ確かに勉強云々よりこういう感覚が一番の知だし、それが一番正しいっていう。不思議ですけどね。まあそのためのインプットと思索って感じです。


で論理的にやったところで感覚は落ちないって書きましたがやっぱりそれはわかりませんね。それによって論理至上主義になっていく人もいるんでしょうし。


いずれにしても数学とかもさることながら哲学的な考え方がまだまだ自分の中で曖昧で(書けば書くほどボロが出てる気もしますし笑))、なんというかこれ以上やっぱり今やりとりしてもダメな気がするんでまあ今度こそ一旦最後ということで、うーん、授業中に質問ばっかするんで授業が進まないみたいな行き過ぎた個人主義の話のエントルーを読んだんですね。そういう状況になりかねないので、補足だけしましたが一旦最後ってことにします。


数学の感覚については僕はnaoさんは感覚で数学をやれると思ってるんですけどねっていうか多分できないって思ってるだけでやれてるんですよ。それって。このイデアの話ができるってこと自体がすでにそういう感覚を持ってるってことですよね。そういう感覚があるのにも関わらず数学ではそれができないと思うのはただの思い込みだと思うんですよね。僕もそう考えてたからよく分かるんですけど数学ってめちゃめちゃ自由ですからね、例えばイメージってことで言うと数の濃度とかの話も数学の理屈から言うと分かりづらいんですけど直感で言うと空間内に存在する原子のような点の密度とか点と点の距離の違いが濃度の違いとかまぁ数学的に厳密的に言えば間違いかもしれませんがまぁでも合ってますよね(笑)


あと集合論なんかをちょっとやったころに思ったのはエロ画像を検索していたときにその画像の検索結果って集合だよなってことで、でもそれってその検索した時固有の結果じゃないですか?後になったら色々と変わるわけですよね。でもその時点の結果であることは間違いないので、これって微積分と集合論みたいな話じゃないですか?瞬間の点における特定のワードの検索結果ってまぁ微分した集合みたいなもんですよね。概念を考えられるちょっとしたツールを与えられれば「じゃあこれはこうじゃないか!」ってすぐ分かる感じっていうんですかね。勉強してどうのじゃないんですよね。


でもそれは漠然とイメージで分かっていたり感覚的に感じていたりするものを数学という理論が与えられることで分析的に考えられるようになるっていうんですかね。だから所謂、普通に言われるような数学のプロセスと逆なんですよね。イメージとか普通に生活していてこれがこうだよなーみたいに思ってたことが数学というツールを与えられることで理論的に考えられるっていう、でもそれってあくまでそもそも分かっているとか感じているっていうことが前提なんですよね。で、その理屈を数学が与えてくれるっていう感じだと思うんですよね。でも所謂、数学の学習法って呼ばれるものってひたすら学習じゃないですか?色々と学んでそれの積み重ねだと言われても覚えたりするのにも限界があるしそんなに事細かに一個一個覚えられるわけでもないので相当これって辛いですよね。僕もこの長い道のりが大嫌いですし、大嫌いだと分かったからアカデミックに数学をやるということを良い意味で諦めることができたかなって気はするんですよね。まぁ本当はイメージでやっててでもアカデミックな感じの煩雑なこともちゃんとできるってのが理想なんでしょうけど僕はイメージしかないような感じなんで学術的にやるのは絶対無理だなって思ったんですよね。


で、そう気がついた後に「学術性」というのを考えるとそれってまぁただ煩雑なだけだよなって気がしてきたりなんかして学術的であるということに価値を感じなくなったんですよね。いや、数学はもっと自由なはずだろうと。で、そういうつもりで取り組んでいたらイデアへのアクセスがより可能になったというかクリアになったというか、直接性が高まったんですよね。全部数学の理論として証明として書き出せるような感じで理解しなければいけないってまぁただの洗脳ですよね。逆に証明とかのほうがイデアから遠かったりするわけで、あ、それでフェルマー予想に関してはnaoさんとほとんど同じようなことを過去に書いていたことがありました。で、谷山さんと志村さんは天才肌だと思います。特に谷山さんは凄いですね。谷山豊全集というのがあるので読んでみてください。群関係の論文があるんですがあの時代にあんなエレガントなものをやってたなんでありえねぇー!ってぐらい凄いです。同じ時代だとヴェイユみたいなゴツゴツした前時代的なゴリゴリとしたアナログな意味での代数とか古い力学の数式みたいな感じの群論とか数論が多かったんですが、谷山さんは未来を勝手に自分で歩いていた感じでめちゃめちゃスムースな圏論的なエレガントな抽象性で数学をやっていました。これはもう完全に感覚なんだろうなって思いましたね。


まぁんで比べてもしょうがないんですけどワイルズは所謂秀才でめちゃめちゃ勉強をして一個一個色々と覚えて試してやるっていうような手作業型の人なんだと思うんですよね。確かに証明したのは凄いけどまぁあんまり正直凄くはないかなって気がしますね。谷山志村予想は抽象性によって予想が立てられたというようなダイナミズムを感じますよね。こういうのを論理の飛躍って言ったりするんですけどっていうかその悪い意味ではなくてダイブするみたいな意味での飛躍ですね。理論物理学なんかでも必要とされる感覚なんですが、やっぱりこういうのってパズルじゃなくて概念なんだよなっていうのをいつも思うんですよね。論理が飛躍するのは論証が追いつかないというだけで感覚的には成立していたりもするわけですよね。それをいかに大事にするか?みたいな話ですよね。


あ、んで江戸時代の数学観が好きって凄く分かります。それを言うとあれですよね、僕がめちゃめちゃ関心するのはアルキメデスですね。数学の抽象性がそこまで高くなかった時代に微積分の原型みたいなことをやってるし、それこそ現代数学的な抽象性っていうんですかね。まぁはっきり言ってあれって集合論の元みたいなもんだし無限の概念についてもアルキメデスは完全に掴んでましたよねって勝手に思ってるんですが。ところで証明中心の数学がここ数百年のことっていうのは言われてみればそうだなって気がしますね。それはやっぱり大学ですよね。アカデミックに数学をやるってことが証明中心にやるっていうイコールになってしまったのでそれが主流になっちゃったんですよね。まぁでもガロアとかオイラーとかガウスとかアーベルとか完全に元々持ってるって感じの人たちで数学が大学中心になってる時代でもやっぱり天才は天才なんだなっていうことですよね。逆に理解されるまでに時間がかかったみたいな話がありますからね。まぁそれを言うとカントールなんかもそうですけどね。あ、でもヒルベルトみたいな人が権威になってたって本当に分かりますよね。頭は良いけどセンスが良いわけではないっていうようなああいう感じの人が権威になってたんだなっていう感じですよね(笑)それで言うとラッセルなんかもいかにも大学っぽい感じの数学とか論理学の人って感じですよね。ラッセルに関しては哲学もいまいちなんで過大評価されすぎだろうって思うんですけどね。


この辺の人たちに共通してるのは言葉とかで言い表したり論文という体裁を作ることに関しては天才的なんだけど、感覚的なこととかそれこそ哲学的な面にしても実存とか言葉では表現しきれないような凄くもどかしいものっていうようなものを持っているっていうような感覚が無いんですよね。分析哲学の人たちとかみんなそんな感じなんですけどなんで論理で全部説明できると思うのかって逆に不思議ですよね。まぁそりゃ時代的にアナログな時代だったからっていうのは分かるけどでもまぁニーチェとか論理にしたってウィトゲンシュタインみたいな人もいたわけですからね。ウィトゲンシュタインに関してはめちゃめちゃ実存主義的な人が手法的に分析哲学や論理学の方法論を取っているっていう感じですよね。実際はキルケゴール的な感覚を持った人だったと思うんですが。やっぱこの辺がセンスですよね。


あ、あと折り紙なんですがこれは完全に学術的な数学の分野になってるんですよ。例えばこんな本がありますが「How to Fold It: The Mathematics of Linkages, Origami, and Polyhedra」結局まぁ折り紙って位相とか群論ですしあとパズルの典型としてルービックキューブって話を僕がしたんですけどでもこれはただ手だけ動かすっていう意味ではただのパズルなんですが抽象的に考えると群論なんですよね。この辺で言うと興味があってまだ深くやっているわけではないんですがComputational Geometryとかがありますね。これはまさに我々の身近にあるようなものがそのまま幾何に対応するみたいなある種の物理性みたいなのがある面白い分野ですね。でもまぁ分野っていうかそもそも幾何自体がcombinatorialですからね。naoさんがおっしゃっている江戸の数学観ってcombinatorial geometry的な感覚だと思うんですけどね。


あと折り紙で言うとどうでもいいけど実際は深いっていうものとしてknot theoryがありますよね。深くやったわけではないんですがまぁ大体Algebraic Topologyだよなって思ってるんですよね。まぁそれ言い出すとなんでもtopologicだしalgebraicでもあるわけでようはこれってただの観点の問題なんですよね。数学が介在するかしないか関係なく結び目ってあるわけですし結び目にまつわる複雑な理論ってまぁあるわけですよね。もちろんそれは数学を駆使して分析することが可能になるわけですが、でもそれ自体はある観点から言えばcomputationとして存在してるわけですよね。まぁこれも観点の問題なのでそれを言い出すと全部計算じゃないか!って話にもなるんですが、でもまぁアリストテレスとかはそういう感じで世界を見てたんですよね。それはプラトニズム的なものへの批判もあってまぁ現代的に言うと分析的で理数的なものの見方をしていたと思うんですが、でもここが面白いところで分析的に理数的にものを見てもイデアは成立したままなんですよね。


あ、あと公理に関しては分かりました。でもまぁあれなんですよね、ブルバキ的な意味でのハードコアな公理主義ってイデアありきでそれを徹底的に公理として分解して分解しきれないところまで分解しつくすっていうような思想なので一種のプラトニズムとして考えてもいいと思うんですよね。まぁブルバキぐらいのハードコア加減になればですけどね。でもそれを言うとコルモゴロフなんかは公理的確率論を確立したなんて言われていますが、これも当然、手法的に確率論を公理的に表したということでブルバキ的な手法と同じなんですよね。公理で全て説明できるって意味での公理ではなく抽象的なものを公理として書き出すことで分析の精度を上げるみたいな話ですね。あとはまぁ理論の一般化ですかね。コルモゴロフなんかはバリバリイメージ系の数学の人なんですよね。だからnaoさんが言っていた意味での公理主義と僕が考えていた公理主義って違いは無かったって言えると思うんですよね。あとまぁこういう話をしているわけだからnaoさんが違う意味での公理主義的考えを取っていたりもするなんてことはまずありえないというのはよく分かっていたので違和感はありませんでした。


「公理が抜き出された理由を考える」ってまさに概念の直接性ですよね。学校では「これはこうだから」とそれこそ変な意味での公理主義とか「これはもう数学的に明白だから」みたいな理由で教えられたりしますが理由ってのを考えるとそれだけで恐ろしいほどのプロセスになるんですよね。まぁそんなの学校でやれないからしょうがないといえばしょうがないんですが、でもこんな方法で教えてるから数学嫌いが増えるのは当然ですよね。これは学会なんかでも議論されてる話なんですよね。世界的に凄く問題なんですよね。


あ、んで公理の話に戻ると公理ってまぁ夜空を見たときに見える星みたいなものだと思うんですよね。もちろん光っているものだけが数学ではないんだけど、でもその星を手がかりに宇宙の構造とか星を見るだけで明らかになることってのもあるわけで、点描画みたいなものだと思うんですよね。その点と点が繋がっているっていうような。で、その公理の繋がり自体を見てても分からないけど上から見ると例えばそれが蛇のように見えるとか、まぁ星の場合、ただの見え方の話なんですが、でも数学も同じだと思うんですよね。膨大な公理系ってのを星を見るように見たときにそれが蛇だとかさそりだとかっていうような意味論が生まれたりするわけですよね。でもそれ自体は当然、それは蛇を現しているということではなくてただそう見えるだけなんですが、でも人間にとってそういった意味論が成立するということ自体にイデアを感じるんですよね。機械では星を見ても蛇の形をしてるなんて思わないわけですが、人間はそれを蛇と見る場合もあったりするわけですよね。そのゲシュタルトというんでしょうかね、まぁこの辺は凄く危険でそう見えるからっていう理由でそれが正しいと理由付けをしてしまうと錯覚なんかもそれを正しいと思ってしまったりもするんですが、そういったものを正してくれるものが数学だと思うんですよね。そこでやはり数学というものが存在するのでドクサが介在しないわけですよね。客観的に厳密な意味合いとか論理的自明性ってのが与えられるわけですよね。で、公理というのはそういうのを支えるものっていうか、でもそれありきで成り立つというものではないんだけどでも人間にとっての数学の土台というのを支えてくれるものっていうんでしょうかね。ブルバキが目指していた公理主義ってまさにこれだと思うんですね。だから僕はブルバキを読んだときにめちゃめちゃ感動したんですね。


でもまぁそれって別に一個一個公理を覚える必要ってないですからね。これってこうだよね?っていう曖昧なところを公理にまで分断していることで構造的な理解が可能になるわけですよね。むしろそういう意味では徹底的に公理的というのは凄く親切なことだったりするんですよね。ダメな数学書ってなんの説明も無かったりするんですよ。これによりこれだからこうであるっていうようなAだからBでCみたいな説明しかされてなかったり。で、そこを説明しないんだったら徹底的にその隙間を公理で埋めろって思うんですけどダメな本ってやらないんですよね。でもあたかも論理的に書かれてるような形になってますが全然論理的じゃないわけですよね。論理というのはAからBになるという必然性ではなくてその理由の自明性ですからね。いわばそれがなぜアプリオリに規定されているのか?というのを問うようなもんでようはカントが色々と考えてたようなことを一個一個精密にやるみたいなことなんですよね。これでこそ論理的だって言えると思うんですよ。AからBってのはただのパズルですからね。升目を進めるだけっていうか、それが自明で自明性は問う必要が無いなんてそんなもん学問として成り立ちませんね。


naoさんが書いてくださったことで迷惑していたなんてこともないし、あとこちらが勘違いしていたということも無いです。逆にここまで丁寧に書いてくれるとどう考えているのか?というのがより分かりやすくなりますから凄く嬉しいです。一般的に長文=迷惑とかしつこい返信は迷惑みたいな感じはあると思うんですが、そこはまぁ僕なのでまず無いです(笑)僕も何を隠そう永遠と色々と書いてしまいますし、きりが無いぐらいなんでも書いてしまいます。なのでそれが全然迷惑だと思うことはないです。なのでむしろ遠慮せずにどんどん書いてくださったほうがこちらとしてはありたがいんですよ。知的刺激に飢えてますし、ネット広しと言えどこういう話ができる人ってのは滅多にいませんからね。まぁ数学の話ができても頭でっかちな話なんてしたくないですし、そういう意味でお互いの数学観が合っているっていうんでしょうかね。だからやり取りが楽しいんですよね。


こういうやり取りがあるときに僕からやめないと終わることが無いのでいつも自分から終わらせてるっていうかまさに自分が終わらせなきゃいけない立場なんですが、そちらも同じように感じているのなら書くことが無くなるぐらいまで色々とやり取りしてもいいんじゃないかと思うんですけどね。僕は毎日時間がありますし色々なことに飢えてますからこういった書き込みがあるだけで凄く刺激になるんです。まぁそこまでプレッシャーを与えるつもりはないんですけど色々と話したいことがあったら是非書いていただけないでしょうか?こちらとしてもこれがウォール伝の更新になりますし、こういったやり取りが僕にとっての財産なのでむしろ僕にとってはプラスにしかならないんですよね。だから迷惑なんてことはとんでもないです。時間が空いても結構なのでまだ色々と書き足りないことがあったら是非書いてください。あとまぁこうやってパブリックな場でやり取りをしてそれをエントリーとして残すってことをすると引き締まっていいんですよね。個人メールだと残らないから適当なことも書いちゃうかもしれないわけですが、これって永遠と残りますから適当なことは書けないですよね。そういった意味でも僕はここでのやり取りというのを凄く楽しみにしているし、こういった話はこういった場でやれたほうが良いなって思うんですね。


あ、あと書き忘れたんですけど「synthetic philosophy of contemporary mathematics」いいですよね!おっしゃるとおりめちゃめちゃマイナーなんですが、僕が知る限り数学の哲学というと大体古臭い議論が大半なんですが、これは現代数学をベースに成されているし、まさにマックレーンの「数学の形式と機能」の現代版!って感じですね。もしくはヘルマン・ワイルみたいな人が現代数学をベースに哲学的思索をしたらこんな感じになるのかな?って気がしますといっても著者はヘルマン・ワイルみたいなグレードの人ではないですけどね。でもまぁこういうのを書く人があんまりいないから凄く貴重な本ですよね。あとハーディーが書いていたようなことって何気に凄く影響があると思うんですよね。数学者なら数学について語る暇は無い的な、それは無駄で数学だけをやるべきだみたいな、こういうのってああいう時代特有の観点の狭さなんですよね。そういう局所的な見方をしていては見えないこともあるわけで、それを現代の人たちが鵜呑みにして数学について語るんだったら数学そのものをやらなければ意味が無いなんて考えてたら凄く勿体無い話ですよね。これがまさに今回書いたような数式をいじることだけが数学ではないというようなことなんですよね。むしろ数式をいじってるだけじゃ数学やってるとは言えない場合もあるわけですよね。ただのパズルをやってたら意味はないですよね。


まぁ数値を出すことに意味があるとすればまぁそれは労働的な意味での数学ですよね。必要ではありますけど思索的ではないですよね。まぁ批判はしませんがでもそれをやることが当たり前みたいに教育するのは奴隷教育と全く同じですよね。そういう意味で学校でやらされる数学って奴隷の数学なんですよね。本来の数学の自由性と物凄く乖離しているものなんですよね。あんなの好き好んでやる人なんてほとんどいないのに。でも一般的にあんな苦痛なことを平気でやる変わった人たちが数学者なんだとかってステレオタイプで思われたりしますけど、そんなことはないですよね。あんな数学を好き好んでやってる数学者なんて探すのが大変なぐらいだと思うんですよ。あ、でも数学について語ることの重要性と言っても分かってないのに語ることだけを商売にしてるような輩もいるので、そういう適当なものは批判されて然るべきだと思いますけどね。


まぁ「数学観」だけ語るってまぁ分かってなくてもそれについて書かれたりしているものを真似たり「数学論」自体を考えることで考えてるようなふりをできたりするので知的詐欺行為と表裏一体なのでそういう意味で語ることが批判されやすいということならそれは理解できるんですけどね。なんていうんでしょうね、そこって数学者と数学屋の違いみたいなもんなんでしょうね(笑)やっぱりそういう意味で数学に関わってるなら数学者じゃなきゃダメだしそうじゃないと数学やってる意味無いなっていつも思いますよね。まぁ当たり前なんですが、ただまぁ僕みたいなスタイルって数学屋みたいになりがちだと思うんですよね。そういうところは凄く嫌だなって思うんでちゃんと数学をやるってことに関しては凄く意識的なんですよね。イメージでやってるから大雑把で良いっていうことではなくて自分にはイメージしかないからそれを手がかりにやるしかないっていうのが実際のところですよね。で、それを明らかにさせてくれるのが徹底的な公理主義だったりするわけなんですよね。まさにnaoさんがおっしゃっていることと同じです。


あ、色々と長くなったので今回はこの辺で失礼します。是非、なにかあればまた返信していただけると幸いです。